中絶後のトラウマを克服すること(一事例)

Reardon, David (リアドン・デビッド)
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「全国中絶と出産の権利行動連盟」(NARAL)の会長として、ケイト・ミッシェルマンは、この国で最も有力な中絶賛成の立場のフェミニストの一人です。中絶擁護は、ミッシェルマンが単に仕事として行なっていることではありません。彼女はそれに情熱を傾けているのです。「女性たちが選択できる権利」を擁護するとき、彼女は、30年ほど前に自分がした選択を真っ先に擁護しているのです。

繰り返し行なってきた自分の経験の証言の中で、彼女は夫に捨てられ、3人の幼い娘たちを一人で面倒みなければならなかった様子を話してきました。そして、夫が去った直後に彼女は自分の妊娠を知ったのでした。

ミッシュルマンが話しているように、彼女の中絶の決定は苦悩に満ちたものでした。中絶を取り巻いている社会的、法律的タブーのせいで、彼女は自分の親族にも、友人にも、司祭にも誰にも中絶のことを相談できなかったのです。カトリック教徒として、中絶の決定は、彼女が抱いていた「すべての宗教的、道徳的、倫理的、哲学的信念に背くものだった」と彼女は言っています。

今日の他の多くの女性たちと同じく、ミッシェルマンは絶望と恐怖のためにこれらの信念を捨てたのです。彼女は生活保護を受けていて、3人の子持ちで、夫の援助や手助けはありませんでした。どうにもならない境遇のせいで、中絶以外に方法はないと彼女は感じたのです。

当時は、母体の健康または生命が危険な場合を除いては中絶は違法でした。彼女の場合は拡大解釈された例外でした。しかし、それには、精神的に不安定でもう一人子どもを育てることが不可能だという理由で中絶の許可を得るためにミッシェルマンは、全員男性で構成された病院の審理委員会に出なければなりませんでした。審理委員会は、元の夫の同意を得るということを条件に彼女の要請を認めたのです。

中絶の許可が出るのを待っている間ミッシェルマンは、合法な中絶の要求が「妨げられた」場合に連絡を取るつもりだった違法な中絶医の名前と電話番号を携帯していました。しかし、元の夫が中絶に同意したので、彼女がその番号を使うことは一度もなかったのです。しかし中絶をするために病院の審査委員会や夫の許可を得なければならなかったことで、彼女は「自分は価値がなく人権を侵害された」と感じざるをえなかったと話しています。

「NARAL」のスポークスウーマンとしてミッシェルマンは、本当に女性たちを心配している人たちの心に効果的に訴えようと、彼女自身の話を使っているのです。自分の人生を自由に生きられるために、女性たちが自由に中絶を選ぶことができなければならないということだけでなく、女性たちを傷つけ、辱め、品位を下げた、違法で制限された中絶の時代に、社会は二度と返ってはならないということも彼女は主張しています。

困難な状況のミッシェルマン

ミッシェルマンの話は、その当時も今日でも珍しいものではありません。明らかに、それは性や家族や宗教の束縛から解放され、完全に「出産の運命」を支配している聡明なフェミニストの話ではありません。彼女の話は困難な状況に陥った女性の話です。

ミッシェルマンと3人の娘は、彼女たちを捨てた夫であり父親に、精神的に苦しめられ経済的に困窮させられたのです。すでに貧困に直面していたので、もうひとり子どもが生まれれば、出費が増え、娘たちを養い収入を稼ぐためにミッシュルマンが必要としていた時間をさらに奪っていたことでしょう。

「私は、私の中で成長しているいのちに対する責任に逆らって、今いる子どもたちに対する義務を考えなければなりませんでした。」と彼女は言いました。「ソフィーの選択」という本の中に出てくる、もう一人の子を生かすために我が子のどちらを殺すかをナチの将校に選ばせられたユダヤ人の女性のように、ミッシェルマンは、他の子どもたちのために一人を犠牲にする以外方法はないと感じたのです。

多くの点で、ミッシェルマンは中絶後の精神的な不適応に苦しむ危険性が最も高い女性の特徴にあてはまります。彼女には、中絶の選択と相反する道徳的宗教的価値観と、中絶を決める際の強い葛藤、秘密にしておくことや、先に生まれている子どもたちや、夫とのまずい、あるいは不安定な関係や、社会的な支援がないことについての大きな心配がありました。彼女は一番良いことを自由に選ぶことなどできず、その代わりに、自分と自分の家族が生きていくためには、中絶が「たった一つの選択肢」だと思ったのです。

これらすべての危険因子を与えられては、ミッシェルマンが中絶後「自分は価値がなく人権を侵害された」と感じたのは無理もありません。ロー対ウェード訴訟以前に中絶をした多くの女性たちと同じく、彼女が、このマイナスの感情の責任を、社会環境や当時の考え方や中絶は違法であるとする位置づけのせいだと考えたのも無理はありません。

彼女の祝福

たぶん今日までの彼女の発言の中でいちばん彼女の気持ちを表している発言は、1998年1月のスピーチで彼女が話したものでしょう。ミッシェルマンは、最高裁が中絶を合法化したのを知ったとき、「私は本当にうれしく思いました。それはどういうわけか祝福のような、つまり、自分が価値あるものだという感覚と自分にはやましいところがないのだという感覚を取り戻す手助けとなる、過去にさかのぼって与えられた許しのように感じられたのです。」と話しました。彼女はロー対ウェード判決を「暗やみから陽のあたるところへ、絶望から希望へと現われた約束」と表現しました。

最高裁の判決がミッシュルマンにとって情緒的に重要な意味を持ったことは偶然ではありません。実際、中絶を行なったために宗教から疎外感を感じる女性が、裁判所の中絶認可の判決を「祝福」と考えるだろうということは、非常に意味深いことです。ミッシェルマンのような元カトリック教徒であった人にとって、「祝福」は、キリスト自身による最高で最も深遠な祝福の形を意味するのです。彼女にとって裁判所の判決は、彼女の道徳的信念を回復するために彼女が必要としていた宗教的な祝福に代わるものだったのです。

さらに、裁判所の「過去にさかのぼって与えられた許し」は、彼女が何も間違ったことをしてなかったということを認めるものでした。従って、彼女が悔い改めなければならないことはなくなりました。彼女の恥ずかしい思いと罪悪感は何の理由もないものでした。中絶をするという辛い決定は、私たちの社会で最高の裁判官によって認められたばかりでなく、憲法で規定された権利として守られさえしたのです。

彼女の持っていた「すべての宗教的、道徳的、倫理的、哲学的信念」を奪い去った中絶の決定についてのミッシェルマンの葛藤のことに注意を集中させれば、彼女や彼女のような何千人もの女性たちがなぜ、自分たちの道徳的信念の証明としてロー判決に固執してきたかを理解することはたやすいでしょう。

この法的決定がもたらした情緒的価値によって、なぜミッシェルマンや他の中絶をした女性たちが、ロー判決をひっくり返そうとしている人たちにそんなに腹を立てているのかの説明がつくのです。彼女たちにとって、これは単なる政治上の後戻り以上のものなのでしょう。内面的、感情的なレベルにおいて、ロー判決をひっくり返すことは、ミッシェルマン自身さえ「悪いもの」だと認ているものを選択したことに対して、彼女たちが受け取った「祝福」を取り去ってしまうことになるでしょう。

賛同への執着

中絶を好む人などいませんが、だれもがその決定に賛成してくれることを望んでいるのです。中絶を選んだ男女を中絶の権利のために闘うように駆り立てるのは、社会の賛成を求める飽くなき願望です。彼らは、単に中絶が合法的に受けられるだけでは決して満足しないでしょう。彼らが強く願っていることは中絶が普遍的に認められることなのです。

中絶に関しての政治的な闘いに没頭することによって、中絶を選んだ女性や男性たちはいくつかの心理的な要求を満足させているのです。まず、彼らは自分たちの決定の公正さを支持してくれる同じ意見の活動家たちを身の周りに置いています。第二に、他の女性が中絶を選ぶのを見るたびに、それを自分自身の決定だと再び主張してそれを経験するのです。第三に、マイナスの内面的な感情を正当な怒りという外面的な表現に変えているのです。

中絶を経験した、中絶賛成派の心理学者であるマグダ・ディーンズは、中絶をした女性が、中絶経験に固有の「個人的な悲しみ」や「自分で選んだ運命への心の痛み」に直面するよりも、「犠牲者ぶって」、中絶反対を唱える敵のいる「世界と戦う」ことの方が簡単だと主張しています。

外敵と戦っている真っ最中だと、自分が負わせた傷を検証することを避けることができるからです。

こういうわけで、ミッシェルマンは、今日中絶が今もなお非常に多くの苦しみや悲しみを女性に与えている状況が、本当のところはわかっていないのです。ロー対ウェード判決という形で受け取った「祝福」によって目をくらまされて、中絶につきものの恥ずかしさや喪失感が、社会の賛同を得ることで拭い去ることができると、彼女は本当のところ信じているのです。彼女はそう信じたいのです。そう信じなければ居たたまれないのです。

しかしながら、実際、中絶が社会に認められても、必然的にいのちを奪う経験である行為が受け入れやすくなることは決してありえないのです。当然デイーンズも気がついているように、たとえ全ての中絶の批評家の口をふさいでも、たとえ地球上の全ての人が中絶を実際必要なものだと認めても、「個人的な悲しみ」は依然としてそのまま残るでしょう。

結局のところ、単に社会的に容認されることだけに根ざした自己の尊厳はうまくいかないでしょう。私たち人間の尊厳の唯一の確固とした基盤は、私たち人間が神様の子であるという事実にあるのです。たとえ失敗した時でも、私たちの確かな希望は、「主は心くだかれた者に近く、魂のなえはてた者を救われる」(詩篇 34:19)ということなのです。神様は私たちを愛してくださいます。そして私たちが言い訳を捨ててしまえば、神様は私たちを癒してくださり私たちの喜びを返してくださるのです。

キャロル・エヴァレット、ノーマ・マコーヴィー、ビヴァリー・マクミラン博士、トニー・レヴァティノー博士のように、自らが中絶反対論者の愛を経験して、中絶反対運動に「改宗」した、元中絶主唱者たちがたくさんいます。このことによって、ロー対ウェード判決を守るために公然と意見を述べている人たちこそ本当に認められることを強く求めていると、私たちは気づかなければなりません。私たちが社会を変えるつもりなら、キリストの慈悲と愛の使者として、彼らを受け入れ抱き締めなければなりません。

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