避妊に対する教会の道徳的教え

アンソニー・コップ神父
説教:Part III

「これはアンソニー・コップ神父による3回続きの説教の3回目のものです。」

前回の説教で私はあなたがたに次のような問いを残しました。「もしカトリックの夫婦が子どもを作ることを先にのばすことがふさわしいと神の前で決めるとすれば、そうするための道徳的な手段、良い手段とは何でしょうか。」カトリックの夫婦はどのようにすればいいのでしょうか。「カトリック教会のカテキズム」にはまさにどのようにすべきかが書かれてあります。「カテキズム」の2370段落目にこのように書かれています。「定期的な禁欲、つまり自己観察に基づき妊娠しない時期を利用する産児制限の方法が、客観的な道徳的基準と一致する。」

カトリック教会は私たちに、カトリック教徒である夫婦はこの方法、つまり自然な家族計画法と呼ばれる子どもと子どもの間をあけるための神のおきてを尊重する自然な方法をずっと教えてきましたし、また今も教えています。教会が私たちに教えているのは次のようなこと、つまり結婚生活において定期的な禁欲をすることです。それは新しい考えでもなければ、教会が最近思いついたものでもなく、今日教会がただ夫婦に押しつけているものでもありません。それは聖書のなかに見られるものなのです。「レビ記:第15章」を読めばわかるように、旧約聖書の中で夫婦が定期的に禁欲をすることが神によって命じられているのです。

また聖パウロは「コリント人への第一の手紙」の中で、結婚した夫婦は祈りに専念するために時々禁欲をすべきだと言っています。二人は少しの間離れ、祈りの生活に専念し、それから一緒になるべきなのです。さて、自然な家族計画法を実践する価値は何なのでしょうか。カテキズムは次の文章でいくつかの価値を述べています。第一の価値は、このような方法が配偶者の身体を尊重し、優しさを助長し、本物の自由の教育を助けるということです。私は、自分の家族や他人の家族の何組かの夫婦と話をしたことがあります。彼らが教えてくれた利点を私はリストにしてみました。第一に、そして私はそれが最も重要だと思っているのですが、自然な家族計画法を実践することで夫婦の愛情が増すのです。もし自然な家族計画法というこの方法を実践するならば、夫婦それぞれが犠牲を払わなければならないということは明らかなことです。その犠牲は夫婦の間の愛情の結果であり、またその愛情を強くするものです。第二に、それは夫婦間のコミニュケーションのレベルを強めたり、深めたりします。愛情がさまざまな方法で表現されなければならないということは明らかなことです。自然な家族計画法を実践している夫婦はそうすることができるようになります。最後に、この方法を実践することで結婚生活における利己主義が根絶されるということに夫婦が気づいたということです。

このことが真実であるということを社会のレベルで見ることができます。研究によって自然な家族計画法を実践している夫婦の離婚率は3%未満であることがわかっています。それでは避妊薬の使用を大いに推奨している社会の離婚率はどうでしょうか。それは50%を越えているのです。対照的に、教会は避妊について次のように言っています。生殖能力を奪う、または生殖を不可能にさせる全ての行為は本質的に悪なのです。言い換えれば、そのような行為は本質的に悪なのです。それでは、教会はここで何のことを話しているのでしょうか。教会は人工的な避妊手段や不妊手術やもちろん中絶のことを話しているのです。このようなことは全て本質的に悪なのです。

皆さんが本当に知っておかなければならないもう一つのことは、今日市販されている避妊薬の多くはとんでもない副作用を持っているということです。私はショックを受けてそれを今日持ってきませんでした。それを家から持ってくるのを忘れてしまいました。しかしピルを使用する際に読まなければならない使用説明書を初めて入手したとき、それを初めて開けてみてその膨大な量に驚きました。次に、私はピルを服用することによって女性が耐えなければならないかもしれない副作用がぎっしり書かれてあるのを見てとても驚きました。もし私が夫で、妻を愛していたら、彼女の害となる可能性のあるものを彼女に服用してもらいたいだろうかと心の中で思いました。そのようなものを使用して配偶者を危険にさらすことが愛でしょうか。私はそうは思いません。避妊に関して私たちが心に留めておかなければならないもう一つのことは、避妊薬には恐ろしい副作用があるということなのです。今日ある避妊薬についてはあまり多くのことが語られていません。このような避妊薬の多くは、中絶薬、つまり中絶を引き起こすものなのです。女性がその事実を知らないことが多いのです。多くの避妊薬は受精を妨げるものなのです。それらは胚子が女性の胎内で成長するのを妨げるのです。受精のあとで中絶が引き起こされるのですが、女性はそのことに気づいていないのです。

アメリカ合衆国の統計によると、1年間に140万件の中絶が行なわれています。しかし実際の数は、中絶薬によって引き起こされる中絶のためにそれよりもはるかに多いのです。さて、このこと、すなわち私たちは自然な家族計画法を用い、避妊薬は道徳的に悪なので使用しないと人々に言うと、すぐ人々は、「何が違うのですか?最終的に目的は同じ、つまり子どもを作らないことでしょう。どこが違うのでしょうか?」と言います。この質間に答える時、私たちはこのこと、つまり目的は手段を正当化しないということを心に留めておくことが必要です。それは道徳的神学の基本的な教義なのです。

聖パウロもローマ人への手紙の中でそのことを教えています。目的は手段を正当化しないのです。良い目的を持っているからといって、それを達成するためにどんな手段を使っても良いということにはなりません。ちょっとした例をあげてみましょう。昨日私の学校のフットボールのチームが試合をするために他の学校へ行きました。相手の学校の方が明らかに私たちの学校より足が速く、ハーフタイムまでに28対7で劣勢でした。私たちのコーチはハーフタイムのときに次のように生徒に言うことができたでしょう。「目標はもちろん勝つことだ。ところで、どうやって勝つ?一方ではハーフタイムの後全力でプレーすることもできるだろう。また後半相手のチームの選手に怪我をさせることもできるだろう。それはまた別の手段だ。たとえばやすりを取り出して、ヘルメットのバックルを剃刀のようになるまで削り、相手に当たったときに相手の選手に怪我をさせることもできるだろう。」まあそれはかなり極端な例ですが。手段が同じでないことはわかります。目的は同じです。フットボールの試合に勝つことは良いことですが、その手段は同じではありません。一方の手段は良い手段で、それはもっとがんばってプレーすることです。また相手のチームに怪我をさせようとする手段も使えますが、それは悪です。したがってそれらは違っているのです。

一方の手段は、つまり自然な家族計画法は神のおきてを尊重し、夫婦の妊娠期間と不妊期間を尊重し、結婚という行為の本質を尊重するもので、それは良いものです。避妊は違います。避妊は神が一つにされたもの、つまり結婚の夫婦を一つにする面と夫婦の行為の生殖に関わる行為を分けようとするものです。「Familiaris Consortio(家庭一一愛といのちのきずな)」が指摘しているように、その二つは一つにならなければなりません。このように書かれてあります。「夫と妻が全面的に相互に自已を与え合うことを本来意味する人間の性という言語は、相手に自已を全面的に与えないことを意味する避妊とは客観的に矛盾し相入れないものです。避妊は生命に開かれていることへの積極的な否定であり、人格全体において与えるように呼ばれている夫婦愛の神からの真理を偽るものです。」言い換えれば、結婚生活において避妊をすることは、夫婦がお互いに「この特別な結婚という行為において、私自身を全面的にあなたにあげるつもりはないのよ。」と言っていることなのだと教皇は言っておられるのです。  さて、最初にこの説教のシリーズを始めたとき、私は私の意見として避妊の広範囲に渡った使用ほど今日の社会において悪なものはないと言いました。さて私はどうしてそのように言ったのでしょう。避妊が強制的な悪となっている分野を2,3紹介しましょう。まず、お分りのように避妊は中絶につながります。そのことについては疑問の余地はありません。西洋のあらゆる国で、避妊が導入されたところでは、そのあとにすぐ中絶が始まっていることがわかります。明らかに避妊の使用は夫婦の行為をその真の目的、つまり生殖から切り離します。もちろんそのようなことが起きれば、夫婦の行為は当事者が望むあらゆる使用方法への道が開かれることになります。多くの場合、その結果を取りのぞくために中絶が必要となるのです。

次に、避妊はアメリカ合衆国におけるカトリック教会を明らかに弱体化させてしまったので大きな悪です。それは権威の失墜をもたらしました。今このことは非常に重要です。というのはカトリックの信仰は権威に基づいているからです。何よりもそれは神の言葉の権威に基づいているのです。私たちは神の言葉を受け入れます。私たちは、それを受け入れてそれに従って生きなければならないのです。それを拒否することは、イエス・キリストにもはや従わないものになることです。私たちの信仰は神の言葉の権威に基づいているのです。第二に、信仰は神の言葉を忠実に伝え、それを私たちのために説明しているキリスト教会の権威に基づいています。だからもう一度言いますが、教会の権威を拒否することは、キリストの権威を拒否すること、神の権威を拒否することなのです。以前にも述べたように、初めて多くのカトリック教徒が教会の教導権を拒否し、したがってキリストの教導権を拒否し、神の教導権を拒否し始めたのは、避妊の問題に関する教会の永遠の教えを繰り返したパウロ6世の回勅である「フマネ・ヴィテ」を拒否した1968年のことでした。このことによって明らかに教会は大いに弱体化しました。もはや教会の権威を受け入れないことは、もはやキリストの権威を受け入れないことなのです。

したがって、このようなこと全ての結論に至り、私たちの社会において、特に私たちの教会において、悔い改めること、改心することが本当に必要だと思います。私たちは、この特別な道徳的問題に関して心を入れ替えることがぜひとも必要です。旧約聖書を通して神は、祝福は神のおきてに従う者に与えられるであろうと私たちに言っておられます。そのことは、この問題においては非常に明らかです。自然な家族計画法を実践し、私が話しかけたことのある、教会の教えを尊重している夫婦には、祝福が、大きな祝福があります。一方、神は旧約聖書の中で、神のおきてに従わない者は、災い、大きな災いを自分に引き寄せることになるとたびたび警告されています。私たちの社会においてそのことが起こっているのが見えます。だからカトリック教徒である私の友人の皆さん、私たちはこの特定の領域において心を入れ替え、悔い改めることが必要です。「そこであなた方に言うが、神の王国はあなたから取り去られ、神の果実を作り出す人に与えられるだろう。」という 主の言葉に注意を払えば、良い行動を取ることができるでしょう。

私たちが神の言葉に背き、この特定の領域における神の意志に背いたために、そのようなことが私たちに起きることがないことを祈ります。改心のために祈りましょう。

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Part I:  (1回目の説教に続く)

Part II: (2回目の説教に続く)