内なる原子を打ち破って


ロン・ロルハイザー
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

社会正義ほど、我々の心の奥底を問われるテーマはない。聖書の福音の根幹として疑う余地のない大前提は、貧困や抑圧や社会で苦しむ人々に手を差しのべる事である。

正義という壮大な世界観が我々の心を夢中にさせるべきである。しかし、世界はうまく機能しているとは言えない。今なお多くの人々が飢え、何百万人もがエイズのためいのちを落とし、数えきれないほど大勢が戦争や圧政の犠牲になっている。地球は民族主義・性意識・中絶・生き物どうしの調和の点では依然、発展途上のままである。こうした大きな倫理問題を避けて個人生活を送り、無視してしまうわけにはいかない。

しかし、それらがあまりに深刻かつ重大問題ゆえ、その他の例えば個人の倫理問題などは、さして急ぎではない印象で捉えられがちである。地球レベルの大問題を前に、その前線に立って戦ってさえいれば、個人的にどんな精神状態で暮らそうが構わないと結論づけるのは、あまりに短絡的すぎる。

世界全体の問題と比べたら、我々の個人的な倫理観は、とるにたらない事に思えてくる。我々が朝の祈りを行うかどうか、同僚の悪口を言うか、ささいな口論で仲違いした相手と和解したか、聖書の教えに完全に従って性生活を営んでいるかどうかを、神は本当に見ていると信じているのか? そして実際のところ神は…?

答はイエスである。我々が気にかけるから神も気にかける。むしろ、我々が幸せになるか不幸になるか、そして言うまでもなく自分の個性や親しい人間関係を築けるかどうかといった個人活動の集大成が、世界レベルの問題につながっていく。個人活動は侮れない。結局、それが大問題に発展する。社会倫理には、個人の倫理観がそのまま写し出される。世界全体に見られる現象は、ひとりひとりの思いを総合し拡大したものに他ならない。

エゴ・強欲・肉欲・自分勝手さを個人の心の中で処理できないのに、社会・地球レベルで抑えようとするのは考えが甘すぎる。自分の中の利己的感情すら持て余しているのに、どうやって愛ある世界を築くつもりなのか?個々の秘密を隠したまま、嘘のない社会倫理規範など作れるはずがない。社会は個々人をそのまま写す鏡である。この事を忘れると、無知ゆえの危険さによって、社会のモラルに最悪の影響を及ぼすだろう。

根底に個人の倫理観のない社会活動は、精神面を無視した、力と力でぶつかりあう単なる政治活動にすぎない。権力は正義という原則のみに基づいて、成功か不成功かが決まる。だが、神の国では全く異なる。改宗をひとつとって見ても、真の改宗とは全くの個人活動である。ネイティブ・アメリカン神秘主義者カルロス・カスタネド氏は次のように語る。「私の出身地ラテンアメリカでは、知的階級は常に政治や社会革命について話し、爆弾も沢山飛び交っていた。だが、何をやっても大して変化はない。ビル爆破はすぐに決断できても、嫉妬心を抑え、心を平静に保つには、自己改革が必要である。その時、本当の改革が始まる」

トーマス・マートン氏も同様の指摘を続ける。1960年代、大勢の知的階層がさまざまな社会紛争に参加した頃、マートン氏は僧院に押し込まれ、紛争の前線から遠ざけられた(と感じた)。宗教的隔離によって蚊帳の外に置かれ、外野として見ると、個人的悪と戦っている人々が、まるで小さなじゃがいものように思えたという。しかし氏は、心を変える真の戦いをしている自分自身を信じた。個人の心を変えれば、地球全体の普遍的構造や倫理を生み出すのに貢献できる。それ以外は全て、ある力で別の力を排除するための行為にすぎない。

個人の心がけや祈りにおいて、どんな些細なことや秘密にしたいことに対しても、正直で公明正大さを心掛けるのがモラルの理想である。

社会における神秘主義の重要性を指摘するジャン・バルグレイヴ氏は次のように提案している。「地球上の水や風といった力を利用するよりも心の原子をひとつずつ打ち破る方が、より多くのエネルギーが得られる。それはまさにキリストやブッダやモハメッドが行ってきた、内面の愛という原子を割る行為である。その結果莫大なエネルギーが放出された。」かの偉大な十字架のヨハネは、極めて重要な些細なことに正直であることを教え、次のように語っている。「鳥が太いロープにつながれようが細い紐につながれようが、飛べない点には変わりがない。」

個人の倫理観は重要でないことはなく、たとえ贅沢三昧して、楽でたやすい倫理観を持っていても、それは社会正義を目指す上での道しるべとなってくれる。真の意味で、それは心の原子を打ち破る必要がある場所である。

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