自分ではない者のふりをする

Novotny, Jerry (OMI) (ノボトニー・ジェリー )
2017年7月26日掲載
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今、私たちはモラルや原理のない世界に生きている。私たちは(1)キャンプで生活する難民、(2)1% の富裕層が富を牛耳ることによる貧困、(3)科学的根拠のない性教育、(4)因習として秘密裏に行われる結婚、(5) 中絶産業を支える血税、(6)間違いや異常なことを市民に信じ込ませる法律から目を背けている。最近では「 バスルーム戦争」がある。男性が女性用のトイレ、ロッカールーム、シャワー室に入り、 服を脱いで自分の裸を少女たちに見せるのである。

LGBT運動家は、 男性用のトイレや女性用のトイレがあたかもトランスジェンダーの人たちを抑圧するために作られているかのように行動している。トイレ、ロッカールーム、シャワー室にはそれぞれ「専用の目的」がある。それらは、別の性の人たちがもう一方の性の人たちに裸を見せて歩く目的で作られているわけではない。米国大統領が生物学ではなく心理学に基づいて公立学校にトイレ政策を指示したとき、 私たちは国の最高レベルで誤った考えが公然と推進されている様子を目の当たりにした。

米国の最高裁判所は、6000年続く結婚制度を「再定義」している。最高裁判所は今、男性と女性の生物学的な真実を定義しようとしているのだ。

いわゆるトランスジェンダー権はどこに端を発しているのか?歴史上、そのような権利はなかった。 法律専門家はトランスジェンダーという言葉を確実に定義することさえできない。ただし、世界人口のごく一部に対して、政府が突然新しい法律を作成し、生物学的な男女の定義を心理学的な定義に変更するかもしれないのだ。

なぜ?何のために?つつしみ、貞操、品位、恥じらいを放棄することが少数派の人たちにとって正しい解決策になるのだろうか?フリーセックスが答えになるのか? 私たちはこうしたことを子供たちに望んでいるのか?

「ジェンダーアイデンティティ」に対するハリウッド的な答えは空想や幻想で、自分とは違う者になった気分を味わっているにすぎない。市民は、男性、女性という生物学的な組成と性的アイデンティティに反する何かを信じるよう求められている。これに盲目的に従うことは全くナンセンスである。

カトリック教会は我々が神の姿に似せて作られていることを明言している。カトリック教会は、男性と女性を、愛を分かち合い生命を生み出す関係として婚姻する性的な男女と特定している。男性、女性、子供は「セクシャリティ」という言葉に意味を与えている。こうした婚姻によって誕生する子供はすべて、愛の結晶として生まれてくる。

トランスジェンダーな人という言葉は、生殖的な意味を持たないことから「アンセクシャル(無性)」である。 子供が誕生することはない。「生物学とは切り離された」性を語ることで、非現実的な関係で混乱が生じ、現実的な意味を持たない幻想的な生活につながっていく。

これが問題であることは間違いない。創造者である神を無視した解決策は適切ではない。 (創世の書1章27節)「神はご自分にかたどって、人間をつくりだされた。人間を神のかたどりとし、男と女につくりだされた。」これは健全な社会になくてはならいことである。

結婚、セクシャリティ、家族に対する教会の教えは非常に大きな圧力を受けている。裁判所は「寛容」という言葉を使って結婚、セクシャリティ、人間に対する教会の教えを排除しようとしている。例えば、同性婚の合法化、避妊命令、本人が決めるジェンダーアイデンティティに基づいたバスルームの利用などがそうである。

教会はカトリック教徒に対して、預言者として誠実かつ信心深い態度で真実を述べるよう求めている。イエスは「恐れるな 。話せ。黙るな。私はおまえとともにいる。」と述べている。(使徒行録18章9節)

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