先端医療の論じられ方

Komatsu, Yoshiiko (コマツ・ヨシヒコ)
小松美彦(東京水産大学/現・東京海洋大学)
2003年7月26日
http://www.eth.med.osaka-u.ac.jp/OJ3-1/komatsu.doc
許可を得て複製

私の出身は科学史で、もともとの研究テーマはヨーロッパ近代以降の医学・科学における生命観の歴史的な変化です。そしてここ15年ほど、歴史研究をベースにして先端医療と生命倫理の在り方も検討してきました。また、そもそも私は、自己決定権を基盤としたアメリカ型の生命倫理学に違和感をもっていましたので、主催者の思惑通り今回のシンポに際しても、アメリカ型の生命倫理学を擁護しているかに見受けられる岡本さんの『異義あり!生命・環境倫理学』(ナカニシヤ出版、2002年)を再読し、批判を加え、議論を交わそうと思って参ったわけです。しかし、ただいまのお話を伺って、むしろ岡本さんと私の問題意識は重なっていると感じました。岡本さんのおっしゃったように私もまた、現状から様々な問題性をえぐり出して議論の場を創っていくこと、それが生命倫理学の役割だと思っています。結論は出ないとしても、永続的な議論の場を形成すること自体が重要だという立場です。したがって、当初の意気込みと話の予定を変えざるを得ないので、いささか当惑しているのですが、ともかく「先端医療の論じられ方」という本論に入ります。

先端医療をめぐる議論としてやるべきことは大別して二つあると思います。ひとつは、何を論ずるか、内容や思想に関わることです。もうひとつは、誰がどういう場で論議していくか、形式に関わることです。従来の先端医療の論じられ方を顧みると、政府や省庁が諮問機関を作ってそこから意見を吸い上げて、それを元にガイドラインや法律を整えていってゴーサインを出す、という制度的なレールがあった。このような形式についての検討もきわめて重要だと思いますが、ここでは時間の関係上、前者の内容の問題に絞って話したいと思います。そこで以下では、今後の展望を示すために、従来の先端医療技術、具体的には脳死・臓器移植と生殖技術を例にして、まずどのように議論がなされてきたのかを概括し、議論をめぐるある特徴を申し上げます。その上で後半では、今回の主題のはずの遺伝子医療・再生医療・クローン技術の何に焦点を絞って議論していったらよいのか、ということを提示したいと思います。

では、まず、脳死・臓器移植についてです。御存知のように1968年8月8日に札幌医大で、和田寿郎氏率いるチームが、日本ではじめて心臓移植を行います。当初マスコミは大絶賛をしたのですが、移植後83日目にレシピエントとなった高校生が死亡してから評価は変わります。和田氏は殺人罪および過失致死罪で告発されますが、証拠不十分で不起訴処分になりました。しかし、きわめて黒に近い灰色というイメージがつきまとい、日本ではそれ以降、心臓移植や脳死・臓器移植一般について話すことすら憚られるような雰囲気が蔓延しました。ところが、1980年代初頭から空気が変わってきます。それまでは欧米でも技術的に脳死・臓器移植はうまくいかなかったのですが、1978年に比較的安全で効果的なシクロスポリンという免疫抑制剤が開発されたために、80年代初頭から、まずはアメリカ、そしてヨーロッパと、心臓移植や肝臓移植などの脳死・臓器移植が急増していきます。

日本もそれに続けということで、1982年9月だったと思いますが、脳死・臓器移植を再開するキャンペーンが始まりました。タブー視されて脳死・臓器移植は一切なされていなかった、というのが当時の一般的な常識だったわけですが、実は秘密裏に脳死・腎臓移植が行われていたことを、日本移植学会で移植医たちが自ら公表するわけです。それによって人々の拒絶意識の緩和を図る。その上で、脳死・臓器移植を全面的に解禁・推進しようとするのですが、最初に出された正当化の根拠は、1.脳死は科学的に死であるという客観的「事実」です。しかし、その見方が仮に科学的事実だとしても、ここでは死の基準の変更を伴う以上、2.社会の合意が必要であるという批判が出ました。そこで、推進論者は社会的合意をとりつけるような方策にとりかかっていく。それがマスコミや政府と連携したアンケート調査です。けれども、何回アンケートをとっても、脳死を人の死と認めるという意見が50%を越えたことはなかった。社会的合意を基盤に推進していくことができない。かくて、若干の紆余曲折はあるのですが、80年代後半から 3.自己決定権という考え方が出てきます。脳死を死と考える人、従来通り心臓が止まって死と考える人、どちらの立場があってもよい、本人が脳死を死と認めるならそれでいいじゃないか、本人が臓器提供したいというならそれでいいじゃないか、というものです。この後も紆余曲折がありましたが、結局は個々人の自己決定権を認めるということをベースにして、1997年に臓器移植法が制定されました。それ以降今日(03年7月26日)に至るまで、23件しか脳死からの臓器提供はなされていませんが、日本でも脳死・臓器移植は既成の事実になったと思われます。ポイントは推進の論拠が柔軟に変わってきたということです。

生殖技術の方も同様に推進論拠が柔軟に変化して、徐々に既成事実化しました。こちらの方は、脳死・臓器移植のように推進論拠の違いをはっきりと時代区分できないし、また必ずしも順番に出てきたわけではなく、重なって出てきました。が、あえて分けてみると、ざっと以下のようになります。まず、もともと不妊はどうすることもできない問題で、江戸時代には侍医が奮闘努力したという事実はありますが、近代的な意味で不妊は医学の問題には入っていなかった。しかし、20世紀に入って、不妊が病気の一種としてみなされ、1. ′医療によって治「せるかもしれない」という時代になりました。不妊治療をめぐるゆるやかな推進論理の誕生です。この論理が医療技術の開発を牽引し、1949年に日本でははじめて非配偶者間人工授精の子供が誕生し、さらに83年には体外受精の子供が生まれます。克服不可能であった不妊が、医療技術によって克服可能になったわけです。もちろん、これらの医療技術は生殖機能や器官そのものを治療するものではありません。したがって、不妊そのものが治ったわけではないでしょう。ですが、医療技術によって不妊症の人の出産が可能になることが不妊の治癒と見なされてきたと言えます。ここにおいて、2. ′治るのだから治す「べき」だという考え方が芽生え、徐々に拡がっていったと思えるのです。この「べき」が不妊治療の積極的な推進論理となったわけです。

さらに1990年代、先ほどお話しした脳死・臓器移植をめぐる議論をきっかけに、自己決定権という考え方が蔓延します。自己決定権は自己責任とペアになって、新自由主義という時代風潮にもマッチしました。こうして、生殖領域でも 3. ′自己決定権によって推進しようという流れが浮上しました。自己決定権というと、従来は上からの押しつけに対するフェミニストなどの個人的な抵抗の武器でしたが、それが推進論拠に転化しました。ここでは詳細は述べませんが、私はこの反転は必然的だと思っています。それゆえ個人的には予想していたことですが、生殖技術がここまで発展したのだから、自己決定権をよりどころに生殖技術の恩恵に与って当然なのだという支援団体も登場します。それが「妊娠、出産をめぐる自己決定権を支える会」です。飯塚理八氏(体外受精の草分け的な存在)を会長に、星野一正氏(生命倫理学の重鎮)、根津八紘氏(体外受精や代理出産を日本産婦人科学会の会則を逸脱してでも行う産婦人科医)、日垣隆氏や岩上安身氏(いずれも気鋭のジャーナリスト)といった著名人を中心に、自己決定権を基盤に生殖技術を推進する団体です。

以上のように、脳死・臓器移植でも生殖技術でも推進論理が時々の状況に応じて変化して、最終的に自己決定権に帰着しているという現状があります。そこで次に、こうした歴史構造を私なりの別の見方で小括してみます。科学的理論というものがどのように変化・推移していくのか、この問題を分析したイムレ・ラカトシュという科学哲学者の方法と概念を借りて考えていきたいと思います(『方法の擁護――科学的研究プログラムの方法論』村上陽一郎ほか訳、新曜社、1986年参照)。

ラカトシュによると、ある科学理論は単独に見えても、さまざまな理論が複雑にからみ合って一つの大きな体系を形成しています。それをあえて分けてみると、科学理論の中心を占めている「堅い核」と、それを取り巻くようにして防御している「防御帯」、この二つに分かれます。一般的には、ある科学理論が別の科学理論に置き変わるときには、この堅い核にあたる部分が潰れて、理論体系全体がだめになる。こういう考え方が提示されるのですが、ラカトシュによれば、実際には一つの科学理論に対して決定的に矛盾する事実がつきつけられても、堅い核までにはその影響はなかなか届かない。防御帯がうまく影響を吸い込んで、防御帯自身が矛盾に対応するように別の防御帯に変化して、堅い核自体は変わらないというのです。抽象的で分かりにくいと思いますので、18世紀の燃焼理論であるフロギストン説を例に具体的に話してみます。

18世紀後半に、物が燃えるというのは、呼吸も含めて酸化現象だという考え方がうまれ、現在に至っています。それ以前の燃焼理論がフロギストン説です。図を御覧になりながらお聴き下さい。

フロギストン説によると、あらゆる物体は狭義の意味での物質とP(フロギストン説のフロギストン)からなり、燃焼とは物質に付着していたフロギストンが離脱する現象です。この理論が当時のヨーロッパで盛んでした。ところが、それを打倒するような「事実」が見いだされます。それは、鉛を燃やして燃やす前の鉛と燃やした後の灰化鉛を精密に量ってみると、灰化鉛の方が重いということです。このことはフロギストン説からすると決定的におかしい。なぜなら、フロギストンがなくなった分だけ灰化鉛は軽くなっていなければならないにも拘らず、実際は重いからです。しかし、これでフロギストン説は倒れませんでした。全ての物には重さだけではなく軽さもある、という論法が用いられたのです。つまり、フロギストンはもともとマイナスの重さをもっており、それが離脱したのだから結果は重くなって当然だ、というのです。今からみると詭弁を労しているようですが、この論法がまかり通り、フロギストン説は倒れなかったのです。結局どういうことかというと、「物には重さがある」というのがそもそもフロギストン説の防御帯だったのですが、矛盾した「事実」が突きつけられると、防御帯が「物には軽さもある」に柔軟に対応・変化して、フロギストン説の核心部分はびくともしなかったわけです。

以上を押さえた上で、脳死・臓器移植と生殖技術の話に戻ります。脳死・臓器移植を例にとると、脳死・臓器移植の推進そのものが堅い核として、また当初は「脳死=死」は科学的事実ということが防御帯として存在していました。しかし、この科学的事実をめぐって批判がつきつけられると、防御帯(推進論理)は社会的合意へと変わった。が、社会的合意がとれないと、防御帯はさらに自己決定権へと柔軟に変化した。脳死・臓器移植推進という大前提は不動のまま、防御帯だけがどんどん変わって、最終的には自己決定権というところに落ち着き、脳死・臓器移植は制度化されたわけです。生殖技術でも同様の構造が見られます。我々は、ラカトシュに倣って、先端技術のこのような推進のなされ方を十分に踏まえておく必要があると思います。もちろん、防御帯に関する議論も必要ですが、それらが柔軟に変化するからには、より中心をめがけた議論が必要なのです。

それでは今までの話を、今回のシンポジウムの中心テーマである遺伝子医療、再生医療、クローン技術に拡張してみましょう。これらの問題を考えるにあたっても、議論の焦点は防御帯ではなく、堅い核に当てるべきですし、とりわけ批判しようと思う人は、このことに心がけるべきです。防御帯だけを議論していてもそれはすぐ変わってしまうし、批判打倒しようと思う人は、せっかくある防御帯を潰したとしても徒労に終わりかねないからです。この意味で科学技術、特に先端技術というものは、強靱な魔力を持っているのです。

では、三者に共通する堅い核とは何でしょうか。それを見破ることは非常に難しいわけですが、以下、遺伝子医療、再生医療、クローン技術について、それぞれ固有の問題を一つずつ挙げた上で、三者に通底する問題を私なりに示し、私の問題提起としたいと思います。

まず遺伝子医療ですが、遺伝子はある意味では究極的なプライバシーと見なすことができるでしょう。そこであくまでも推測ですが、ヒトゲノム計画が完了した今後は、国家が我々一人一人の塩基配列を管理する方向に向かうのではないか。そこに今年の5月に施行された「健康増進法」が絡んでくるように思われます。目下のところ、この法律をめぐって、共感を得やすいタバコの問題だけが取りざたされがちですが、健康増進法では、「健康の増進に努めることは国民の責務である」という内容が謳われていることに着目すべきです。ここでは、健康の増進に努めたくても努められない人、あるいは努めたくない人は、「非国民」になる。しかも大状況を見れば、医療財政も国家財政も今後さらに逼迫していくでしょうから、医療の重心は、病気になってはじめて治療する対処医療から、事前に病気を防ぐ予防医療へとシフトしていく。その時に個人の疾病傾向を「握っている」遺伝子を事前に把握することが重要になってくる。ここにおいて、健康増進法は一人一人の遺伝子を国家が掌握することにつながるわけです。既にある大学の医科学研究所による、5年間にのべ30万人のがんや生活習慣病と改名された成人病者の遺伝子を調査する研究が、200億円の研究費を給付されてスタートしました。おそらく健康増進法と住民台帳基本法と個人情報保護法とは連動している、私にはそう思えてなりません。それが遺伝子医療の特に重要な問題だと思います。

続いて、再生医療についても一つ挙げます。最大の問題は、再生医療のための「素材」、つまり、多くの場合はES細胞などの幹細胞をどこから入手・「樹立」するのかということでしょう。体外受精で使用しなかった「余剰」胚が手っ取り早いわけですが、人間の萌芽を潰すという倫理問題に直結しているし、よく言われるようにそもそも「余剰」胚という言い方自体も問題を抱えています。そこで、未受精卵を用いた「ヒト」クローン胚や中絶胎児などが対象となるわけですが、臓器移植法の改訂を「前」にして脳死者も供給源の候補として考えられているでしょう。再生医療も他の先端医療と同様に莫大な特許利益につながっています。その際、提供者には無報酬であっても、開発した企業や研究者は計り知れない利益を得る、という問題があります。

クローン技術についてです。私は感覚的にクローン人間は嫌ですが、論理的に考えると、なぜクローン人間だけが世界的にここまで騒がれるのか分かりません。クローン人間をめぐって挙げられている批判は、体外受精や様々な生殖技術一般がすでに抱えていた問題のはずです。ただし、あえてひとつだけ申しておきたいのは、誤解に基づく問題です。かつて、クローン人間を批判するあるポスターが世界的な脚光を浴びました。何人ものヒトラーとアインシュタイン、それからクラウディア・シーファーというスーパーモデルが行進しているもので、クローン人間は天才や美人だけではなく独裁者も量産しかねない、という警告です。これは、遺伝子型が同一ならば同一の人間になるという、極めて素朴な遺伝子決定論を触発したのではないかと思います。それが世界に拡がり人々の心に巣くったということが問題で、もしクローン人間が合法あるいは非合法的にゴーサインが出て、さらに商業利用されていった場合、逆に遺伝子決定論が推奨され、遺伝子決定論的社会が進展していきかねません。ただし私自身は、クローン技術の核心問題は、クローン人間ではなく、「ヒト」クローン胚を作成してそれを様々に応用していく、というところにあると思っています。

以上の三技術は、決して切り離されていなくて、クローン技術によって再生医療も新たな遺伝子医療も実現可能になっていくというように、技術的につながっています。ここにおいて特に大きな問題、中心的な問題、堅い核は3つあって、人間の産業化と優生思想とインフォームド・コンセントだと思っています。

まず、人間の産業化の問題についてです。バイオ系の問題と一見離れますが、これまでの農業や漁業の進展を俯瞰してみると、それぞれの土着的な風土・文化となっていた農業や漁業が、大規模化=工業化されてきました。これが全体の流れであり、近年の特徴はこの工業化にバイオ技術が入ったことです。そして、その傾向が動植物に留まらず、人間にまで拡がって、人間が工業製品化されてきたのが現在でしょう。ひとりの人間を、臓器、組織、細胞、遺伝子と、どんどん細分化して技術利用していく方向にある。今後この傾向がある程度まで進んだとき、逆に遺体をまるごと売り買いしていく、そういうことも起こりかねない。要は、人間があまねく資源化、商品化、市場化されるということです。ただし、これは岡本さんもおっしゃったように、直感的に嫌だと感じているだけではなく、資源化、商品化、市場化がなぜいけないのかを、難しくとも語りきろうとしていかねばならない。その姿勢がないまま、人体利用によって助かる人がいるという極めて具体的な事実を突き付けられると、私たちは尻込みして思考を中断させてしまう。私も現時点では語りきることはできませんが、これが問題の堅い核のひとつだと思っています。要は、資本主義が人体に照準を合わせたということです。

二番目の、優生思想をめぐる問題です。現在は生まれる前から死んだ後まで人間が医療技術によって管理される時代です。体外受精と遺伝子診断によって「優れている」ものは子宮に戻し、「劣っている」ものは廃棄する。そこから判断が始まって、治療する意味のある者と意味のない者が選別され、死んだ後も死体の中から使えるものを再生医療や研究開発に利用していく。このように、揺りかごの手前から「墓場の中」まで選別が徹底される方向にあります。逆に、クローン人間批判にあっても、「失敗作ができる可能性がある」ということがまま言われますが、このように批判自体も時として選別思想に立脚しています。また、これらの現状を「優生思想につながる」と見る向きもありますが、私は優生思想そのものだと思っています。従来、なぜ「つながる」という表現に留まってきたかというと、ひとつは明言してしまうことへの怯みでしょう。またひとつは、英語ではeugenicsという一言で片づけてしまいますが、実はそこには優生思想と優生学と優生政策の三層があり、その分節化がなされていないからだと思います。この点を考えるべきです。

三番目は次元をやや異にしますが、インフォームド・コンセントに関する問題です。遺伝子医療、再生医療、クローン技術が仮に進展していくなら、現場でのインフォームド・コンセントの特に質がポイントになってくると思います。たしかに医師と患者とでは知識や権限の点で圧倒的な差があるとは思いますが、その差があっても、より良い状態にインフォームド・コンセントを高めていくことが最低限必要でしょう。そこで顧みると、今までのインフォームド・コンセントには大別して二つの問題がある。ひとつは所要時間の問題です。あるマスコミの統計調査によれば、例えばトリプルマーカーテストという出生前診断のインフォームド・コンセントに費やされる時間は、1回平均30分の2回にすぎません。果たしてこの程度できちんとしたインフォームド・コンセントなどできるのか。ここにはインフォームド・コンセントに何時間かけようと、診療報酬が一律で非常に低いという制度的な問題も密接に関係しているでしょう。

またひとつは、内容として何がなされてきたのかという問題です。従来は個人やせいぜい家族だけの、それも医学的なメリットとデメリットの問題に留まっている。今後は個人の問題だけではなく、その人がある医療技術を選択することによって、つまり個人が問題を引き受けることによって、身近な人はもちろんのこと、社会全般にも影響を及ぼす点も伝えて考えねばならない。出生前診断なら出生前診断で個々人がそれを実施すれば、同様に実施する人が増えていくだろうし、このことは一般的な価値観や生命観にも関わりかねない。ひいては、先程述べた優生思想や人体の産業化の問題につながっている。インフォームド・コンセントという形態が重要であるならば、そこまでやる必要がある。そしてさらには、私が話したこと、岡本さんが提起なさったこと、これからお二人の演者が提起なさること、これらの問題提起を、患者と医師との1対1の私的な空間だけではなく、社会全体にインフォームしていくことが重要でしょう。それが今まで以上になされていってはじめて、逆に臨床現場での1対1のインフォームド・コンセントもよりよいものになる可能性が生まれるのだと思っています。

以上、遺伝子医療と再生医療とクローン技術に通底する問題と思えることを話してきましたが、少なくとも今日の大阪大学のこのシンポ会場という空間が、関西全体へと、日本へと、そして世界へと拡がりを見せたとき、そこに初めて生命倫理の思想基盤といえるものが芽生えると私は考えています。従来の生命倫理は、生命倫理学者が打ち出した原則に具体的な医療現場の問題にあてはめていく、あるいは医療現場でなされたことがもとの原則に見合っているかどうかを検証する、という機械的なものに終始しがちでした。従来の問題も今後の問題も簡単に答えが出せるものではないし、私自身も明言できるものでもありません。しかしながら、我々がお互いに苦しみ合いもがき合いながら討究していこうとする過程で、倫理思想が浮かび上がってくるのではないか。その場を作ることが生命倫理学の役割でしょうし、私は私自身が議論の場になろうと思っています。

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