自殺についての私達の誤解


ロン・ロルハイザー
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

私は自殺に関する記事を毎年書きます。なぜなら、あまりにもたくさんの人々がこの方法により愛する人を失った痛みをかかえて生きなければならないからです。私達の親しい誰かが自殺の犠牲者になった時、たくさんの混乱(なぜ?)や罪(私達は何かをしたかもしれない?どうしてもっと早く気が付かなかったのだろう?)や誤解(これは絶望の究極の形)と共に私達は生きることになり、そして、もし、私達が信仰を持つ人なら、宗教的心配も同じように出てきます。(神はそのような人をどうやって扱うのでしょうか?彼あるいは彼女の永遠の運命はどうなるのでしょうか?)

自殺については何が言及される必要がありますか?まず第一に、それは病気であり、ほとんどの場合において本人の意志に逆らって命を失います。それは感情におけるがんや打撃や心臓麻痺なのです。第二に、生き残っている愛される人々である私達は、その人の役に立たなかったかもしれないとか、私達は何に気づくべきだったかとか、自殺を止めるために何ができたかということについて、ああすれば良かったこうすれば良かったと後悔することで、不適当な時間や力を費やすべきではありません。自殺は病気で、純粋な肉体の病気なので、私達は誰かを愛することができるけれども、彼らを肉体の死から救うことはできないのです。神は私達にするようにこの人を愛したので、本人の自由を妨げることができませんでした。最後に神がどうやってあの世で自殺の犠牲者に会うのかについて私達はあまり心配すべきではありません。神の愛は、私達の愛とは違って、鍵のかかったドアを通り抜けて地獄へと下り、私達ができない場所で平和を与えます。自殺の犠牲者のほとんどは、あの世で目覚めた時、鍵をかけたドアの内側で、大混乱の心の内側でキリストが立っているのを見つけ、平和を与えやさしく次のように言うのを見つけるでしょう。平和があなたと共にありますように。

しかし、いつも多数の異論があります。例えば、あなたは自殺に光を作っています。自殺は絶望の最後の行為で、そのようにいつも示されなければなりません。こう言明したG・K・チェスタ−トンは、自殺によって地球の全ての花を侮辱します。これらの論評について何が言及されるのでしょうか?

自殺が本当に絶望の理由で行われた時、それらは正しいです。しかし、ほとんどの自殺においてこのケ−スではないと私は疑っています。なぜなら、自殺の犠牲者になるということと、自身を殺すということの間には大きな違いがあるからです。これら2つは同じものではありません。

自殺において、病気を通して人は意志に逆らって命を失います。このゆえに私達は自殺の犠牲という風に「犠牲」という表現を使います。私達の多くは自殺の犠牲者を知っており、ほとんどのケ−スにおいて犠牲者となる人が、利己主義者でもなく、自己陶酔者でもなく、過剰な高慢者でもなく、冷淡な人でもなく、プライドを通して本人の立場を拒絶する人でもないことを知っています。たいていは反対なのです。自殺の犠牲は癌のような問題をかかえていて、まさにその通りなのです。なぜなら本人は人生における精神的な打撃を吸収するのに必要な無感覚を所有するにはあまりにも敏感で、深く傷つき、あまりにも未熟で、傷つきやすいのです。私はかつて葬式においてのコメントを覚えています。私達は病床でうつ病にかかって自殺をした若い男性を埋葬したところでした。司祭は、この自殺はいくらか本人の過失があり、自殺は絶望の最後の行為であるとほのめかしたひどい説教をしました。のちの反応として自殺の犠牲者となった隣人が近づいてきて、司祭の意見に対する不快感を表明しました。世界には自殺をしなければならないたくさんの人々がいますが、彼らは決してそれを望んではいないのです。この男はまさに自殺をしてしまった男性ですが、私が会った中で最も繊細な人でした。いかにもその通りです。

自身を殺すというのは何か違うものです。それは何かヒトラ−が命を絶ったようなものです。事実ヒトラ−は自殺をしました。彼は自殺の犠牲者ではありませんでした。このようなケ−スにおいて、その人はあまりにも繊細だった訳ではなく、あまりにも控えめだった訳でもなく、他者とふれあう時傷きやすい訳でもありません。その反対が真実です。その人はあまりにも高慢なので世界における自分の立場を受け入れられないのです。そして、最終的にすべての人に謙遜を要求するのです。

弱さから行為に及ぶことと強さから行為に及ぶことの間には、表面的には同じように見えるかもしれませんが無限の距離があります。

同様に、外から見た限りではこれら2つは同じように見えるかもしれませんが、あまりにも心の痛手を受けすぎて生き続けられないことと、あまりにも高慢なのでその中で自分の立場を続けられないことの間には絶対的な区別があります。これが自殺の犠牲者になることと、自身を殺すことの違いの全てです。唯一後者のみが倫理的な言及を作り出し、花を侮辱し、神の慈悲への挑戦なのです。

自殺の犠牲者となった愛する人は、今は喜びの中に、神の抱擁の中にいます。信仰上、私達が安心しているように、そこは全てが善で、全てのマナ−が申し分ないところなのです。

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