避妊:カトリック教徒だけでなく人類の問題

May, William E. (メイ・ウイリアム・イ)
2009 Culture of Life Foundation
許可を得て複製

英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

序文

通常、避妊は生命倫理というより性倫理の問題と見なされる。しかし、避妊は人命の尊重に深く関わっている。避妊自体は性的行為ではないが、性的行為に伴って行われる。当然ながら避妊をしなくてもセックスはできる。避妊をしながら性交するカップルは2つの行為をすることになる:彼らは性交を選び、避妊を選んでいるのである。ここでは、避妊が反生命行為であり、「死の文化」につながることを主張したい。

カトリック教徒かそうでないかに関わらず、避妊が「反生命」であり「死の文化」につながるという考えは、避妊を反生命行為と考えず、避妊と「死の文化」とに何の関連性も見出さない多くの人々を憤慨させるものかもしれない。我々の社会では、カトリック教徒もそうでない人も、その多くが既婚者の避妊を「当然のこと」と見なしている。妊娠を回避する妥当な理由があれば避妊は当然のことである;そして避妊と「死の文化」を結び付ける考えは、「人工中絶には反対」だが避妊に問題はないと考える既婚者からは特にばかげた考えと見なされる。

このことは、10年前、First Thingsというジャーナルで1998年12月の避妊に関するシンポジウムに寄稿した数名の意見でも具体的に示されている。中絶に反対していることで有名なルター派の神学者Gilbert Meilaenderと「生命擁護派」のアングリカン派の神学者であるPhilip Turnerは、彼らの共同寄稿において「夫妻が生殖と結合という結婚の目的を同時に抱いているならば避妊を伴う性交も適切な場合がある」と断言している。同様に、First Thingsの編集者のJames Nuechterleinは、このシンポジウムの後に、彼と妻もその状況からすぐに子どもを持つつもりはなかったが、もし妻が妊娠していたら「中絶は考えなかっただろう」という気持ちを示した。彼は次のように続けた。

「ただし、今のところ避妊することに道徳的なためらいはない・・・時が満ちたら子どもを持つかどうかを議論することはあっても、避妊するかどうかを議論することはないだろう。もちろん、いつの日か神の意志に従って子どもを持つだろう;それまで私達は(人工中絶ではなく)避妊するだろう。これは私達にとって神の摂理に出しゃばることではなかった。結婚のさまざまな善事を実行する上で分別を正しく利用しているように思われた・・・我々は結合と生殖という結婚の善事を意図してきたが、性行為のたびにそうだったとは限らない。」

しかし、このように広く行き渡っている見解は間違いである。数世紀にわたり、クリスチャン作家は避妊を「反生命」行為と見なしてきた。事実、the First Things symposiumの寄稿者の一人、このジャーナルの編集アシスタントであるAlicia Mosierはこの見解を強く打ち出している。 彼女は、問題は妊娠を防ぐために使われる方法の「人為性」ではなく、避妊そのものの本質にあるとまず主張した。彼女が述べているように「避妊自体が間違いなのである:避妊は生命を生み出す行動と夫婦間の行為の意味を覆えすような周到な意思であり選択なのである。」

教皇パウロが避妊を「生殖を不可能にすることを意図したあらゆる行動」と表現したのに対し、彼女は次のように書いている:「出産を不可能にすることを意図するとは、わかりやすく言えば性交の秩序に直接反し、結果的に生命誕生を邪魔することである。避妊を行うカップルは、新しい生命誕生を不可能にすることを唯一の目的とした手段を用いていることになる。避妊とは性的な出会いの結果である出産を妨げる意思を示す行為であり、新しい生命の発生を直接妨げる意思の表明である。

避妊はなぜ反生命行為なのか

その理由を探るには、行為の「目的」を検証する必要がある。なぜなら、その時々に自由に目的が選択され、その目的により具体的な行為が行われるからである。「目的」とは、行為の「目先の目的」すなわち「直接目的」のことであり、その時々に選択される行為の「将来的な目的」すなわち「間接目的」とは区別される。これはSt. Thomas Aquinasの教えであり、教皇ヨハネ・パウロII世はその回勅「Veritatis(真理の輝き)」において次のように述べている。「人の行為の道徳性は、主として基本的に周到な意思によって合理的に選択される「目的」に 左右される。」

ある重要な一節で、ヨハネ・パウロII世は次のように述べている:「ある行為の目的を把握してその行為を道徳的なものとするためには、行為者の認識を理解する必要がある。実際、意思に基づく行為の目的とは、自由に行動を選択することなのである。

ヨハネ・パウロII世は、行為を道徳的なものにする「目的」こそが、その人の「選択」である」と強調している。これはその人の選択の「目的」であり、その人が自由に行動することであり、その具体的な行為を自由に行えることで、その人はその行為を自分の意思で行っていることになる。

したがって、私の選択の目的が意図的に配偶者以外と性交を行うことである場合、私は自由意思で姦通を選択し、自分を姦通者にすることになる。

私が自由意思でヒト胚の殺害を選択する場合、その行為の目先の目的は無実の人の殺害となるが、私の「間接目的」は肺の幹細胞を使った実験により恐ろしい病気の治療法を開発することと言えるかもしれない。ただし、「目的」は単に物理的な出来事や外界での行動の「一片」ではないことに注意する。

人の意思による行為、人が選択した行為の目的であるという理由だけで、これは道徳的な目的になる。問題を別の観点から見ると、教皇は、人の行為は人の意思による行為と無関係でそれ自体に本質のある「こと」ではないと述べている。人の行為は、正確には人間的で道徳的なものとして、人の「心」、人の意思から流れ出るものである。人の行動に実存的で宗教的な意味があり、それが主に選択した目的によって明確化されるのはこのためである。

では、避妊を選択する場合、その人の行為の正確な「目的」は何だろうか?ヨハネ・パウロVI世は「Humanae Vitae(フマーネ・ヴィテ)」で次のように述べ、この問題について正確に説明している。「夫婦の行為、又はその完遂、あるいはその自然な結果の発生のいずれかを予想しているのでなくても、すべての行動は出産の妨げを画策したものである。」

言い換えると、人は新しい人命の始まりを阻止する選択を行ったときに避妊する。避妊は分かりやすい行為で、意図や目的を持っている。テニスをしているカップルや、手をつないだりキスをしているカップルが避妊を選択することはない。なぜなら避妊に意味がないからである。しかし、新しい人命が誕生する可能性が合理的に考えられる身体的な行為として性行為を選択した場合には避妊を選択する。したがって、彼らは新しい人命の始まりを阻止する避妊をその時に選択することになる。

結論

避妊が「カトリック教徒」だけの問題ではなく、「人類」の問題でもあること、そして私が避妊を反生命行為と考える理由をご理解いただけたら幸いである。ヨハネ・パウロII世はその教えの中で、避妊は配偶者が相手に本当の意味で「自分自身を与えていない」という点で愛に反する行為であると強調している、というのが私の理解である。しかし、教皇はその反生命行為が長く行われていることを決して否定しておらず、それどころか、演説や説教でこの慣習を再認識している。

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