「自ら命を絶つ」ことの葬儀屋さん的考察

Okada Morio (オカダ モリオ)
岡田 守生
出典 D’s(ディーズ)さんのぶろぐ
2010年1月25日(2017年1月21日)
許可を得て複製

(本記事は2010年の投稿後、2017年1月に投稿者本人によって加筆修正させていただいております)

これまでは人間が自ら命を絶つ行為を「自殺」と表現するのが一般的でした。 しかし2017年現在、様々な配慮から多くのメディアで「自死」という表現が使われるようになっております。 本記事を投稿した当時(2010年)から考え続けていたことですが、個人的には「自死」 という表現にも若干の違和感を感じるところがありますので、ここでは「自ら命を絶つ」という表現に改め、 統一させていただきますことをご了承ください。

自ら命を絶つ。 今なお多いと言わざるを得ません。

それはよくない。 そして、決してしてはいけない。 そんなことは誰だって分かっています。 それを理解したうえで、時として人は自らの命を絶ってしまうようです。 そこには止むに止まれずという事情や想いがあるということなのでしょうが・・・

私たち葬儀屋さんは 自ら命を絶った行為の結果としての、様々な現場を見てきております。 昔『完全自殺マニュアル』などという本があったと記憶します。 個人的にはこの上なくバカげた書籍だったと思うところなのですが 私たちがみる限り、自ら命を絶つ方法に苦痛を伴わないものなどないと断言できます。

何度現場に出くわしても そこには言いようのない哀しみや寂寥感が漂います。 こうした案件の場合、まず例外なく警察による現場検証があります。 事件性は無いと判断されたのちも、医師によって検案が行われます。 衣服はすべて脱がされ 結果的に警察や医師、そして私たち葬儀屋さんにまで、その様を見られてしまう。 私たち葬儀屋さんは、死者の尊厳を守るよう意識します。 しかし現場に立った私たちの脳裏には どうしても「憐れ」という単語がよぎってしまうものなのです。

最近の解釈のひとつとして「自ら命を絶つ行為もまた病死である」という考え方があります。このような考え方から「自死 」という表現が使われるようになったという背景もあるように思います。 そしてそれは決して間違いではなくて、特に精神的に追い詰められた方々、 或いは実際に具体的な精神疾患の診断がされた方々が、 突発的にそうした行動に出てしまうケースもまた少なくないと思われます。

敢えて申しますが 結局のところ、ご本人が自ら命を絶つのを思いとどまるのを期待すること自体、非常に難しいのではないかと思うのです。 周りの人間がいくら優しい言葉や態度で諭したところで、ご本人にすれば、 自ら命を絶つタイミングなんていつだって作れてしまう。

私はこう考えます。 ご本人が(死にたい)と思ってしまった時点で、すでにそれは発生したも同様なんだということ。 それが実行されるか否かは紙一重のようなもので むしろそこへ至るまでのプロセスにこそ、私たちが真摯に考えるべき問題があるのでは、と。

以前このブログで書きました。
「自分の『大好き』を探すこと、増やすこと」
「自分の人生を『大好き』になること」
言葉にすれば単純なことですが、実はとても大切なことだと思うのです。

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