子育ての意義を考えるチャンス

Itonaga, Shinnichi (イトナガ・シンイチ )
出典 糸永真一司教のカトリック時評
2010年3月30日掲載
許可を得て複製

「子ども手当」や「高校授業料無償化」がいよいよ現実化しそうである。この際、 この画期的な企てが何を意味するかを考える機会にしなければならないと思う。なぜなら、現代の家庭は、 社会と文化の急激な変化のあおりを受けて危機に直面しているからである。

人間は一人では生きられない。知恵と自由を備えた独立主体として造られた人間人格は、 他者との交わりと相互扶助の中で生きるときに初めて人間らしく生きることができる。ところが、 新自由主義や市場原理主義のもとに国民の間に貧困層が広がり、曲げて強調される自己責任論のもと、 社会からも家族からも切り離された無縁社会の中でさびしく孤独を生きて死んでいく人の増加が心配される時代になった。

こうした現代社会の危機の中の優先課題は、孤独を解消するための基本である結婚と家庭のきずなの再興である。なぜなら 、「愛に始まり、愛によって生かされる家庭は、人間共同体、すなわち、夫と妻、親と子、親戚からなる共同体」(ヨハネ ・パウロ2世使徒的勧告『家庭』n.18)だからである。同勧告はさらに言う。「 人は愛なしには生きることはできません。もし愛されず、愛に出会うことがなければ、 またもし愛を経験し自分自身のものとすることがなく、愛に深くあずかることがなければ、 人は自分さえも理解できないままに終わり、その人生は無意味です。夫婦間の愛、そして、 さらに枠を広げて同じ家族同士の愛、すなわち親と子、兄弟と姉妹、親戚やその他の同居者の間の愛は、 家庭を絶えずより深く、より親密な「交わり」に導く絶えざる内的なダイナミズムによって生かされ支えられています。 このような交わりが結婚と家庭の共同体の場であり魂なのです」(同)。

この大切な結婚と家庭が経済格差と無縁社会の中で危機にひんしている。すなわち、趣味や金儲けに走る個人主義、 さらには婚外での性の乱用が、結婚や家庭を軽視する風潮を生み、未婚や離婚の増加を助長しているのである。

次に、結婚と家庭の基本的な使命は夫婦や家族の共生とともに、子どもを産み育てることにある。上掲の使徒的勧告は言う 。「人間をご自分の似姿として造られた 神は、父としてのご自分の愛と力に特別にあずかるように男女を招いています。それは、 人間の生命というたまものの継承における彼らの自由と責任ある協力を通して実現されます。神は彼らを祝福し、言われた 。『産めよ、増えよ、地を満たし、地を従わせよ』(創世記1:28)。このように、家庭の基本的な務めは 生命に仕えることであり、創造主の最初の祝福、すなわち、出産によって神の似姿を人間から人間へと伝えていく祝福を、 歴史の中で実現することです」(同 28)。

ところが、現代の悲しい現実は夫婦の性が生殖から切り離されていることであろう。確かに子育ては大変であり、 金もかかる。出産や育児は自己実現を妨げる要因として敬遠する風潮もある。しかし、 この世に人のいのちより尊いものはない。 そのいのちを伝達する両親の務めは他のどんな仕事よりも大事な尊い仕事であり使命なのである。 子どもを産み育てることの使命感に目覚め、何ものにも代えがたい子育てに勇気をもって邁進してほしいと思う。

もう一つ、このような家庭を守り支えるのは国家の重要な補完的使命であることを思い出してほしい。これは、 今日のような家庭の危機にあってはとくに重要な国家責任である。上掲の勧告は言う。「家庭と社会は、 個人と人類の善を守り高めていくために補い合う機能をもっています。しかし、社会、とりわけ国家は、 家庭がそれ自身の独自の権利において一個の社会であることを認識しなければなりません。ですから、社会は、 家庭との関係で補完性の原理を堅持する重大な義務を負っています」(同45)。

社会の生きた細胞である家庭は、社会の土台を守ると同時に、優秀な人材を育てて社会に送り込むことによって社会を「 生かす」共同体であるから、社会もまた家庭を守り助けなければならないわけである。そういう点で、今回の「子ども手当 」が国民の税金によって賄われることには大きな意味がある。従ってまた、子ども手当や高校無償化のための財源が、 他の財源を屑ってでも保障されるのは正当なことと考えられる。それに、 持ち過ぎている金持ちからもっと直接税を取り立ててもよい。持ち過ぎている財産はもともと持たない者に属している。 聖ヨハネ・クリゾストモは金持ちに警告している。「自分の財産を貧しい人びとに分かち与えないとすれば、 それは貧しい人びとのものを盗むことになり、彼らの生命を奪うことになります。 わたしたちが持っている物はわたしたちのものではなく、貧しい人びとのものです」(『カトリック教会のカテキズム』 2446参照)。

この記事の上へ