六歳の戦争体験

Kotoyori Manabu (コトヨリ マナブ )
琴寄 學
平成26年4月12日
許可を得て複製

太平洋戦争が集結して69年になります。早や戦後に生まれた団塊の世代の人達が高齢者になります。

戦争を体験した方々は後期高齢者となり、その体験を語る方は少なくなりました。

私は終戦の時6歳でしたが、引揚げの苦難の体験をよく覚えており、戦争を体験した一番若い世代の1人として、 その体験を語り継ぐ義務があると思っています。

それで少しでも多くの方に、戦争の事実を知って頂きたいと思い、この文を書きました。 6歳の時の事をよく覚えているなと言われますが、祖父の旅館に泊まっていたソ連兵に乱暴された新婚さんを、 祖父が必死で人工呼吸していた様子など、脳裏から離れないのです。

まず朝鮮民主主義人民共和国と呼ぶのが正しいのですが、長くなりますので、北朝鮮と呼ぶことをご了解下さい。

私は昭和14年7月7日、満州との国境の町、朝鮮咸鏡南道甲山郡恵山鎮で生まれました。父・ 虎三は栃木県佐野市植上町出身で大正12年12月に公務員「警察官」として渡韓し、昭和5年に実家が恵山鎮で経営する 、ふきや旅館を手伝うために渡韓した、奈良県吉野郡十津川村平谷出身の藤井はまのと、現地で結婚しています。 私が生まれた時は、警察官は辞め、大村と言う材木会社に勤めていました。太平洋戦争が始まる頃でしたが、 とても恵まれた生活を送っていました。

当時朝鮮は日本に併合(明治43年1910)されて、朝鮮の人達も日常は日本語で話をしており、 昭和14年12月からは、日本風の名前に改名されました。(創氏改名令)余談になりますが、 昭和11年の第11回ベルリンオリンピックで、日の丸をつけた孫基禎さんがマラソンで優勝し日本人は大喜びでしたが、 その時朝鮮の人達はどんな思いだったでしょうか。

戦争中はなに不自由のない生活でしたが、昭和20年になると召集年齢が45歳までになり、 復員していた叔父たちにも召集令状がきて、ほとんどの大人の男性は居なくなり、(根こそぎ召集・動員)そして、 お前達を守ってやると威張っていた、警察や軍の偉い人やその家族がしらぬ間に居なくなりました。

昭和20年(1945年)8月15日、日本はポッダム宣言を受諾して敗戦となりました。

敗戦から日を置かずして、 ソ連軍が満州方面から恵山鎮にも進駐してきて祖父のふきや旅館に共産党本部の看板が掲げられました。 ソ連軍の先発部隊は全員がスキンヘッドの囚人部隊で、腕時計も扱えないほど教養がなく、また凶暴でした。

9月になり、日本人集まれとの命令で集まると、今から内地(日本)に帰してやると無蓋車に乗せられました。 汽車は動いたり止まったりの繰り返しでなかなか進みません。止まったときに小用のために降りた女の人を見て、 汽車が急に動きだし、何人かの女の人が取り残されました。また目の悪い祖父が杖を取り上げられ、 枯れ枝を杖がわりにしていた姿や、ソ連兵に乱暴された時用にと持っていた薬(猫いらず)を飲んだが水が無かったため、 喉で焼け身体全体が風船のように膨らみ、それでも内地に帰りたいと、私たちに必死で付いてきていた、 祖父の旅館に務めていた若い女のひとの姿などが、今でも私の脳裏に焼き付いています。

汽車は元山と言う町に着き、私たちは降ろされ工場の倉庫のような場所に押し込められ、 避難民となり地獄の8ケ月間が始まりました。日本政府から見捨てられ、棄民となったのです。

まず、食べるものが無く飢えの続く日々でした。草や木の実など食べられる物は何でも食べ、海で蛤を採って食べました。 その時に食べた、大豆の絞り粕の不味さは忘れられません。

また余談になりますが、北朝鮮の金正日総書記は2002年(平成14年)9月日本人13名の拉致を認め、蓮池さん、 地村さん夫妻と曽我ひとみさんの5名は帰されましたが、横田めぐみさんら8名はすでに死亡したと発表されました。 その中で市川修一さんは元山の海水浴場で溺れて亡くなったとの事ですが、 元山の海は6歳の子供でも貝が採れるほどの遠浅です。なぜあの海で若い男の人が溺れたのか不思議でなりません。

朝鮮の冬は零下30度近くなります。夏服の着の身着のまま、避難民となった私たちは、発疹チフスの猛威に襲われました 。まず猫いらずを飲んだ女性、祖父、祖母、叔母、従兄、そして父と私達の一団で9名が元山で亡くなりました。 亡くなった人は凍土に浅く掘られた穴に何人も放り込まれ、タクアン漬けのように埋葬されました。私の父は、 元警察官であったことがばれ、保安に引っ張って行かれました。そして数日後帰って来た時は、 拷問を受けたのか酷く弱っていて、まもなく(21年3月3日)亡くなりました。 私は今でも父の死亡はその時受けた拷問のためと思っています。

女の人達はソ連兵に襲われないようにと皆頭を剃り、顔には墨を塗って男の格好をしていました。 私たち子供は石炭の燃え殻の中から、まだ燃える物を拾って来るのが仕事でした。

南鮮の京城で復員した叔父が、私たちが元山で抑留されていることを知り、聾唖者に化け、 寝る時は寝言を言わないように口に新聞紙を入れて38度線を越えて助け出しに来てくれました。

そして昭和21年4月5日元山を脱出したのです。白岩山越えの60里、私たち以外のチームの方ですが、 氷の中に落ちて生き別れする人、朝鮮人にたたかれて崖から落ちる人、腫れ上がった足で這うように歩いている人、 取り残される子供達、などの光景が記憶にあります。38度線突破までの必死の行程で頼れるのは自分の足だけでした。 私達は10日間かかり4月15日に38度線を越えました。38度線より南は天国でした。 京城を経由して4月25日釜山港を出港、4月26日、無事、山口県仙崎港に着きました。 引き揚げ船の中で食べたサツマイモの美味しかったことは今でも忘れません。

私の家族は叔父達と別れ、父の故郷、栃木県佐野市に向かいました。そこには父が購入していた大きな家屋がありました。 しかし母はお嬢さん育ちで、父の実家の農業を手伝うことは無理でした。

それで家屋を処分し、私たちは十津川の本流、熊野川の河口の町、和歌山県新宮市に叔父を頼って引越しました。 それで私は新宮市で高校卒業までの11年間育ちました。

引揚げの無理が祟ったのか病弱な母、父の居ない引揚者の家庭が貧しいのは当然です。 弁当を持っていけない日もある小学生時代でした。けれど、4, 5年生で弟や妹の子守をしながら登校する女の子もいました。 授業中に泣き出した赤ん坊を必死であやしながら教室を出て行く姿、今思い出しても涙が出ます。 その子に比べ私は思い切り遊べるだけ幸せだと思っていました。しかし、昭和25年に勃発した朝鮮戦争で漁夫の利を得て (朝鮮特需)経済的に恵まれ、日本人の生活が徐々に豊かになって行きましたが、 それに取り残された中学生の時が私には一番辛かった思いが残っています。母は昭和30年2月8日、 私が中学3年の時に亡くなりました。

私は小中学生の時、父を恨んでいました。それは生むだけ生んで死んでしまった。それも引揚げの途中、 病死するなど格好悪い、どうせ死ぬなら特攻隊などで格好よく死んで、靖国神社に祀られてほしかった。 それなら胸を張って父の死を話せるのに、との思いからです。

高校生の時、私の家庭の事情をよく知っている高木先生が、琴寄君、君の御父さんは戦死者だ、 戦争で死んだと胸を張って言いなさいと言ってくれました。それ以来私は、父は戦争で亡くなったと言って、 父を誇りに思っています。高木先生は恩人です。

またまた余談になりますが、私は70歳を過ぎた今でも食事は、腹いっぱい食べなければ落ち着きません。 それは引揚げの時の飢えの苦しみを、空腹になった時に身体がそれを思い出すからです。 三つ子の魂百までとはこの事でしょうか。

太平洋戦争が終結して70年になりますが、幸いそれ以後日本は戦争に巻き込まれていない、10数ヶ国の内の一つです。 どんなことがあってもこの平和を守り続けないといけません。戦争が起こると一番先に犠牲になるのは、弱い子供達です。 また子供達が将来、銃口を人に向けることが絶対に無いように、平和を守り続けるために、 今何が大切かとの思いを持ち続けて下さい。

最後に、引揚げの時に人に話せない悲しい出来事があった方が多くおられます。私は、 こうして引揚げの体験を皆様に話せるのは、まだ恵まれた方であることを申し添えます。

又飢えに喘ぐ私たちに、そっと食べ物を差し入れてくれた、オモニー(朝鮮人のおばさん)ダバイ、(ください)ダバイ、 と物乞いする子供たちにやさしくクロパンを投げ与えてくれた、ソ連軍の若い将校など、 助けてくれた人たちも多くいたことも事実です。

私が小学六年生の時書いた作文です。

朝鮮での思い出

千穂小六年 琴寄 學

僕は平和な北鮮の田舎にすくすくと育ち、もうすぐ一年生になれる喜びを両親に話しては「アイウエオ」を言い、 本当に幸福な毎日を過ごしていました。しかしこの幸福も終戦と言うみじめなうずの中にまきこまれ、おそろしい悪の手が 、僕たち家族の上におそいかかって来たのでした。

僕たちは昭和二十年を最後に、なつかしいふるさとを後に、みじめな避難民となって、着の身着のまま、 無蓋車に乗せられ祖国の日本へ帰されました。その時僕は七つでした。 今じっと目を閉じて日本へ帰る八か月の事を考えると、書くことも話すこともできないような気持ちで、ぞっとしてきます 。

苦しい苦しい毎日でした。でも僕の側にはいつもやさしいお父さんや、お母さんがおって常に守られてきました。

そのお父さんもおそろしいはっしんチブスにかかり、とうとう死んでしまいました。その時はチブスがとてもひどくはやり 、あちらでもこちらでも病気になりました。毎日毎日死人が多く穴を掘っては、 たくあん漬のように一つの穴に百人ぐらいずつむし込め、少しでもあいていると、その中にどんどん押し込むのです。

僕たちはお父さんをかますにつつみ、畑の隅にうめました。僕はたまらなくなって「お父さん!」といって、 しがいにだきつき泣き叫びました。こんな犬のような目にあったのです。でもそれからのお母さんは、 人一倍強くなりました。「もう泣かなくてもいい。お母さんはきっと内地につれて行ってやるよ。」 といってはげましてくれました。お母さんは又「どんなことがあっても、六十里の道は歩くね。」と言ったので、僕は「 はい。」と答えました。

間もなく僕たちは逃げ出しました。三十八度線を、どうしても突破しなくてはなりません。 京城まで六十里の道は北鮮と南鮮のさかいで、その道はどうしても通れません。僕たちは山を行くことになりました。 道にはおいはぎのような人がいて、色々な物をとってしまいます。白岩山を登る途中あちらにも、こちらにも、 死がいがころころころがっています。足があれていものようにはれ、ころころしてあるいています。僕はああいうことで、 いつ京城へつくのだろうと思いました。氷の中にはまりこんで生き別れをする人、言うに言われん苦労をしました。

とうとう十日間で京城につきました。母は僕たち四人の姉弟に「えらかったね、強かったね。」と言いながら、 目に涙を一杯ためていました。僕の手をにぎり、「今から大きな声で、日本語をつかってもよいのよ。」と言ったので、 うれしくてたまりませんでした。

その後僕たちは六年間母の手一つで育てられましたが、こうして楽しく学校に通えるのもお母さんのおかげです。

しかし、とうとうやさしいお母さんも旅の疲れか、今年の二月からやまいになり、とこについてしまいました。

戦争さえなかったらお父さんもきっと元気でいてくれるでしょうし、もっと幸福にくらせるでしょう。 僕たちだけではありません、同じように戦争のために苦しんでいる人も多いことでしょう。 もうあのみじめな戦争は絶対に止めるように僕も努力したいとおもいます。

あなたの物の見方には一つ一つに非常に深いものがあります。 ことにお父さんをかますに包んだあたりや三十八度線とっぱのこと、 お母さんのやさしいおことばなど人をひきつけずにはおきません。 ただ終りの方で少し調子をゆるめたことが何よりも残念なことです。 東新の特選作(片山忠雄)

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