『生命の尊厳倫理』と良心にもとづく産婦人科医療に迫る国際バイオエッシクスの脅威

ダイアンヌ・アーヴィング医学博士
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

『はじめの小さなたったひとつのあやまちが最後には無数のあやまちとなる』

*トーマス・アクィナス(De Ente Et Essentia)
*アリストテレス(De Coelo)

1. はじめに

いま何よりも必要とされているこのような会議(「産婦人科の未来――良心にもとづく医療教育を受け、良心にもとづく医療をおこなう本質的人権」)に参加できることを光栄に思う。現在、カトリック系の医療機関に、そして世界国々のあらゆる社会にはなはだしい差別と圧力、そして差し迫った脅威が存在している。本会議の参加者はその目撃者となっている。

今日、最も緊急に検討すべき事項でありながら、まだ検討の粋に達していない医学上のジレンマのひとつが、ヒト胚に関する正確かつ根本的な科学的知識への足がかりである。ヒト胚については実験にもとづく科学的知識がこう証明している「常態において、ヒトは、受精した瞬間、つまり女性の卵管に単個細胞胎芽、受精体として誕生したときがその始まりである」と。実際、受精が、ヒトの、ヒト胚の、ヒト器官の、個々人の、そして「胎児」の始まりなのである。この正しい科学的知識なしには、ことの善悪を見極めることも、中絶やその関連の医療・科学上の問題について倫理的に正しい判断を下すことはできない。正確な科学知識の活用がこうした問題を考えるうえでの原点である。

ヒト胚がヒトであるということを確認することが、良心を正しく培ううえで、つまり特定の医療・研究において「正しい」か「間違っている」かを判断するうえで不可欠である。「良心」とは哲学上の自然法則理論においては主観的規範である一方、正しく培われた倫理、つまり客観的現実と客観的真理との一致を見、客観的かつ科学的真理を土台とするものでなければならない。このポイントからはずれた誤った科学知識や間違った情報が、真の良心の形成、そして医療における倫理的判断を狂わしている。

ここに集ったのは良心にもとづいた医療をおこなう産婦人科医に対する圧力や色眼鏡の根本的な原因を探り検討するためであるが、わたしはそれよりも「大きな視点」から考えたいと思っている。国際化したバイオエシックスを種とし、社会構造や政治をその土壌とする、目にははっきりと見えないながらも確実に広がりつつある重圧や色眼鏡についてである。こうした構造が、早期ヒト胚が完全な人間かつ人格であるという正しい科学知識の習得普及をじゃましているのである。

具体的に言えば、わたしはここで次のような事項にスポットをあてたいと考えている――(1)近年かたちづくられた「国際的・非宗教的バイオエシックス」に内在する反生命哲学が政体におよぼす大きな世界的影響、(2)「生命の尊厳論理」に対する国際バイオエシックスの思想的脅威――「優先」功利主義としてのバイオエシックスをその中核として捉えた場合(3)ヒトクローン、ヒト胚、ヒト胎児幹細胞研究に関する国際的バイオエシックス論争における歴史的かつ現今普及している誤った科学知識。

2 国際バイオエシックスにおける反生命哲学

A. 多様な倫理観、多様な結論

まず、国際バイオエシックスに内在する反生命哲学を歴史的に紐解いていきたい。ここでは米国における生命倫理学の正式な「誕生」についてごく簡単に説明していく。そもそも「生命倫理」とは何か?大抵の人はこう言うだろう。医学やその研究における最新技術のさまざまな問題――クローン技術やAIDS新薬のことである――に従来の哲学上・理論上の倫理を照らし合わせるものである、と。

しかし、そうではない。生命倫理の哲学的土台は、従来の非宗教的医道やローマカトリック教会の医倫理の哲学的土台とは全く違う、相反するものでさえある。従来の医倫理は、不可侵である患者のいのちや健康に対する医師の義務がその中核となっている。生命倫理のそれは本質的に功利論であり、「最大多数の最大幸福」に焦点を当てている。総合的な「優先」「利」を最大限にすると言えばわかりやすいであろう。

ここで焦点を明確にするため、さまざまなトピックにおいて非宗教的医道とローマカトリック教会の医倫理が導きだす結論について考えてみたい。非宗教的医道では普通次のような事項を倫理的とみなしている――中絶、避妊、堕胎薬の使用、障害のある胎児を中絶する目的での出生前診断、代理母、ヒト胚およびヒト胎児研究、ヒトクローン、ヒトキメラの形成(べつの種との交雑育種)、ヒトES細胞・胎児幹細胞研究、「脳の誕生」、精神疾患患者を対象とした実験的ハイリスク研究、安楽死、医師の自殺幇助、あらゆる希望をしたためたリビング・ウィル(生前発行遺言)。一方、ローマカトリック教会の医倫理はこれらすべての非倫理的なものとみなしている。

では、この2つの倫理システムが全く反対の矛盾した結論を導くことになったのであろう?その答えは予想がつく。どの学術的な倫理理論にも独特の根本原理がある。それぞれの倫理原理からは必ず違った結論が導きだされる。例をあげてみよう。ローマカトリック教会の医倫理は道徳律(自然律の哲学的倫理観、ヨハネの黙示録、教権の教えの組み合わせ)に組み込まれた倫理原理をその土壌としている。非宗教的倫理観――広く理解され受け入れられている医倫理――では、国家委員会が打ちだした3つの倫理原理がそのベルモンテ・リポートにもあるように土台となっている。こうした全く異なる倫理原理からは全く異なる倫理観が導かれ、医倫理が生まれ、結論となるわけである。バイオエシックスには「中立」倫理はない。いずれの倫理理論も規範であり、何が正しいか、間違っているか、はっきりとした立場をとっている。そのため、「倫理理論」――少なくともそう思える――として、多元的、多文化的、民主的社会に効力のあるものはない。手短に言えば、まさに「本質的な倫理観」と呼べるもの、「本質的な医倫理」、つまり「中立となる倫理観」がないのである。多種多様な倫理観があり、それと同じ数の医倫理があり、それぞれに独特の倫理原理やテーマや行動様式や倫理的「結論」や「その道のエキスパート」が揃っているため、バイオエシックスは、その歴史が比較的浅いにも関わらず、数多くの理論が存在する中の特異な倫理理論のひとつとなっている。

B. 正式な「バイオエシックスの誕生」

Albert Jonsenが膨大な参照資料から編纂した「生命倫理の誕生」に詳しく説明しているように、本書は医倫理の歴史について医祖ヒポクラテスの時代から第二次世界大戦後までの流れをたどっている。ここでは医倫理/研究の将来に関する著名な国際会議について詳しく述べており、また大きく分けて3つの「頭脳集団」の段階的な形成過程を説明している。この頭脳集団には、生命倫理の最終的な「誕生」にてきわめて大きな役割を果たす著名学者が集っている。この集団として次の機関がある――ニューヨークのヘイスティングス・センター(Willard GaylinとDaniel Callahanを理事として1969年に創立)、ジョージタウン大学・ケネディ倫理研究所(理事Andre Hellegers、1971年設立)、ソサエティ・オブ・ヘルス アンド ヒューマン バリュー(Committee on Medical Ethics and Theology of the United Ministries in Education 1970年創立、初代委員長Dr. Edmund Pellegrino)。

今日、受け入れられている生命倫理は、議会が「作成」し、1974年のNational Research Act議案の通過によって広まったものである。この条例では、保健・教育・福祉省長官が生物医学・行動研究におけるヒト被験者保護を目的とした委員会を設立することを定めている。その目的は「ヒト被験者を対象とした生物医学・行動研究の基本となる基本的倫理原理を定め、研究のガイドラインを作成すること」にあった。委員会のメンバーのひとりであったAlbert Jonsenは次のことに気がついた。「公法 93-348にあるような、基本的倫理原理の特定を政府機関に要請する立法措置がない」。

そのため、1974年、長官は11名からなる委員会を任命し、1978年には本委員会がベルモント・レポートと呼ばれる報告書を作成した。本報告書は3つの「倫理原理」――「人格」(すぐに理論的な意味合いの「自己決定」に再定義された)の尊重、「公正」、「善をおこなう」――を定めている。これまでのところこの原理は「ベルモント原理」、「ジョージタウン・マントラ」、「根本方針」、「連邦エシックス」、あるいは単に「バイオエシックス」と呼ばれている。明らかにこうした異なる倫理原理からは、医療において何が「正しく」何が「間違っている」か、きわめて異なる結論が導きだされている。道徳律などべつの原理から導きだされる結論とくらべてもそれは明らかである。

また1981年には、議会によってベルモント原理はガイドラインの明示的土台となった。このガイドラインにそって米国連邦政府の研究リスク保護事務局(OPRR)はヒト被験者を対象とした研究の倫理を評価することになった。この生命倫理原理は、その誕生時の定義のままに、医療研究に対する連邦条例やガイドラインの核となっており、民間や国際的なセクターでも同様の機能を果たしている。

C. バイオエシックス「理論」の概説

産婦人科医の理解において生命倫理観はそのはじめから避けがたいずれがあり、問題点を容易にあげることができる。3つのベルモント原理――「人格」(自己決定)の尊重、「公正」、「善をおこなう」――は、さまざまな非宗教的倫理哲学者の規範的倫理体系から生まれたと推測できる。その中心となったのがEmanuel Kant、J.S. Mill、John Rawls(当時、大きな影響力を有したハーバード大学の哲学者。著書「A Theory of Justice(正義の理論)」(1971年)は70年代の一部のリベラルな法律・社会理論のたたき台となった)である。

理論が根本的かつ系統的に互いを否定し合った事実は、初期の「倫理観制定者」とは無関係であると思われた。要するに、彼らはさまざまな理論的に単純化できない倫理観体系の一部分をきわめて選択的に摘みあげ、ひとつにまとめあげただけである。さらに、原理のひとつひとつを一応十分とされるかたちに定義し、いずれも他の原理を覆すものにはなっていない。生命倫理原理を知識として取り入れる方法としては、コースを履修する、セミナーに足を運ぶ、生命倫理学者のレクチャーのある会議に出席する、などがある。

しかし、理論面および実際面でも、こうした生命倫理観の原理が上手く機能しないことがすぐに判明した。なぜならば、根本的に異なるうえに相反する哲学理論を寄せ集めた生命倫理観であるため、理論的に混沌とした、学術的にかたちをなさないものであったからである。

さらに問題が大きくなったのは、この倫理観をなんとか実際に応用しようとしたことである。結果として機能しなかった。この一見それらしい3つの原理に内在する摩擦を解消する方法がなかったからである。3つの原理に内在する摩擦に関する懸念は当初からあった。Paul Ramseyはこう述べている「一般論としての倫理観の枠において、だれも次の問題について明確にそして厳密に取り組んでいない――『(摩擦が生じたとき)いったいどれが最優先事項なのか?』」。例をあげてみよう。わずかな医療資源の配分において、「公正」や「善をおこなう」の矛盾なしに(この際効用や費用に関係なく)医療を受ける「自己決定」を訴えることはできるか?答えは「ノー」である。

また、ベルモント・リポートは患者一人ひとりに「善行」をおこなうという伝統的な「ヒポクラテスの誓い」を認めていない一方、本質的に功利論となる道義について長い定義を与えている――社会に対する「善行」、つまり「最大多数の最大幸福」、である。リポートでは、国民には社会に貢献する実験的研究に参加する「大きな倫理的義務」がある、とまで記している。これはヒポクラテスの「善行」に矛盾しており、また、ニュルンベルク綱領やヘルシンキ宣言といった歴史が生みだした国際的指針に違背している。ヘルシンキ宣言では社会の「利」は個人の「利」に優るものではないとしている。

第2のベルモント原理である「公正」も功利主義のライン上にある。ここでの「公平さ」は、恩恵の公平な分配であり、また社会における調査研究の義務の公平な分配でもある。このRawls論の影響下にある「公正」の定義は、古典となっているアリストテレスのそれ――一人ひとりを公平に扱う――とは全く違うものとなっている。Rawlsの公平「理論」は、さまざまな学術分野から選出された生命倫理観制定者に大きな影響を与えている。氏の弟子であるNorman Danielsが理論を取り入れ、医療に応用しているのもそうであり、法の世界にも「忍び込み」始めた。その一例がサイケヴィチ裁判である。弁護士/生命倫理学者のJohn Robertsonは本裁判にてRawls論を引用して判決に影響をあたえている。(この裁判はいまだに議論されている「代理判決」論争を生みだすこととなった)。Rawls論はArthur Dyckによって世界人口政策にも採用されている。

第3のベルモント原理である「人格」の尊重も最終的に功利主義のかたちをとることとなった。人格の尊重はカント哲学の観念と考えられており、本概念では個々人の尊重が絶対となっている。しかし、ベルモント・リポートは、こうした概念をミルの自己決定における功利論と混ぜ合わせてぼやけたものにしている。ミルの見解では、「人格」――完全な意識のある、自律行動のできる理性のある成人――だけが倫理的責務を有した倫理の対象であると定義している。残念ながら、この個々人の「倫理対象とその責務」という論点は、生命倫理学者によって新解釈され、「自律」行動のできないもの(幼児、昏睡状態の患者、アルツハイマー/パーキンソン病患者、薬物乱用者、アルコール中毒者、精神病患者、精薄者など)は「倫理非対象」であり、つまり何ら権利をもたない「人ではない人」と解釈されている。このぼやけた推論からプリンストン大学のPeter Singerの説――この「優先」功利主義者は、一部の動物のほうが幼児や患者や障害者よりも倫理的価値があると唱えている――までの距離はごくわずかである。

結局、華やかなスタートを切った新原理もさまざまな問題から色あせ始めてきた。生命倫理観の制定者たちまでも「生命倫理観」としてのベルモント原理には、医師や研究者たちの指針としてゆゆしい問題があることを認めている。ヘイスティングス・センターのDan Callahanも25年という年月ののち、生命倫理は機能していないことを認めている。Gilbert Meilaenderは次のように述べている「バイオエシックスにおいては(人の実体であり真価である)たましいがなんといとも簡単に失われるのであろう」。国家委員会理事のJonsenは最近こう記している――「いま、バイオエシックスは『徹底的な診断と予後の必要な病人』と捉えるべきである」、と。生命倫理に異論を唱える舌鋒鋭い記事である「Leaving the Field(戦闘を離れる)」(Renee Fox、Judith Swazey)では、臓器移植を世界的な規模で捉えて懸念を示し、生命倫理政策がもたらす恐ろしい倫理観のジレンマを深くえぐっている。生命倫理原理の妥当性に関するさまざまなレベルでの論争やバトルが、すでに古典となった1,195頁の学術書(Rannan Gillon編集)に記載されている。ここでは世界中の99名の学者が生命倫理論争に参加している(彼らのほとんどがバイオエシックスの「原理中心主義」に異を唱えている)。バイオエシックスはもうとても擁護できるものでもなく、たとえ擁護しても何も生まれない。

今日のバイオエシックスにまつわる理論面・実際面の混沌の理由として、ほとんど誰でも生命倫理提唱者になれることもあげられる。病院に籍を置く、あるいは政府の生命倫理委員会に名を連ねている「プロの生命倫理学者」や医師や研究者や弁護士のほとんどが、こうした学問分野の学術的学位をもっておらず、たとえ学ぼうとしている専門家予備軍に対しても一律の標準カリキュラムはない。生命倫理学の教授のほとんどが、自分が教えている科目の歴史的哲学的ルーツを知らないのが実体である。また、コース内容は大学ごとに異なっており、地方や州や全国レベルの審議委員会も学術的標準もない。そして生命倫理学者の職業規範綱領さえないのである。

上記のような、そして上記以外の辛らつな批判(とくに学術内や一般研究者からの批判)があるため、現在では多くの学者が好んで次のような見解を述べるようになった――我々の分野は学術的というよりも「一般論説」の態をなしており、しかるべき原理ではなく民主主義的討論にてかたちづくられる「世論による倫理」である、と。ここでの問題は、「論説」に用いる倫理観原理が、ベルモント・リポートや生命倫理揺籃期の学者が定義した定義の域を越えておらず、「世論」をつくるのも概して(患者やその家族や一般大衆ではなく)「生命倫理学者」であることである。そのため、プロセスは純然たる「中立」でも「民主主義」でもない。そして、生命倫理が単なる「論説」であるならば、それをとりまく人間が「生命倫理の専門家」とみなされるのはどういう理由なのか。なによりも奇異なのは、もしもバイオエシックスが規範的倫理理論であるならば、つまり何が「正しい」「間違っている」のスタンスを取っているならば、「中立」の論理ではない。それではなぜあらゆる文化や民族が混在した民主主義社会の国民に押し付けられるのはどういう理由なのであろう。

D. 国境を越えるバイオエシックス

上に述べたような大規模かつ実のところ致命的な欠陥にも関わらず、バイオエシックスの3つの原理――自己決定、公正、善をおこなう(当初の定義)――は、いまだに政治、社会、医療、研究を管轄するさまざまな政策制定機関の文献のそこここに姿を見せている。例をあげると、1978年に米国議会が設立した大統領の諮問機関「医学、生物医学、行動研究における倫理問題の研究委員会」では、広範な医療倫理問題に関する報告書、おそらくこれが最終版となるのだが、この報告書にてこの先の3つの生命倫理観原理を引用している。米国国立保健研究所(NIH)の1998年のヒト胎児組織移植会議、同研究所の1994年のヒト胚研究パネル調査、1995年にクリントン大統領が創設した国家生命倫理諮問委員会でも、「倫理」をかたちづくるうえでベルモント原理を規範として引用している。この生命倫理観が現在政府条例に慣習的に用いられている。ヒトを対象とした医学的研究における研究リスク保護事務局(OPRR)条例、一般規則、施設内審議委員会ガイドブック、政府病院倫理委員会ガイドブックにおいても同様である。バイオエシックスを土台とした政府条例や政策は数知れずあり、そのために生命倫理の基準は「連邦倫理」である。

民間セクターにおいても同様の生命倫理原理が、民間病院の倫理委員会のガイドブックやほとんどの病院・医療施設の医療方針のベースとなっている。一部のローマカトリック系の病院や医療施設も含まれている。

学界内でも、生命倫理原理は現在あらゆる学術分野の「倫理」に浸透している。民間政策、工学、ジャーナリズム、ビジネスもそうである。軍事「倫理」さえ例外ではない。多くのカレッジ、大学、医大、看護学校では旧来の生命倫理学を必須課程としている。生命倫理はメディアや法的倫理にも大きな影響を与えており、「医療法」や「動物権利法」といった新たな法律分野まで生みだしている。生命倫理学はいま現に高校の教室にも登場している。これにはジョージタウン大学・ケネディ倫理研究所の資金の潤沢なプログラムが大いに貢献している。

バイオエシックスはいま国境を越えている。1997年現在、国際生命倫理協会がある。本協会の創設したのはオーストラリアの生命倫理学者たちであり、初代会長はPeter Singerである。国際医学団体協議会(CIOMS)は、世界保健機構およびUNESCOとともにこの何年来生命倫理学に注目し、さまざまなトピックの国際的指針を発表している。1985年、欧州会議は生命倫理専門委員会を創設している。ここでは広範な国際審議会をおこなっており、主要な生命倫理問題に関するガイドラインをはじめとした生命倫理年次総会を組織している。UNESCOは1993年に国際生命倫理委員会を創設した。ECとその立法部である欧州議会は生命倫理政策を打ち立て、生命倫理研究に資金を提供している。生命倫理の研究所や学界は世界中に存在している。「ボンから北京、バンコックからブエノスアイレスまで」とJonsenは皮肉をこめて表現している。1994年版のUNESCO総覧を見ると、米国以外の国々に498の研究所があることがわかる。いずれの研究所でも、揺籃期の生命倫理学者がベルモント・レポートで定義した、「自己決定」、「公正」、「善をおこなう」を定義している。

国家委員会やのちに発足した生命倫理委員会といったご指名集団の創設ついてはつねに懸念がつきまとっている。この懸念はときに「委員会倫理」や「コンセンサス倫理」と呼ばれ、ヘイスティングス・センターのオリジナルメンバーのひとりRobert Morisonが早くに発表している。Morisonはきわめて早い時期に新たに生まれた「生命倫理」という分野について見解を述べている。「危ぶむべきことは、委員会が機構となり、生命倫理学者のおもわくが本国の法律となることである。正誤の抽象的概念が義務論的原理として姿を現わし、まず『指針』として人々の目に触れ、最後には法律として効力をもつ、といったシナリオは実にたやすく現実になる」。Jonsenの見解は次の通りである。「Morisonの報告は多元的・非宗教的社会における『倫理委員会』の変則的役割の警告となっている」。

バイオエシックスが我々のまさしく目の前で旧来の倫理に取って代わりつつあるのに、その前提そのものに疑問をもつものはほとんどいない。しかし、我々はしっかりと把握すべきである。理論面および実際面における「最大多数の最大幸福」を人間行為の規範とする究極的な功利主義とはいかなるものか、と。ここには、約2,500年のあいだ、人を癒す医師に求められた患者中心の倫理である「ヒポクラテスの誓い」――いかなる病気であれ、どのような小さなものであれ、弱きものであれ、障害をもつものであれ、敬意をもって診療にあたる――と何ら結びつきがない。もちろん、道徳律の原則を土台としたローマカトリック教会の医道ともつながっていない。

E. バイオエシックス揺籃期のあやまち

先に記した通り、現実に科学の誤用は、産婦人科医や医療関係者や女性が、中絶や堕胎薬の使用やその他さまざまな問題において真の倫理を培ううえで障害となっている。バイオエシックスはその誕生から、しかるべき計画を押し進めるべく独自の「科学」を喧伝している。

注目すべきは、国家委員会がいくつかの「奇妙な」科学的定義をその報告書に登場させていることである。例として1975年の胎児研究報告書をあげてみる。委員会もそのことは承知しており、次のような注意書きをつけている――「本報告書の目的において、本委員会は医療、法律、一般の慣習とは異なる定義を一部用いている。こうした定義は明確さを目的としたものであり、立法命令の表現に準拠したものである」(1974年 National Research Actより抜粋)。委員会が使用している「奇妙な」学術的定義のひとつに卵子着床初期段階(受精から5〜7日後)としての「胎児」がある。それ以前は単に「前胚」となっている。「ヒト」と「胚」についての定義はされていない。同様に、委員会のベルモント原理を土台としたOPRR連邦条例にも2つの「奇妙な」学術定義が認められる。「胎児」と「妊娠」のいずれも卵子着床初期段階と定義されているのである。ここでも「ヒト」と「胚」についての定義はない。

もちろん、こうした「定義」はいささか突飛であり、そのことは委員会理事のLouisellもその異議を唱えた報告書で指摘している。1880年代以降、Wilhelm Hisの3巻からなる学術書「Anatomie menschlicher Embryonen」の発刊において、受精がヒト、つまりヒト胚の存在の始まりであることはわかっている。正常妊娠もまた女性の卵管内の受精からスタートする。「胎児期」は受精後9週目までは始まらない。

明らかに、国家委員会の報告書やOPRR連邦研究条例に登場する「奇妙な」学術定義、もしくは再定義は、「芽吹いた」ヒト胚や人工的に作成したヒト胚を、今後のあらゆるかたちの政府レベルの保護や監視の目から隠すことを目的としている。とくにIVF「治療」や研究にて生物医学的材料として用いる生育可能なヒト胚に対する関心の高まりを想定している。こうした胚はヒトクローン技術やヒトキメラ研究にてとくに重んじられている。

国家委員会発足以降、連邦政府は研究における濫用をふせぐ目的において、早期ヒト胚を「ヒト研究用被験者」として認めていない。単に「ヒト研究用対象」としている。それに続く連邦条例のどれも適用していない。正確なBiology 101は、「初期ヒト胚」や「ヒト胎児」の定義の標準に用いられていない。これは関連事項における連邦/州/国際立法、条例、ガイドライン用の「学術的」表現にて如実である。多くの人々が混乱しても不思議ではない。

F. バイオエシックスにおける「人格」の誤用

産婦人科医が念頭に置くべきことであるが、いかなる哲学的・理論的倫理の理論を理解しようとするときもその鍵となるのは、その哲学的・理論的「人類学」、つまり「ヒト」や「人格」の定義を明確にすることである。人類学ごとに独自の倫理理論が導きだされる。事実に即した人類学もあれば、そうではないものもある。

バイオエシックスは、その理論は「人類学」的理論ではない、つまり「人格」の理論ではない、と表明している。バイオエシックスはただ単に「倫理」である、と。しかし、生命倫理の議論のほぼほとんどが、認めようが認めまいが「人格発生」問題を抱えている。中絶、堕胎薬の使用、ヒト・胎児研究、クローン技術、幹細胞研究、安楽死などの議論ではなおさらである。そのほとんどが厳密なヒト発生学を否定しているか、独自の発生学をつくりだしており、受精の時点ではヒトは存在しない、あるいは少なくとも「パーソン」ではないと主張している。いずれの「理論」でも、(国家委員会以降の表現においては)せいぜい「レベルの低いモラル」しかない。ほんのときおり、受精以降の時点――(理論ごとに異なる時点ではあるが)卵子着床(受精から5〜7日後)、14日間(原始線条の形成)、「脳の誕生」(皮質や新皮質の形成)など――において、権利を保有したほんとうの「パーソン」が存在するとしている。こうした生物学的しるしが現れるまでは、単に「幹細胞」、つまり「前期胚」があるだけとしている。

実質的には、「人格発生」に関する議論のすべてが誤った知識にもとづくものであり、その知識から独自の哲学的「人格」を訴えているが、そうした理由からこの主張はしごく当たり前であるが根拠のないものとなっている。それでも、このような誤った主張が世界中の政策制定にきわめて大きな影響をおよぼしている。とりわけ、「脳の誕生」神話(下記の「優先」功利主義にて詳細に検討)や、McCormickやGrobsteinの「前期胚」神話がそうである。この影響についてはざっとでも検討してみる価値がある。カトリック系産婦人科の日々の診療に対する大きな重圧の根源がある程度ではあるが明確になるからである。倫理神学におけるMcCormickの影響については多くが認識している一方、彼の全く異なる分野である「非宗教的生命倫理」における業績に目を向けている人はほとんどいないと思われる。

1970年代初期、Richard McCormick, S.J.は障害のある新生児の死を認めるべきであると主張した。「カトリック」の倫理神学である「二重効果の原理」を応用し、McCormickは次のように結論付けた――「異例」という用語は、人間関係における可能性という観点から定義して、クオリティ・オブ・ライフの減退にもとづく生命維持医療の省略を正当化するだけの幅がある。McCormickは、1979年5月、不妊治療においてIVF研究や胚移植の安全性や有効性に関する研究に連邦助成金をだすべきとするDHEW倫理諮問委員会の見解に賛同している。これはたとえ法律上きちんとした夫婦であっても人工的妊娠に異を唱えるバチカンの立場からはずれるものである。現在、Andre Hellegers(ジョージタウン大学・ケネディ倫理研究所創設者)も同様の見解を示しており、カトリック保健協会の研究者たちがそうであったように、McCormickも真剣に早期ヒト胚(つまり、彼のいわんとする「前胚」)の「倫理的立場」を議論している。さらに、McCormickはしぶしぶながらも一部の中絶は容認できることを認めているため、一部の胎児研究も認めるべきであろうという見解をもっていた。McCormickは次のような考えをもっていた――子どもであっても、明確なリスクやはなはだしい苦痛がないものであれば、治療目的以外の実験に参加する倫理的義務があり、そのため、親は自分の子どもに恩恵がない研究にもあえて子どもを参加させる代理承諾権がある、と。彼のこうした社会正義における倫理的義務論の根拠は、「人間社会の利益への貢献」としている。彼の論じるこの倫理的義務は、今日、胎児にまでおよぶことになる。Paul Ramseyも早期胚の「倫理的立場」について懸念を示し、McCormickやGrobsteinの「前胚」論を認め、不承不承ながら胎児研究を是認した。この3名の研究者やここに登場していない多くの研究者たちが、初期の胚においては、「卵割」まで、あるいは14日目前後の「個体」段階まで、さらにはもっと後期のヒト発達時点まで、倫理的特質が存在しないと主張している。

生物学的段階に関わらず、この論争のポイントは、受精後の「人格」もしくは「人間」としての「発生」である。

哲学的観点から見ると、彼らの主張は「人類学」の問題であり、歴史的に見れば非常に脆弱かつ弁護の余地のないものである。そこではたましいと肉体が別個のものであり、それぞれが独立して存在していることになる。しかし、考えてみていただきたい。「精神」(「たましい」)と肉体(「物体」)に実質的な分断やはざまがあれば――この場合、「人格」の「発生」があるかどうかが問題となる――、「結合」の前であろうと、あとであったとしても、この別個の存在のあいだに存在するいかなる結びつきも説明できなくなる。このような「分断」を立証する科学的データは一切ない。「発生」についても同様である。

ここでは長たらしい説明はあまり役に立たないが、「発生」論を論破するしっかりとした論証が長きにわたって発表されている。簡単に列挙してみる。『理性的存在であるたましい』には事実上たましいとしての能力以外の能力があり、そうした能力には分裂がなく、たましいと肉体のあいだにはざまはなく、たましいと肉体はひとつの物質として共存するものであり(これはアリストテレスや聖トマスはそう述べている)、受精後ただちに人間の理性的たましいの『生長』能力を証明する科学的証拠がある場合――つまり、明示的なヒトタンパク質と酵素の製造、具体的なヒト組織・器官の成長――、理性的たましいは受胎時に存在する、となる。人格はヒトとしての始まりとともに始まる。ニンジンが生まれるわけでも、カエルが生まれるわけでもない。我々はこのことについて経験的に知っているはずである。

最も早い段階の胚にも、その内在する人間たるべき徳目において――このことは(自然律の哲学的倫理を土台にして)我々のだれもが認識すべきことであり、数多くのキリスト教系の読物に明示的に記されている――すべての人間と全く同じ敬意、尊厳、法的保護に値する価値があることを確固たる真実としてこれまで認識し、認知し、取り組んできた。この知識は適切な道義心を培ううえで不可欠である。

この知識を認識しない、取り組まないという選択肢は、現在ではほとんど日常に溶け込んでいるが、あるものは「パーソン」であり、あるものは「パーソン」ではないという人間を2層に分けたカースト制へとつながっている。この考えは「人格発生」として生命倫理論争で登場している。この「人格発生」概念も成人を対象とした生命倫理問題、つまり精神疾患患者や安楽死などの議論に拡大してきている。ナチスの「医学」や合理化やプロパガンダや実験、そして現在もつづいている奴隷制度の苦しみは、このような「カースト制」の必然的な結果をリアルなかたちで教えてくれるものである。

異を唱える国家委員会委員Louisellの訴えは不吉な色を秘めている――「アメリカの社会は危機にある。『すべての人が平等につくられる』という命題に真摯に向き合う姿勢を失う危機である。我々は学びなおす必要がある。だれかの権利の喪失を弔う鐘が鳴るとき、その人がたとえ最も弱い立場にあるものであっても、その鐘は我々すべてを弔う鐘である」。

3. 「生命の尊厳倫理」に対する国際バイオエシックスの脅威

バイオエシックスは確かに大きく幅をきかせている「功利主義」的倫理理論であるが、実のところ「功利主義」にはさまざまな流派がある。おそらく現在バイオエシックスとして最も知られているのは「優先」功利主義であろう。これはBenthamやMillが提唱する伝統的功利主義の亜流である。すべての「優先」功利主義を同一化するのは間違っている。それぞれの提議者はその「理論」においていささか異なる概念を提唱しているからである。その最も明快な概念の一端が主要教義の一部として世に姿を現わしている。この教義こそカトリック系産婦人科が日々顔を突き合わすそれである。

「優先」功利主義においては、影響下にある人々の「優先」(つまり、べつの表現をすれば、「最善の利」)を満たし、最大限の「人々」に最大幸福をもたらすのであれば、その行為は倫理的に正しいことになる。現代の功利主義については、Bernard Williamsが説明しているが、「人々」が実際に選択している優先にて中立のシステムであるとしている。ここでいう「優先」は対象の精神状態を反映したものであり、最善の倫理理論に合致しているかどうか以外の判断基準でその妥当性を判断するものではない。したがって、あらゆる優先は全く姿かたちを変え、対象以外には全く価値のない優先となる。Singerが表明したようにここには「利に対する平等な配慮」がなければならない。しかし、もちろん最終的には、個々の「利」は総合的な「善行」や社会全体の公益において偏ったかたちで配慮されることになる。ここがいずれの功利理論でもしばしば見逃され、過小評価されるポイントである。

とくにあげられるのは優先功利主義にて用いられる「人間」や「パーソン」の定義である。「パーソン」は優先や利や欲求などを抱くものである。こうした功利主義においては、すべての人間が「パーソン」ではない一方、一部の動物が「パーソン」であると言える。優先功利主義はとりわけ(人間だけが「パーソン」であると主張する)「生命の尊厳倫理」論者を、単純に偏見のある「種差別」主義者として攻撃することになる。Oderbergはこの攻撃の根源を次のように説明している――「この攻撃体制はPeter Singerによって知られるようになり、彼を崇める生命倫理者のほぼすべてによって地ならしされている」。彼らは「クオリティ・オブ・ライフ(QOL)」理論を優先している。「優先功利主義」が「生命の尊厳倫理」派を攻撃するひとつの方法は、文字通りそのかたちを壊し、再定義する「ソフトな」懐柔策である。ここでは非常に如才のない「考察実験」と「論理的対話」から「生命の尊厳倫理」の「賛否」を「評価」する。その目的は「QOL」理論を擁護する理論へのすりかえである。

A. Jonathan Glover

これまでの長い歴史において「優先功利主義」の著名な理論家のひとりが、オックスフォード大学の哲学者であり、生命倫理学者であり、そして優生学者であるJonathan Gloverである。1977年に発表したその著書において、Gloverはその大前提を再定義する手法にて「生命の尊厳倫理」を事実上異なる定義へと改訂した。大前提が変造されれば、そこから導きだされるすべての結論ももちろん姿を変えてしまう。

「生命の尊厳倫理」は広く次のようにその倫理を表明している――「罪のない人間を故意に直接死に至らしめる行為は、つねに倫理に反した行為である」。この大前提からは次のようなことが言える。ヒト胚および胎児は罪のない人間であり、障害者や末期の成人患者もまた無辜の人間である。したがって、こうした人間を故意に直接死に至らしめることは倫理に反した行為である。たとえ、どのような「人格」段階、状況、意図であったとしても。

しかし、Gloverは上記のような行為が「倫理に反するもの」とは考えていない。それどころかこうした行為は、彼やほとんどの優先功利主義者が強く提唱している、地球レベルの「積極的優生学」や遺伝子工学の進歩をじゃまするものとしている。そこでGloverは「生命の尊厳倫理」を次のように変造している。「生きるに値する生命を死に至らしめることは、つねに本質的に誤った行為である」。こうした生命は「単なる生物学的生命」を意味するものではなく、意識のうえで嗜好、計画、プロジェクト、欲求、感情、記憶、認識等――のちに生命倫理にてグループ化され、「理性の特質」および/または「自己意識」と名づけられている――を有する人のクオリティ・オブ・ライフであるとGloverはあいまいな表現を使っている。「パーソン」だけが生きるに値する生命をもっている。胎児や乳幼児、そして数多くの病人や障害者には「クオリティ・オブ・ライフ」をもたないため、「生きるに値する生命」を保有していない。つまり、「人ではない人」である。したがって、このような人ではない人を直接的かつ故意に死に至らしめても、必ずしも倫理に反する行為とはならない。この通り、「生命の尊厳倫理」は「QOL倫理」にすりかえられている。

B. R.M.Hare

Gloverは、オックスフォード大学の哲学者/優生学者であるR.M.Hareの学究的メンターであった。Hareにとっては、早期ヒト胚や胎児、そして乳幼児さえも「パーソン」ではない。「真のパーソン」ではなく、単に「パーソンとなる可能性のあるもの」であり、敬意を示すべき重大な「利」も「優先」もない。しかし、「そのものたち」に対してはある種の「敬意」をもっている。したがって、問題に対しては一種の数理的三角法を応用しており、彼の国際人口政策案は次のようになっている。「最大の義務は、存在することになるすべての『パーソンとなる可能性のあるもの』に対して、最善の家族計画や人口政策にて偏りなく最善をつくすことである。これは、一部の『パーソンとなる可能性のあるもの』を必然的に排除することを意味する」。なんたること。Hareは、すべての「パーソンとなる可能性のあるもの」の中から、要するに最善の生命をもつことになるグループをつくるのが最善策と主張している。つまり、今後生命をもつ可能性のあるものの中で最も優秀なものを選択するのである。Hareの生命倫理学的構想は、Glover理論である「優先」功利主義を国家(英国)および地球レベルの人口政策に組み入れることである。Hareのオックスフォード大学での最も優秀な学生のひとりがPeter Singerであった。

C. Peter Singer

今日の生命倫理学者のほとんどが、その程度にちがいはあれ、「パーソン」がいわゆる「理性の特質」もしくは「自己意識」という言葉で定義できることに同意している。真に「倫理的なもの」は、「クオリティ・オブ・ライフ」の特性である、「優先」や「利」である。こう主張するPeter Singerは、現在プリンストン大学・ヒューマン・バリュー研究所のバイオエシックスIra W. DeCamp教授である。GloverやHareと同様に、Singer(国際連合における国際生命倫理協会の創設者/初代会長、「動物の権利」の提唱者)は高等な霊長類――イヌ、ブタ、サル、チンパンジーなど、そしてエビまでも――はパーソンであると主張している。その理由は、こうした動物には「理性の特質」および/または「自己意識」があるためである。しかし、一部の人間、正常なヒト胎児や障害者、病人はパーソンでないということになっている。

米国の哲学者/生命倫理学者のRichard Freyは、このSinger論理をさらに押し進め、有数の国際生命倫理テキストに記事を掲載している。その内容は――多数の成人はパーソンではなく(パーキンソン病患者、精神病患者、精薄者、衰弱した高齢者など)、高等な霊長類の多数はパーソンであるため、上記のような「パーソンではない」ヒト成人は、実験研究材料としてパーソンである霊長類に取って代わるべきである、としている。

最近、Singerはその「優先功利主義」を獣姦に適用し、次のような結論を導きだしている――獣姦は「倫理的に正当な」行為となりうる。その行為が残酷なものではなく、関係者(つまり、ヒトと動物)の優先(性的快感)を満たし、最大多数の最大幸福(世界における「快感」総量の拡大化)につながるのであれば。もちろん、Singerは多数の動物を「パーソン」と定義しているため、Singerにとっての「最大多数の人」とは一部のヒトと動物を指すことになる。したがって、獣姦はまさしく「倫理的」となるのである。これはまさに「理論」の大暴走である。

D. その他

米国の生命倫理学者・「優先」功利哲学者であるPeter Suberもまた「生命の尊厳倫理」――つねに「パーソン」については異なる定義を内含している――に攻撃をしかけている。「『生命の尊厳倫理』を有する『生命』は、生物学的に生命力をもち、おそらく精神的な成長をともなうものであり、我々がひとまとめにパーソンと呼ぶ力と利の複合体ではない」。この教義は、すでに注目を集めている生命倫理の立場――中絶、安楽死、優生学――について議論することになる。Suberは、「罹患や悪化や依存状態の程度や種類、あるいは症状のレベル(死への緊迫度や他者への依存度、その人が死を望むか生を望むかはべつとして)」を考慮しないことに対して非常な苛立ちを覚えている。Suberは「複合型QOL」倫理の道を選んでいる。

国際連合のコンサルタント・生命倫理学者・生物学者のDarryl Macer(日本)も、「パーソン」の定義においてGloverやHareやSingerの立場を取っている。「パーソンは、通常、理性があり、自由選択をもち、知覚、体験、感情、意志、行動の首尾一貫した持続的かつ自律的本体である。これらが我々が呼ぶところのパーソンの特質である」。

Macerは本分野の研究者の多くと同様に、オーストラリアの神学者Fr. Norman Fordが記した驚くべきほど論理に欠陥をもちながらも大きな影響力をもつ生命倫理の著「When Did I Begin?(我々のどこから始まった?)」の一部を活用して、自身の「胎生学」や「人格」の概念を貫いている。Ford自身、堂々と、検証することなく、同様の誤った「ヒト発生学」を適用し――この「ヒト発生学」は、McCormickやGrosteinもその科学的に誤った「前胚」概念をかたちづくるうえで応用している――、そこから同じような「倫理的」結論を導きだしている。Macerは、1細胞の胚の生命は不可侵なものではなく、神学界に属してもいない、と主張している。「人格の生物学的特質が受胎時に存在しないことは明らかである。そこに存在するのは我々が胚と呼ぶものである、・・・しかし、それはパーソンの活動を発現していない。それはパーソンとなる可能性をもつものであり、少なくとも生物学的レベルにおいては、パーソンとなる可能性をもったパーソンといえる」。結局、Macerは社会的に許容されている概念である「人格」への「漸進的」進化や「脳の誕生」に寄りかかっているのである。彼は世界的受胎調節の強力な支持者である。

Macerにとっては、生命をもつヒト胚や胎児は「パーソン」の資格はないものの、その操作(つまり、殺処分)は「健全な社会」の「積極的優生学」の目的においては有用となりうるのである。Macerは「積極的優生学」としての世界レベルでの生命倫理構想を明らかにしている。あらゆる功利主義理論と同様に、この優生計画構想に用いる「手段」にも事実上「倫理的」考慮はない。それを必要ともしていない。個々人の受精時のパーソンとしての実在は、「科学的」、概念的、そして言語的に処分されている。あらゆる国際法においてあっさりと明確化されている。

生命倫理学の創設者のひとり、「クリスチャン生命倫理学者」Tristram Engelhardtの現代的思想を検討してみる。「厳格な意味において人格は、自己意識、理性、自由選択、欲求をもつ道徳的対象である。この意味において健常成人のみならず、同様の能力をもつ逸脱者も対象となる」。

明らかに、「人格」はさまざまな非倫理的目的にて活用されている言語ツールである。このツールは医学の領域において、中絶や堕胎薬の使用や国際人口政策や安楽死、そしてさまざまな生命倫理関連問題の弁明として利用されており、優生政策に利用されることも少なくない。現実に生命倫理分野の揺籃期をつくりだした著名な「学者」たちがきわめて率直な優生学推進論者であった。このような状態は変わっていない。より声高に、より一般的になっているだけである。

例をあげてみる。Hare(前述)の見解に非常に似ているが、WHOの代表者である生命倫理学者のDan Wiklerは最近次のように明言している――「国家の遺伝子プールは、個人の気まぐれな対策ではなく、政府レベルの政策とすべきである・・・。ヒトゲノムプロジェクトの完成は、知性の高いといったような特定の遺伝子素質を促進し、他の特質の発生率を低くすることもできる。(中略)これは正当性そのものが求めるものである」(ここでの「正当性」はRawlsと同じである)。

もちろん、「遺伝子プール」も、中絶、堕胎薬の使用、嬰児殺し、IVF、出生前選択、代理母、ヒト胚・胎児研究、ヒトクローン技術、ヒトキメラ研究、ヒト胚・ヒト胎児「幹細胞」研究、安楽死、医師の自殺幇助などの観点からも判断しなければならない。これらは、「絶対的自律性」(現在のところ少なくともこのように定義されている)や当初定義された生命倫理原理にて明確にすべき、日常的な「生命倫理」問題である。これらは単に「問題」ではなく、世界的な優生計画を推し進めるうえで必要な「ツール」ともなっている。推進者の著書を読み、レクチャーに耳を傾けてみれば明らかである。その行く手をふさいでいるのがカトリック系の産婦人科医である。

4. ヒト幹細胞/ヒトクローン研究における科学のあやまち

現在最も熱い論争を呼んでいる問題のひとつがヒト胚/胎児幹細胞研究である。研究者たちは主張している。多くの疾患を治療し、早期ヒト胚成長の科学的解明を押し進めることができる、と。ここでも道義を正しくかたちづくることは容易ではない。こうした論争も、前述の中絶や堕胎薬の使用等と寸分変わらず、同じような不正確かつ混乱したヒト胎生学や遺伝学がしっかりと幅をきかしているためである。一部の産婦人科医はこの種の「医療研究」問題に無関心であるが、遅かれ早かれこうした研究の「結果」を医療や自身の患者に適用する日がくるのである。

A. ヒトES細胞」研究

1. 新たな「前胚」説――「純然たる『多能性』幹細胞」

生命倫理学者が科学的に間違った用語である「前胚」の撤廃を余儀なくされると、それに代わる用語をひっぱりだしてくる必要があった。ある用語はいまだに研究や「治療」において早期ヒト胚の使用を「科学的」に正当だと理由づけている。

これまでの「クリテイティブな」試みの中で、おそらく最も影響力のあるものが早期ヒト胚を「純然たる幹細胞」と定義しなおしたことであろう。1999年当時、国立保健研究所(NIH)の所長であったHarold Varmusは、幹細胞研究に関する米国上院議員の公聴会前の証言にて、受精から胚盤胞段階までの早期ヒト胚を「純然たる幹細胞」と明言した。早期ヒト胚の有形の実在、つまりヒト有機体そのものが簡単に「消滅」したのである。NIHの幹細胞研究に関するガイドラインでは、こうした幹細胞の大多数が「全能」であるとの認識ではなく、IVF技術による凍結ヒト胚の「幹細胞」すべてが「純然たる多能性」であると定義する方向に進んでいった。

2. 胚に成長する摘出「幹細胞」

議論において説明されていないが、IVF技法にて摘出されるヒト胚のほとんどは非常に早い段階、通常4〜8細胞の段階(細胞層内外に分化がはじまるかなり以前)にすぐに使用されるか凍結される。5〜7日目の胚盤胞段階(胚には最低30〜150の細胞が形成され、細胞層内外に分化が始まっている)の胚は多くはない。そのため、この早期段階の凍結IVF製ヒト胚から摘出した「幹細胞」の大多数は、実際には多能性ではなく全能性である。奇妙なことに、論争の大半が日齢の進んだ胚盤胞段階の冷凍胚に焦点を当てており、その「幹細胞」(内細胞塊より摘出)は「多能性」とされている。しかし、ほとんどのIVFが胚盤胞段階の胚を使用していない。そしてほとんどの凍結胚には内細胞塊がないのである。

また、説明されていないこととして、用語「ヒトES細胞」が、完全な胚の一部であり無傷である場合においてのみ適用できることがある。いったん「幹細胞」が、「幹細胞」の群であっても、全胚から摘出されたら細胞は全能性となり、細胞自体を「治癒する」能力を有し(「調整能」と呼ばれる)、新しい生命をもったヒト胚となる。つまり、もう「幹細胞」ではなく、いのちをもったヒトとなる。本質的な変化が起こり、これはヒトクローニング技術とほぼ同じであり、新しいいのちをもったヒト胚/人の形成につながる。世に言う「幹細胞」を使用するということは本質的にヒト胚研究となるのである。

我々は調整能にまつわる生物学的事実については、自然の一卵性双生児――「核分裂」、「卵割球分離」、「胚盤胞分裂」と呼ばれる無性生殖の形態――の例からもわかる。事実、「双胎」(「胚増殖」と呼ばれることもある)はクローン技術のテクニックである。そこではヒト遺伝有機体のコピー、つまり複製がつくられるのである。このテクニックは、IVF研究者や医師によって真剣に検討されている。IVF「治療」において、成熟した生育可能な卵子を排卵できない年齢の高い不妊患者の単胚からヒト胚を「増殖」させるためである。確実なことは、IVF医師も患者もその子宮に移植されるものが単に「幹細胞」であるとは知らないことである。

B. 「胎児幹細胞」研究

議論において誤用されているべつの用語が「胎児幹細胞」である。この胎児幹細胞は通常妊娠5〜9週の中絶胚から採取する。胚期は受精時から8週目までであり、細胞のほとんどが「胎児」ではなく、「胎芽」である。また、本細胞は「体細胞」ではなく、原始性細胞であり、未成熟なヒト生殖細胞系である。これらはこの段階ではまだ2倍体細胞であり、あらゆるクローン技術(体細胞核移植等)でクローン化できる。In vitroにて成熟させて生殖細胞(精子と卵子)をつくることができ、人工授精に利用できる。これらは生殖細胞系(性細胞)であるため、DNA組換え遺伝子移植で操作でき、「異種」遺伝子を次の世代へと伝えていくことができる(優生学)。

5. 結 論

カトリック系産婦人科では良心にもとづく医療教育を受け、診療ができる権利を主張しつづけている。しかるべき良心――真実にもとづくもの――を培うことがどれほど重要であるか考えていただきたい。その真実のひとつが、受精やクローニング直後に誕生するものが新しいいのちをもった無辜のヒトである、という正確な客観的かつ科学的な知識である。これはヒト胎生学およびヒト遺伝学における客観的・経験的事実であり、成長のごく初期段階であったとしても人として扱うべきであるという道徳律の結論を導きだすものである。これこそが「生命の尊厳倫理」であり、医療や研究にて考慮・検討するうえでの原点となる。

もうひとつ考えていただきたいことがある。間違った科学や突飛なそして大きな問題を抱えた「倫理」規範を意図的に利用している悪質な生命倫理グループが世界のあらゆる国々で幅をきかしているという真実である。こうしたグループは、その医療・研究計画の推進のため(優生の目的も少なくない)、「ヒト」や「人間」の定義を書き換えている。こうしたグループは「クオリティ・オブ・ライフ倫理」派であり、医療や研究において全く異なる結論が登場している。我々皆がこうした現実にきちんと向き合わなければ、良心にもとづく医療教育を受け、良心にもとづく医療をおこなうカトリック系の産婦人科医師や医療従事者への圧力と偏見はエスカレートしていくことになる。

 
「・・・未知の現象が現われ、我々の現代社会に奥深く浸透している。その偏在は我々に全貌とあいまみえる余地を残していない。疑問禁止令。我々が目にするのは、その理論がしかるべき分析にもちこたえられないことを、そしてその理由を承知し、ドグマの前提を吟味することを禁止している輩である。「個々人」の疑問は、口をはさむことを許さない理論家の勅令によって切って捨てられている」(筆者注:わたしはここを強調しておきたい)
Eric Voegelin 科学と政治とグノーシス主義(1968年)

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