子どもたちを私のもとに来させなさい。妨げてはならない

Laffitte , Jean (ラフィット・ジャン)
教皇庁家庭評議会局長
講演日 2010年10月17日
講演場所 イグナチオ教会
出典 エマヌエル共同体
許可を得て複製

(司会) 今日はローマから教皇庁家庭評議会局長のジャン・ラフィット司教様をお迎えしました。 本日の講演会のテーマは「子どもたちを私のもとに来させなさい。妨げてはならない」です。 司教様は、フランスのサントマリーで1952年にお生まれになり、現在58歳です。 1989年21年前に司祭に叙階され、2009年10月に教皇庁家庭評議会の局長に任命され、 12月12日に司教に叙階されました。カトリック信徒の団体である、エマヌエル共同体のメンバーでもおられます。

(司教様) 話を始めるにあたり、まず、2つのことを申し上げたいと思います。

ちょうど今のように、国際的な共同体に私達がいる場合、相対立するような、二つの感情がおこるでしょう。一つは、 皆さんの豊かな多様性を目の前にして、すばらしい驚きを感じます。このいきいきとした現実を前に、 私達の心は感動します。もう一方で、(この多様性にもかかわらず)私達の間には"共通点がある"ということで、 それは違いよりも大切です。これは不思議なことです。私達は日本、フィリピン、フランス、コートジボワールなど、 あちこちから来ていますが、神様が私達に下さった共通のものがあり、互いに親しみを感じ、 本当の兄弟姉妹に変えてくれるのです。

二つ目に申し上げたいのは、皆さんが私から学ぶよりも、私が皆さんから学ぶことが沢山あるということです。 今回日本に来て、発見している宝物、すばらしい美しさのことです。 日本の生活や伝統などを私が理解するには何年もかかるだろうと思います。私は謙遜な心で、 今ここで学びたいと思っています。私は、信頼の心をもって、そうしたいと思います。 キリスト者の間にある交わりを知っていますから・・。

今日の講演会のテーマは、イエス様の言葉、「子どもたちを私のもとに来させなさい。妨げてはならない」です。 これは福音の言葉ですが、いろいろな視点から捉えることができます。 私達は今年の教会のテーマの流れにそって捉えてみたいと思います。

今日の話は、「家庭生活」という文脈で話します。話全体に渡って、私は、日本の家族、家庭生活については無知ですので 、どうぞお許しください。数日前に着いて、何時間か、何人かの人から聞いたことしかわかりません。 少しアイデアを頂きましたが、それは日々の皆さんの現実の体験から比べたら、小さなことでしょう。

まず出発点として、私達皆に共通のことについて考えてみたいと思います。抽象的な話ではなく、 具体的に見たいと思います。具体的な家族、家庭での体験です。私達は皆家庭の体験があります。司祭でさえ、 天から降ってきた訳ではなく、家庭で生まれ、家庭の経験があります。

そして皆さんの多くは、生まれた家庭と皆さんご自身が築いた家庭の体験があると思います。

いくつか個人的な話をまずしたいと思います。今日の午後、 皆さんが時間をさいてここに来て下さったことに私は心を打たれ感謝しています。日曜日は家庭にとって、安らぐ日、 時間です。神様だけにしかわからない方法で神様が皆さんを祝福して下さるでしょう。皆さんが一緒にいて下さることは、 心の喜びです。そしてまた、アントネッリ枢機卿様からの、皆さんへのご挨拶を申し上げます。私の上司で、 教皇庁家庭評議会議長でおられます。日本での予定をお聞きになった枢機卿様は、 心からの挨拶を日本の皆さんに伝えてくださいと言われました。

では、テーマに入りましょう。

私達にとって共通の体験とは何でしょうか?1分だけでも「私たちがどこから来たのか」を考えるなら、 驚きに満たされるでしょう。ちょっと考えてみれば、何世代にもわたる先祖から私達が生まれたと気づくでしょう。 私達は両親から命を頂き、父と母も、またその両親から命を頂き・・それが永遠とさかのぼる訳です。 系図を完璧にしたとしても、あるところから先はわからないでしょう。これには意味があります。 私達が神秘を前にしているということです。人間的な意味でも、私達が何者であるかは完全には理解できません。 これはどの文化の人でも、皆に共通していることです。アジアのどの国でも、日本でも、 先祖から伝わった文化がどれほど大切なものか知っています。この文化というものは、命の神秘の前に開かれています。 これは私達人類皆に共通することです。

二つ目の体験があります。私達一人一人、皆心の中に持っている望みです。それは「愛したい、そして愛されたい」 という望みです。ヨハネ・パウロ二世は、私達がお会いするたびに、人間の心にある基本的な、 根底にあるこの望みについていつも語っておられました。私達は皆愛したい、愛されたいという望みをもっているのです。 この望みに対して、私達はそれぞれの仕方で応えていくでしょう。それは、人生をどのように生きるか、 その選択でもあります。結婚を選ぶ人もいます。特別な意味で召命に応え主に自己奉献する人もいます。でも、 洗礼を受けたすべての人が呼ばれているのは、神様を愛する、神様との絆で結ばれるという「愛の道」 に呼ばれているのです。

キリスト教的な世界観では、私達は皆、神様との友情を生きるように呼ばれていると言うことができるでしょう。 これは誰かが発明した作り事でも、単なるすばらしいイデオロギーでもありません。これは神様がご自身を私達に明かされ 、啓示してくださったことです。私達がこのことを確信しているなら、私達の子ども達が何者であるか、 分かってくるでしょう。子どもたちは、私達の生活に満足を与えてくれるための存在ではありません。子ども達自身、 特別な価値のある存在なのです。子ども達も一人ひとり神様に愛されています。私達皆が永遠の命に向かっているのです。

時々、親が子どもを「家庭生活の一つの要素」であるかのように見ている場合があります。たとえば、結婚して、 家庭をもって、仕事もキャリアを積んでうまくいっていて、その中で子ども達も生まれてきて・・ という見方をしてしまいます。でも本当はもっと深いことなのです。子ども達は一人ひとり、その子自身、 価値ある存在です。子どもは神の似姿です。子ども達は私達のためではなく、 その子自身が存在するために神様に造られたのです。神様が私達のために計画を持っておられるように、 その子どもにも計画をもっておられるのです。この計画はコンピューターのプランニングのようなものではありません。 それは愛のご計画です。

私達は自分の体験を振り返る時に分かるでしょう。息子、娘としての自分の体験を振り返ると分かるかもしれません。 私達は、両親が私達を喜ばせるために何かをしてくれたことを思い出すことができるでしょう。 しなくても別によかったのに、喜ばせるために、両親はそれをしてくれたのです。 私達を愛してくれる両親や教育者から贈り物を受け取った体験があるでしょう。 皆さんの多くはお子さんをもっていらっしゃる両親、あるいは教育者でしょう。そして皆さんは、 自分の家族を喜ばせるために、心躍らせながら、何か考えたりするでしょう。これは日常的に見られることです。 でもこのようなことの背後にはもっと深い意味があります。私達は摂理によって主に準備されています。 私達が愛する人たちに望むことは、ただ「良い事」を望むだけではなく、「最良の事」 を望む心を神様から与えられています。一番いいものが何か私達は知らないのですが、神様だけが、愛と信仰のうちに、 教えてくださることができます。私達が子どものために望むことができる最良のものが何であるか、 神様が教えてくださったのは、「神様との友情」、「神様への真の愛」、「善への愛」です。

ですから、私達自身が頂いた信仰を子ども達に伝えないこと、子ども達からその経験を奪ってしまうことは、 私達にはできません。残念ながら、私の出身国では、教会で秘蹟を受けて結婚しながら、 子ども達に洗礼を授けない人も多くなっています。その人たちの信仰における責任を裁く、ということではないのですが、 しかしこれは、大変理にかなわない、おかしなことではないでしょうか?私達が受け取った、 もっともすばらしい貴重な尊いものを、なぜすぐにでも子どもに与えないのでしょうか? もし私達が人生で受け取った一番すばらしいもの、尊いものが、 洗礼を受けて神様の家族の一員になるということであるなら、それを心から思っているなら、できるだけ早く、 子ども達に授けようと願うのではないでしょうか?

(ここに来る前は、自分の個人的な話をするとは思っていなかったのですが、ドメニコ・ビタリー神父様と話している内に 、「自分の話しもしたら?」と言ってくれました。私の功績ではなく、神様、そして私の両親の功績として聞いてください 。ビタリー神父様が正しいことをおっしゃっているのですが、自分の両親に感謝するのは、理にかなったことでしょう。)

私は12人兄弟の末っ子です。男の子6人女の子6人です。ある時母が私に言いました。「子どもが10人できた時、( その時点での最後の二人は双子の女の子だったのですが)みんなからお祝いされたのよ。(1950年でしたが、 子どもが大勢生まれたということで、勲章みたいなメダルをもらいました。)でも、もしそこでとまっていたら、 あなたもいなかったし、兄さんのピエールもいなかったでしょう」と。いつもそのことを思い出します。何年もたって後、 私はローマの大学で博士号の口頭試験を受けていました。とても厳粛でアカデミックな雰囲気でした。 5人の委員が審査をしていました。学長は、現在ボローニャの枢機卿様でおられるカファール氏でした。 とても優しい方ですが、厳しく、要求の高い教授でもありました。それから100人位の人が聞きに来ていました。 3時間にわたる議論の後に、「いいでしょう」ということになりました。 何年も一生懸命勉強した実りとしてこのようになり、家族や友人もみな温かく拍手してくれました。私の母もそこにいて、 拍手してくれていて、感動しました。学長のカファール神父様がインスピレーションを受けて言い出しました。「 親愛なるジャン、皆が拍手しているね。あなたがいい仕事をしたから。でも、ここにいる"ある方"がいなければ、 あなたは今夜博士号をとれなかったでしょう。その方にあなたは2つの点でかりがありますよ。ひとつめは命を頂いたこと 。(だからみんなそれがお母さんのことだとわかりました。)二つ目はキリスト者としての命、信仰です。

今、私は、ここにいらっしゃる皆さんに是非呼びかけたいと思います。 皆さんのお母さんのために拍手しようではありませんか。私の母は、今天国で笑っているでしょう。(拍手)

その時の話に戻りますが、そこにいた皆が立ち上がって、長い時間母に拍手してくれました。 母はなぜ皆が自分の方を向いて拍手しているのか、ピンときていないようで、とまどっていました。 この思い出は自分にとって大切です。その日私は理解しました。私は、 自分の人生で一番大切な二つのことを両親から頂いたのだということを。それは命と信仰です。

私達は確かに、子どもに命と信仰を与える時、一番大切な本質的なものを子どもに与えているのです。「神様との友情」 の可能性をキリスト者の恵みと共に子どもに与えないなら、 人生において私達が責任をもっている最終的な目的を考えていないことになります。この現実は、すべての文化、 すべての国の人に及びます。

子ども達にキリスト者としての教育を与えようと思う時、あることが考えられます。それは、 イエス様はどうして子ども達を特別に愛するのか・・ということです。私は、 ある時マザーテレサの言葉にその答えを見出しました。1986年に「マザー、どうしてイエス様は、困っている人、 貧しい人を愛しているのでしょう?」と質問しました。皆さんの中でも、 マザーとお話したことがある方がいらっしゃるかもしれませんが、マザーはとても、とても、小さな方です。 彼女はこんな風に、私を見上げて言いました(笑)。ちょっと思い巡らしてから、答えてくださいました。「 貧しい人たちは自由だからです」と。その答えから照らして、私は思うのですが、 イエス様は子ども達を特別愛しておられる。子ども達は自由だから。子ども達は貧しくて、悪い思いを持っていないのです 。子どもの心には愛するのを阻むものがないのです。そして両親から自然に、素直に愛を受け取ることができます。 また自分の愛を両親に表現する時にも、想像性豊かに表現します。抱きしめたり、キスしたり、小さな贈り物を作ったり、 見つけた葉っぱでもあげようとします。子どもは花を摘んで、「おかあさん(お父さん)のためよ」と、そう、「 これはあなたのためよ!」は子どもの典型的な言葉です!それは外交的なお世辞のようなものでなく、自然に、 純粋に出てきた心からの愛情です。単純素朴です。私はある時、 3歳の女の子が十字架のイエス様の釘を一生懸命取っているのを見たことがあります。想像してみてください。 子どもが神様に自分の愛を表すのを、どうして止めることができるでしょう?小さな子ども達の、 キリスト者としての信仰が生き生きと花開くようにするにはどうしたらいいのでしょうか?

ちょっと考えてみましょう。すぐにしたい事として、神様との親しさ、親密さを育むようにすることだと思います。ある時 、ある子がお母さんに言いました。「今日は学校に行きたくない」と。普通、99パーセントのお母さんなら、「 学校に行かなくちゃいけません」と言うでしょう。でもその日、そのお母さんはインスピレーションが湧いて、「ああそう 。それイエス様に話した?」と聞きました。「ううん。話してない」と言いました。「話してみたら? イエス様は聞いてくださるわよ」「どうしたらいいの?」「ただ言えばいいのよ。イエス様、 今日は学校に行きたくないって。そのあとで、もしかしたら、行きたくなるかもね。」これは美しいことだと思います。 このお母さんは、神秘のことを意識していたのです。「みんなが神様に結ばれている。 そして自分の子どもも神様との絆に結ばれている」とお母さんが意識していたということです。ですから、 まず優先したい一つ目の事は、子どもの神様との絆を尊重してそれを育むようにする事です。 これにはとても細やかな配慮や忍耐、沢山の愛が必要とされます。

二つ目は、子どもが成長する時に、善悪の感覚を身につけさせる事です。気をつけなければいけないのは、「 人を裁くようにする」ということではありません。そうではなく、正しい行為と、 正しくない行為との違いに気づかせることです。それは良心を養うということです。時には、 このように言うのを聞くことがあります「良心に従ってすればいい」と・・・。でも、もしその子どもの良心が養われ、 教えられ、育てられていなかったら、どうしてその子どもが良いことを選べるのでしょうか?私達は皆そうです。 もし良心の教育、養成をされていなければ、ただその場で思いついたことをするだけになってしまうでしょう。私達は毎日 、日々、教育される必要があります。小さな子ども達や思春期の子ども達のことを思い浮かべてください。 彼らは助けを必要としているのです。私達が忍耐と愛をもって助けてあげることを必要としています。ある種の行為は「 良いことではない、人間としてやってはいけないことだ」と教えてもらったり、ある行いは、 私達に調和ある心を与えてくれる良いものだと教えてもらう必要があります。教育者、 親として私達がもっている子どもへの愛は、子ども達に対する配慮、良心を養おうとする配慮に現れます。 皆さんも私達のように、親であったり、教育者であったりするでしょう。子どもや若い人が、 何もわからずに間違った悪い事をしているのを見るほど悲しいことはありません。ですから、信仰と善は共に進みます。 もちろん、信仰がなければ善がないと言っている訳ではありません。今言いたいのは、善を探求すること無しに、 信仰はあり得ないということです。現代、私達の置かれている環境は子ども達にとってあまり良い状況ではないといえます 。私達を取り巻く文化、ファッション、メディア、学校など、沢山の場所で子ども達が悪いことに接する機会があります。 ですから、目覚めて注意を怠らないようにすべきことがいくつかあります。その一つは、 子ども達の判断力を養わせることです。何も良し悪しを判断せずに、あるものを手当たり次第に選んだりしないように、 判断力を養うことです。子ども達が愚かだとは思わないでください。 子ども達は何が良いことで何が悪いことなのかわかります。彼らが時々親をはぐらかすようなことをしていても、 そうではないのです、分かっているのです。たとえば8歳〜12歳位の子どもが、何かテレビ番組などについて「 あれは本当にひどい」と言い、それが正しいなら、ほめてあげて下さい。「あなたは本当に偉いね!分かったんだね! もう大人だね」と言ってあげて下さい。正しい判断、識別ができるように導き、励ましてあげてください。

三つ目は、私達が子どもに示す模範という問題です。(ごめんなさい。 これからちょっと耳の痛いことも言わなければいけないかもしれません。) 何か道徳のお説教をするような言い方はしたくないのですが、 両親がもっているキリスト教信仰の模範についてお話ししたいと思います。(昼のミサで説教の中でお話しましたが、 大切なことですので、繰り返します。)「主の日、日曜日を聖なる日とする」ということについてです。恵まれたことに、 私は両親の話ができます。私が25歳の時に父が亡くなり、45歳の時に母が亡くなりましがが、両親が、 あるいは残された母が、日曜日のミサをおろそかにしたのを、私は決して、一度も見たことがありません。 多くの若者達のように私も思春期の頃、信仰の実践を止めてしまったんです。でも両親はずっと信仰に忠実でした。 それに対して私は心の中で尊敬の念を持ち続けました。そのおかげで何年もたった後で、神様が私を信仰の道に引き戻す、 という道が開かれたのだと思います。もし週末に何か行事があって両親がミサに行かなかったら、 何かの用事や活動のために日曜日に両親が行かないのを見ていたとしたら・・。 母は12人も子どもがいたので疲れていたと思います。そのように十分理解できる理由もあったと思います。 母がもっとゆっくり寝坊して休んでいたいと思ったとしても、それは十分にわかることです。それでも私達子どもは、 誰一人として、両親がミサに行かなかった記憶は無いのです。親の模範、 親が示している姿は非常に大切だという例としてこのことをお話ししています。もちろん神様は、 ある小さな子どもを御自分のもとに引き寄せたいと思われるならば、どんな方法でもおできになります。 でも一つのとても大切な方法というのは、両親の信仰の姿なのです。 最近教会はリジューの聖テレジアの両親を福者に列福しました。それは表面的な、 ただきれいな家庭の絵を描くためではありません。一世紀かかってわかったことですが、両親の聖なる生き方がなければ、 聖テレジアの成聖はなかったのです。これについては、両親の間の手紙のやりとり、 子ども達の間の手紙のやり取りをみれば、それがわかります。色々な言葉に翻訳されて出版されています。 英語にもなっています。

四つ目は思春期という問題です。とても大変な、難しい時期ですね。親である皆さん、「本当にありがとうございます」 と言いたいです。私達は皆思春期を通ってきました。その時期の自分というのは混乱していた・・と思われることでしょう 。苦しみもあったでしょう。独立、自立した自分になりたくてイライラした気持ち。異性に興味をもって、 出会いたいという望み。しっかりとした本当の友情に出会いたいと言う望み。冒険をしたい、 自分で自分のことを決めたいという望み。同時に周りのファッションに束縛されている状態。 グループの友達の影響を受けたり、いろんなことが矛盾してぶつかりあっています。 その時期は理性が働かないこともあります。この時期は成長のために、皆くぐらなければならないのです。そして、 この思春期をくぐりぬけている子どもたちの傍らに、とても細やかな配慮をもって、私達は一緒にいなければなりません。 細やかな配慮・・とは、子どものプライバシーを尊重しなければならないということです。思春期の子どもが、 もし自分の引き出しを親が開けて見たのを知ったら、とてもショックを受けて20年間忘れないでしょう! 何か深刻で重大なことがかかわっていない限りは、やってはいけないことがあります。

思春期の子どもが信仰を生きると言うことはどうでしょう?決まったルールはありません。それぞれの子どもには、 成長するためのそれぞれの道があります。信仰の危機に直面しない子もいます。でも多くの子は何か壁にぶつかるのです。 思春期の子どもが親と一緒にミサに行きたくない時がありますね。その事は子どもと議論すべきではないと思います。 もし行きたくなくて、ある日曜日に行かなかったら、それをずっとうるさく言うのではなく、 次の日曜日になったら何気なく、さりげなく、先週のことには触れずに、「一緒に行きましょう」 と言ったらどうでしょうか?思春期の難しい子どもも霊的な存在なのです。私達もそうであるように、 子どもも誘惑を前にして弱い存在です。あまり重荷を負わせないようにしましょう。思春期から何年かたって、若い男性、 女性に成長した時、その若者が信仰を生きるのをやめても、 家庭の生活が日曜日のミサを中心に営まれるよう続けることが大切だと思います。 子どもを非難がましく責めるような姿勢をとらないといいと思います。 ただし上の子ども達の弟や妹に対する影響は大きいので、弟妹にマイナスの影響を与えないように、 両親が厳しくするべきでしょう。上の子ども達の自由を尊重するあまりに、 下の子ども達の主との絆が損なわれる事があってはならないと思います。今までお話したのは、" 子ども達の教育というものは、子どもと神様との絆が育つように奉仕する"ただそのことです。

もう一つ大切な点としてお話ししたいのは、「子ども達が他の人々への奉仕、愛の心をもつように育てる」ことです。 いろいろな国で見受けられるのは、信仰を保った若者たちというのは、色々なグループ、ボーイスカウト、 ガールスカウトや、またいろいろな運動、共同体、家庭、小教区などで、 若者のグループに所属して活動していた若者が多いのです。

子どもがもし個人主義の雰囲気の中で育ってしまったら、信仰を保つのは難しくなります。個人主義であったら、 信仰を保てるのはゼロパーセントといえるでしょう。ごく自然な理由として、信仰のうちに、無償の愛、愛のある雰囲気、 他者に心を開き連帯することを知らなかったら、そこを離れて、違うところに絆や連帯を求めていってしまうでしょう。 友達とか、だれとでも繋がりを求めていってしまうでしょう。 キリスト者の家庭で育った若者が信仰を生きるのをやめてしまって、教会と関係のない、 一般社会のグループとかかわって活動しているのを見ることがあります。 何か尊い目的のために奉仕したいという望みは心の中にもっていたということになります。信仰の環境の中で、「 神様との友情の絆」という体験がなければ、生き方と信仰が離れてしまうのです。そして「信仰はプライベートなこと」 だと思ってしまいます。「お父さんは信じているけど、お母さんは信じてない、お兄さんは信じていて、 お姉さんは信じていない。一人一人違うこと。自分はまだ分からないけど・・でも人のために何か役に立つことをしたい・ ・」そんな風になってしまうのです。ですから、キリスト者の家庭とか、教会とか、 その輪の中で他者との連帯を養っていくことで、自然にそして、全体的・ 総合的に信仰を生きるようになるという環境が大切です。 このあと質疑応答の時間に入りたいと思います。神様が私達の子ども達を祝福してくださいますように。

質問と答え

子どもたちが一日の大部分を過ごす学校は、キリスト教の信仰の環境ではありません。そのような中で、 親はどうしたら信仰を伝えることができるでしょうか?

ここ日本で典型的な問題だと思います。家庭の中で、一人だけクリスチャンとして孤立している状態があるだけでなく、 学校でもそのような状況があると思います。

信仰は、言葉で伝える事がいつも可能な訳ではありません。むしろ言葉だけでは伝わらないことが多いのです。 皆がキリスト者の家庭では、家庭の中で言葉を用いることもできますが、そうでない家庭ではできないでしょうし、 あるいは同じ信仰を持たないクラスメートや学校の友達など、言葉で伝えられないことは、 生き方で伝えることになるでしょう。これは挑戦でもあります。

一つお話ししたいのですが、周りの人々をひきつけるものがあります。ヨハネの福音書の中に、「人々は、 あなた方が愛し合っているのを見て、私の弟子だということを知るであろう」と言う言葉があります。 クリスチャンの信仰をもたない学校に通っているある子どもが、キリストとの特別な絆をもっているなら、 その子が内にもっている何かが、周りの人の関心を引き寄せることになるでしょう。たとえば、 人生に対する希望をもっていること、友達に対して信頼の心をもっていること、人を批判せず、悪く言わない態度などです 。何か言葉で説明したりするよりも、キリスト者の生き方そのものが、人をひきつけるのです。

私達が避けるべきことが一つあります。それは、緊張して硬くなることです。 神様が一人一人皆を愛しておられると確信しているなら、神様はキリスト者でない人も、 一人一人皆を愛しておられると確信できるでしょう。この愛深い神様は、力に満ちた方でもおられると確信しているなら、 神様は一番適切な時に一人一人にご自身をあらわして下さり、 心の中にある良心を目覚めさせて下さると確信できるでしょう。だから私達は硬くなにならずに、信頼、 希望をもって祈る姿勢が必要でしょう。

(幸い私達はそのような状況にはありませんが、キリスト者が迫害されている状況ですと、 いろいろなことが複雑になります。私は、 キリスト者であることによって命の危険を伴う状況に置かれる国々もたくさん訪れたことがあります。その場合は、 緊張が避けられない状況になります・・・。)

私は独身で、5〜7歳の色々な国からきている英語圏の子どもたちに教える活動をしています。 私は彼らの親のように接したらいいのでしょうか?それとも、純粋にカテキスタとして接したらいいのでしょうか?

親がいない場合、親代わりの人がいる状況もありますが、普通、一人の子どもには父と母、二人の親がいます。

教育者は親ではありませんが、子どもが信頼を寄せることができる存在で、別の意味で力があります。なぜなら、 親が言えないことを、教育者の立場の人が言うことができる場合があるからです。

でも、気をつけてくださいね。その逆もあって、教育者が決していえない事を親が言える場合もあります・・・。

両親は子どもたちの将来に何を望んだらよいのでしょうか? キリスト者としての観点から子どもたちに対してもつべき夢はなんでしょう?

私達は、ただ霊的なことだけを考えなければならない、ということではありません。「 子どもがいつも神様と友達であるように・・という望みを両親はもつべきです」と言う場合、「 子どもたちがもっているその他の夢や望みを無視しなさい」とは言いたくありません。

両親が子どものために、しっかりした良い仕事に就いたり、幸せな人生を歩んでほしいと望むのは当然のことです。 誰もがそう望んでいることでしょう。

ただ一つ言えるのは、子どもが最後に辿り着く、最終的な人生の目標は、決して忘れてはならないということです。 神様が私達の子どもに何を望んでおられるか、それは私達にはわかりません。でも、物的な意味でも、 そして霊的な意味でもその子どもにできるだけ道が開かれているようにするにはどうしたらいいのか、それはわかります。

時々、親自身が子ども時代に愛を受けられなかったという場合があります

私達が人生で愛を受けた経験が無いとすれば、本当に残念なことです。でも、それでは絶望するしかない・・ ということではありません。

子どもが小さい時に、父親が亡くなってしまったという家庭も多くあります。 あるいは母親が早く亡くなってしまったこともあるでしょう。

愛は、文化的な文脈で捉える必要もあるでしょうが、キリスト者の共同体の一員であるならば、私達は、 どんな状況におかれても、愛を伝える力を与えられています。たとえば、結婚している人が夫を失ったり、 妻を失ったりする・・人生とはそういうものです。でも、愛は、愛そのものに力があるのです!

世界中で一番不幸だと思えるような人がいたとしても、もしその人が愛するなら、天国が開けるでしょう! キリスト者であるということは、どんな状況にあっても、愛がすべての道を開くことができると信じることです。

愛のために命を捧げた人たちも、私達は知っています。殉教者の証、数々のキリスト者の証があるでしょう。

私は中絶の問題にかかわっています。「キリスト者が愛をおこなおうとするのであれば、 苦しむ女性の側に立つべきではないか」との声が寄せられ、心が痛むことがあります。 特にそれをキリスト者から言われることが多く、どのように考えていけばいいでしょうか?

中絶が起きてしまう前に、私達は子どもの命を救うためにできる限りのことをしなければなりません。 その中には物質的な援助、支援も含まれます。

でも、もし中絶がおこなわれてしまったなら、その女性を裁いて「よくないことをした」と言っている状況ではありません 。私達は、その女性に対する愛と、彼女の苦しみに対する共感をあらわすべきでしょう。中絶をしてしまった女性は、 心に深い傷を負うことがわかっています。後悔の念や罪悪感、 他の選択肢をとることができない状況におかれてしまった悔しさ・・などもあるかもしれません。

司祭としての経験から言えますが、そのような女性は、長年にわたって傷に苦しめられることがわかります。告解の中で、 たとえば、「30年前にそのようなことがありました」という告白を聞くこともあります。ですから、具体的に、 霊的な観点から、「それでも神様はあなたを愛していますよ」と本人が気づき、確信できるように助けなければなりません 。

そのためのステップとしてしなければならないのは、起きたことを思い返すプロセスを通り、 自分が負っている責任にも気づき、そして神様が秘蹟の中で、触れてくださり、癒される経験をするように・・。

私は、中絶をした女性たちを癒すために活動しているグループとも関わりがあります。 ご夫婦で癒しに関わっている人たちもいます。米国やフランスには、「プロジェクト・ラケル」(聖書幼子殉教者の箇所" ラケルは子どもたちのことで泣き、慰めてもらおうともしない。子どもたちがもういないから")と呼ばれる、 そのような女性を支えるグループもあります。

また、私が働いているローマの「ヨハネ・パウロ二世結婚家庭研究所」でも、 中絶をしてしまった女性達を助ける活動をしている人々のための集まりを3日間にわたり開催したことがあります。

日本国内だけでなく、幼児虐待が日頃起こっていますが、その対策についてアイデアがありますか?

とても悲しいことですが、この問題にはいろいろなレベルがあります。子どもが「暴力」の対象となっている場合には、 選択の余地はありません。子どもたちを暴力から引き離さなければなりません。社会もそのようなことは赦さないし、 政府も法律で子どもたちを守るはずです。

親が子どもたちの養育を放棄してしまった場合、色々な対策があるでしょう。養子縁組という選択しもありますが、 赤ちゃんの場合はより容易ですが、もう少し成長している子どもの場合は、施設などがあるでしょう。

しかし、人間にとって一番有効なことは、愛のある家庭、愛のある共同体、そして愛のある社会を築くことが大事でしょう 。

仕事、家庭生活、教会、教会の仕事の役割の中で、どのようにバランスをとってやっていけるか、 日々戦いです。

生活にバランスを作り出すのは、私達皆にとって、日々戦いですね。何か解決策があったら教えて頂きたいです(笑)。 今日、日本にいて、来週コスタリカに行くので、バランスを崩しそうです。 このような私の助言はあまり役に立たないかもしれないですが・・。

一ついえるのは、聖霊に祈ることは、私達が何をしていても、とても大切です。日々、収拾がつかないような、 無秩序な状態に陥ってしまっていると感じている時も、聖霊への祈りは本当に大切です。

五歳の子どもがいますが、何を言っても言うことを聞かない場合、罰を与えるべきでしょうか? 与えるべきならばどのような方法がいいのでしょうか?

一人一人の子どもに人格があり、子ども達は、お母さんが自分のことを怒っていたり、困っていることに対して敏感です。

時々、親がどこまで我慢できるか、親をためすような態度を取ることもあります。子どもの性格によって、 子どもをしつける方法も変わってくるでしょう。大切なのは、しつけが、いつも相応しいもの、 その場その場に合ったものにするということです。父、母がカッとなって怒り、それをぶつける・・ ということには決してならないように努力すべきでしょう。しつけをする中で、 教育的な意味合いがはっきりしなければなりません。

親がいくら祈っても、子どもは教会に行きません

私達に共通している人生のドラマですね。

私にも、甥や姪、そのまた子どもの世代もいますが、同じ教育をしていても、教会に行く子もいれば、行かない子もいます 。

いつも意識していましょう。一人一人に信仰を与えるのは、私やあなたではなく、神様だと。私達にはわからないけれど、 いつか神様が子どもの心に触れて下さると信頼しましょう。がっかりして、 その思いを暴力的に子どもたちにぶつけるような事だけは、決してしないようにしたいと思います。

思春期の子どもについての性教育について

今日、嘆かわしい状況があり、思春期の子どもたちが「間違った知識」に接する機会があまりにも多く、 親の考えとは違うものに影響を受けてしまうことがあることに、注意が必要です。

ピオ10世が7歳で子どもが初聖体になると年齢を引き下げたのに、 なぜ今では7歳より遅い年齢になっているのでしょうか?

それぞれの教会、小教区の事情によると思います。

子どもが「御聖櫃の中の御聖体には神様がいらっしゃる」と認識できるようになったら、御聖体拝領ができる、 それが原則です。

子どもによっては5歳で分かる子もいるし、10歳近くになっても、まだよく分かっていない子もいるかもしれません。 親がその子の理解の状態をよく判断し、そして、小教区も一緒に判断して、決めることが大切です。

障害をもった子どもも神様の恵みであると、人々が理解するにはどうしたらいいのでしょうか?

実を言えば、言葉で説得するのはとても難しいことです。でもある家庭で障害のある子どもが兄弟達に囲まれていて、 家族皆がその障害のある子の存在によって、お互いに助け合ったり愛し合ったりしている、 それが生き生きとしているのを目にすることが大切です。

そのとき人々は、障害のある子どもが神様の無限の愛を受けていることを理解するでしょう。そして、 周りの人たちが障害のある子どもを大切にお世話し、愛しているのは、 神様に無限の喜びを与えるとことだということも分かります。

五歳の子どもが保育園で悪い言葉を覚えてきて、苦労しています。

もしその言葉が、本当にひどくて耳にするのも耐え難いようなものであるなら、「それは、 もう決して使ってはならない悪い言葉ですよ」とその子に伝えなければなりません。そこまでひどくなく、 ちょっと俗っぽい言葉という程度なら、あまり子どもの言っていることに反応せず、 聞き流したり無視するというのがいいかもしれません。

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