ヨハネ・パウロ2世の死去によせて

Rolheiser, Ron (ロルハイザー・ロン)
許可を得て複製

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。」(ローマの信徒への手紙14)

このことはローマ教皇・ヨハネ・パウロ2世については確かに真実である。彼はおそらく過去半世紀にわたって他のいかなる人物も及ぼし得なかった深遠な影響を我々の世界に与えた。それはまた、私たちが知っているように単なる宗教的な影響にとどまらなかった。彼は歴史を形成する手助けをしたのである。

しかし、私たちはこれら総てを正しく伝えなければならない。それによって彼の存命中には受けることができなかった方法で、私たちは敵も味方も共に彼の精神と祝福を受けることができるからである。これは一体どういうことであろうか。

ヘンリ・ナウエンは彼の後期の作品において、キリストの死と同様に、それぞれの人々の死は、その人の精神をより完全に開放することを意味するという思想を展開し始めた。彼は次のように説明している。

「キリストの使徒たちはキリストの死後はじめて、師の存在が彼らにとってどのような意味を持っていたのかを本当に理解することができた。しかし、このようなことは死去する総ての人々にとっても当てはまるのではないだろうか。

私たちの精神が完全にその全容を現すことができるのは自分たちが死んでしまったときである…。私はこれまでに人々が怒りと苦々しさの中で、人間としての死すべきき宿命をどうしても受け入れられないままに死んでいく様子を見てきたからこのことが分かる。彼らの死は後に遺された者にとって失望と罪の意識の源とさえなった。彼らの死は決して贈り物とはならなかった…。

確かに、良い死というべきものがある。私たち自身は自分の死に方について責任がある。死が敗北以外の何者でもない方法で生命に執着するか、または自由に生命を解き放つことによって、希望の源泉を他の人々に与えるかのどちらかを選ばなければならない。」(最愛のものとなること)

ヨハネ・パウロ2世は、暖かい精神となって世界に流出した信仰に包まれて、生きたごとく死した。彼の死は少しの間世界の動きを止めた。そして誰もが同じように、権力者も貧しい人もキリスト教徒もキリスト教徒でない人も無言で沈黙して立ち尽くした。この沈黙は失望や罪悪感や遣り残したことがもたらす沈黙ではなく、しばらくの間静かに立ち止まって祝福とは何かを熟考することを教えてしてくれた人とその生涯を表敬するための静かな敬意であった。その祝福とは何であろうか。

ヨハネ・パウロ2世の何によって私たち自身は祝福されるべきであろうか。私は次の三つを強調したい。

道徳的な誠実さ、首尾一貫性、そして頑強さ

教皇は確固たる道徳的誠実さと稀に見る道徳的首尾一貫性を持っていた。敵味方を問わずこの点では一致している。彼は道徳的な妥協をする人ではなく、彼の右派や左派の弟子たちの誰もが真似できない道徳的な首尾一貫性を持っていた(完全ではないにしてもほとんどの人よりも優れていた)。彼は保守主義者および自由主義者の共感の域を超えた生命肯定論者であった。妊娠中絶や安楽死に対してのみならず、戦争や死刑、そもそもこれらすべてを助長する体制についても一貫した立場を貫いた。イデオロギーの範囲内のあらゆる側面において彼の道徳的な首尾一貫性をより良く理解するために私たちはある種のミニ・ペンテコステを用いることができよう。

宗派を越えた彼の解放性

彼は外訪を最も多く行った教皇であり、それを通じて新しいやり方でローマカトリック教を世界や他の宗教や仲間のキリスト教徒たちに開こうと試みた。彼は共産主義と向き合い、国々の首長から助言を請われた。また、他宗教の教主たちを抱擁し、これまでで最大規模の集会に若者の群集を集め、ユダヤ教に謝罪し、トニー・ブレア首相に彼自身のチャペルで聖餐式を施した。そして、あらゆる面で(おそらく主イエスのサインをすること以外)、長い間閉ざされていた扉を開け続けた。彼の名のもとに行われた新カトリック不寛容主義や誤ったキリスト教統一主義運動はいずれも、彼の精神と祝福を受けることはないであろう。

彼のあるがままの信仰

敵味方にかかわらず彼の信仰に疑念を持つ者はいなかった。ヨハネ・パウロ2世にとって信仰とは迷信的な慰め(人々にとっての阿片)でもなければ、私たち人間集団において最高のものに向かって私たちを進ませるための単なるシンボルでもなかった。彼にとっては、この宇宙には主として生きた神が存在し、神聖のイエスが宇宙と人の魂の組織内部に深く不変の道徳的烙印として存在する。死後には一つの生命が在り、生誕の後には一つの生命がある。そして後者は他者への自己犠牲の奉仕に生きることを意味する。彼の信仰は、狭義の(そして利己的な)根本主義の直訳主義よりも純粋であり、最善の状態に無い場合の自由主義の精神的道徳的な気まぐれよりも深いものであった。彼の人生を適切に伝えることはすなわち彼のような信仰を求めることである。

ヨハネ・パウロ2世が私たちに遺したものを無批判な賛美をもって受け取ってはならない。そのような賛美は、ときに目立ちすぎる彼の人間性を余りに素早く奪い去るからである。私たちは彼の欠点も知っていた。しかし、キリストのように彼は立ち去り、私たちは彼が遺した精神とともに残された。今や以前にもまして純粋に与えられる彼の精神は、私たちの魂を育み成長させてくれる強力な栄養源である。

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