胎児は人間です

Ishii, Yasuto (イシイ・ヤスト)
8月2006年
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中絶をやめさせるには、胎児が人間であるということを、どうしても納得させる必要があります。他のこと、たとえば「かわいそう」とか「その後ずっと罪悪感になやまされますよ」など、いろいろ言ったところで、それは実行後に生じるものであって、実行前のものにはどうも説得力がないと、いつも感じています。そこで誰かそういうことを力強く証明してくれないものかと、いつもまっているのですが、なかなか実現しません。

反対者の言いぶんは「まだ人の形をしていない」とか「脳など器官がまだできあがっていない」など、だからヒトではない、というものだと思います。しかし器官がまだすべてそろっていないといっても、それが人間ではないことの証拠にはならないのです。ヒトとはこれとこれとこれの器官がそなわったものという定義がないからです。

意識のないことはヒトでない証明ではありません(ねむっている人、怪我で脳に障害をうけた人)

昔は外形によって生物を分類していましたが、その後解剖学の見地から骨格などによって分類するようになり、今ではDNAによって分類しています。DNAによってオランウータンかヒトか、肉親かどうかなどわかるようになりました。DNAがヒトのものであれば、べつのものにつつまれていても、栄養摂取上他のものに依存していても、それの部分でないかぎり、その生きものはヒトです。

受精によってそのDNAは完結し、放射線などによって小異がおきたにしても、以後、本質的部分において変わりはありません。

受精のあと全体としてみると存在の種類と本質を左右することはもう起らないといってよいのです。それ以後外から与えられるのは栄養や酸素などで、これは大人の場合と同じです。

器官が「そろっていない」「欠けている」のではなく「まだ完成していない」というべきでしょう、しかも未完成にとどまっているのではなく、今、現に完成へと進行中なのです。人工衛星の太陽電池のパネルが今、開きつつあるところなのに、機能不全といって、あるいはないのとおなじといって衛生を爆破する人がいるでしょうか。

非常にめずらしく貴重な蝶がいて、それを採集すること、標本をつくること(結果としてしなせてしまう)等がきびしく禁じられていたとします。青虫だから、幼虫だから、翅がまだないから殺すのはかまわないなど考える人がいるでしょうか。生きている卵、幼虫を殺すことは成長した蝶を殺すことと同じです。

たとえばある国で、12週間になる前なら、おろしても犯罪とされないことになっていたとしましょう。「12週」のと「11週と6日」との間に、何がどう違っているというのでしょう。決定的なちがい、歴然とした区切りが、そこにあるのでしょうか。

一方がヒトで、もう一方がヒトでないといえる何かの違いがそこにあるのでしょうか。それに成長の早さには個体差もあるではありませんか。「12週と1日」の胎児と「12週ちょうど」との違いは何でしょう。この調子で7日と6日とではどう? 6日と5日のとでは…と進んでゆきますと、何週目ということで許されたり、許されなかったりという論理は間違っていることがよくわかります。

人の命にかかわることは絶対的安全主義がとられるべきで、「だいたい、このへんでゆきましょう」といったことは、どんな場合でも決してゆるされません。

古代ギリシャの哲学者ゼノンの出した運動を否定する論法について、ベルグソンは運動は連続性の面からとられるべきであって、各瞬間のたしあわせではない、ということでしりぞけました。

胎児が人間であることも、この連続性の論理で守られるべきだと思います。

受精卵をある瞬間で区切って、前は「もの」あとは「ヒト」とすることができるような『時』はどこにもないのです。

最後にひとことつけ加えたいことがあります。年少者による殺人事件がおこるたびに命の大切さを教えるようにしたいと関係者はいいます。どんな話しをするつもりですか?

中絶を平気ですすめるような大人たちに命の大切さについて発言する資格は全くないということです。

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