(ヨハネの第一の手紙四:7〜10、ヨハネによる福音書十五:9〜17)

愛こそ命の源

フランク・パボーン

キリスト教の真髄は、イエス・キリストの死からの復活である。キリスト教では、キリストの復活を祝う教えが根づいている。なぜなら、キリストの復活は、キリストだけでなく、キリストを信ずる者全員の生命の勝利を意味するからである。キリストが墓から生き返るということは、我々も墓から生き返るということだ!

生命の勝利とは、また、愛の勝利をも意味する。聖書の最初のページから最後にいたるまで、愛が生命の源であることが明確に示されている。愛と生命とは、切り離すことのできないものである。その両方が、二つに裂くことの出来ない神から生まれ出たものだからだ。聖書は、神とは愛であると説いている。(ヨハネの第一の手紙四:8)また、神とは生命であるとも説いている(ヨハネ福音書十四:6)愛と生命とは、常に共にあるものなのである。

このことは、人類の創造において明確な事実となって表される。百年前の今日、我々はどこにいたのだろう。どこにもいなかった。我々はこの世に存在していなかったはずである。では、なぜ我々は今日存在しているのか。かつてそうであった虚無の存在から、どうやって抜け出したのだろう。自分で頼んで生まれてきたわけではない。頼もうにも、存在しないのだから頼めるはずもない。自分で自分を創りあげたのだろうか。創るという動作をする存在すらないのだから、それも無理である。自分は一体どうやって今日存在するようになったのだろう。両親が出会って妊娠したから生まれた?事実には違いないが、どうして自分が存在するかという問いに対する答えにはなっていない。君達の両親が出会った結果、生まれてくる可能性のある人物は何百万といたはずだ。君達の兄弟や姉妹であったかもしれない人物が。つまり、その中でなぜ自分が選ばれて生まれてきたのかという事になる。

自分の存在理由に対する説明は一つしかない。神のおぼしめしがあったからだ。神が君達をおぼしめしになってこの世に送り出されたのだ!神は、文字通り我々をこの世に存在せしめるほど、常に我々を愛して下さっている。もし神が、我々を愛することをおやめになったら、その瞬間から我々は百年前と同じ虚無の状態に戻るのだ。これが、愛が生命の源という意味である。

このことは、救世主の出現の理由においても明らかである。ヨハネは聖書でこう語っている。「私たちに対する神の愛はここに現われた。すなわち、神はその御独り子を世に遣わされた。それは私たちをみ子によって生かすためである。」(ヨハネの第一の手紙四:9)我々に対する愛が、キリストを自ら十字架に架けさせ、その犠牲が生命の勝利を復活という形で実現させたのだ。キリストが十字架に架けられている姿こそが、究極の愛のシンボルと言える。愛とは、自分以外の人物のために犠牲になることである。キリストは自らの命を我々にささげて下さり、我々を責めることも、見返りを求めることもなさらなかった。キリストが気にかけて下さったのは、我々が生きることのみであった。

我々に対する愛をこのように身をもって示して下さった主は、次のような教えを残しておられる。「私が愛したようにあなたたちが互いに愛し合うこと、これが私のおきてである。」(ヨハネによる福音書十五:12)「どんなやり方でも」ではなく、「私が愛したように」とおっしゃっている。我々は愛し合うためにこの世に召され、その愛によって新しい命がまたこの世に産み出されるのだ。我々は何の見返りも求めず、自らを犠牲にしてほかの人々を生かすために、この世に召されたのである。

夫婦は、お互いへの愛の結晶として新しい生命が誕生する時、神の仕事に協力しているといえる。彼等の間に生まれた子どもは、まず始めに神の子どもなのだ。神だけが成せる業であり、母親も父親もこの神の業に少しばかり協力しているだけだ。子どもを所有しているのは、両親ではなく神である。それどころか、私達は自分自身さえ所有していない。最近では、皆こう言う。「私の人生!私の体!私の権利!」だが、実際は、我々の主人は我々自身ではなく、神が主人なのである。「私たちのうちのだれも自分のために生きる者はなく、自分のために死ぬ者もない。」(ローマ人への手紙十四:7)「あなたたちの体はその内にある神から受けた聖霊の聖所であって、自分のものではないと知らないのか」(コリント人への第一の手紙六:19)

母親や父親になるということは、人間だけによる選択ではない。神がまず、選ばれたのだ。主はこうおっしゃっている。「あなたたちが私を選んだのではなく、私があなたたちを選んだ。私があなたたちを立てたのは、あなたたちが行って実を結び、その実を残すためである。」(ヨハネによる福音書十五:16)父親や母親というものは、気づかぬうちになっているものでる。子どもが存在し始めた瞬間、つまり、受胎の瞬間から、父親になり母親となる。これは私的意見でも宗教的概念でもない。れっきとした研究にもとづく科学的事実である。受胎後、数週間経ってから、親になったことに気づくのが常だ。妊婦が、「子どもが生まれるの」と言うのは、実はおかしなことで、子どもはすでに生まれているのだ。「母親になるのね」などというのも変である。もう母親なのである。そして彼女の夫もまた、もう父親なのである。

子どもを持つということほどすばらしいことはない。一人の人間が持ち得るものの中で、一番大切なのはその人自身だ。大きな会社を持っていたとしても、お金はいつかは無くなるものだし、金塊だっていずれは無くなる。しかし、子どもは違う。永遠の魂と生命を与えられた子どもは無くならないのだ。神が神である限り、すべての永遠なる存在である子どもも他の人間も、常に存在し続ける。子どもは両親と同等の存在である。年齢も知識も(もっとも子どもは自分は何でも知っていると思いがちだが)経験も、両親には及ばない。だが、尊厳において、価値において、重要度においては、同じ神に創られた人間として同等なのだ。つまるところ、すべての人間は平等ということになる。子宮の中にいようが外にいようが、若かろうが年取っていようが、健康であろうが病気だろうが、大きかろうが小さかろうが、有名だろうが無名だろうが、そんなことには関係なく平等なのである。宇宙の銀河をすべて集めて、無数の星や宇宙の美やパワーを手に入れたとしても、一人の小さな人間の子どもはくらべることが出来ない位の価値を持っている。

両親は、キリストが我々を愛して下さったように、自分の子どもを愛するためにこの世に生を受けた。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書十五:13)これを心打つ方法で体現してみせた母親がいる。ジアナ.べレッタ・モーラ、一九六二年に死亡した医者であり、三人の子どもの母親だった女性である。四番目の子どもをみごもった時、彼女の子宮近くにガンが発見された。彼女は、子どもを救うためなら何でもすると、医師と家族に言い切ったそうだ。子どもは無事に産まれたが、努力のかいむなしく、ジアナは数日後、三十九歳の生涯を終えた。「なんて無茶をするんだろう」と言う人もいるだろう。しかし、主イエズス・キリストの言葉を思い出してほしい。「友人のために命を与える以上の大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書十五:13)

たいていの親は、ジアナのような運命をさだめられてはいないだろう。しかし、すべての親とすべてのキりスト教信者は、日々、ほかの存在のために命を投げ出すため、この世に召されているのだ。母親になることを恐れ、子どもを中絶しようとしている母親達のために、特に祈りをささげよう。彼女らが、キリストが我々を愛して下さったような愛をそそぐことができるよう祈ろう。神は、何事にも耐えることのできる強さを与えることなしに、苛酷な運命だけを我々に与えることはなさらない。