未完成を嘆く

Rolheiser, Ron (ロルハイザー・ロン)
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

ユダヤ人の宗教物語りに素晴らしくもあり、衝撃的でもあるひとつの話しがあります。

エフタという名の王が戦争のただ中にあり、状況が次第に悪化してきました。必死に なって神に祈った祈りの中で、もし勝利を与えてくださったなら、わたしの家の戸口 から迎えに出て来る者を献げます、という約束をしました。

このような原型的な話しではよくあるように、エフタの望みは叶えられたのですが、 故郷に帰った彼は絶句しました。最初に出てきたのは、青春まっただ中の自分の娘で あったのです。彼は自分がした愚かな約束を娘に告白し、お前を捧げるのなら、約束 を破ったほうがましだと言い出します。

しかし娘は、約束は守らなければならないと主張し、そしてさらに、たった一つ条件 があるというのです。自分は結婚していない処女で、未完成で義務を全うせず、子供 を宿すこともできぬまま死んでゆかなければならない。娘は父親に、自分の未婚の友 人たちも一緒に40日間荒野に行って、自分が処女のまま死んで行く事実を嘆き悲しん でほしいのだ、と言います。娘の要望は聞き入れられ、娘は悲しみにくれるために荒 野へと行きます。彼女の願いは受け入れられ、荒野に行き嘆き悲しむのです。その後、 娘は帰ると、いけにえの祭壇へと自分を捧げました。(士師記 11)。

この物語りは残酷で、そして原始宗教が悪い形式をとっていたという事実を語ってい る話しではありますが、これは深く学ぶところがあるたとえ話です。この話の賢明さ は次のところにあります。成熟し、無欲な愛のうちに自分自身を他に捧げる(「いけ にえの祭壇へと自分を捧げる」)ためには、まず自分の処女性を嘆き悲しみ、私たち の人生がいつも、自分の欲求や夢から途方もなく離れているものなのだ、という事実 を受け入れておかなければなりません。

最後には私たちは皆エフタの娘のように、処女のまま、愛されることもなく、つまり 不完全で、人生の完璧さを否定され、その能力があるのに活かすことができず、シン フォニーが完成するのを待つように死んでゆきます。私たちはいつもある意味で、無 意識のうちに、自分達の処女性を嘆き悲しんでいます。これは結婚している人も独身 者も同じです。最後は皆、ひとりで眠りにつくのです。

このたとえ話が教えていることは、どんな形であれ、私たちは嘆き悲しまなければな らないということです。いずれ、私たちも荒野に行き、処女のまま死んでゆくことを 悲しまなければならない日が来ます。仮にそれをしない、となれば、無欲さに自分自 身を真摯に開けわたす人間的成長をしないことになります。まるで大人になるのを待っ ている子供や思春期の若者のように、いつも人が私たちを誉め、色々なところに連れ て行ってくれ、食べる物をくれ、人生を与えてもらうのを待つような者です。私たち が無欲になることができるのは、どんな形であれ悲しむという過程を経て、自分達が 1人で寝、処女のままで死んでゆき、人生に完全などないのだ、という事実をまず受 け入れてからでないとできないのです。

私は、実際に会った素晴らしい無欲な方々にこの性質を見ました。この方々は人生の 不充分さと折り合いをつけ、他の人が自分を幸せにしてくれるなどと、もはや望まず、 自分以外の特に若い人々のいのちが輝くために、自分たちの時間、夢、人生を犠牲に できることに真の喜びを見い出しています。

逆もまた言えます。私自身もそうですが、人の中に自己中心的なところがあるのは、 それは自分が「あれがない」「これがない」という未完成であることに支配されてし まった時です。決して手に入れることのできない完全で満ち足りた人生を嘆き悲しむ ことをせず、私は人生を要求ばかりして、いつも不満を感じながら、落胆して、自分 が幸せでないことを他人のせいにすることが習慣になってしまっているのです。もし 私が自分が処女のまま死んでゆくことを嘆き悲しまないとしたら、自分の淋しさを取 り除いてもらい、自分を完全にしてもらうための誰かを、あるいは何かを、いつも欲 しがらなければなりません。それは結婚相手であったり、性的なパートナー、理想的 な家族、自分自身の子供、何かを達成すること、仕事上の目標であったり、または休 暇であったりします。もちろんそういうこそが、落胆と苦しみへの道であります。

ほしいものを全て手に入れ、願いごとを全て聞き入れられて死ぬ人は誰もいません。 この世では、完成されたシンフォニーというものはないのです。私たちは永遠に向け てつくられており、誰も、そしてどんな偉業も私たちを完全なものとはできないので す。私たちは、いつも淋しくもあるでしょう。そして不安で、未完成で、プラトンが 言うように、ロマンスを、永遠の命を、そして真に神の存在の経験を待っているよう な存在でしょう。

私たちの信仰は、それらのものを管理する道具を、与えるものでなければなりません。 そして自分たちが不完全なものとして生きて死んでゆくという事実を、悟させるよう なものでなければなりません。淋しくて、いつも何かを待って、そして最後に私たち 人間は1人で眠りにつくのです。私たちはそれらのことを受け入れて生きて行かなけ ればなりません。もしそうするならば、余裕をもってまた幸せな生き方ができるでしょ う。そうしないのなら、自己中心的なままなのです。

子供時代のたわいもない夢はやがて消えてゆきます。しかしそれらの源は死にません。 私たちはその夢の喪失に悲しみます。叶えたかった夢の数々、もう叶えられないとわ かってもそれを求める気持ちは変わりません。エフタの娘のごとく、荒野に行き、処 女のまま死んでゆくことを嘆き悲しまなければならない時は来るのです。

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