いのちの文化

Matsunaga, Youji (マツナガ ヨウジ)
松永洋司
カトリック番町教会司祭
許可を得て複製

大分前のことになりますが、神奈川県のとある病院で、中絶された胎児の遺体を一般のゴミとして処理していたという事件がありました。胎児の体を者としてではなく物として処したということなのでしょうか、ここには胎児への尊敬などなかったようです。こんな事件が起こる度にひどいと思います。しかし、問われるべきは処理前のいのちある胎児、母胎への配慮のなさなのかもしれないと思いました。

人は立つ位置によって価値観も異って来るようです。今回のケースでもそれは言えることでしょう。胎児側に立つのか、それとも別の立場に立つのかによって対応も違って来るみたいだからです。それはだれを主にするのかによるのだと思います。「自分が主」これが一般的だと思います。お互いがそれを認め合えば良いのかもしれませんがなかなかそうもいかないようです。「自分だけが主」でありたいと思う人が多いような気がするからです。

力があれば自己主張もできます。しかし、無力な者の声なき声は届きません。胎児はその代表者といえるかもしれません。胎児の声はだれかが胎児を主にする側に立ち、代わって声を上げてやらなければ届かないからです。「プロ・ライフ・ムーブメント」や「生命尊重」の取組みなどは胎児の側に立って声なき者の声となって胎児の声を届けていると思います。

先日、こんな文章に出会いました。「死の文化がはびこっている社会で生きなければならないことは、いのちをより力強くあかしし、それを担い、もたらし、それに奉仕する者となるためのチャレンジです。」(キリストからの再出発)胎児のいのちを守る運動も「死の文化がはびこっている社会でのいのちの証し」の一つなのでしょう。それにしても胎児のいのちを守るためには、胎児のいのちが預けられている母胎を守ることがなによりも必要なのではと思います。胎児にとって最高の環境は母胎だからです。心身共に母親への配慮がなされればと思います。であれば、おのずから胎児のいのちも大事にされ、守られると思うからです。

いのちが大事にされる世界、わけても力なき者のいのちが尊ばれる世界の実現は「夢のまた夢」かもしれませんが、近しい人との関わりの中で実現に努めたいと思います。現実は死の文化が幅を利かしている社会だと思います。であればなおさらのこと、そこにいのちの尊さを示し、いのちの文化の存在を示せれたらと思います。人は他者に大切にされ他者を大切にすることを学んでいきます。いのちの文化の学びもまた同じではと思います。いのちの尊さは自分のいのちが尊ばれて初めて分かるものだと思います。しかし、現実の世界はいのちの文化からほど遠いところにあるような気がします。だからなおさら、いのちの文化を生きることによって死の文化へのチャレンジが必要なのでしょう。

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