私たちは一人で歩むのか?

Novotny, Jerry (OMI) (ノボトニー・ジェリー )
英語原文Do we walk alone?
2020年5月7日掲載
許可を得て複製

最近、スリランカの茶農園労働者の苦しみとCOVID-19のパンデミックについての記事を読んだ。 スリランカの貧困層の中でも、農園労働者は所得が低いため、より多くの苦労を強いられている。 彼らの仕事はコロナウイルスのために壊滅的な状況であり、その他の収入源はない。

茶農園労働者のほとんどはタミル人で、 茶農園の安価な労働力として1820年代にインドから出稼ぎにきた人々の子孫である。茶農園労働者の52% 以上が女性である。

この女性達は他のコミュニティから比較的孤立しており、非常に貧しくて、産休などの福利厚生も受けることができない。 彼女らは、政治的にも経済的にも他の社会から孤立している。

ある女性労働者の話では、彼女が一月に稼ぐ金額は、19,000ルピー(日本円にして25,000円程度) に満たないという。「夫は病気で、農園に働きに出ることができません。私たち家族は、家を抵当に入れ、 数少ない持ち物を売ることで、月々の暮らしを何とか凌いでいます。」

このような話は、アジア中の多くの労働者で聞かれる。それはまた、私たちに深遠な霊的真理を教えてくれるかもしれない 。世界には多くの苦しみがあり、希望もある。ルカによる福音書24章13〜35節には、 私たちは決して一人ではないと書かれている。私たちが苦しんでいるとき、イエスは私たちと一緒に歩んでおられる。通常 、イエスの姿は目に見えないが、それでも確かに彼はそこに存在しているのである。私たちの心が開かれていれば、 いつの日か、イエスがずっと私たちと一緒にいてくれたことに気づくだろう。しかし、それだけではない。イエスはまた、 私たちと一緒に歩み続けることができるよう、教会を設立した。これは、ルカによる福音書24章13〜 35節に書かれている。どのようにか?

イエスの信者として、私たちには、苦しんでいる人たちと一緒に歩んでいくことも求められている。教会を通して、 キリストは私たち一人一人に、自らの生活の中でキリストの存在そのものとして在ることを求めている。 教皇フランシスコは、このことを「共に歩む」と表現している。教皇は勧告「福音の喜び」の中で、「 私たちは単に聞くだけではなく、耳を傾けるという技術を実践する必要があります。コミュニケーションにおいて、 耳を傾けることは心を開くことであり、そこから真の霊的な出会いが生まれます。」と記している。 第1のステップは苦しんでいる人と一緒に歩むこと、第2のステップはその人の話に耳を傾けることである。そして、 第3のステップでは、キリスト自身があなたに何をすべきかを教えてくれるだろう。

私たちの生活の中で苦しんでいるのは誰か、また誰かが彼らと一緒に歩くことができるか?同僚、入院中の友人、 近所のお年寄りなど、孤独で友達を必要としている人はいないだろうか?日本では、高齢者の70%が孤独感に悩んでいる 。私たちの家族の中に、誰かに話を聞いてもらいたがっている人がいないか?神は私たちに、 このような人々のもとにイエスを届け、彼らの苦悩と共に歩み、 イエスの彼らに対する愛と憐れみを示すことを求めておられる。

私たちは誰しも、ある程度は苦難を抱えている。人生は困難であり、 時には自分の周りに心理的な保護壁を作ってしまう原因ともなる。しかし、どんな状況であっても、 イエスはいつも私たちの側に居る。

教会の教え、神が罪を克服したという私たちの信念、そして神の私たちに対する無条件の愛によって勇気づけられ、 私たちはイエスの存在そのものとして在り、社会的に軽視される人々と共に歩むことができる。イエスの信者として、 それこそが私たちの姿なのである。

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