待降節:希望を現実へ


ロン・ロルハイザー
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

ピエ−ル・テルハ−ド・シャ−デンは、批評家さえも認めている希望の男でした。実際に、彼の全体の視野は一般にあまりにも希望に満ちすぎたものだと批判されています。だから、希望と待降節を説明しようとする時、私はテルハ−ドの物語を紹介します。

テルハ−ドは優れた科学者ですが、クリスチャンでもあり、聖職者でもあり物事の根本的な理想像は福音によって形作られている男性でした。彼の全ての思想のシステムの中心は、究極的には宇宙と人間の全ての歴史がキリストによって生命と愛の一つの共同体になる(エフェゾ人への手紙 一:3∼10)という信念でした。この理想像は、究極的には彼の科学的な理論の中で幅の広い枠組みでした。しかし、彼はクリスチャンや希望的考えからは遠い考えを持った非宗教的な同僚に囲まれていました。ある日、彼は次のような方法で異議をとなえられました。「あなたは歴史のうっとりするような視野を持ち、全てのものがいつかすばらしい平和と愛の「王国」で全盛をきわめると信じていますが、核戦争によって世界が炸裂することを考えたら、あなたの物事の概要はどうなりますか?」

 その質問への彼の答えは希望の定義でした。「もし、私たちが世界を破滅したなら、それは非常に悲劇になるでしょう。なぜなら、世界は何百年前に返ってしまうからです。しかし、歴史はある日、平和と愛の王国で全盛をきわめます。これは私の理論でそう言っているのではなく、神が約束なさったからなのです。そして、キリストの復活は、私たちがしたことにもかかわらず、このことについて力を示してくれます。」と言うことができるとすれば、それは希望です。「それは何百年あるいはそれ以上かかるかもしれません。しかし、それは神が約束したことなので起こるでしょう。」

 これは何によって特徴づけられていますか?まず第一に反対の方向から検討してみましょう。希望はもの欲しそうな考えや、自然な楽天主義あるいはCNNで基礎づけられた教育された理論ではありません。

 本当に希望はもの欲しそうな考えではなく、何かすばらしいことが我々に起こらないかなというシンプルな思いなのです。私は宝クジに当たるように願ったり、世界中で最も美しい人と結婚することを願ったり、あるいは、ワ−ルドカップでウィニングゴ−ルを得点したいと願ったりすることができます。しかし、それは希望ではありません。それは純粋な願いです。同様に、希望は楽天主義ではありません。しかしながら、快楽という自然の気質は長期間続く楽天的なもので、いつも物事のよい面を見ます。最後に希望は洞察力のある事実の評価に基づいた積極的な診断でもありません。ジム・ワリスはかつて次のような辛らつな言葉を使いました。「CNNに忠実にならないように」同じことがBBC、CBC、NBC、ABC、ITV、SKYNEWS、WORLD NEWSについて言えます。究極的には、人の希望は、世界の立場が改善しているのか悪化しているのかに基づいていません。希望は株市場のように上がったり、下がったりはしません。なぜなら結局は希望はニュ−スで報告されているような経験的な事実に基づいていないからです。

 希望は神の約束の中で信じられていて、神がその約束を満たす力があると信じられています。

 その約束とは何ですか?歴史(私たちのプライベ−トな歴史、私たちの社会の歴史、宇宙の歴史)がいつか自分の事を全て忘れて、天国やパラダイスというキリストを囲む一つの共同体となり、神の国においては涙も死もないと神は約束しました。これは「食料と飲み物」に焦点をあてる共同体の生活ではなく、愛、正義、平和、友情、愛情から生命力を養い、共通の精神、聖霊から喜びを分け合います。

 そして、これはどのような力を運んできますか?イエスの復活において神が示した力、死人が蘇るという力、失ったものを買い戻すという力、曲がった線をまっすぐに書くという力、憎悪、罪、我侭、間違い、悲劇、抵抗、死にもかかわらずこれらの範囲を超えて人を一緒にするという力、これら全てはCNNでみることはできません。

 希望の中に生きるということは、約束と力と光に直面して生きるということで、根本的に私たちの過去と未来を形作っています。過去に関して、希望することは私たちの人生を振るかえることで、損失を数えたり、傷を強調したり、犠牲者を演じたり、つらさに気をもむ必要はないのです。なぜなら、全ての私たちの傷や損失は偉大な約束の一部として買い戻すことができるのです。私たちの未来についても同じことが言えます。全て私たちの計画とたくらみは神のより広い計画に表されなければなりません。そして、私たちは最後の交響曲を待ちながら、テルハ−ドのように非常な忍耐の中で生きる準備をすべきです。

 イエスの母、マリアはこのことを一番良くあらわしています。彼女は私たちに希望を示しています。彼女がその約束を信じているだけでなく、彼女は妊娠し、懐胎し、彼女自身の肉体を提供し、それを現実のものとするために出産の痛みを経験し、かよわい新しい生命を世界を救った力強い成人になるまで世話しました。そこに彼女は賞賛ではなく模倣を必要としています。

 待降節は私たちにとってマリアの希望や、彼女自身のように、懐胎の時の信仰で、神の約束を人間の姿の中に模倣する時期です。

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