家族計画のジレンマ

Pavone, Frank (パヴォーン ・フランク)

ジョンとメアリーは結婚したばかりです。彼らは新居を構えて二人で新婚生活を始めたことにうきうきしています。彼らはそのうちに子どもを育てたいと思っていますが、今すぐに始められる経済状態ではありません。2、3年すれば子どもを産む用意ができるだろうと彼らは考えています。

アランとジェーンは結婚して10年になる夫婦で、子どもが二人います。アランは失業したばかりで、ジェーンは幼い娘がいるので家にいます。3人目の子どもを持つゆとりはないと彼らは思っています。

マークとミッシェルは結婚して子どもが一人います。ミッシェルは医学的な理由で、少なくとも2年間は妊娠しないほうが良いと医者から言われています。彼らは、いずれはもう一人子どもが欲しいと思っているのですが、今のところは医者の指示に従うつもりです。

3組の夫婦ともカトリック教徒です。こういう状況でいる彼らにカトリックはどうせよと命ずるのでしょうか?彼らが妊娠せず、しかも罪を犯さないためにはどうすれば良いのでしょうか?産児制限に関して、教会は実際にどう教えているのでしょうか?

この教えを理解するためには、まず誤解を解くことから始めなければなりません。教会は、「家族計画」と名のつくもの全てに反対だと考えている人もいますが、そういう人たちは、教会の教えでは、夫婦は経済的、医学的問題があっても、子どもを産むか禁欲するかのどちらかをしなけれぱならないと聞いているのです。こういう観点で問題を考えてしまうと、彼らは「教会の教え」をばかげたものとして片付けてしまうことになります。

このことは教会の教えではありません。夫婦には家族計画をする権利と義務があります。このような夫婦が問題を解決し、なお善きカトリック教徒である方法があります。しかし、教会は彼らが家族計画の方法と理由とを理解するよう求めます。「計画」の中には、神の意志に沿うものと、神に逆らい結婚そのものに反するものとがあります。私たちが結婚の意味を、次に神の役割を、最後に実際的な解決策を考えてみれば、産児制限の問題に光を当てることができます。

結婚の誓約

初めに提起した3つの質問は「結婚した」男女に関するものです。結婚は二人の間で交わされた誓約です。誓約は単なる契約以上のものです。誓約には、二人が自分自身を完全に相手に捧げ合うことが含まれます。結婚はそれが完全である場合にだけ結婚といえるのです。捧げることには、何の疑いも条件も隠し事もありません。配偶者はそれぞれ相手に向かって、「現在もこれからもずっと、私の体も魂も全てあなたに捧げます。」と言うのです。

この考えを表現する肉体的行為が性交なのです。私たちは、頭や心や感情で言おうとすることを身体を使って表現するのです。何も残しておくことをせず、「全てを」捧げるのです。夫と妻が互いに与え合う贈り物の一つは子どもを作る能力で、それはお互いの協力で親になれる比類のない力です。夫が妻に精子を与えるとき、彼自身の「分身」を与えているのであり、従って「自分自身」を与えていることになるのです。夫は他の誰にも与えないものを妻に与えるのです。性の営みには、この自分の全てを捧げること、新しい生命につながる自分の全てを相手に捧げてしまうことに、最も深い意味があるのです。

しかし、この性的な行為から新しい生命を生み出す力が奪われたらどうでしょうか?配偶者に「自分自身を捧げたい」けれど、子どもを作る能力は与えたくないとしたらどうでしょう?夫婦は子どもを作る能力を「与えないでおく」ために、(コンドームやペッサリーのような)物理的な方法か、(ピルのような)化学的な方法のいずれかの避妊方法を使うことを許されるのでしょうか?

その答えは、そのような性交の仕方が完全に自分自身を捧げるものかどうかを問いかけてみればはっきりするでしょう。それは明らかに完全に自分自身を捧げるものではありません。なぜなら、何かを捧げずにとっておく方法がとられたからです。避妊をした性交は大きな疑いを持った性交です。しかし、結婚の誓約は自分を捧げてしまうことを意味します。性交の全ての行為は、結婚の誓約を「新たにするもの」です。肉体的な行為は、夫婦としての生活において行なわれている、自分の全てを捧げていることについての「真実を語る」ものなのです。避妊はこのことに矛盾します。その行為は、一方で「私の全てを捧げます。」と言いながら、実際には「子どもは作りたくない」ということを意味しているのです。従って、夫婦間の性交に避妊薬や避妊具を使うことは決して正しくないのです。

いのちを与える者

「神は誰であるのか?」と尋ねると、別の角度からこの問題を見ることができます。その質問は避妊とは全く関係がないように思われるかもしれませんが、実際には全てが関係しているのです。

子どもが「欲しい」夫婦から話を始めましょう。子どもができるかできないかを最終的に決めるのは誰でしょうか?神なのです。夫婦にできることは、子どもの妊娠につながりうる性交をすることによって条件を整えることだけなのです。神のみが最終決定をするのです。

子どもの欲しくない夫婦についても同じことが言えます。夫婦は新しい生命が誕生するかどうかについての最終的な決定者ではありません。神が創造主なのです。親は「共同創造者」なのですが、必ず神と一緒にいて神に従わなければなりません。もし性交の行為をしても、それから子どもを作る能力は取り除くならば、夫婦は神を見ながら「あなたには子どもを造らせないぞ。」と言っていることになるのです。彼らは新しい人のいのちの誕生の扉を閉ざす権利が自分たちにあると思っているのです。こういう理由でローマ法王ヨハネ・パウロニ世は、避妊という行為を「神を神と認めない」行為だと言っておられるのです。(1983年、10月10日発行のオッセルバトーレ・ロマーノ、P.3)それは非常に深刻な問題です。

どうすればその問題を解決できるでしょうか

従って、避妊は必ず間違いなのです。しかしそれでも3組の夫婦に関してははっきりとした結論をいうことはできません。彼らは避妊の手段は使えませんが、今は妊娠しないための理由があるのです。彼らはどうすればよいのでしよう。

神は、女性の月経周期がたとえひどく不安定だとしても、いつ排卵が起こるかを夫婦が正確に知ることができるという事実において明確な答えを与えています。私たちは、ここでは、「オギノ式」のことを言っているのではなく、妊娠する可能性のある日を決定するいくつかの顕著な現象に基づいた近代的で改良された方法のことを話しているのです。この方法は、「自然な家族計画」(NFP)の名で呼ばれています。もし夫婦に妊娠を避けなければならない重大な客観的理由があるならば、妊娠しそうな期問は禁欲をします。正確に使えば、この方法は人工的な方法と同じくらい完全に確実なものです。実際、「自然な家族計画」は、「方法」以上のものなのです。それは性的な自制心、意志疎通、共通の責任、神への服従などの美徳に基づいているのです。「自然な家族計画」を守ることによって、夫婦は性的な行為の意味を否めないでいられるのです。むしろ、家族計画をするために、敬意を持って時々禁欲をするだけなのです。家族計画法を正しく使うことは神の掟やカトリックの教えと一致しています。家族計画の原理と方法は、いろいろな場所で行なわれている講習を少し受ければ学ぶことができるのです。

3組の夫婦や彼らのような数多くの夫婦には解決策があるのです。しかし、その解決策を得るには、結婚や愛や新しいいのちを産むことに対する神の計画を尊重しそれに従わなければなりません。教会はすすんで全ての夫婦がそのような正しい方法を知る手助けをします。

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