小さないのちが尊ばれないわけ

Itagaki, Tsutomu (イタガキ ツトム)
板垣 勤
カトリック会津若松教会司祭
許可を得て複製

私たちは「いのち」や「平和」の尊さについて話し合うことがあります。世の中が何かと物騒でせわしなく、人の心を不安にさせることが多い現代において、「いのち」と「平和」について語られることが増えるばかりです。

しかし、「いのち」や「平和」の尊さについて多く語られ、さまざまな運動を重ねてきた戦後の60年を振り返ってみると、何か不思議な気持ちになります。なぜならば、私たちが求めてきた「いのちの尊重」、「本当の平和」は一体いつ実現したことがあったかと、自問せざるを得ない状況が数多くあるからです。

確かに、私たちが生きてきた戦後の時代は「平和」を求めることにおいて、それ以前の時代と比べると圧倒的に、しかも世界的にも大きくたくさんの声があった印象があります。私たちは第二次世界大戦の反省や教訓から、平和の実現を目指したにも関わらず、平和な時代は身近になるどころか、どんどん遠ざかってしまっているような気がします。

たとえば戦後の朝鮮戦争において中国人民軍の人海戦術は国連軍に脅威を与えましたが、人のいのちを数で計る「いのち」を軽視するだけの戦術でした。その後、民族自立の精神でアジア、アフリカ諸国が独立戦争をしたときも、憎しみの心が強く支配したことから、人のいのちは必ずしも尊ばれませんでした。

ひとたび戦争が始まれば、誰のいのちであれ例外なく死の危険にさらされます。世界中で行われるようになったテロは、当然のこととして無差別攻撃を仕掛けています。

この世に見られる争い事はどんなに小さく目立たなくとも、人のいのちを様々な形で蝕んでいきます。とりわけ、小さないのち、弱い立場の人のいのちが大切にされなくなることは、銃弾こそ飛び交わないものの戦争に等しいと理解して間違いないでしょう。

ところで、今の日本は以前に比べて、小さな「いのち」を死に追いやる中絶行為は目立たなくなり、しかもそのことは悪いことではないと考える人が多くなっているような気がします。とりわけ「性の解放」が持てはやされるこの時代にあっては、自己中心の考えと罪悪感の希薄化によって、中絶行為は低年齢層へと浸透し、闇の中で続けられています。        

あるいは、日本は大人の男たちが年に四万人近く自殺する国となってしまいました。それは交通事故の年間死者数を上回り、まだ増えるのではないかと心配されています。

それらのことは日本の国が「いのち」に関わることで病んでいることを表しています。「いのちは尊い」というきれいな言葉とは裏腹に「いのち」が軽視されています。それによって、社会的弱者と呼ばれる人々が人間らしい生き方から遠ざけられることになっています。

それは明らかに社会が種々の面、とりわけ精神的にも霊的にも歪んでいることを表しています。これらによって、どれほどの人や家庭が傷付き、苦しみと悲しみを耐えていることか想像を越えるものがあります。

私たちは先人の知恵として語られているように、何ごとであれ「たいしたこと無い」と高をくくってはなりません。なぜならば、身の回りで起こっている「いのち」の軽視が、今日も数多くの悲劇を生み出し、私たちの生活に脅威を与えているからです。

一人ひとりの人が「神のいのち」を持っていると認められ、敬意を受け安心して伸びやかに暮らせる日の実現を願い、それぞれに自らの「いのち」を大切にし、他の人にも心からの思い遣りを持つようにしたいものです。 

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