避妊に対する教会の道徳的教え

アンソニー・コップ神父
説教:Part I

「これはアンソニー・コップ神父による3回続きの説教の最初のものです。」

イエスは、もし誰かが教会の教えさえも聞くことを拒否するなら、あなたが異教徒や収税役人を扱うごとくにその人を扱えと言われるとき、私たちに非常に厳しい警告を発せられているのです。言い換えれば、もし教会の教えを聞くことを拒否すれば、とても困ったことになるとイエスは私たちに言われたのです。ある特別な道徳的問題が一つあり、その問題に関しては、多くのカトリック教徒が教会の教えに即した考え方をしていない、又は行動をしていないことが調査によってわかっていますが、それは、実際かなり不幸なことなのです。

さてこの道徳的な問題とは何でしょう。今おそらくあなた方の大部分が、私が中絶のことを話すとお考えでしょう。そうではありません。私はそれよりもっと根本的な問題について話すつもりですが、その問題は道徳的に悪であり、中絶への扉を開くものです。私の考えでは、それは今日おそらく最も重要な道徳的な問題です。この悪は他の何よりも私たちの社会と私たちの教会に害を与えてきました。それは実際非常に重要なので、このテーマに関する説教を何度も続けて行いたいと思います。もうこの道徳的な問題が何かおわかりでしょう。

前置きとして、ちょっとしたクイズをしてみましょう。それは3問からなるクイズで、(Ο)(X)式の問題です。自分だけで答えてみて下さい。大きな声で答えを口に出して言ってはいけません。最初の質問はこれです。(Ο)でしょうか(X)でしょうか?

  1. 1930年以前に、避妊は道徳的に許されると認めたキリスト教会は全くない。これは(Ο)でしょうか(X)でしょうか?
  2. プロテスタントは19世紀に避妊に反対する法律を可決した。これは(Ο)でしょうか(X)でしょうか?
  3. 宗教改革の指導者たちは、不自然な形態の産児制限に強く反対した。これは(Ο)でしょうか(X)でしょうか?

正直に言ってください。3問全てに(Ο)と答えた人は何人いますか?それが正解、つまり3問全問○なのです。1930以前に避妊を認めたキリスト教会はないということは歴史上の事実です。実際、1930年になるまで、全てのキリスト教会は不自然な形態の産児制限を強く非難していました。1930年になって初めて、英国国教会のランベス会議がある特別な場合に限ってそのようなものの使用を許したのでした。私たちのプロテスタントの立法府が避妊具の購入と製造あるいは使用までも禁止する罰則つきの法律を可決したのは前世紀の歴史的事実でした。避妊は法律に反することでした。最後に、宗教改革の指導者たち、特にマルチン・ルターは不自然な形態の産児制限を強く非難しました。したがって、キリスト教の歴史の少なくとも1930年間は、避妊は全てのキリスト教徒によって非難され、大きな悪とみなされたと理解することができます。

さて、なぜキリスト教徒はそのようなことを教え、カトリック教会は今も不自然な形態の産児制限を重大な道徳的な悪だと教え続けているのでしょうか。実際、それは道徳的な罪なのです。なぜ教会はそのように教えているのでしょうか。それは、そのように神が明らかにしたからなのですが、そのことは神の啓示において見ることができます。今日は、神がこの問題についてまさにどこで私たちに話しておられるか、かいつまんでお話ししましょう。まず私たちは、人間のいのちとその価値について神が教えておられることと、人間のいのちがこの世に生まれるのを神が望んでおられることを心に留めておくことが必要です。まず、「創世の書」の中の、神がアダムとイブを創造した直後の章で、第1章28節に記録されている命令を神が二人に与えられたことを思い出してみて下さい。神はアダムとイブにこのように言っておられます。神は人間を祝福して仰せられた、「生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ。」と言われました。「生めよ、ふえよ」なのです。そして150編からなる「詩篇」を読めばわかるように、神は子どもは神の贈り物だと私たちに話しておられます。子どもは、大切にしなければならないものなのです。たとえば、「詩編 127:3」において、神は「見よ、子らは主の贈り物、胎の実は主の報いである。」と書かれてあります。言い換えれば子どもは贈り物なのです。今私たちはこのことを心に留めておく必要があります。というのは、明らかに私たちはこのような考え方を推し進めない社会の中で生きているからです。実際ローマ教皇は、非常に悲しいことに、私たちは死の文化、死を推し進める社会に住んでいると繰り返し繰り返し私たちに話してこられました。

つい昨日のことですが、私は、中絶をする前に24時間の猶予期間を女性に与えることを要求しているアメリカの法律について読んでいました。それには、女性は中絶クリニックヘ行く時に、胎児の心音を聞く機会が与えられなければならないと書いてあります。彼らは女性に胎児の心音を聞かせ、それから彼女が決断を下すための時間を与えなければならないのです。しかし中絶賛成派の人々は、このことに反対し、これは中絶を排除するためのなんらかの企みだと言いました。もちろんそのことはばかげたことですが、それは私たちが死を推し進める考え方の道をまさにどこまで歩んでいるか示し、私たちがいのちより死を優先していることを示しているのです。

神が人間のいのちをこの世にもたらすことにおいて、私たちに寛大であるように望んでおられること、そして人間のいのちが神からの贈り物であることはわかります。しかしそうならば、次のような疑問が生じるかもしれません。「神は不自然な産児制限の手段について特に何か言っておられるでしょうか?聖書に何かそのような記述があるでしょか?」答えはイエスです。書かれてあるのです。再び「創世の書」第38章にそのことが書かれてあるのがわかります。どう書かれてあるかを読む前に背景的なことを少しお話しする必要があります。旧約聖書には特別なおきてがあり、それによると、男が妻をめとり子どもが生まれる前に死んだ場合、その兄弟がその妻、つまり寡婦をめとり、その女性との間に子どもを作り、その子どもは死んだ男のものとならねばならないということでした。それが旧約聖書のおきてでした。このような特別なケースは第38章において見られるのですが、エルという男がタマルという名前の女性をめとって妻としますが、二人の子どもが生まれる前にエルは死んでしまいます。そこでエルの父であるユダは息子のオナンにタマルをめとって妻とし、子どもをつくりその子どもをエルのものとするように言います。それから話は次のように続きます。

「しかしオナンは、生まれる子が自分のものにならないと知り、兄の妻と寝るたびに、兄に子孫をやらないように地に流すのだった。」

彼が地に流したことに注目して下さい。神は彼が行なったことに激怒し、彼のいのちを奪ってしまいました。その罪、つまりオナンが行なっていた不自然な行為に対する罰として神は彼のいのちを奪われたのです。神はそれを道徳的大罪とみなし、その罪に対する罰としてオナンのいのちを奪われたのです。そして、お気づきでなかった人もいると思いますが、そのような不自然な産児制限の行為が教会の歴史において最近まで何と呼ばれてきたかを知ることはとても興味深いことです。その行為は「オナニズム(オナンの法)」と呼ばれてきたのです。そう呼ばれるのは、「創世の書」の中のまさにこの場所に書かれていること、つまりオナンによって実行されたこの不自然な産児制限の行為のためなのです。「オナニズム」という言葉の起源はまさに聖書のこの部分にあるのです。それは、神が好ましくないと考えておられることを明確に私たちに示しています。それは神がこの特定の行為、つまりこの不自然な形態の産児制限に強く反対しておられるということを示しているのです。

さて避妊への動きが強い現代、聖書の研究者の中にはこの文章の解釈を改めて行ない、オナンは彼が行なった特定の行為のために罰せられたのではなく、そのおきてを快く受け入れようとしなかったために罰せられたと言う人もいます。

しかし、「第二の法の書 第25章」に記録されているように、おきてを守らないことに対する罰は死でなく、むしろ人前ではずかしめを受けることです。したがって、それは、その特定の行為は神の目には非常に許しがたいものであったので、神がオナンが犯した罪に対して特別な罰を加えられたということを私たちに教えているのです。そしてもちろんそれは最初からずっと教会によってそのように解釈されてきたものであり、それは神が不自然な形態の産児制限の行為を非常に快く思われていないということを示しているのです。 

新約聖書の中に産児制限のことについて触れているところがあるだろうかと思うひともおられるでしょう。あると考えている聖書研究者もいます。「ヨハネの黙示録 第21章8節」で神は次のように話しておられます。「だが、臆病者、不信仰の者、いとうべき者、殺害者、淫行者、魔術者、偶像崇拝者、すべてうそをつく者は、火と硫黄の燃えている池すなわち第二の死を受ける。」言い換えれば、神はここで私たちに、もしこのようなことを実行し悔い改めなければ地獄が永遠に私たちの運命になるだろうと言っておられるのです。十分に注意を払って耳を傾けていても、もちろん避妊という言葉やそのような響きの言葉は聞こえなかったでしょう。ここで言われている言葉、又は避妊を表すために使われている可能性のある言葉は「まじないをする者」という言葉です。それは、ギリシャ語で書かれた原典において、そこで使われている言葉は[pharmacaea]であり、その言葉は英語の[pharmacy](薬学)、又は[pharmaceutica1](薬学の)のように聞こえるからなのです。そして、ここで言われていることは第一世紀における避妊の行為だといくらかの聖書学者によって考えられています。おわかりのように、避妊の歴史は古いのです。それは20世紀に生まれたものではなかったのです。それはキリストの時代、さらにはそれ以前までさかのぼるのです。

当時、その時代の女性たちは、ある薬または薬草を調合し、それが流産を引き起こすか、又は妊娠を防ぐことになると信じて、それらを飲んだのです。そのようなことが当時行なわれていて、この[pharmacaea]、つまり「まじないをする者」という言葉がその行為、つまり妊娠を妨げる又は中絶を引き起こすためにそのような薬を調合するという行為を指していると信じる聖書学者もいるのです。したがって、そのことは新約聖書においても述べられているといくらかの聖書学者によって考えられているのです。結論は、現在までの2000年の間カトリック教会は、そして1930年の間ほとんどのキリスト教会は、この特定の行為、つまりこの不自然な形態の産児制限の行為を強く非難してきたのです。そしてそのことは聖書のなかに見られる、神の啓示の証言に基づいているのです。

今日カトリック教会の中にもこの特定の問題の解釈を変えることを要求している教会がたくさんあります。そこで私は、聖霊が教会を導くのではないでしょうかと彼らに尋ねたいと思います。最終的にそれは、キリストと聖霊がカトリック教会を導いているという私たちの信仰の根本的な信念なのです。それでは、聖霊がこの問題に関して間違いを犯したと思いますか?聖霊は2000年間教会を導いてこなかったのでしょうか?私たちは聖霊が私たちを導いていくけれども、それ以前の私たちがまちがっていたので、今聖霊の気持ちが変わったと突然に言うつもりですか?そんなことが意味をなすでしょうか、また論理的に思えるでしょうか?いいえ。聖霊によって導かれた教会はこのような行為が悪であると2000年の間説き続けてきて、これからもそうし続けるでしょう。そしてその理由はもちろん神がこのようなことは道徳的に間違っていると私たちに教えてこられたからなのです。宗教の時間に私がこのようなことを生徒に教えるとすぐ手が上がり、「神父さん。これは、もし私が良きカトリック教徒の母親となろうとするなら、25人子どもを産むように努力をしなければならないということを意味しているのでしょうか?私は出来るかぎりの子どもを産もうと努力しなければならないのでしょうか?それが教会の教えなのでしょうか?」という声がします。さて皆さん、その質問に対する答えについては、次の説教までお待ち下さい。


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Part II:  (2回目の説教に続く)

Part III: (3回目の説教に続く)