人間の尊厳性

Matsumoto,Nobuyoshi (マツモト・ノブヨシ)
松本信愛(聖トマス大学
旧:英知大学)/ガラシア病院チャプレン)
1998年出版『いのちの福音と教育』
http://www2u.biglobe.ne.jp/~shinai/ronbun-frame.html
許可を得て複製


<ねらい>人間の尊厳性の「理由」について考えさせる。 <資 料>親の形見の例になりそうな、時計、財布等の小物。旧約聖書の「創世記」。


人間の尊厳性について考えるための導入の一つとして役に立つと思われるのが「人を殺すこと」について考えさせることです。

<質問1>「人を殺すことが許される場合? 許されない場合?」

まず、「許される場合」として、生徒は「正当防衛」を挙げてくるでしょう。もちろん、挙げてこなければ、こちらから誘導尋問をして気がつくようにもって行けばよいのです。

教会の教えからいっても正当防衛は認められているのですが、それが、権利なのか義務なのかについて考えさせることもよいでしょう。まず、正当防衛が認められている理由は、(そこで破壊されようとしている自分の)いのちの「価値」の高さと、(他人と同じように)「自分を愛する」義務が人にはあるからです。聖書の教えは、隣人を「自分のように」愛しなさいとなっているのですから。

したがって、「自己防衛の権利を放棄」するのが、自分への愛が欠けているからという理由の場合は倫理的には許されません。自己防衛の権利を放棄することが倫理的に認められるのは、主イエスご自身や殉教者達が示したように「福音の教えの精神に従って、自己への愛を徹底した自己奉献へと変貌させる英雄的な愛」による場合のみです。それでも、家族や国家の共通善を担う人のように、「他者のいのちに対して責任を有する人の場合」には「正当防衛は、権利であるばかりでなく、重大な義務」でもあるのです(『いのちの福音』55番参照)。

もし、生徒が、人を殺すことが許される場合として「死刑」や「安楽死」を挙げたなら、少しは意見を聞いてもよいでしょうが、この単元の目的達成のためには、後ほど特別に取り上げるとして後に回す方が賢明でしょう。そして、人を殺すことが「許されない場合」の意見を一応聞き、次の質問に移ります。

<質問2>(そのような場合)「なぜ人を殺してはいけないのでしょうか?」

(1)の答も、意外と多いものです。「法治国家」の面目躍如というところですが、「法律で禁じている」からしてはいけないと答える人々は、案外、その奥の、「なぜ」禁じられているのかというところまで深く考えない人が多いので、法改正などがあって法律が認めれば、抵抗なく反対のことができるので、その点に注意を向ける必要があるでしょう。このことは、実際に「人工妊娠中絶」で起こったことですし、将来は「安楽死」に関しても起こるでしょう。「死刑」に関しても法律が「認めている」、「認めていない」だけで左右されて、それ以上深く考えようとしない人々が案外多いのです。もう一つ身近な例を挙げてみますと、中学生の喫煙をとんでもないこととして止めようとしている親も、もし法律が禁じていなかったら、それほど必死で止めようとはしない親が意外と多いのではないでしょうか。健康上の問題として考えれば、法律で禁じているか否かに関係なく、子どものことを考えて、何とか止めさせようとするのが当然だと思われるのですが・・・本当に子どものことを思って止めさせようとしているのか、世間体を考えての行動なのか・・・(子ども達は、むしろその辺を確かめている面もあるようですが。)それはさておき、そのような大人を見ている若者達は、命のような大切な問題に関しても、本当の「なぜ」を考えないで、表面的な「法律で禁じている」だけを取ってしまうのです。ですから、そのような生徒には「では、もし、法律で禁じていなかったら?」と問い返してみるのもよいでしょう。

(2)(3)(4)(5)または、それらに似た答も非常に多いはずです。この種の回答は、「他人の」命を取ることはいけないが、「自分の」命を取ることは、本人がそれでよいというのならいいという、いわゆる一般的な日本人の考え方に落ち着いていきます。このような考えから、日本では「自殺」を倫理的な問題としてあまりとりあつかわないわけです。この種の考え方は、また、いわゆる「安楽死」容認の意見へも容易に導かれていきます。なにしろ、「本人が」命を取ってもよいと言っており、「悲しむはずの人々」がよいと言っているのですから、彼らにとって「殺してはいけない理由」がなくなってしまうのです。ここでは、「生きる権利」があるなら「生きる義務」はないのだろうかという疑問を投げかけて考えさせるのもよいでしょう。いずれにしても、本当の答は、後ほど出てくるはずですから。

(6)の「人の命は尊い」から殺してはいけない、というような答を最後にまとめて、次の質問に移ります。

<質問3>「なぜ人の命は尊いのでしょうか?」

さて、この質問は、すでにキリスト教的であり、クリスチャンでない多くの日本人から、ある種の反発があるかもしれません。若者達も例外ではなく、むしろそのような考え方をしている若者は非常に多いといえます。それは、「尊い」のは「人の命」だけではなく「全ての命」が尊いという考え方です。

古くから日本には、「一寸の虫にも五分の魂」といって、小さな虫さえも命あるものとして尊ぶという感覚がありました。人間の命を尊ぶのは当然ながら、人間以外の動物や虫の命も「同様に」崇高なものとしてとらえるという傾向です。命あるものは皆、「同じ生命」「一連の命」を有しているという考え方です。ゆえに、「殺人」はもちろん、動物や虫の「殺生」も当然避けるべきことと考えられてきました。このように、日本には、人も動物も虫も皆、命あるものとして尊ぶという「生命尊重」の伝統があるのです。

これに対して、キリスト教を基盤としている欧米では、「人間」だけは他の被造物と異なり、「神に似せて創られた」(創世記1・26)と考えられているので、人間の命と他のものの命とを同列には考えていないのです。「人間」だけは、神に似て、「霊的な生命」を有しているので、他の動物などの命とは質の異なる、特別に崇高な、特別に価値のある命を有していると考えられているのです。

そこで、右のような質問をすると、「尊いのは人間の命だけではない。命は全て尊いのだ。人間の命がいちばん尊いと考えるのは、人間の傲慢だ。自分が人間だからそういうけれど、犬に聞けば、犬が一番尊いというに決まっている。」というような反発があるのです。

ここで、まず、私達が気をつけなければいけないのは、このような考え方をしている日本人が多いという事実を受け入れ、計算にいれておかなければならないということです。それと同時に、この考え方の弱い点も計算にいれておかなければなりません。すなわち、このような考え方から、全ての生き物を尊いものとして、(人と同じように)決して殺すことがないというのならよいのですが、現実には人々は必要に応じて動物や虫を殺しているというところから問題が生じてきます。蚊や蠅のような虫を殺すだけでなく、動物の肉を食べることが一般的になってきた現代では、もはや動物を(人の必要に応じて)殺すことを公認しているのです。殺される虫や動物は「かわいそう」だけれども「しかたがない」「やむをえない」ということで納得しているのです。ここで大きな問題となるのは、このような現実と、伝統的な日本の生命観との兼合いです。人間と同じく尊い命をもっていると考えられている「虫」や「動物」を場合によっては殺すことを認めてしまうので、「虫」や「動物」と「同様の命」をもっていると考えられている「人間」の場合にも、「しかたがない」「やむをえない」で片付けられる危険性があり、それが現実に起こっているのです。伝統的に、自殺(切腹、心中)を倫理的に悪とみない傾向や、現代で人工妊娠中絶を是認している背景にそのような考え方がみられます。例えば、自分の家の庭を荒らす野犬に対してなら相当ひどい仕打ちをするクリスチャンでも、中絶に関しては、それは「人の命」を取ることだからとんでもないことだと主張するでしょう。しかし、多くの日本人は、野犬といえども手荒なことをするのは「ひどい」と言いながら、中絶に関しては、しばしば「しかたがない」という言葉でそれを認めてしまうのです。お坊さんが、命の大切さを人々に教える象徴として、いとおしそうに魚を琵琶湖に放している一方で、釣ったばかりの魚を生きたまま串にさして火であぶって食べているのが、むしろ平均的な日本人なのです。

以上のように、多くの日本人は、一般的には「いのち」そのものを非常に大切にしていながら、現実には適当なところで妥協するので、人間の命といえども、絶対的な価値を見ることはなかなか難しいのです。

では、ここで、「人の命」に焦点を当て、それが「なぜ」「どのように」すばらしいのか見てみましょう。まず、<質問3>の答を二種類に分類してみます。

第1のグループは、「科学的・物質的価値観」から、すなわち「非宗教的価値観」から見た人間のすばらしさです。この観点から人間のすばらしさを見る生徒は、主に次のような点に注目するでしょう。

非常に多くの生徒がこの(1)の理由を挙げるでしょう。たぶん、それは、「あなたは世界で一人しかいない、かけがえのない存在だ。」と教えられてきたのでしょう。はたして、世の中に一人しかいないから人はすばらしいのでしょうか?確かに世界に一人しかいないということはすばらしいことですが、それが「人間」のすばらしさの理由でしょうか?

それでは、なにか世界に二つあるものがあるでしょうか。人間は大勢いるけれど、「この」人は一人しかいないという見方をするのなら、金魚はたくさんいるけれども、この金魚とあの金魚は違うという意味では、金魚だって、「この」金魚は世界に一匹しかいないはずです。同様に、このボールペンだって、あのボールペンとは違うのですから、「この」ボールペンも世界にこれ一本しかないのです。このように考えれば明らかなように、世の中にあるものは何でも、世界にはそれ一つ(一人、一匹・・・)しかないのです。世界に一つしかないという事実は、それなりにすばらしいことですが、何であっても、この世に存在するものは唯一つしかないので、それを理由に、「人間」のすばらしさ、尊厳性を主張するのなら、他のすべてのものも人間と同様にすばらしさ、尊厳性を認めなければならないのです。

ビデオなどで受精するところを見た生徒はしばしば(2)を、人のすばらしさの理由として挙げます。確かにその確率からいえば、宝くじに当たったようなものですし、受精というのも神秘としかいいようのないすばらしいできごとですから、素直に驚けばよいと思います。ただ、それも、人間に限られたことではなく、私達が食べている動物達も同じようなすばらしさは持っているので、これが「人間の」すばらしさの主な理由にはなれません。

次に(3)の答について考えてみましょう。確かに、人間の能力のすばらしさは、他の動物の追従を許さないものがあります。しかし、この考えは、立派な科学者、大事業家、その他いろいろな能力を発揮できる人々についてはいいですが、能力のない人、なにか障害があって能力を発揮できない人などは存在の価値がなくなってしまう危険性をはらんでいます。この考え方は、物質的な価値観の典型のようなものです。物質的なものならこの考え方でいいでしょう。例えば車なら、格好がよくて性能もよい車はすばらしい車として歓迎されるでしょうが、外見も悪く、あまり走らないポンコツ車は、廃車にされるのが落ちです。しかし、このような考え方を人間についても当てはめてよいのでしょうか?筋ジストロフィーのため、23年7カ月の短い生涯を終えた石川正一君の次の詩に耳を傾けてみて下さい。

たとえ短い命でも 生きる意味があるとすれば
それはなんだろう
働けぬ体で 一生を過ごす人生にも
生きる価値が あるとすれば
それはなんだろう
もしも人間の生きる価値が
社会に役立つことで決まるなら
ぼくたちには生きる価値も権利もない
しかし どんな人間にも差別なく
生きる資格があるのなら
それは何によるのだろうか

この質問に答えるためには先の第1グループの考え方だけでは解決できません。第2グループの答が必要なのです。すなわち、「非科学的・非物質的価値」も認める価値観、いわゆる「宗教的価値観」が必要なのです。このグループの考え方は、絶対者(神)との特別な関係で人間の価値を見るのです。

このことを理解するために、親の形見の時計を考えてみましょう。物質的な目でみればあまり値打ちのない時計であっても、それが親の形見の時計であれば、その人にとっては、他の何物にも代え難い値打ちがその時計にあります。その時計の値打ちは、その時計と親との関係より出てきます。親が大切にしていた時計として、子どもはその時計に特別な価値を見いだすのです。それは、時計が正確に時を刻んでいるときだけでなく、不正確になっても、たとえ止まってしまっても、子どもにとってはすばらしい価値のあるものとして残るでしょう。

同様に、神との関係で人間のすばらしい価値を見ているのがキリスト教の考え方です。この考え方によれば、人がどのようなことができるかというようなことには関係なく、神との特別な関係で、全ての人が平等にすばらしい価値を持っているということができるのです。

このことを少し具体的に教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅『いのちの福音』に従って見てみましょう。

そこでは、まず、「神が人間に与えるいのちは、他のいのちあるすべての被造物とは一線を画します。」(34番)と述べ、はっきりと人間の命と他の被造物の命とを区別しています。「創造物語の中で、人間と人間以外の被造物との間の相違は、とりわけ次の事実に明示されます。すなわち、人間の創造だけが、神が特別な決断をした結果なされたわざだとされるのです。つまり、創造主との固有で特殊な結びつきを確立することを熟考しています。『われわれにかたどり、われわれに似せて、人を造ろう』(創世記1・26)。神が人間に与えたいのちは、神が自らを何らかの形で被造物である人間に与えようとするたまものです。」(34番)このように、人間だけは、他の全ての被造物とは異なるという考えが、聖書にはっきりと示されています。なぜなら、「人間だけが『創造者を知り、愛することができる』」(34番)からです。また、人間の生命が神聖であるのは「それが初めから『神の創造のわざ』の結果であり、その唯一の目標である創造主と永久に特別な関係を保ち続ける」(53番)からなのです。この結果「人間のいのちは創造主自身の不可侵性を反映する、神聖にして不可侵な性格を帯びている」(53番)のです。

「創世記は最初の創造物語で、人間は神の創造のわざの頂点に向かうもの、創造のわざの冠として描かれます。・・・創世記はこのような描写をとおして、人間は神の姿を映し出す存在だと確認しているのです。」(34番)新約においては、キリストが私達のために死んで下さったことによって「父である神の愛の偉大さ」が示されていますが、それは同時に「人間は神の目にどれほどいとおしく、人間のいのちの価値はどれほどかけがえのないものであるか」を示しています。(25番)

以上のようなアイディアがあってはじめて、虫、魚、動物を殺しながらも、人間だけは絶対に殺してはいけないということを貫き、「人間の命」の大切さ、尊厳性をゆるぎない形で主張することができるのです。

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