絶望と希望

Reardon, David (リアドン・デビッド)
許可を得て複製
英語原文より翻訳: www.afterabortion.org

第一部:悪魔対キリス卜

人が犯すあらゆる罪、この場合は中絶ですが、その前後において、いかにキリストと悪魔が異なって現れるかは、重要な事です。中絶前には、キリストは腕を広げて道をふさぎ、こう言います。「中絶をしてはいけない。今あなたが払う犠牲は、後に百倍になって報われるであろう。私はあなたに生命を与えた。それはあなたが人生を豊かに生きるためである。私に希望を託しなさい。そうすれば、私はあなたを裏切らないであろう。」

一方、悪魔はこう主張します.「この邪魔物を追い出してしまえ。おまえが失うものを考えてごらん・・・選択の余地はない。もうこの問題には充分巻き込まれているんだ。今度はここから抜け出さなければ。中絶さえすれば、おまえは自分の人生を再びコントロールできるんだ。すべて前の通りに戻ることができるぞ。」

キリストは我々が未だすべてを知りえない未来を信じることを求め、悪魔は我々が現在既に持っているものを守るために行動するよう駆り立てます。キリストは希望に根ざした倫理的な決断を求め、悪魔は現在必要なもの、欲望、恐怖に基づいた「合理的」な決断を求めるのです。

しかし、中絶の後はどうでしょう?キリストはその後も希望を与え続けます。[私のもとに来なさい。あなたの涙を私も分かち合いたい。そしてあなたを慰めたい。すべては許されていることを知りなさい。ご覧なさい、あなたの子は私の腕の中にいて、あなたの生涯が終わって私達のところに来るのを待っている。

一方、悪魔は引き続き絶望をかきたてようとします。中絶前には理解者のようなふりをしていたのに、中絶後は激しく非難を浴びせるのです。「自分のしたことを見てごらん!おまえは自分の子を殺したんだ!それより悪いことがこの世にあるかい?もう何の希望もないし、何者でもない。おまえの罪は深すぎて救済されない。情事や酒や、あるいは自殺の静寂の中にせいぜい慰めを見出すがいい。そして再び妊娠したら、一度は中絶した身なのだから、もう一度するかも知れない---そうすれば、この苦痛により強くなり、免疫ができるかも知れないよ。ここまで来れば一度も二度も大した違いはないさ。おまえは自分が人殺しであることを証明したんだ。最悪だよ。そして、自分をこんな風にした人々をどんなにか憎んでいるだろう。男友達、両親、医者。もう誰も信用できないし、おまえを愛せる人もいやしない---おまえは殺人者なのだから。おまえはたった独りさ。一番いいのは自分の過去を葬り去ることだ。他人からも自分からも隠すんだ。だが、自分で重荷を背負っていくしかないことを忘れるな。」

中絶の前には、キリストが罪をとがめ、悪魔が弁解をするのに対し、中絶後は悪魔が非難し、キリストが罪を許そうとします。

これはつまり悪魔の取引なのです。悪魔は、女性が既に持っているものを失うのを避けるために中絶するのを勧めます。しかし、いったん中絶を選んでしまうと、悪魔は女性を絶望の底に閉じ込めてしまい、何もかもを失わせてしまうのです。実に、悪魔はあらん限りの絶望を彼女の人生に送り込みます。それは中絶した本人にとどまらず、子どもの父親、祖父母、兄弟と、中絶という毒で触れられるおよそ全ての人々にまで及ぶのです。悪魔の目的は三つ、不幸を生み出し、より多くの罪を作り出し、神の慈悲への疑いを生じさせる事です。

第二部:希望を見つける

中絶を選択する女性達の多くは、状況や周りの人々からの要求のため、自分ではどうにもならないと感じている。彼女達の母性は子どもを育てたいと望んでいるかもしれないのに、もし中絶しなければ、自分がこれまでに手にしたものの一部を、更には、両親や夫や恋人からの愛、仕事、自由等すべてを失ってしまうのではないかと恐れるのである。

中絶とは絶望の行為である。絶望とは希望の反対で、女性は中絶するかしないか精神的な戦いに取り巻かれてしまう。イエス様はあなたとあなたの子どもの人生の前途のプランを持っているから希望を捨てないように、と女性に呼びかける。でも一方では悪魔が、これまでの人生を守るには、自分の立場を考え子どもをあきらめて、他のすべてを保つしかない、と主張している。

そして、彼女が中絶する方を選んだとたん、悪魔は彼女に背を向け、凶暴な告発人へ変わってしまう。悪魔は彼女を許し難い殺人犯として、一生逃れられない秘めた罪を持つ者として、非難するのである。悪魔が彼女の人生を絶望に陥らせるには三つの理由がある:苦悩を生じさせる事、更なる罪を犯させる事、そして神の深遠な慈悲への疑念を生ませる事にある。逆にイエス様は、中絶を経験した女性達を受け入れ続け、神の慈悲と許しを信じる事で希望と徳を信奉するように導くのである。

多くの中絶経験者にとって、神の許しは、頭では判っていても、実感するのは難しいものである。どうして許される事などあるだろうか?彼女達の犯した罪への怖れは、これ程までに大きいのである。それでも彼女達の多くは、神の許しを信じなければいけないと判っており、信仰の行為として努力する。しかし彼女達の内から自然に沸き上がる本能のすべてが、自分は許されるべきではないと感じているのに、それでも許してもらう事など出来るのだろうか?

もちろん私には、この難しい疑問への完全な答えはないが、しかし「神は、中絶を含めたどんな罪でも許して下さる」という単なる真実より、もっと何か与えられると信じている。

例えば私が楽しいドライブ中、スリルを求めてスピードを出していたとしよう。そこへ一瞬の光。ドスン。そして私は誰かを殺してしまったと知る。私は被害者に駆け寄る。彼は死んでいる。無実な人が、私の不注意のせいで殺されてしまったのだ。私の罪は明確な事実で、自業自得である。しかし少しすると被害者は、生きたまま怪我もなく、軽々と立ち上がったのである。これで罪は消えた!私は自分の徳行からではなく、彼の不死性に救われたのである。

これと同じように、私達は皆、人殺しを許されてきたのである。私達の犯した罪、それがどんな罪であっても、イエス様を十字架にかけたという事で、私達は一人一人、有罪なのだ。

私達の罪のせいでイエス様は十字架で殺された。イエス様の血は私達の手についている。しかしイースターの日曜日にイエス様は死から甦った。彼は死にはしなかったのである!私達の罪は解かれたのだ。

悲しむ母親への言葉

「でも私の子どもは生き返らなかった。」と中絶経験のある女性は訴える。「あの子は確かに死んでしまい、私はその死によって有罪なのだ。」しかし、それは罪の意識が絶望へ歪められた一つの例だ、と私はその様な女性に答えるだろう。

死は経験であり、絶対的なものではない。「神は死者の神ではなく生者の神である。神にとっては、すべてが生きている。」(ルカによる福音書二十:38)から。あなたの子どもが中絶によって殺された時、その子は死を経験した。しかしその子は、壊滅してしまったという意味で死んだというのとは違う。あなたの子には、私達と同じ永遠の命があるのだから。

のろわれていようが祝福されていようが人々は生き続けるのだ。(マテオによる福音書 二十五:46)だからあなたの子どもも、イエス様のように生きるのである。神はあなたの子を壊滅から保護したのだから、あなたの罪はきちんと消し取られるのだ。息子は生きている!娘は生きている!子ども達は皆神の元で生きている!

あなたの神に対する信頼の欠如の結果として、中絶があった事を、忘れてはならない。あなたを妊娠させ、神はあなたに愛する機会を与えようとした。しかしあなたは、神のあなたへの期待を信じなかった為に、この贈り物を拒否してしまった。この信頼と従順の欠如は、あなたのも私のも、すべての罪の根本となるものである。

だから中絶したあなたの償いは、罪と絶望にこだわり続ける事ではなく神の愛を信じる事である。神からの新しいいのちの贈り物を拒否した事で、あなたは一度失敗している。けれども神は二度目の贈り物、あなたへの新しい期待を、心から与えたいと思っていらっしゃる。その贈り物とは神の許し、そしてあなたの心の生まれ変わる事と、再出発である。

神の慈悲を拒否するというのは、神の愛を拒否するのと同じである。神の許しを拒否する事で、神を侮辱してはならない。それはあなたが許されるに値するからではなく、神が御自分の豊富な御慈悲の素晴しさを周りに知らしめる手だてとして、あなたを招いておられる。

最大の悪

ある意味では(もっと的確に言い表せない私の力不足を読者に許してもらいたい)不滅の人が壊滅する事がないのなら、殺しの中での最たる悲劇は何かといえば、この罪が殺した方に及ぼすものである。殺された方が不当にいのちを奪われたという事を否定するというのではないが、そのような無実な犠牲者達へは神の御慈悲があるのはわかっている。それよりも私達は、殺した方の永遠の不幸を考えなければならない。

聖書では、悪を成すより悪を耐える方がよい、とするばかりではなく、悪い事をして苦しむ人も、イエス様の苦しみを分かち合う者としての喜びがあるとしている。(ペテロへの第一の手紙 四:13〜16)前述したように、中絶で肉体的苦痛を味わった胎児達は、神にその無垢さが認められ表彰される事になった、不滅者である。しかし直接的又は間接的に、あるいは個人的又は社会的に、中絶に関わった者達の精神的ダメージは、計り知れない。

中絶の持つ精神的な意味について、別の面から見てみよう。まず昔からのキリスト教の教えを考える事から始めてみる。神はすべての生命の創り主でいらっしゃるから、どんな子どもだって、うっかり出来てしまった、などという事はない。神の計画の中での役割が、それぞれにあるのだ。この神の意図には、子ども達の運命だけでなく、その子どもの人生に関わり合う者達の運命も、含まれている。両親にとっては、子どもを授かる事で、更なる寛大さや責任感を持ち、愛の真意を知るように、と導かれているのかも知れない。どんないのちも、使命なしに創られてはいない。私達の役目とはただ、その使命を探し出し、使命を果たすのに協力する事である。

つまり、人が新しい生命という贈り物を中絶によって拒否する度に、それは神からの贈り物を拒否しているという事になる!それは明らかに贈り主への侮辱である。しかしその侮辱の罪は、慈悲深くも許されるのである。そこで私達クリスチャンは、神からの許しの使いとして、遣わされている。私達は、天国にいる生まれ得なかった子ども達には、何もしてやる事が出来ないが、中絶によって道徳的にひどく傷付いた女性達や男性達には、してあげられる事が沢山ある。簡単に言えば、中絶の恐ろしさがそれで減るというのではないが、中絶で殺された子ども達は、素晴しい神の元でずっと生きている、と私は確信している。更に、もし魂の救済が善行の極みであるなら、魂を地獄へ落とすのは悪行の極みである。だから中絶による最大の悪とは、中絶の罠にかかった女性達、男性達、その家族(そして政治家達)に及ぼす、精神的ダメージにある。最も危機にあるのはこの様に傷付き、心から血を流し、絶望し、更には神に反逆心を持ってしまった人々だ。彼等にこそ、私達クリスチャンは手を差し伸べ、彼等は許されるというよいニュースと希望とを、与えなければならない。

女性達を中絶へ誘導してしまう絶望感も、神の愛を疑ってしまう理由の一つである。この怖れは次々と多くの人々を無神論に至らせる。この様な場合、地獄への恐怖によって、壊滅の死を望むのである:「終わりが来ればすべて終わる」。絶望に囚われた者達にとっては、自己の壊滅が唯一の望みなのだ。

これは、多くの中絶経験のある女性達が絶望の中でさえ平安を求め、自殺に走る理由の説明になるだろう。別の一部の女性達は自分の心を殺してしまう手だてとして、麻薬やアルコールの乱用に走る。又一部の女性達は、無意味な行動と、つまらないパーティーにうつつを抜かす事によって、本当の人生から、ただ逃げている。思い出さないでいられる為には何でもするのである。

もちろん中絶だけが、神と人とを離してしまう罪ではない。しかし中絶を経験した者は、神との間にいつも大きな隔たりを持ってしまう。元に戻るには、私達が親身になって、世話をしなければならない。彼女等に希望を与える事で、彼女等が神に返る手助けが出来るのである。

第三部:胎児に対する神の慈悲を信じて

中絶された子どもは、バプテスマ(洗礼)を受けてこられなかったのです。彼らはキリストを知り受け入れる機会が一度もなかったのです。彼らが実際に天国にいると私たちはどうして確信することができるでしょうか。めったに論じられることはありませんが、そのことは中絶された子どもの両親と一般の中絶反対の人々にとって、極めて重要な神学的な問題なのです。この問題に対する答えによって、私たちの自分に対する見方や、他人に対する見方や中絶反対運動において私たちが何を優先すべきかが決まるのです。

このシリーズの論文で以前にも述べたように、神への回帰する人間にとって、中絶の経験があるということが大きな障害となりうるのです。まず、悪魔は神の許しが得られないかもしれないという恐怖心をあおって、人間から神の許しという心の安らぎを奪おうとするでしょう。もしこの絶望への誘惑が失敗すれば、たとえ自分たちが神に許されても、中絶され、バプテスマ(洗礼)を受けていない子どもたちは天国に行くことができないかもしれないという不安感で後悔している両親の心の平安に悪魔は攻撃をしかけてくるでしょう。

バプテスマ(洗礼)を受けていない子どもたちが天国へ行くことをができないというこの不安はまた、悪魔によって、中絶反対の人々と中絶の経験のある人々との間に隔絶と偏見という壁を築くために利用されるでしょう。中絶をした人々が、自らが犯した罪によって神から胎児の魂を永久に奪ってしまったのだと信じて、彼らに冷たく背を向けるキリスト教徒は少なくありません。そのようなキリスト教徒は、このような両親の不幸を祈っているのではないのですが、彼らを慰めようという気になれるわけでもないのです。彼らはただ中絶された子どもの「失われた魂」に対する悲しみで心が一杯なので、罪を犯した両親への同情が残っていないのです。そのように信じている人々が、神が中絶の犠牲者である胎児の魂を救って下さる可能性、さらにはその明らかな証拠に心を開くことが大切なのです。

中絶された胎児が神によって救われると信じる人々の間に、信仰が広がることが二つの理由で大切です。まず、ひとたびキリスト教会の全ての信者が、中絶された赤ちゃんが「キリストの腕に抱かれて生きている」ということを認めれば、中絶をした人々に対する長々とくすぶる怒りや憤りの気持ちは、いつかはなくなるでしょう。次に、死者が神の摂理に委ねられると、生きている者、つまり中絶の罪悪感に苦しんでいる人々に対する新たな関心がおきるでしょう。中絶後の癒しの手助けをしようとする私たちの努力がよりたやすくなるばかりでなく、より必要となるのはその時なのです。

バプテスマ(洗礼)の必要性の問題

胎児に対する救いの問題は、「水と霊によって生まれぬ者は天の国に入れぬ。」(ヨハネによる福音書 三:5)とキリストがニコデモに厳粛に言われた言葉の解釈から生じているのです。バプテスマ(洗礼)の必要性は、「信じて洗礼を受けるものは救われ、信じない者は滅ぼされる。」(マルコによる福音書 十六:16)とキリストが言われたことによってさらに支持されているのです。しかし、信じない者は滅ぼされるということに注目してください。信じる機会がなかった者に対しては何も言われていないのです。実際、だれもただ無知だという理由だけて罪に問われることはない(ヨハネによる福音書 九:41)と、私たちはまた教えられているのです。

それでは私たちはこのことをどう解釈すべきなのでしょうか。水によるバプテスマ(洗礼)は、明らかに新しい信者を教会に導くために神が教会に与えた方法なのです。バプテスマ(洗礼)を受けられるときには、それを受けなければなりません。しかし、神の慈悲は人間の落ち度によって制限されるものでもないし、また神の恩寵の与えられる方法も、人間の相互作用を規定する物質的現実によっても制限されることはないのです。実際、水によるバプテスマ(洗礼)を受ける機会を与えられずに死んでしまった人々に恩籠をもたらす方法を、神が少なくとも他に一つお持ちであるということは聖書に明らかに書かれているのです。

バプテスマ(洗礼)を受けてなくて救われた人々の最も明らかな例は、イスラエル族の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブおよびその父祖たちや預言者などを含む、旧約聖書の聖人たちの例です。これらの死者たちのために、キリストは、「霊においては神に従って生きるようになるために」(ペテロの第一の手紙 四:6)、獄に摘われている霊どものところへ下って行き、宣べ伝えることをされたのです(ペテロの第一の手紙 三:9)。さらにもう一つの例は、水によるバプテスマ(洗礼)の恩恵を受けずにイエスと共にパラダイスに行った善良な泥棒に示されています。(ルカによる福音書:二十三:42〜44)

実際、初期のキリスト教徒、一般的に、バプテスマ(洗礼)を受ける前に死んだ殉教者は、水よりむしろ血によるバプテスマを受けて生まれ変わることを認めていました。水によるバプテスマも、血によるバプテスマも同じ効力があり源は同じであると認められていました。この考え方は、西暦二0三年ごろの有名なキリスト教の弁明者であるテルトゥリアンによって弁護されました。彼は次のように書いています。「福音と一致するバプテスマは一つしかない(エフェゾ人への手紙 四:4〜6)…しかしもう一つのバプテスマ、つまり血のバプテスマがあり、それについて主は、すでに水によるバプテスマを受けておられたとき、『私には受けねばならぬバプテスマがある。』(ルカによる福音書 十二:50、マルコによる福音書 十:38〜39)と言われている。なぜなら主は、ヨハネが書いているように、水でバプテスマを受け血であがめられるために、水と血を通ってこられた方(ヨハネの第一の手紙 五:6)だからである。主は、私たちが同じように水によって呼ばれ血によって選ばれるように、そして主の血を信じるものが水によって洗い清められるように、突きさされたわきからこれら二つのバプテスマ(ヨハネによる福音書 十九:34)を送り出したのである。もし彼らが水によって洗い清められるなら、血によっても必ずそうされなければならない。これが水によるバプテスマが受けられなかった時に、それに代わるバプテスマであり、それが失われたときにそれを復元するバプテスマなのである。」

血によるバプテスマが水によるバプテスマに代わるものになりうるというテルトゥリアンの主張は、キリストがゼベデオの息子たちに救いの杯でのバプテスマとして、苦しみのバプテスマを与えたという事実によってさらに支持されています(マルコによる福音書 十:38〜39)。さらに聖書は、キリストの死の直前の、ヨハネが授けた水によるバプテスマは悔い改めのバプテスマにすぎないと私たちに謡っています(使徒行録 十九:4、ルカによる福音書 三:3)。水によるバプテスマが唱えられ聖霊によるバプテスマとなったのは、キリストが血によるバプテスマを受けたあとであったのです。(使徒行録 一:5、ヨハネによる福音書 十六:7)

そうであれば、本人の責任によってでなく、水によるバプテスマを受けるチャンスがなかった人々を救うすべを神が持っておられるという解釈は目新しいものではないということは明らかです。実際それは聖書を見れば明らかなことです。神がこれらのチャンスのなかった人々を救う方法が何であるかは十分には明らかにされていません。一方、それは地上の信者の責任範囲を越えた精神的なバプテスマなので、私たちがその詳細を知る必要のあるものではありません。私たちにはそれが可能だということを知るだけで十分なのです。この真実がひとたび認められれば、私たちは自信をもって神様の慈悲と義を信じることができるのです。

子どもに対する特別な愛

私たちは、神が全ての者が救われることを望んでおられること(ティモテヘの第一の手紙 二:4、ローマ人への手紙 八:32)、そして神の慈悲が永遠のものであること(詩篇:一三六)を私たちの明らかな信仰の一部として知っています。全ての人が原罪によって汚されているけれども、キリストが自ら選ばれた人は全てキリストにあって生きるでしょう(コリント人への第一の手紙 十五:22〜23)。キリストが胎児を自分の子どもと認めないということは想像できないことであり、道理にも啓示にも反することです。さらにパウロは、神の慈悲と神意は善も悪もしていない胎児にも及び(ローマ人への手紙 九:11)、キリスト自ら幼児や胎児に対する特別な愛を繰り返し表現したことを教えています。

そして人々はイエスにさわっていただくために幼な子らをみもとにつれてきました。ところが弟子たちはそれを見て、彼らをたしなめました。するとイエスは幼な子らを呼び寄せて、「子どもたちを私のところに来させよ。とめてはならぬ。神の国を受け入れるのはこのような者たちである。」と言われました。ルカによる福音書 十八:15〜16)。

イエスが神の国をどのように表現しているかがおわかりでしょう。それはこのような幼な子らで満ちているのです。そしてイエスの言葉は、これらの幼な子が神の国に入ることを止める人々に対する警告ではないでしょうか。さらにまた別の例を見てみましょう。

そのとき弟子たちはイエズスのおそばに来て、「するとだれが天の国でいちばん偉いのですか。」と尋ねた。イエズスは一人の子どもを呼んで、真ん中に立たせて言われた。「まことに私は言う。あなたたちが悔い改めて子どものようにならないなら、天の国に入れぬ。…この小さな者の一人さえ、あなどらないように気をつけよ。私は言う。この子らの天使は天上にいて、常に天にまします父の前に立っている。…それと同じように、天にまします父は、この小さな者の一人さえも滅びることを望まれない。(マテオによる福音書 十八:1〜4、10、14)。

この最後の一文の他の解釈は、このような幼な子は誰一人として「死んだり」、「失われ」たりすることはないというものです。これらの文章は、罪無きものの普遍的な救済を暗示するものです。なぜなら、一、彼らは神の国で最も重要とされている者のひとりと数えられているからであり、二、彼らの御使たちが天にいる神の前で幼な子たちのために祈っているからであり、三、神が、幼な子たちの誰一人として失われることがないことを願っているからなのです。キリストが手本としてあげた、キリストの前に立っている幼な子がバプテスマ(洗礼)を受けていないことにも注目してください。

また道義上、私達は神の救いの恩寵が胎児にも与えられると認める必要があります。キリストの愛はあまりにも大きいものなので、キリストは何の価値もない罪人に救いをもたらすために死んでくださったのです(ローマ人への手紙 五:6〜9)。しかし、もしキリストが私達のような罪人を救おうとしてくださるなら、罪を犯していない胎児のために、それ以上でなくても、少なくとも同じくらいは救おうとしてくださらないことがあるでしょうか。もちろん、キリストはそうしてくださるでしょう。そのことに疑いを抱く人々は、神の審判は人間の審判より慈悲の無いものだというばかげた考え方を擁護しなければならないでしょう。

救いに対する様々な考え方

胎児に対する救いの方法は明らかにされていませんが、じっくり考えてみる手助けとなる考え方がいくつかありますが、これらは考え方にすぎないということをいつも頭に置いておく必要があります。キリスト教の神学者のなかには、死の瞬間に神が「不適格者」が神を信じるか信じないかの選択をすることができるように、彼らの心の目を開かせると考えている人がいます。この可能性は、御使いたちが創造されたときに行なった神を信じるか信じないかの自由な選択と同じようなものでしよう。

正式のバプテスマ(洗礼)を受けずに死んだ子どもたちや、洗礼のことが理解できなかったり自由に選べなかったりした他の不適格者は「本人の希望と代理人の希望による洗礼」つまり、両親や教会や他の誰かが希望することを通して救いを得ると信じている人もいます。このような考え方に従って、中絶された子どもの父母に、子どもをイエスの加護に託すための厳粛な祈りをするように勧めることは中絶後の癒しを促進するためによく行なわれることです。このことは多くの男女にとって癒しの重要な過程なのです。聖霊の内なる声によって、中絶された子どもたちを神に捧げることが促されたという神秘的な経験をしたということもまた報告されています。また、心から祈りを捧げ、中絶された子どもを神に託した人々は、祈りが行なわれたことさえ気づいていない中絶された子どもの母親や父親や兄弟姉妹や親類に驚くべき癒しがもたらされたことを報告しています。

地獄の辺土の終わりか?

かつてカトリックの学校で広く教えられていたもう一つの考え方は地獄の辺土という考え方です。一般に信じられているのとは違って、この考え方がカトリック教会の教義となったことは一度もありません。それはバプテスマ(洗礼)を受けていない罪なき者に対する神の審判という謎に対する可能性のある一つの答えを与える神学的な考えにすぎなかったのです。それでも、中絶された子どもたちが地獄の辺土に閉じこめられているという考えは、このように教えられて育ったカトリック教徒にとって非常にやっかいなことがあります。ならばそのことは、多くのカトリック教徒にとっても、取り組むべき重要な問題なのです。

地獄の辺土の考え方によれば、神の義によって、罪なき者が罰せられることはありませんが、バプテスマ(洗礼)が必要とされることによってバプテスマを受けていないものが神や天国の存在を享受することはできないのです。これら二つの制約のことを考えれば、神は少なくともこれらの魂に、恵み深い神の姿だけが欠けているけれども、全ての苦しみのない幸福な状態を与えなければならないと結論づけることができます。この場所は、キリストが訪れる前に死んだ熱心な信者がキリストの救いを待った場所と同じようなものとなるでしょう。理論的には、この場所はアブラハムとラザロが安らかに眠っていた場所(ルカによる福音書 十六:22)、死後キリストが宣べつたえ、さきに死んだ神に忠実な者を天国へ導くために行った場所(ペテロの第一の手紙 三:19、四:6)と同じようなものでしょう。

カトリック教徒が地獄の辺土の存在を信じることは自由ですが、正式の講義問答書は信者に、神はバプテスマ(洗礼)を受けていない罪なき者を天国に受け入れる方法を他にお持ちであるということを信じて、もっと多くのことを望むことを奨励しています。実際、カトリック教会の教義書にはバプテスマ(洗礼)を受けていない罪なき者を救うことはできないことを支持するような考え方は存在していません。実際、最近法王ヨハネ・パウロ二世は中絶に関する重要な回勅の中で、確実に失われてしまうものは何もなく、(中絶した)あなたがたも、今主のもとで生きているあなたの子どもからの許しを得ることができるでしょう、と書かれています。要するに、カトリック教会は中絶された子どもの救いを教義上の事実としては教えてはいないけれども、信者に神の慈悲を確信して、このことを望むことを強く促しているのです。

最後に、まだ地獄の辺土の考え方に執着することを選ぶ恐れのあるカトリック教徒に対して、私はもう二つ考えを示しましょう。まず、苦しい場所にいる金持ちと言葉を交わすラザロとアブラハムの話(ルカによる福音書 十六:20〜31)は、たとえ同じ場所にいなくても、死んだ人々がお互いに話をすることができると信じる十分な根拠となります。このことは、たとえ中絶された子どもたちが「地獄の辺土」に閉じこめられていても、そのことが必ずしも、中絶された子どもの両親が地獄の辺土にいるバプテスマ(洗礼)を受けていない子どもたちと話ができない、まして子どもたちを訪ねることはできないということを意味するのではないということを暗示しているのです。

次に、キリスト自身が天国に閉じこめられていないことは明らかなことです。このことは、キリストがこの世に生まれてきたという実例、またその後キリストが十字架にかけられて死ぬ前に、信者たちがいた「獄」へ福音を宣べ伝えるために行ったという実例によって証明されています(ペテロの第一の手紙 四:6)。キリストはみずから罪人やさらには救われない人々を、彼らの生前も死後も面倒をみてきました。したがって、神学者達はバプテスマ(洗礼)を受けていない人は天国へ入ることができないと主張するかも知れませんが、彼らはキリストが地獄の辺土に入ることができないと主張することはできないのです。

したがって、たとえ神の義によってバプテスマ(洗礼)を受けていない赤ちゃんが天国を完全には享受できないことになっても、キリストが子どもたちと一緒にいることを望むならば、神の慈悲によってこれらの魂はキリストの腕に抱かれて安らぐことができるでしょう。さらに、もしこれらの中絶された子どもたちが、キリストが彼らのところに来てくれるので、地獄の辺土に閉じこめられながらも「主のふとことにいだかれて暮らしている」ならば、私たちはまた、キリストが弟子に言ったように「私を見た人は、父を見た」(ヨハネによる福音書 十四:9)という言葉を覚えておかなければなりません。だから、たとえバプテスマ(洗礼)を受けていないものが、昼間に輝く太陽のように真正面から神の栄光を受けて私たちの三位一体の神を見ることができなくても、イエスに向かい合って彼らが少なくとも夜明けの栄光を享受することはできそうに思われます。

つまり、私たちはぐるっと回って最初の主張に戻ってきました。それは次のようなものです。もしバプテスマ(洗礼)を受けていないものがキリストと共に天国に行くことができければ、キリストが彼らのところに来ることができる…そしてそのようにして、キリストが天国を持ってくることができるのです。そしてこれが全ての人が救われる方法ではないでしょうか。誰も自分の行なったことの功績によって救われるのではありません。まして洗礼という行為によって救われることはありません。私たちの信仰と救いはいつも神からの贈り物なのです。バプテスマ(洗礼)は神の贈り物の一つなのです。要するに、みずからけがれのない赤子としてこの世に生まれてきた私たちの主が、中絶で死んだ罪のない赤ちゃんに与えるべき贈り物を全く持っていないということを想像することはきわめて難しいことです。

罪なき聖嬰児

「中絶に食い物にされた女性たち」というグループの創設者であるナンシジョー・マンは、幼児殺しはいつも救世主が現われる前に行なわれたということを言ったことがありました。モーゼが現われる前に、ファラオによって幼い男子が殺されました。ベツレヘムでは幼な子たちが、キリストが王座につくのを妨げようとしたヘロデ王によって殺されました。たぶん、彼女は世界中で中絶によって何百万人もの赤ちゃんが殺されていることはキリストの再来の前兆だと考えているのでしょう。

キリストの再臨がいつ起きるか誰も知りません(マルコによる福音書 十三:32)。この予言は、私たちがわかったと確信し始めたその瞬間に、私たちはほぼ確実にまちがっていることになるということを暗示しています(マルコによる福音書 十三:33)。いつの時代も、キリスト教徒は世の中の罪深さを見て、「きっと主が今私たちを裁きに来るだろう。」と言ってきました。私たちの時代も全く同じなのです。

私たちの世代に起こっている恐ろしいことには天罰が下るべきだと思わないキリスト教徒はほとんどいないでしょう。しかし、私たちはみんな明日にもキリストが再来することを祈るべきなのですが、私たちは今日神の王国を築き上げるという私たちの仕事を決して怠ってはなりません。キリストの再臨がもうすぐそこまで迫っていると確信して、自己満足に陥っているキリスト教徒をしばしば見かけるのは残念なことです。悲しいことに、中絶反対の考え方を支持している多くのキリスト教徒が、世界の終わりを確信して、中絶反対運動の会員とはならず、まして犠牲を払おうとはしないのです。彼らは、私たちは無力だ、だからキリストの再来を待ったほうがよいと思っているのです。紀元二千年の大聖年が近づこうとしていますが、残念なことに私たちは、傍観していようという誘惑に負けている人々がますます多くなっているを目にします。

事実、罪なき者たちをみずから殺しているこの罪深い時代がいつまでも続くことは許されないでしょう。神が欺かれることはないでしょう。だから、可能性は三つしかないのです。一、キリストが再来するでしょう。または 二、歴史を支配してきた神が現代文明を破壊して、そのちりを私たちより前に滅び去った他の全ての傲慢な帝国の廃墟に加えるでしょう。または 三、神みずからの慈悲をあがめるために、聖霊は目覚めと癒しと精神的な再生の時をもたらすことによって私たちの死との戯れを征服するでしょう。

神の再来か、現代の文化の破壊か、現代の文化の精神的な再生か、このどれを神が選ぶか私にはわかりません。ただ私にわかるのは、神の慈悲と許しという福音を広めること、このことが、最初からそうであったように私たちの努めなのです。神の下僕である私たちがそのためにしか貢献できないということなのです。

少し話がそれてしまいました。ヘロデ王に殺された罪なき聖嬰児のことを話題にした本当の理由は、これらの子ども達はキリストに対する攻撃によって死んだという事実のおかげで、天国で眠ることが保証されていると伝統的に考えられてきたということなのです。このことは殉教の一つの形なのです。彼らは信仰を守って死んだのではありません、なぜなら彼らはそのこと知らなかったのですから。むしろ彼らはキリストに向けられた大量殺人の犠牲者として死んだのです。

もし私達が、罪なき聖嬰児が天国にいると信じるならば、このように信じることによって、私達は中絶によって死んだ胎児の救いを信じこともできるようになるでしょう。なぜなら、キリストの再来が差し迫ったものであろうとなかろうと、現代の文化における中絶は、明らかにキリスト教の価値観に対する極悪非道な攻撃の結果なのです。もっと大きな枠組みで見れば、それは神を取りのぞき、死の文化を持ち込もうとする悪魔の企みなのです。それはキリスト教とキリスト教会に対する攻撃であり、その攻撃には、バプテスマ(洗礼)のおかげで教会に属している非常に多くの中絶経験のある男女が含まれているのです。キリスト教会に対するこの攻撃では、胎児が罪なき犠牲者なのです。したがって、罪なき聖嬰児と同じように、彼らも自分の血でバプテスマ(洗礼)を受け、そしてそのようにすることによって、キリスト自身の血のバプテスマ(洗礼)と同じような経験をすることができるであろうと考えることは理にかなったことです。

結論

私たちは、私たちに対する神の慈悲だけでなく、胎児に対する神の慈悲も確信しなければなりません。もし神があらゆる人に対して慈悲をお持ちなら、きっと胎児に対しても慈悲深いことでしょう。

中絶をした後の癒しを求めている人々は、彼らの胎児が救われるかどうかという不安は絶望への誘惑、抵抗しなければならない誘惑だということを認識しなければなりません。もし彼らが、自分たちが中絶した子どもたちと一緒になりたいと願うなら、自分たちの子どもが救われるかどうかということを心配するのではなく、むしろ自分たちが救われるかどうかを心配し、自分たちが救われるように信仰と希望と慈善の生活を築き上げなければならないのです。これらの中で、希望という徳が、神が自分たちの胎児に慈悲を与えてくださるかどうかという疑いを持たないようにさせてくれるのです。

中絶を止めさせることを願っている人々にとって、中絶によって殺された子どもたちに対する神の慈悲を確信することが、子どもを中絶で失った人々のために力を尽くそうとする私たちの努力の支えとならなければなりません。彼らに精神的な癒しを見つける手助けをすることによって、私たちは彼らが神の御こころの手先となる手助けをすることになるでしょう。神の手先として、自らの経験から得た知識を話しながら、中絶に終止符を打たせるのは彼らなのです。これは私たちの戦いというよりは彼らの戦いなのだということを忘れてはなりません。彼らは、彼らが失った子どもたちの思い出を讃えるために、そして彼ら自身の名誉を回復するために、その戦いをするでしょう。特に私たちが彼らを受け入れ、理解し、思いやりを持って接し、彼らを助けることによって、私たちは、全ての生命を重んじる気持ちを彼等が取り戻す手助けをすることになるでしょう。

この記事の上へ