ケンにつらくあたること

フランク・ペイボーン


今日私達の社会でケンという名前の人は何人いるでしょうか。もしケンという名前の人を合法的に殺すことができる新しい法律が可決されたということを聞けばどうでしょう。あなたは何を言い、何をしますか。きっとあなたは、その「法律」に抗議し、それが間違っていると言うでしょう。「ケン」という名前ではない人々はどうでしょうか。やはり抗議をするでしょう。私達はすぐに集まってケンという全ての人に対する法的保護を回復させるようにするでしょう。私達は確かにこの新しい法律は憲法違反だと言うことができるでしょう。なぜなら憲法は全ての人の権利を守ることを公言しているからです。しかし憲法さえも変えられて、ケンを殺すことが認められたらどうでしょうか。そうなれば、私達はそれでよいと言うでしょうか。いいえ、そうなっても、そうすることは間違ったことでしょう。

言い換えれば、法律やさらには憲法が何と規定しようとも、正しいことと間違ったことがあるのです。全ての法律は紙に書かれているのではなく、私達の心の中に、そして人間によってでなく、神様によって書かれた「より高い法」に従わなければなりません。その「より高い法」によれば、全ての人間はその人の経歴や状況がいかなるものであっても生きる権利があるのです。私達は無実の人間を決して殺してはいけないのです。私達の文明そのものはこの真理の上に成り立っているのです。それが文明とジャングルの、社会と無秩序との違いなのです。それこそが私達が隣にいる人のそばを歩いていても殺されることがないことを保証するものなのです。それは「私達の」道徳規範とか「彼らの」道徳規範とか、「古い」道徳規範とか「新しい」道徳規範とかの問題でなく、むしろ道徳規範そのものなのです。罪の無いものを殺すことは間違ったことであり、いかなる法律も憲法もそれを正しいことにすることは絶対にできません。

ケンについての架空の話は、私達が考えるほど現実離れしたことではないのです。ちょっと「ケン」という言葉を「ユダヤ人」に置き換えてごらんなさい。そうすればそれはナチス・ドイツで起こったことになるのです。ヒトラーの支配下の国家権力がこれらの人間は人間ではない、従って殺してよいと宣言したのです。この虐殺行為に関与した人々は、最終的にニュールンベルグの国際法廷で裁判にかけられ、人類に対する罪悪を犯したとして、有罪の宣告を受けました。法律は「より高い法」に従わなければならないのです。

それでは再び、「ケン」という言葉を「奴隷」という言葉に置き換えてみましょう。そうすれば前世紀にアメリカで同じ過ちが起こっていたことが分かるでしょう。一八五七年に最高裁判所は、これらの人々は実際には完全な「人間」ではない、従って物として扱ってよいと言いました。その誤りを正すのに南北戦争と憲法の改正が必要だったのでした。

皆さん、私達は今日同じ間違いをしています。私達は再び、ある種の人間が人間でないと言う過ちに陥りかけているのです。ちよっと「ケン」という言葉を、「胎児」に置き換え、法律に規定されていることを見てください。母親の胎内にいる子どもは法律の下では人間と見なされていないのです。だから中絶によって殺してもいいことになっているのです。この過ちによって失われている赤ちゃんの数は、ヒトラーに殺された人間の数よりもはるかに多いのです。二億一千四百万人の赤ちゃんが毎年、中絶によって殺されているのです。中絶についての話をした牧師に、六十歳になる女性が最近このように言いました。「ああ、私達はそのことを心配する必要はないのですよ。」と。明らかに、「妊娠している女性だけが中絶の問題を心配しなければならない」と彼女は思っていたのでした。社会の他のメンバーについてはどうなのでしょうか。ただ私達が胎児でもその子の母親でもないからといって、「私に関係のないこと」だと言うつもりですか?それはまるで奴隷でない人が「奴隷のことは私の知ったことではない。」とか、「ユダヤ人がどうなろうと私の知ったことではない。」とドイツ人が言っているようなものなのです。もし私達が文明社会のちゃんとした思いやりのあるメンバーであるならば、私達はその社会の中で苦しんでいる全ての人に関心があるはずです。犠牲者が無力であればあるほど、そのような人々に対する私達の義務は大きいのです。胎児は間違いなく全ての犠牲者のなかで最も無力なのです。

罪もないものが一人意図的に殺されるたびに、人間社会の全てが攻撃されているということに、私達は気がつく必要があります。その子どもが中絶の犠牲者であるならば、私達も全て犠牲者なのです。なぜならば、私達の命は、子どもの命を守るべき法律と同一の原理で守られているからです。その原理とは、命は神様からの贈り物だということです。命は神様から与えられ、神様だけが奪うことのできるものなのです。もし私達がお互いの命を奪い始めれば、誰も安全ではいられなくなるのです。もし社会がある種の人間を殺すことを容認すれば、その殺人が他の種の人間へと進行するのを何が止めることができるでしょうか。一度殺人が認められれば、それは社会全体を滅ぼすのです。もしあなたが罪のない望まれない子どもを殺すことができるならば、罪のない望まれない祖父母や罪のない望まれない隣人を殺していいことになるでしょう。そして罪のない望まれない「あなた」を隣人が殺すのを何が防ぐことができるでしょうか。生きる権利は全ての人のものであるのか、誰の物でもないかのいずれかなのです。いかなる政府もその権利を制限し、ある人々だけのものであると言うことはできません。私達の権利は政府からやってくるのではないのです。その権利は神様に由来するものなのです。神様が生きる権利を与えるのです。それは固有の権利なのです。つまり、その権利は奪うことができないものなのです。それらの権利を守るために、政府が存在しているのです。

従って中絶に関する現在の法律は非常に間違ったものです。「全て」の人間は人間以外の何ものでもありません。奴隷やユダヤ人や胎児を排斥することはできません。中絶によって殺されている赤ちゃんは私達の弟や妹なのです。だから私達には彼らを守る義務があるのです。中絶は私達の関心事なのです。なぜなら、私達は弱いもの、無力なものの世話をするからです。というのは私達は母親の面倒を見て、子どもを生むために、そして子どもが生まれてからは子どもを育てる又は養子にもらってもらうために必要な援助と助けを与えたいと思うからです。女性には中絶が「必要」だ、と言うことは女性を侮辱することです。そして見捨てることです。それは歴史の過去の過ちを再び繰り返すことなのです。またそれは数知れない子ども達に、「あなたたちはどうでもいいのです。私はあなた達に責任はありません。」と言うことなのです。

今、命への私達の愛情を新たなものにしましょう。全ての人間に対する責任感とその人々の権利を守るという決意を新たなものにしましょう。私達の国家の法律が「神様のより高い法」に従うように努カしましょう。神様は「命を与えてくださる方」であり、神様は私達に、命を守り、擁護する力を与えて下さるでしょう。