中絶する女性:「胎児に関する彼女たちの考え」

デイビッド・C・リアドン医学博士
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

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中絶クリニックの待合室で、少しの間私と一緒に座ってみましょう。ここには、一般的に哲学者でも馬鹿者でもない女性たち、明らかにその両者がかなり重複したカテゴリーの女性たちがいることがわかるでしょう。この女性たちの中で、「人間であるということ」の意味についての不可解な議論に関わったことのある人はほとんどいません。愚かにも、中絶をすることは歯を抜いてもらうことと同じだという主張を信じる人はさらにいません。

見回してみれば、アメリカ文化を代表するさまざまな女性が目に入るでしょう。聡明な人や鈍い人、保守的な人や進歩的な人、信仰心の厚い人や信仰心を持たない人など様々な女性が目に入るでしょう。全ての代表が集まっています。若者や未婚の女性や少数民族の女性の数が非常に多いのですが、それでも彼女たちが典型的なアメリカ女性たちなのです。そして全てのアメリカ人と同じように、これらの女性たちは中絶に関して不安で、意見も大きく分かれていますが、今日では今まで以上にそうなっています。

今日でも、これらの女性の多くは、手術室へ連れていかれるのを待っている間、否定することで逃避をしようとします。「すぐに終わるわ。そのことを考えるのはよして、今までどおりに生きていきましょう_もし正しいことでないなら、中絶が合法的となっていないでしょう。もし安全でないなら、法律で認められないでしょう。そのことを考えるのはよしましょう。」

差し迫った中絶のことをせいぜい必要悪程度に考えて、さよならを言っている女性もいます。「許してね。ママはこんなことはしたくないんだけど、本当にこうするしかないの。あなたを産んであげられたら、うんと愛してあげるのに。」

感情的にならずに待っていても、「私は正しいことをしているのかしら。」という形而上学的な問いに知的に苦しめられている女性もいます。また、同じ問いに対する答えに集中している女性もいます。「このことは正しいことだわ。こうするのが一番だわ。いつか私がいいお母さんになれる時が来れば、赤ちゃんは創れるわ。今赤ちゃんを産むことは、私にとっても、ジムにとっても、さらには赤ちゃんにとっても正しいことではないわ。」

待合室にわびしく座っているこれらの女性たちは、典型的なアメリカ人です。彼女たちは、中絶という問題について同じような考えや苦悩を抱いています。世論調査によれぱ、アメリカ人のおよそ70パーセントが、中絶は合法的であるべきだと信じていることがわかります。しかし、(明らかにかなりの重複はありますが)75パーセントが、中絶は道徳に反すると信じているのです。私たちの心の中には、何が合法的であるべきかと、何が実際に道徳的なのかとの間に、明らかな対立があります。

この対立は、中絶クリニックの待合室において特によく見られます。クリニックでの面接調査によって、少なくとも中絶を受ける女性の70パーセントが、中絶を非道徳的な、または逸脱した行為であると考えていることが確認できます。1自らの道徳的信念によって選択するというよりはむしろ、大部分の女性が自らの信念体系に反した行動をとっています。彼女たちは、状況によって、または愛する人によって、なんらかの「他の利益のために」自分たちの良心に背くことを「強制された」と感じています。

全ての人が知っている

中絶が合法化されて20年以上経ったのちでさえ、アメリカ人(生まれたときからずっと中絶が合法化されていた若い女性を含めて)は、依然として中絶に対して道徳的に否定的な考えを持っているのでしょうか。

この問いに対する答えは、20年前と同じです。1971年、「カリフォルニア医学」の編集者たちは、中絶の合法化を支持する記事を書きましたが、この変化の基底にある道徳的な考えかたは、徐々にしか受け入れられないだろうと述べました。

「いのちの神聖さについての」古い「ユダヤキリスト教」の倫理観は、まだ完全には「人間のいのちに絶対的な価値というよりもむしろ相対的な価値を置く新しい倫理観」に取ってかわられてはいないので、中絶についての考えを殺人についての考えと区別することが必要でしたが、それは依然として社会的に相いれないままとなっています。その結果、実際は誰もが知っている、人間のいのちは受精の瞬間に生まれ、子宮の内外を問わず、死に至るまで続く事実を奇妙にも回避するということが行なわれてきました。中絶を決して人間のいのちを奪うことではないものだとして、正当化するために必要なその言葉のごまかしは、もしそれらが社会的に完全な後押しのもとで進められなければ、ばかばかしいものとなるでしょう。新しい倫理感が受け入れられつつある一方で、古い倫理感がまだ拒否されてしまえていないので、精神分裂的な口実が必要なのだと考えられます。2

現在の中絶論議には正直さがしばしば欠けているので、「カリフォルニア医学」の中絶権賛成の立場の編集者たちは、人間のいのちが受精の瞬間に始まることを「実際誰もが知っている」と断言しています。誰もがそのことを知っているのです。その事実の否定の一つ一つが、私たちが快適に生きていけるようにするために「社会が完壁に後押し」してくれる単なる「言葉の操作」にすぎないのです。

中絶クリニックの待合室で座っていると、この真実が沈黙の服従の表面化で不安げに漂っているのがわかります。誰もあえて話そうとはしませんが、みんなその真実を知っているのです。幼い子どもたちでさえ、この単純な真実を理解することができます。それは、全ての子どもたちが実際に尋ねる、「赤ちゃんはどこからやってくるの。」という問いかけの核心部分にあるのです。一時的にこの問いかけに対して、答えをはぐらかすことはできるかもしれませんが、子どもの好奇心は、真実が完全に明かされるまで完全に満たされることはないのです。いのちは受精の瞬間に始まります。赤ちゃんは、受精という行為によって、男女の(望むべくは愛の行為における)合体という行為によって、まさに二人それぞれの物質を共有することによって、二つの物が一つの肉体になることによって、つまり象徴的に性行為という合体行為において、また真に、新しい人間、つまり二人の子どもを創るために男女の肉体を一つにする新しいいのちの受精において、創造されるのです。

人間の胎児、人間の胚、あるいは人間の受精卵が、実際人間であるという知識は、子どもの発する「赤ちゃんはどこから来るの?」という質問への答えと同じように否定できないものです。待合室にいる女性たちは、自分がかつてその質問をしたときのことを覚えています。彼女たちは、その質問に対する答えも覚えているのです。彼女たちは、真実を覚えているのです。そしてどんなに無視し、忘れ、スローガンや哲学的庇理屈の下に埋めようとしても、彼女たちの注意を引き付けるのはこの真実なのです。

中絶して間もない40人の女性との面接調査においては、社会学者のメアリー・ジンマーマンは、女性たちが取り乱すことを避けるために、人間の胎児の本質に関する質問を避けました。しかし、この質問をしないでおいても、それは明らかに女性たちの心にかかっていました。なぜなら彼女たちの大部分は、面接中に少なくとも自分の意見を匂わせるものを明らかにしようとしたからです。約25パーセントの女性たちが、中絶された胎児はいのちであり、人であり、人間であるとはっきりと言いました。このような多くのケースにおいて、彼女たちは別の人間を殺したという感覚を認めました。もう25パーセントの女性たちは、胎児の本質について混乱していることを明らかにしました。このような場合、女性たちは、一般的に、胎児が人間であると信じていても、中絶が殺人であるということは否定しました。ジンマーマンは、道徳的な人間だという自己像を維持するために、このような矛盾する立場をとるのだと示唆しています。最後に、わずかに15パーセントの女性が、胎児は人ではない、人間のいのちではないと主張しましたが、このような女性でさえ自分の考えを支持する主張をするというよりはむしろ、否定の言葉で自己表現をし、たとえば「何かがそこにあるとは思いますが、それは実際まだいのちになっていないと思います。」と言いました。3

みんなが苦しんでいる

いのちが奪われたという気持ちが、中絶の前、中絶の最中、中絶後の女性の証言に一般的に共通して見られます。クリニックの待合室でインタビューを受けたある女性は、「それは殺人ですが、正当化できる殺人です。」と言いました。また別の女性は中絶直後に、「中絶を受けているとき、自分の一部を破壊しているような感じがします。とにかくそんな感じなのです。罪の意識を感じます。ただそれだけです。本当はそんなことはしたくなかったのです。それは罪深いことです。」と言いました。4 また別の女性は中絶直後の気持ちを表現して、「私は自分がいやでした。私は見捨てられ、どうしていいかわからない気持ちでした。泣いてすがる人もいなくて、とても泣きたい気持ちでした。そして何かを殺したという罪悪感を感じました。私は赤ん坊をたった今殺したということを考えないようにすることができませんでした。」5

罪悪感そのものを予想することで、自分を罰する行為に駆り立てられる人もいます。 このような例が、RU−486を用いた中絶を受けるためにイギリスまで旅をしたアメリカ人女性との、ニューヨークタイムズのインタビューの中でレポートされています。ペンシルバニア出身の女性は、彼女にとっては、RU−486のために通院を繰り返し、プロスタグランジンの注射を受け、死んだ人間の胎児を体外に出すために6時間以上もの陣痛に耐えるという痛ましい経験をするほうが「精神的なメリット」があったと説明しました。「私はただすっと手術室に入って、麻酔をかけられて、2時間で全てが終わってすっと手術室から出ていくことができませんでした。ある意味では、それではあまりにも気楽すぎます。こうすることは、私にとってはつらい決断でした。もしそれですんでしまっていたら、私はあまりにも無責任だと感じたでしょう。私はこのことを一生忘れずにいたかったのです。私は二度とそのようなことはしたくありません。」6 この女性にとっては、中絶に対する代償は、払い得る最高の犠牲でなければならないのです。その行為は、適切な厳粛さでもって人の記憶に刻み付けられるに違いありません。肉体的精神的苦痛は、否定されたいのちに対して払うことのできる唯一相当の犠牲なのです。

胎児が人間であることを否定する人々も、この否定は意識的な努力によってのみ維持可能だとしばしば認めています。たとえば、ある女性が次のように書いています。「私はそれを赤ん坊だとみなしていませんでした。わたしは決して、それをそのように考えたくなかったのです。」7 また否定することがそれに対処する唯一の方法だと主張する人もいます。「私はそうする決心をしました。私が中絶によって気が変になった可能性があったように、どんな女性もそうなる可能性はあります。しかしそうさせることはできないのです、なぜならあなたはその経験をもったまま生きていかなければならないのですから。だから中絶したことでとことん苦しんでも意味はないのです。」8

他の人々にとっては、自分の経験を論じるという過程でさえ、自分たちの不安定な精神状態にとって脅威になるのです。たとえば、3度目の中絶を待っている間にクリニックでインタビューを受けたひとりの女性は最初、今までの二回の中絶にはうまく適応してきたと主張しましたが、続く話のなかで、現在中絶後遺症候群の一部と認められている症状を経験したことに言及しました。彼女は、他人の子どもに強迫的な魅力を感じるようになったこと、急に怒りが吹き出すこと、うつ状態や薬物乱用の時期があったことを告白しました。自分が、今までそれ以前の中絶が原因だとしていたこれらの問題を説明しているのを自分で聞きながら、彼女は自分が信じるべきものに疑いを持ち始め、ついには次のような結論を下しました。「たぶん私は精神科医のところへ行くべきなんでしょうけど、実際はそのお金もないし、その興味もないんです。真実を受け入れるのは難しいことで、私はそれを受け入れる心の準備ができているかどうか全くわからないのです。」9

真実が何であるか、彼女はすでにわかっているのですが、それを受け入れるのは「難しすぎること」なのでしょうか。中絶は人間のいのちを奪うものです。さらにこのいのちは自分自身の子どものいのちなのです。この人間のいのちはまた自分の相手の男性の子孫なのです。そしてその男性の両親、そしてその祖父母の子孫なのです。このようにして、中絶は深刻な道徳問題以上のものでさえあるのです。それは家族の問題なのです。中絶経験は、女性の自分に対する見方を決定するするだけでなく、家族に対する見方も決定するのです。

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