大きな分離 — 知恵からの活力


ロン・ロルハイザー
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

私たちの信念を子どもたちに伝えるのは今まで以上に難しくなっている。おそらくその一番の理由は、活力と知恵があまりにも互いにかけ離れてしまっているからではないだろうか。これはどういう意味だろうか?

 

それは、何度もいうようだが、私たちの世界を駆り立てるなまの活力(色彩、ウィット、美、健康、知性、エロティシズム)は、教会からではなくまったく別のところから得られるものである。だから、私達は知恵からあっさりと切り離されたエネルギッシュで色鮮やかな、また健康的、知的で美に満ちた生活を見かけることが多い。つまり、社会の一体化を保つもの、また意味、愛情、苦悩そして死についての疑問を対処するのに役立つものから切り離されているということである。

 だからこそ、あでやかで、面白く、美しくて健康的で真の活力に満ちたものが、それでも意味、社会、家族、苦悩、死そして許しに関する本当の問題に取り組むことができないでいる。現在、なまの活力からあっさりと切り離された知を多く見かけるのだが、それはつまりウィットや色彩、あでやかさや美、それに真の健康やエロティシズムとの本当のつながりをまさに欠いているということである。だから、私たちは意味、苦悩、死や許しの問題に取り組むことができても、色や活力、エロティシズムや健康を発散することができないことがある。私たちが教会へ行くのは、一見知のためであって、地球のなまの活力と通じるためではないように見える。

 これが私たちの文化である。活力と知恵はほぼ違う責務を持つ。私たちは、アラニス・モリセットとマザー・テレサ、ジェリー・サインフェルドとサンファンデラクルス、マイケル・ジョーダンとアンリ・ノウウェン、あるいはマドンナとマザー・アンジェリカを混同させるようなことは決してない。またこれらをひっくるめて神の面持ちに混ぜ合わせるようなこともしない。その結果、私たちにとって、活力と知は切り離されたものとなる。知が活力を十分に引き出すことはないし、同じように活力が知に活気をそえることはない。

 

そこで、異なるものの異なる源について考えてみよう。マザー・テレサには知を求めても、アラニス・モリセットには活力を求めるだろう。アンリ・ノウウェンには深い憧れについての説明を求めても、ジェリー・サインフェルド、ジェイ・レノ、キャンディス・バーグマンやデービッド・レターマンには笑わせてもらうことを期待する。サンファンデラクルスには苦悩と死のなぞについて説明を求めるが、マイケル・ジョーダンやマリオン・ジョーンズには真の健康と人体の力と優雅さを求める。マザー・アンジェリカにはカトリックの献身へ導いてもらいたいと願うだろうが、ジュリア・ロバーツ、ディンゼル・ワシントン、ブラッド・ピット、エリザベス・ハーリーなどには神の美しさを優雅さに満ちた体に反射させることを望むだろう。カトリック教会の教理問答にはセックスの意味の説明を求め、小説家などにはエロティシズムを色で示すことを求める。犠牲の理想を知りたくて聖人の魂に関する本を読むが、有名人をあがめるためにピープル誌を読んだりトーク・ショーを見たりする。葬儀や埋葬のために教会に頼るが、刺激や活気を求めてエンターテイメント業界に頼ることもある。

 現在のように、知恵と活力が互いに切り離されている場合、神が私たちにとって次の生命への慰めとなるが、この世界のなまの楽しみ、美しさ、色彩が私たちにとって安らぎとなる。私たちは知と生命をまったく違った場所において求めるが、特に私たちの子どもはまったく切り離されて神の面持ちについても困惑することになるだろう。

 神の面持ちとはどんなものだろうか?だれが、そしてどんなものが、そこには含まれるべきなのだろうか?もし聖書のいうすべての善きものは神からきているというのが正しければ、神は知のみに限らず活力の創造者でもあるわけである。ということは、神の面持ちには、マザー・テレサとアラニス・モリセット、サンファンデラクルスやマイケル・ジョーダン、アンリ・ノウウェンにジェリー・サインフェルド、マザー・アンジェリカとジュリア・ロバーツ、カトリックの教理問答の一部とジョン・アーヴィング、ジョイス・キャロル・オーツ、アイリス・マードック、アン・バイヤット、そしてジョン・スタインベックの一部を含んでいなければならない。神の面持ちには活力と知の両方が一緒に備わっていなければならない。神は両方の創造者であるのだから。残念なことに、私たちの文化においては、知によって十分に引き出された活力がはびこりすぎ、またなまの活力と色彩から引き離された知がはびこりすぎている。前者については、結婚に対する理解の不足、サインフェルドのニヒリズム、有名人へのあこがれ、肉体的健康、性的魅力において見ることができる。そして後者については、教会の灰色化、私たちの大事な価値観を子どもたちにとって魅力的なものに出来ない無力さ、芸術と教会の分離促進、そして臆病さ、反エロティシズム、無色さ、おもしろみのなさに対する教会の習慣的な誘引に見て取れる。

 私たちの子どもが色彩に富んだ活力と灰色の知の間で選択を迫られたとき、間違った方を選び、賢明でない選択になるのではないかと私は恐れている。

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