安楽死と過剰な医療

Saunders, William (サンダース・ ウィリアム)
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

第I部

ヒュー・フィンの栄養管が外された事件は、世間の大きな関心を集めました。永続的な植物状態にある患者に対して必要な通常の医療および過剰な医療について教会の見解をお聞かせください。また、経済力、医療費、年齢など、家庭の事情はこの問題にどのような影響を与えるのでしょうか?

20世紀中盤から、カトリック教会は、生命維持装置の使用に関し、できるだけ明確な指針を示したいと努力を続けてきた。その多くは、安楽死の反道徳性に関する教示として発表されている。ナチス・ドイツの優生学および安楽死計画を目の当たりにし、その政策の廃止を訴えたローマ法王ピウスXII世は、安楽死に絡む道徳について初めてその見解を明らかにし、教示を示した。1980年に、教理省は、特に生命維持装置が益々複雑化していること、さらに人生を終える方法として安楽死の正当性を主張する傾向が強くなっていることを受け、安楽死に関する宣言書を発表し、前出の教示をさらに明確なものにした。また、最近になって、教皇ヨハネ・パウロII世は、その回勅「いのちの福音(#64)」において、これらの教示を改めて肯定し、「増加する高齢者や障害者を社会の負担になる邪魔者として扱う…『死の文化』が広まっている現状」に警告を発している。カトリック教会のカテキズム(#2276-2279)においても、この問題に関するカトリックの教示について簡明な説明が行われている。昏睡状態または永続的な植物状態にある人への栄養や水分の供給については、ペンシルバニア・カトリック司教(栄養と水分の供給:道徳約因(1991年)、カトリック司教全国協議会(カトリックの保健医療に関する倫理的・宗教的指令書(1994年)、および米国司教プロ・ライフ委員会(栄養と水分の供給;道徳および司牧による見解(1993年)により詳しい指針が示されている。ウィリアム・メイ博士、ウィリアム・スミス僧正、ジャーメイン・グリシェ博士、ジェームズ・マックヒュー司牧を含め、多くのカトリックの厳格な道徳神学者もまた、教権に準じる形でこの問題について指針を示している。

患者への栄養素や水分の供給、特に昏睡や植物状態(PVS)にある人へのこうした行為に絡む複雑な問題について論じる前に、まず、カトリックの基本的な道徳原理を知る必要がある。第1に、カトリック教会は、個人の尊厳といのちという神からの贈り物をどちらも神聖なものとして捉えている。教会は、受精の瞬間から死の時まで続いていく生命を神聖なものとして敬っている。また、この時間枠において今ここにあるいのちと地球上に存在するいのちのみならず、天上におられる全能の神と共に生きる永遠のいのちにも敬意を払い、大切に考えていかなければならない。したがって、私たちはすべて、天上での幸せな人生を願いながら、神の御心に従い、その意思を受け入れながら自分の一生を全うする義務がある。

第2に、私たちのいのちは、肉体と物理的な生活を重視するあまりに、その個人の魂や精神的な生活を軽んじるという物理主義によってのみ扱われるべきではない。そこで、私たちは、身体機能の維持と延命のみを目的とした治療か、それとも人生を充実させ健康的な生活を取り戻すための支援行為のどちらに重点を置くべきかを考えなければならない。私たちは、現世での生活を終え、神の元に帰って新しい人生を生きる時をいずれ迎えるということを理解すべきである。

第3に、カトリックの原則では、私たちは、通常の医療によって健康を維持する義務があると考えられている。ここで言う通常の医療とは、適切な栄養と水分の補給(食事と水分の補給)を含めた基本的な医療、すなわち医療行為として当然のこと考えられる治療方法を指している。通常の医療とは、相応の効果が期待でき、患者あるいはその家族に甚だしい負担を強いることのない医療行為を指す。

人は、過剰な治療を受けることができるが、それは義務ではない。過剰な治療とは、主として通常の医療あるいは一般的な治療行為と見なされないものを指す。これらの治療は、十分な有効性が期待できないだけでなく、患者やその家族にとって、とてつもない負担となる。その治療が過剰であるか否かを判断する要因としては、治療の種類、治療の複雑さ、治療に伴うリスク、治療にかかる費用および利用可能性、病人の状態、経済力などが挙げられる。痛みや苦しみと治療の有効性とのつりあいをその要因のひとつとして考える人もいる。現代社会においては、過剰な治療の基準を定義することが益々難しくなっている。例えば、人工心臓を使用することは、明らかに実験的行為であり過剰な治療と考えられるが、呼吸マスクや人工呼吸器の使用は、患者の回復を助けるための標準的処置としてしばしば認められている。

第4に、無実の人のいのちを故意に奪うことは、憂慮すべき大罪である。第2バチカン公会議では、「殺人、集団殺害、堕胎、安楽死、自殺などは、すべて生命そのものに反すること」として非難している(現代世界憲章#27)。「安らかな死」あるいは「安楽な死」という意味を持つ安楽死は、「すべての苦痛を取り除くという目的をもって、自ら進んで、あるいは故意に死をもたらす行為もしくは不作為である」(安楽死に関する宣言書)。言い換えると、安楽死には、致死量の薬剤を注射するなどの直接的行為、あるいは栄養や水分の補給を断つなど、医療行為を中止するなどの不作為によって意図的に患者を死に至らしめる行為がある。安楽死は、「慈悲殺」とも呼ばれている。慈悲殺という言葉は、たとえそれが苦しみを取り除くための最善の方法であったとしても意図的な殺意に基づいて行われる行為であることに変わりない安楽死を意味する言葉として最もふさわしいと言える。教皇ヨハネ・パウロII世は、安楽死とは、偽りの慈悲であり、慈悲というものを悪用した行為であるとして次のように非難している。「真の「深い同情」とは、人と苦しみを分かち合うものであり、苦みを背負いきれないからといって人を殺すことではない。」(いのちの福音#66)さらに、教皇は「このような違いを考慮に入れ、わたしは、先任者である教皇たちの教導職に従い、カトリック教会の司教との一致のうちに、安楽死は神の法への重大な侵犯であると確認する。安楽死は、意図された、道徳的に容認できない殺人だからである。」とも主張している(#65)。

ただし、安楽死は、過剰な治療行為などの攻撃的な医療処置を止めることとは区別されなければならない。これらの処置が過剰なものである、患者の実情にもはや対応できない、回復の見込みに照らして釣合いの取れるものではない、十分な延命効果が期待できない、患者とその家族に多大な負担を強いる、あるいは、ただ単に「英雄的」行為でしかない場合、患者、あるいは患者の意識がはっきりしない時は、その後見人に、これらの処置を完全に拒否または中止する権利がある。このような決断は、死が目前に迫り、避けられないものであることが明らかであるときにこそふさわしいと言える。ここで、個人はいくらよくみても、当てにならず負担にしかならない延命治療を拒むことが出来る。このような場合、患者は、通常の医療を受けながら、神の手の中に自分を置き、人生を終える準備を整えることになる。

第I部の内容を踏まえ、第II部では、栄養と水分の人工的な供給、永続的な植物状態、苦痛への対処を中心に話を進める。

第II部

ここでは、人工的な栄養と水分の供給について述べる。基本的な医療として、健康維持のために食事と水の供給は必然であることを忘れてはならない。保健医療に関するカトリックの倫理宗教的指令は、次のように断言している。「医学的な手段で栄養分と水分の補給を必要とする患者を含め、その行為による有効性が患者への負担に勝る以上、すべての患者に対して栄養分と水分の補給が行われなければならない」(#58)。米国司教「プロ・ライフ」委員会もこの点を支持し、下記の通り付け加えている。「患者を死に至らしめる目的でこれらの行為を中止してはならないが、十分な延命効果が期待できない場合、あるいはその行為によって患者に重大なリスクや負担が強いられる場合には、それを中止してもよい」(#6)。

興味深いことに、教皇は、1998年10月2日にローマで行われたカリフォルニア、ネバダ、ハワイの米国カトリック司牧の一団との会合において、プロ・ライフ委員会の上記の宣言を肯定している。教皇は、この宣言について、「患者を死に至らしめることを目的として栄養および水分の供給を行わないことは否定されるべきであり、あらゆる要因に配慮した上で、医学的な方法による栄養と水分の補給を必要とするすべての患者にこれらを供給するべきであることの正当性を認めたものである。この区別を不明瞭にすることは、無数の不正を招き、すでに病気や老齢による健康の衰えに苦しんでいる人およびその家族の両方にさらなる苦しみを与えることになる」(カトリック・ニュース・サービス、1998年10月5日)という見解を示している。さらに興味深いことに、ヒュー・フィンの栄養管と水管が外されたのも会合が行われた10月2日であった。

以上から、栄養と水分(食事と水)の補給は、標準的かつ基本的な通常の医療と見なされる。さらに、IVや胃管を通じての栄養や水分の供給が、重大な不快感、重篤かつ長時間に及ぶ副作用、経済的な負担を強いることは少ない。(ただし、栄養と水分の補給によって重篤な医学的不調が生じる場合、その医療行為による有効性と負担とのつりあいを考える必要がある。)一般に、患者への栄養分と水分の供給が止められるのは、患者が死に直面している場合、こうした医療が無意味である場合、あるいは患者がもはや栄養や水分を吸収できなくなった場合である。(参照:ウィリアム・メイ他、永久的意識不明などの無力な人々への栄養および水分補給、1987年)。

全く無力な人とは、この場合、永続的な植物状態(PVS)にある人を指す。PVSと脳死を混同しないよう注意すること。PVSは、昏睡より深い眠りの状態を指す。いわゆる深い無意識状態である。PVSの状態では、大脳の作用が低下し、その結果、通常の動作が停止する。ただし、脳幹部は機能しているため、呼吸、またばき、不随意筋の収縮、覚醒と睡眠の周期などの不随意機能は維持されている。PVSの患者では、EEGもほぼ正常である。「脳死」の判定基準は、「脳幹部を含めた全脳髄の不可逆的な機能喪失」である(クルーゾンの症例で引用)ことを心に留めておいてほしい。PVSの患者は生きているのである。したがって、たとえ回復の見込みが少ないとしても、その患者を死に至らしめる目的で栄養や水分の供給を絶ってはならない。(参照:ペンシルバニアカトリック司牧、栄養と水分供給:道徳約因、pp.7〜8)。

最後に、私たちクリスチャンが苦しみに対しどのような認識を持っているかを理解してもらいたい。苦しみを好む人はいない。しかし、私たちは、洗礼を受け、キリストの受難、死、そして復活を信じている。私たちの誰もが十字架にかけられたキリストの痛みを共有しており、それは時に耐えがたいほどの苦痛となる。ただし、この苦しみについて、人生の最後を迎えようとしている人は特に、神の苦しみを自分も共有しているのだと考えるべきである。私たちは、自らの苦痛を神の苦しみと結びつけることで、自分自身の罪をその痛みで償うと同時に、過去の殉教者たちが罪人のために自ら苦痛を背負ったように、他人の罪の償いにも手を貸すことができるのである。時には、このような苦しみによってようやく家族を分裂させていた傷を癒すことが出来るのである。このようにして、私たちは、キリストにより苦しみから救われ、神の元への導かれることを願うべきなのである。

以上の信条を踏まえ、教会は、人のいのちの神聖さを尊重すると同時に、医療技術の発達により死というものが複雑化した時代において道徳的な指針を明確にするべく努力を続けている。私たちは、意図的に人を殺すことと、死に直面した人が尊厳をもって安らかに最後を迎えられるよう見守ることには大きな違いがあることを認識しなければならない。「病の床にある人が医療の他に必要としているものは、その人にとって親しい人たち、両親や子ども、医師や看護婦の愛と思いやり、そして神の温情に包まれて過ごすことであり、彼らはそれを享受すべきである」(安楽死に関する宣言書)。大切な人と苦しみを分かち合い、彼らが神の元に帰るための準備に手を貸すことが、真に愛に満ちた行為と言えるだろう。

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