胚の本質について

McManaman, Doug (マックマナマン・ダグ)
許可を得て複製
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

ヒトのいのちが受精の瞬間から始まるのかどうかという疑問は、厳密には哲学的な問題である。だからと言って、よく言われているように、この疑問に対する確固たる答えはなく、胚がヒトかそうでないかは見解の相違に過ぎないという意味ではない。その意図は、この問題が感覚あるいは調査によって解決するものではなく、解決には論理が必要という点にある。発達中の胚の状態について、同じデータを持つ発生学者2人が、2つの相反する結論を導き出す可能性が考えられる。双方でデータが同じなら、その結論の違いは科学的データが原因ではない。むしろ、彼らの見解の不一致は、その論法によるものと言える。にもかかわらず、哲学では、科学に頼ることで、この問題を論理的に解決しようとしている。哲学者は、ヒトの胚に関する科学的データなくして、胚の地位や生命の始まりにおける問題を解消することはできない。

この疑問を解決するために、基本的な哲学的原理についてまず説明しよう。我々は、すべての知識が感覚による認識から始まることを、経験上知っている。だからと言って、知識とは認識につきるという意味ではない。事実、知性が物事の知的構造を把握する能力であることを考えると、知識とは感覚による認識以上のものである。氷の温度や表面の色など、感覚的なものは、三角形の性質とか犬の本質など知性的なものとは異なる。しかし、人間は、知性的な性質を直接的に把握できず、必ず間接的に把握する。我々は、唯一行動を通してのみ、物事の性質を理解できる。なぜなら、物事は、その本質の力にしたがって動作するからである。たとえば、犬は吼えるし、アヒルは鳴くし、植物は成長し繁殖する。また、鳥は空を飛び、人間は論理的に考え笑う。つまり、人間は、認知という点で本質より行動が先に立つが、物事の場合は、まず本質があって、それから行動があるということになる。なぜなら、物事が最初にそれなりの物事として存在しない限り行動はあり得ないからだ。

ポーン、キング、クイーン

この問題は、チェスのゲームに例えるとわかりやすい。たとえば、クイーン、ビショップ、ルークなどのコマについて尋ねられた場合、つまり、それらが何かと尋ねられた場合に、チェス盤の上のコマを指差すだけでは十分な説明にならない。これらのコマについて正しく理解しようと思ったら、それらの役割とそれらがどのように動くのかを知る必要がある。ビショップは斜めに動き、ポーンは前に1マスずつ動き、対角線方向にあるコマを捕獲できる。キングは、どの方向にも1マスずつ動くことができ、クイーンは方向にかかわらず何マスでも動くことができる。言い換えると、我々は、機能と動きで各々のコマを理解している。

キングは、どの方向にも1マスずつ動くことができるが、たとえば、ゲームを開始した時点など、隣に空いたスペースがなく、キングがまったく動けないという状況も考えられる。しかしキングはキングである。つまり、状況が許せば、どの方向にも1マスずつ動くことができる。そして、ポーンが第8ランクにたどり着くと、クイーンに変わる。同様に、チェッカーピースが第8ランクにたどり着くと、キングになる。クイーンが盤上にある状態でポーンが第2のクイーンになることもよくある。こうした場合に多いのは、捕獲されたルークを取り返し、それがクイーンになるパターンである。一見クイーンのように見えなくても、クイーンのように機能することから、それはクイーンであり、どの方向にも、何マスでも動くことができる。外見とは異なり、その機能はルーク以上だが、それは、その機能を見て初めてわかることなのである。このコマは、クイーンの潜在力を持ち、クイーンだからこそ、その様に機能するのである。

各コマの機能、つまり各々がどのように動くかの説明だけを与えられ、それらのコマの外見については説明を受けなかったとしよう。たとえば、ビショップは対角線上にのみ動くと教えられ、それを識別するための外見については聞いていないとする。進行中のゲームを見て、盤上のコマと名前を自分で一致させる。ゲームは始まったばかりで、何回か動きがあった後、あるコマ(クイーン)が前に1マスだけ動いたとする。この時点で我々がわかるのは、ポーンのような動きをするということだけである。ゲームのこの時点ではポーンのような動きしかしていなくても、クイーンはポーン以上の機能を持っている。次の順番では、相手のプレーヤーがクイーンを対角線に3マス動かす。この動きはビショップの動きに似ている。この時点では、ビショップの動きをしているようにしか見えない。しかし、実際には、横、前、後ろと、どの方向にも動くことができる。したがって、ゲームのこの時点ではわからなくても、このコマはビショップより強いコマなのである。クイーンがポーン、ビショップ、ルークより強いことは、これらのコマにはない機能がクイーンに備わっていることを、徐々に見ていく結果として理解できるのである。

胚の発達も同じである。我々は、胚の動きを観察することで、胚が何であるかを理解できる。発達中の生物は、発生の初期段階では、完全に成長した状態と同じように行動することができない。なぜなら、発達という言葉が示唆するように、生物は発達当初と発達後においていろいろな意味で異なっているからである。生物は発達しながら、本来の姿になっていく。彼らが本来と違う姿になることはない。単細胞の接合子は、人間になる可能性があるのではなく、実際に人間なのである。精子は人間にならない。卵子も人間にならない。しかし、卵子と精子が結合すると、まったく別のものになる。結合の結果、まったく新しいものとして新しい方向に動き出す。この新しい何かは、その動きを観察することでそれが何かを判断できる。

精子は、透明帯と呼ばれる卵子を取り巻く保護膜に達すると、糖蛋白質精子受容体分子と結合する。精子の頭部に蓋をする小胞、アクロソームが分解酵素を放出し、精子は透明帯を通過できるようになる。精子が透明帯を通過したら、2つの細胞の細胞膜が融合する。その後ただちに、卵子の細胞膜の下に位置する多数の表層粒から、その内容物が卵子と透明帯との空間に放出される。これらの物質は透明帯と作用し、精子受容体分子を変化させて、透明帯を他の精子が通過できないようにする。

精子の細胞膜と卵子の細胞膜との融合により、卵子は減数分裂を開始する。この段階で、胚には染色体の複相補体と2NのDNAが含まれている。ゆえに、受精卵は配偶子と呼ばれる。(1)

配偶子は精子でもなければ卵子でもない。このことは、我々が、活動からそのものの本質を理解するように、配偶子の動きや展開の様子を観察することで明らかになる。

子宮内膜に着床する直前、胚結節の細胞は、胚盤葉上層(初期胚葉)および内胚葉(初期内胚葉)という2つの層に分化を開始する。胚盤胞の胚子極の栄養膜が分裂して合胞体栄養細胞を形成し、それが子宮内膜を腐食して胚盤胞が着床するための場所を作り、胚盤胞を子宮壁に引き寄せる。

第3週目には、2層構造の胚盤が3層構造の胚盤(内胚葉、中胚葉、外胚葉)に変化する。内胚葉の細胞は、肺の裏層、舌、扁桃、消化管などを形成する。中胚葉の細胞は、筋肉、骨、リンパ組織、心臓、肺などを形成する。外胚葉は、皮膚、爪、毛髪、目の水晶体、鼻および口、神経系の各部などを形成する。

単細胞の配偶子が2細胞期の胚になり、桑実胚(4日)、胚盤胞(5‐7日)、2層胚盤、3層胚盤と変化するのはなぜだろうか?我々は、後になってから、受精卵には胚盤胞になる能力があるものの、細胞分裂に時間がかかることから、それが胚盤胞や胚盤になるには時間が必要だったことを理解する。もし、受精卵に胚盤胞になる能力がなかったとしたら、決して胚盤胞になることはない。

「潜在性」とその多義性

胚の本質に関する議論でありがちなのが、「潜在性」あるいは「潜在的能力」という言葉のあいまいな使用である。両義に取れる言葉は、ひとつの言葉であるにも関わらず、たとえば「bark」に木の外皮という意味と、犬の吠え声や小型帆船が出す耳障りな音という意味があるように、多少あるいは全く異なる意味を持っている。今回の議論で使用している「潜在的能力」の場合、やや意味の異なる2種類の潜在性が考えられる。これら2種を区別できないと、あいまいな状況が生じることになる。

潜在性とは、能力あるいは機能を意味する。すべての潜在性は現実性と関係しているが、現実性には第1の働きおよび第2の働き・活動の2種類があり、これら2種類の働きには2つの異なる潜在性が関係している。まず、異なる存在になる潜在性がある。現実に私は生きているヒトだが(第1の働き)、私には死骸(死んだ物質の集まり)になる潜在性がある。私は、実際の私であることを止めること、すなわち生きているヒトであることを止めることで死骸になる。精子は、現在の存在を止めることで配偶子になる。同様に、卵子も現在の存在を止めることで配偶子になる。

活動(第2の働き)は能力あるいは潜在性を表すが、この潜在性は、まったく新しい存在(第1の働き)ではなく、活動として具現化される。こうした潜在性が活動に実現化されても、そのものが本来の姿を失うことにはならない。むしろ、その本質が十分発揮されるのは、こうした活動によってである。私は、人間がその本質として(活動する)潜在性、たとえば、見る(第2の働き・活動)、聞く(活動)、走る(活動)、考える(活動)などの潜在性を多数備えた人間なのである。後者の潜在性は、さらなる活動の源である。実際の人間だけが、見る、聞く、笑うといった能力や潜在力を実際に持っている。我々は、精子の観察を通じて、それが見たり、聞いたり、笑ったりするようにならないことを知っている。しかし、胚は、やがて見たり、聞いたり、蹴飛ばしたり、おしゃぶりをしたり、泣いたりするようになる。胚は、人間になる潜在性を持ち、人間であることから、人間のように機能する。単細胞または2細胞期の配偶子あるいは2層胚盤は、その一部がさらに発達・成熟しない限り、その初期の潜在性を発現できない。これは、各部がさらに発達しない限り新生児がその潜在性の多くを発揮できないのと同じである。胚は、潜在的な人間ではないが、精子や卵子が持っていない多数の潜在性を備えた発達中の人間なのである。配偶子が潜在性を発揮するには、その実現の条件として、肉体的な臓器、すでに発達中の臓器が必要となる。

一方、精子は実際には配偶子ではないが、配偶子になる潜在性がある。配偶子は実際には胚盤胞ではないが、胚盤胞になる潜在性があり、胚盤胞は実際には胎児ではないが、胎児になる潜在性がある。これは真実だが、これは微妙な問題で両義に取れるため、2種類の潜在性が混乱することになる。精子は実際に精子であり、配偶子に発達することはない。精子は、比較的寿命が短い半数体である。同様に、卵子も卵割したり、2層および3層胚盤に発達することはない。精子(または卵子)および配偶子は、まったく異なる2つの存在であり、そのどちらにも同じ潜在性、すなわち同じ行動は見られない。一方、配偶子と胚盤胞は、同じ存在であり、前者より後者において能力が高い。配偶子、桑実胚、胚盤胞などには連続性がある。精子と配偶子、卵子と配偶子に連続性はない。

胚は一部か全体か?

胚が一部か全体かという問題に取り組むために、もう一度チェス盤を例にとって考えてみよう。ただし、今度は別の角度から話をする。クイーンはチェスの一部であり、それ自体がゲームではない。ゲーム全体を理解するには、ゲームが終わる(チェックメイトを達成する)まで観察を続ける必要がある。各々のコマには、最終的にゲーム全体の内容を見なければ理解できない機能がある。チェス盤からクイーンを取り出し、なくしたチェッカーピースの代わりに使用すれば、それはもうクイーンではなくなる。チェッカーゲームでは、動かせる方向もマスの数も限られている。クイーンは単なるチェッカーピースになってしまう。事実、キングよりも力を失うことになる。別のゲームで使用すれば、そのゲームの中でクイーンの機能はまったく違ったものになってしまう。

一部と全体は互いに関連している。一部は全体に含まれており、その機能は、全体との関係でのみ意味を持つ。生物はその完全性を維持しようとするが、その一部は、完全性を維持するために機能する。生物の各部の機能、たとえば心臓や肝臓などは、その生物の完全性に何らかの形で貢献している。

この点から、胚は母親の一部ではないと言える。なぜなら、胚は母親の一部として機能しないからである。胚は、母親の身体的完全性のために機能しない。むしろ、胚はそれ自体が全体なのである。事実、胚には母親の各部に類似した点がある。たとえば、各部がそれを構成する全体に依存するように、胚は母親に依存している。また、母親の肝臓や腎臓が彼女の体内にあるように、胚も母親の体内にある。しかし、子どもが母親に依存するのは一時的であり、部分が全体の内部にあるから、あるいは胚が母親の体内にあるからと言って、胚が母親の一部であると結論づけることはできない。これは、すべての七面鳥が卵から生まれ、すべての鶏も卵から生まれる、したがって七面鳥はみんな鶏であると言っているようなものである。こうした論理は無効であり、未周延の中名辞を含んでいる。

生物の一部は、個々のいのちの原則によってではなく、全体のいのちの原則によって生かされている。私の指は、私がいるから生きているのである。全体からある部分が切り離されれば、それは本来の姿を無くすことになる(2)。胚のいのちは、母親のいのちではない。胚は、母親の体の一部とは異なり、それ自身がいのちを持っている。胚は、その完全性のために相互に協調する部分で構成されており、それ本来の姿であるためではなく、その手段として母親に依存してい。それを明確に証明しているのが、子どもの誕生である。


この記事の上へ