中絶に直面する女性と医師:
良心形成と道徳的選択における正しい科学の役割



医学博士: ダイアンヌ・アーヴィング
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

一. 導入

中絶問題に直面する女性、医師、その他大勢の人たちに関わる、もっとも緊急でありながら無視され続けているジレンマは、ヒト受精卵に関する正しい基礎的科学知識へのアクセス、観察に基づいて、普通、人間は受精の瞬間に単細胞の受精卵として存在し始めることを証明する情報に不足しているということです。このような正しい情報がなければ、わたしたちには中絶、ヒト受精卵研究、ヒト受精卵幹細胞研究、クローニング、異種間キメラ、遺伝子配列変更の研究・治療、その他関連する医学・科学的問題に関して、良心を正しく形成し、倫理的に正しい決定をすることができなくなります。神の啓示ほどではないとしても、正しい科学に基づくことがこの種の問題について考察する際には出発点になります。

二. 科学と哲学的人間学

「始めに冒した小さな誤りがついには無数の誤りになる」(パラフレーズしてあります)というある哲学者の見解はこの問題に関していかにも適切であり、根本に迫っているようです。科学におけるどのように小さな過ちであっても、それはヒト受精卵にある真の尊厳と地位に関する知識と理解を崩壊させて、哲学的人間学、倫理、社会学、政治、法律、神学に波紋をもたらすことになるでしょう。さらに、わたしたちのこの問題を複雑にするのは、ヒト受精卵自体が多面的であり、それ故に複数の学問分野で同時進行的に研究される必要があるということです。(例えば合理主義、経験主義、観念論、実在論、実存主義、その他のように)自分が信じる哲学の選択だけでさえも、それぞれの「存在」の定義が異なるので、問題になり得ます。つまり、「人間」と「物質」の定義が異なってくるのです。であれば、それぞれ出発点と真理の基準が異なり、故に現実に関しては異なる結論を引き出すことになってしまいます。しかし、だからと言って、わたしたちは決して「現実」を知ることができないと主張してもいいとか、すべての哲学は相対的であるとか、または単に「同じ現実の異なる観点から見ることである」ということにはなりません。そういうことではなく、ある哲学は現実に合致しているが他の哲学はそうでない、ある哲学が実際に見ているのは他の哲学とはまったく異なる現実である、ある哲学者たちは正しく他の哲学者たちは間違っている、と言う方がもっと正確でしょう。これはことさらに「政治的に正しい」言い方ではありませんが、それにもかかわらず正しいのです。

実在論もしくは自然哲学に基づく哲学者が哲学するときの出発点は、意識の中にある純粋に主観的観念ではなく、(意識の外にある)外界、つまり物質の経験です。このようにして、すべての概念はもともと機能的に獲得され、真実であると判断されるためにそれらの概念を生じさせたわたしたちの意識の外にある物質と一致しなければなりません。

これは聖トマスの、哲学的人間学を含む哲学にも当てはまります。他ならぬ聖トマスの全体論的な哲学的人間学は数多い教会の教義とか文書の哲学的根拠になっています。彼は「人格」を、三つの異なる原理もしくは原因、つまり非物質的形相(実質的には常に感覚的、植物的能力を含む理性的霊魂)、「指定されていない質量」(人間の身体)、そして実在(この一個の人間的本質が存在する行為)からなる多側面の合成物である一つの全体であると定義づけました。聖トマスによれば、「人格」の名前は、理性的霊魂にだけとか霊魂全体だけに当てはまるのでなく、実存全体に、つまり霊魂(形相)、身体(質量)、存在する行為(実在)全部によって構成される一つの全体的な存在する人間の実体に当てはまります。かくして、聖トマスにとっては全体的に存在する人間的実体が一個の人格なのです。そこには霊魂内部の分裂もなく、霊魂全体と身体の間の分裂もありません。さらに、おのおのの人格が同時に人間であり、逆もまた同じです。なぜかと言えば、人間の身体が他の何ものでなく人間になり、生きているのは理性的霊魂全体によるからです。

しかし、その多側面的成り立ちのために、人間のいろいろな側面を研究するに当たっては、異なる学問分野の「知識」の内容を使用しなければなりません。そうすると、その過程で異なる認識論とか方法を使用しなければならなくなります。そのようなわけで、いつ人間が始まるかという問題は哲学的(もしくは異なる学問を使用すれば神学的)問題です。実在論の哲学者であれば「人間」の哲学的概念を、正しい基礎科学に基礎づけられる、正しい自然哲学から帰納的に引き出すことで出発点にすることでしょう。いつ人間の身体的、物質的次元が始まるかという問題は、厳密に科学の問題です。この問題を適切に研究するのはヒト胎生学の基礎的科学です。適切な研究内容と認識論があるのは、まさに学問のこの分野だけです。

しかし、現今、基礎諸科学の研究内容自体が堕落していて、ヒト受精卵もしくは胎児が人間なのかどうか、そしてこれらの人間がどの時点で個人である人間として存在を始めるかについて、間違った「科学的」結論を出してしまうのです。

三. 科学 良心の形成と道徳的選択決定の過程

ヒト受精卵が本当に人格を備えた人間であると知ることは、わたしたちの良心形成にとって、さらには個別の状況の下でどのような行為が正しいか、間違っているか知るために中心的役割を果たします。哲学の自然法理論で良心は主観的規範ではあっても、それは正しく形成された良心でなくてはなりません。つまり、その良心は客観的現実と客観的真理に合致していなければならず、客観的な科学的真理から出発し、この真理を含んでいなければなりません。ですから、この点に関して誤謬があれば、わたしたちは正しい良心を形成することができなくなります。

間違った良心は文字通りわたしたちを奴隷にし、わたしたちの自由をむしばみます。おおくの誤謬は普通「責任を問われる」無知に起源があるとされます。つまり、それはわたしたちが打開できる事態であり、従って責任があります。しかし、わたしが問題にしているのは「責任を問えない」無知であり、このような無知に関してわたしたちは何もできません。例えば、わたしたちが正しい良心を形成するために、ヒト受精卵について正しい、基礎的科学情報へのアクセスがそれに当たります。

それ故に、道徳的な選択過程自体も堕落させられます。道徳的、神学的情報は選択決定過程において重大ではあっても、この過程にとって知的情報は出発点になります。それなのに、知的情報、特に「科学」に関する知的情報は、このような論議の際しばしば無視されてしまいます。一般的に言って、わたしたちが望むべき善(目的)が何であるかについて正しい情報を獲得する助けになるのが知的情報であれば、科学に関する知的情報も、例えば、少なくともヒト受精卵の肉体的、物質的次元が何であるか、そしてそれがいつ始まるかも含めて、自分たちの物質的現実を正しく知るというように、わたしたちがよく考える助けになります。このように、正しい科学的情報を知ることは母親、医師、その他大勢が直面する道徳的選択決定過程のまさに出発点なのです。そして、この正しい出発点は、わたしたちの善(目的)に達するための手段に関して正しく考察し、わたしたちの目的に達するために必要な行動を選択し、望み、実行するためにも欠かすことができません。ですから、この道徳的選択決定の初期の段階で少しでも科学的誤謬を冒せば、最終的にもわたしたちは正しい道徳的選択ができなくなってしまいます。   最善のシナリオであっても、最近、ヒト受精卵もしくは胎児の身体的次元がいつ始まるのかについて、正しい基礎的な科学知識を獲得するのは困難になっています。これは主に、現代の生命倫理と関連する文献にしばしば見られる科学的詐欺行為の非常なる影響によって引き起こされた情勢、混乱のせいです。これは気づかない中に、わたしたちに押しつけられており、もうわたしたちの社会全体に拡散しています。そして、犠牲者になるのは「女性」だけではありません。

四. ジレンマ:中絶するべきか、せざるべきか

現代社会の十代の若者もしくは大学生のグループについて考察してみましょう。全員が基本的にはいい子たちで、きちんとしています。全員が真面目なカトリック家庭の出身で、大事に育てられました。その中の一人がマーガレットです。理由はともかく、マーガレットは自分が妊娠しているのではないかと思い、中絶してもいいかどうか悩み始めます。それで、彼女は知識とか業績のために自分が尊敬している人たちの助言を求めることにしました。

最近の「科学的」記事とかメディアで見られる記録ものに基づいて、娘のお腹にあるのが「自分がまだ何人の人間になるかも知らない緩やかにつながった細胞群」にしかすぎないので、中絶することは「構わない」し、賢明なことである、と両親は確信しています。祖父母も仕方なくではあっても同意します。彼らは自分たちが、そこにあるのは「母親の組織のかけら」でしかないという最新の科学情報を知らなかったことを恥ずかしく思っています。ボーイフレンドは彼女の中にあるのが「どうでもいい肉塊」でしかないと確信しています。姉は、進化論的に言えばそれはまだネズミとか魚とかカエルでしかない、と教えようとします。家族がかかりつけの女性弁護士はそれが彼女自身の組織の一片、何らかの「象徴的価値」があったとしても、それは自分の持ち物にしか過ぎない、そして中絶は現代法律で許可されている、と教えてくれます。であれば、問題はどう「選択」するか、でしかありません。

彼女が通う高校の保健室にいる看護婦は妊娠というものは「卵子」が子宮内に着床するまでは始まりさえしない、と説明してくれます。さらに、コンドームを使用すれば妊娠などするはずがないとも教えます。でも「念のために」と言って、彼女はモーニング・アフター・ピルを補給してくれていました。そうです。もちろん、緊急事態に備えて…。薬剤師はそれが中絶でなど決してなく、避妊薬でしかないことを保証してくれます。実は、それは製薬会社の宣伝を受け売りしているに過ぎません。彼女が学んでいる社会学の教授は、それが本当の人間であるなどとするばかげた主張は、すでに過去のものとなった文化的、宗教的「信念体系」の残りでしかないと教えてくれます。

マーガレットは高校の図書室でこっそり医学書をめくって、調べ始めます。家族計画連盟が発行しているパンフレットもいろいろ入手しました。自分のお腹にいるのが本当の人間であるとはどこにも書いてありません。近所にある大学の医学部付属図書室で借り出した医学の教科書にもそう書いてありません。インターネットで国立衛生研究所のサイトも調べてみました。ヒト受精卵幹細胞研究については研究者でも一般の人でものぞけるファイルがあります。アメリカ合衆国国立衛生研究所長の、これらの初期の「存在物」は全能である幹細胞でしかなく、人間ではない、人間は誕生の後もしくは子どもになってからのみ存在し始めるという公的証言もあります。上院議員たちとスタッフはそのすばらしいニュースを他の上院議員たちとスタッフにも教えるために走り回り、一般民衆を教育するために何度か記者会見までします。

ワシントンはジョージタウン大学にあるケネディー生命倫理研究所図書館でも調べてみました。世界中の研究者とかこういう問題に興味を持つ一般人にとって、唯一の「倫理的」情報の源である国立医学図書館と国立衛生研究所の結論は、マーガレットのお腹に人間はまだ存在していないし、人格のある人間も存在しない、ということなのです。そこにあるのは「人間になる可能性のある何か」でしかない、と生命倫理と哲学の記事は主張しているようです。「なるほど、ところで、ピルはどこにあるのかしら?」とマーガレットはため息をつきます。あ、ありました。ポケットに他のピルと混じっていました。彼女が最近かかった性病の治療薬と混じって…。

マーガレットはかかりつけの医師に相談しますが、彼も彼女が取得した情報が正しいことを確認するだけです。そして、混じってしまったピルを区分けしてくれます。「心配することはありません。あなたが見つけた情報はすべて100%正しい科学情報です。何しろプロの医学者が提供する最新の情報ですから」と言います。さらにほほえみながら続けます。「それだけではありません。モーニング・アフター・ピルは何と言っても『緊急避妊』のためには必要ですから。だって、来学期も大学で勉強したいのでしょう?なら、わたしの言うとおりにしなさい」彼はウィンクして、遅くなりすぎない中に、さっさとそのモーニング・アフター・ピルを服用するように迫ります。でも、もしそれでも妊娠しているのであれば、彼女はいつでも中絶することができます。

いつものことながら、彼女にとってもっとも慰めになったのは教会の主任司祭でした。彼は確信を持って、そこにあるのが前受精卵でしかなく、不死の生命がある霊魂を備えた人間で何かない、と彼女に保証してくれました。「現在の所、そこにあるのは一種の植物でしかなく、神様は魂の理性的部分を質量が『適切に組織化されてから』注入なさいます。それは受精から約14日経過した時点です。だって、その後からは双生児化が不可能になるからです。ですから、神様もその時点でやっと安心して魂の理性的部分を注入して、本当の生きた人間を創造なさるのです。そうでなければ、洗礼を授ける際、何人に洗礼を授けたか神学者でさえ分からないではありませんか?」まじめな顔をして彼は忠告を続けます。「それだけでなく、神学者たちによれば、この『前受精卵とかいう物の』内層の細胞だけが後から胎児にそして大人の人間になり、外側の細胞層にある細胞は分娩の後では廃棄される部分でしかないのです。だから、そのモーニング・アフター・ピルの服用には何ら問題がありません。その作用は後から本当の人間になる内側の細胞層ではなく、外側の細胞層を攻撃するだけです。」そこで彼は少し考え込だ上で続けます。「ちょっと待って。本当の人間がそんなにバラバラであるわけはない。だから、この『前受精卵』とやらはどうも一種の『なりかけの存在』に違いない。人間になる可能性でしかないんだよ。だから、マーガレット、そのモーニング・アフター・ピル服用でも、後からするかもしれない中絶でも道徳的には許されるんだ。もちろん、それに釣り合う均衡とか意図があればのことだけど…。最近は現代科学のお陰で、わたしたち司祭は以前よりずっと司牧的になれます。教会はいつになったら科学に追いつくのだろうね。心配することは何一つない。主の平和のうちに行きなさい。」   こうして、マーガレットは忠告を期待できる友人、家族、専門家には一人残らず相談しました。その結果彼女は自分のお腹にある「もの」が本質的には無意味な物であり、生来で真実の価値がないと心から確信できました。彼女にできる選択はもう、モーニング・アフター・ピルを今服用をするか、それともしばらく待ってから中絶手術を受ける前に同意書に署名するか、になりました。彼女は自分を責めて、独り言を言います。「何てわたしはお馬鹿さんだったんでしょう。あれが赤ちゃんだと思っていたからジョンって名前まで付けるところだったわ。」このようにして罪の意識なしに一つの選択がなされました。

五. 科学と「遅れる人間化」

毎週世界中で100万回も繰り返されるのでなければ、このシナリオは滑稽でしかありません。これらの犠牲者全員に提供されるヒト胎生学の基礎的な「科学的」事実のほとんどすべては偽りです。メディアにある報告、家族計画連盟、製薬業界、プロの医学研究機関、官庁が発行する文献の「科学的」主張、生命倫理の教科書、新聞、法律、規則、国際ガイドライン、司牧・神学的「議論」に騙されてはいけません。初期のヒト受精卵は「緩やかに結ばれ合って、まだ何人の人間になるかも決めかねて、混乱した細胞の集まり」「中立的な肉塊」「母親の組織の一部」「なりかけの種」「なりかけの魚」とか「前受精卵」などではありません。これらの主張のどれ一つとしてヒト胎生学の客観的・科学的事実に基礎があるわけではありません。「前受精卵」などは存在しません。このような用語自体をヒト胎生学者たちは断固として拒否します。それだけではありません。もし受精がすでになされているのであれば、「モーニング・アフター・ピル」もしくは「緊急避妊」は中絶促進剤になり得ます。

正常な生殖行為によって生まれる一人一人の人間は、受精の瞬間、つまり正常な妊娠が実際に始まる瞬間、または試験管受精であれば精子と卵母細胞が融合した瞬間に、ヒト受精卵として存在し始めます。これは「ある信仰の教え」とか「個人的意見」とか「極端に走りがちな生命尊重運動の思いこみ」などではありません。これは客観的で科学的な事実であり、世界中のヒト胎生学者が同意する生物学の初歩です。2 + 2 = 4 のように。

受精の瞬間に質量は「適切に組織化され」この単細胞のヒト受精卵は、母親の体の中にあろうと試験管の中にあろうと、(両親から受け継いだ)自分に固有の遺伝的構成を持つ、すでに存在を始めた人間であり、発生学的にも男性か女性のどちらかです。そしてすぐに、この小さな人間は自分自身の成長と発達を方向付けます。受精卵は単細胞受精卵から連続的に12-16細胞の桑実胚の段階に、さらに5-6日経過すると胚盤胞に育ちます。内側の細胞層からの細胞だけでなく、初期胚盤胞全体が人間の受精卵つまり人間です。

このような働きと機能を指示するある種の孤立した「純粋に理性的精神」などが「注入」される前に、人間特有の蛋白質と酵素が産出され、すぐに人間特有の組織や器官が形成され始めます。生物学者であればだれでも経験的に機能は存在(形相)から生じることを知っています。故に、これら人間固有の機能とか活動は、人間である動因、つまり人間(ということは身体から分離することのできない人間の理性的形相をを備える者)によって産出されます。経験的に、わたしたちは人参とカエルの酵素、蛋白質、組織、器官が産出されないこと、人参とカエルが人間固有の酵素、蛋白質、器官、組織を産出しないことも知っています。

正しい基礎科学であれば間違いなく教えるとおり、もし人間が存在するのであれば、わたしたちはこれらの正しく客観的で科学的な事実から、存在を始めた一人の人間の中には同時に、すでに完全な魂、体、実存、人間人格も存在するに違いないという実存主義哲学的結論を直接に導き出すことができるのです。純粋な「理性的霊魂」などというものが存在するわけがありません。理性的霊魂であれば必ず感覚的、植物的能力の可能性を含み、常に物質的肉体と共に一つの合成物として存在しなければなりません。もし植物的能力が経験的に観察できるのであれば、いや、実際に観察できるのですから、感覚的で理性的能力も存在しているはずです。  

「遅れて存在を始める人格」を支持するもっとも強い論証はおそらく、「前受精卵」という概念の基盤となったマッコーミックとグローブシュタインの「個性」論だったでしょう。彼らの主張によれば、受精の際に人間がいるのかも知れないが、それはただ「一般的」個人であって、「発達した」個人、つまり人格ではない、と彼らは主張するのです。彼らによれば、「発達した」個人だけが人格であり得て、理性的霊魂はこのように後から注入されるのです。彼らが主張する「発達した個性」の根拠は「ヒト胎生学」の解釈です。つまり、彼らの主張によれば、これら初期の存在は単に「緩やかに結ばれた細胞集団」で、「まだ自分たちが何人の人間になるかさえ決定していない」のです。胚盤胞には二つの本質的に独立して、別々の層があり、内側にある細胞の層(胎芽肺葉)だけが将来の胎児、将来の大人になる細胞の源になる、と彼らは言うのです。外側の細胞層(栄養芽層)にある細胞は分娩の後で廃棄される胎盤であり、そこにある細胞は一つとして将来の受精卵、胎児などの部分になるわけがない、また、14日以前に二人以上の個人を産出する双生児化が起こるのでこの段階でまだ発達した個人が存在しない、つまり、人格としての人間はまだ存在しない、14日目に原条が形成され始め、もう双生児化が不可能になる、と言うのです。その後から最終的に「発達した」個人、つまり人格が存在すると言うのです。マッコーミックとグローブシュタインにとって、14日以内の発達中のヒト受精卵はまだ生物学的に人格ではなく、「前受精卵」でしかないのです。  

まとめてみると、「前受精卵」は「人間」であり、発生学的には個人であり、従って「尊敬」に値します。しかし「前受精卵」はまだ発達した個人ではなく、従って人格ではない。それは単に「可能性としての人格」です。それ故に、もちろん「比例的理由」のためであれば、それはヒト受精卵研究、クローニング、中絶促進の実験で使用可能です。

しかし、問題はこのヒト胎生学は間違っているということです。このような解釈に同意するヒト胎生学者がいるわけありません。例えば、初期のヒト受精卵細胞はそれほど「緩やかに結ばれて」いるわけではありません。それどころか、生物学的にすべての細胞が一人の個人に属する人間組織の一部なのです。そしてそれらの細胞がそれほど心理学的に「混乱していたり」「決心ができていなかったり」するわけではありません。初期胚盤胞が本質的に二つの別個で、無関係かつ独立した細胞層であるとするのは、経験的に見ても不正確です。発達中の人間細胞の間には最初の瞬間から常に絶え間ない相互作用があります。さらに、分娩後、胎盤胞の外層細胞だけが廃棄されるというのも真実ではありません。分娩後このように廃棄される組織の多くは内層の胎芽肺葉に起源があります。そして、(例えば、胚盤胞の外層栄養膜に起源がある絨毛膜から作られる血液細胞のように)分娩後廃棄される外層の栄養肺葉からの細胞は受精卵の一部として取り込まれます。これら二つの層にある細胞が、一種の細胞になるよう自然に「運命付けられている」わけではありません。それだけではありません。あのドーリーという羊に関する劇的実験と、医学的研究とか(人間の治療も含む)治療で大人の幹細胞を使用する人たちによれば、明白に人の胎内にあるどの細胞の「運命」が、人工的操作で転用、改造されたり、単細胞接合子の段階にまで「強制的に後戻り」させられることが可能であることを証明しました。マウスを使用する大人の幹細胞研究について最近以下の報告がなされています。

胎内の細胞に驚くほどの適応性があることを証明する不可思議な実験で、科学者たちはマウスの脳細胞を血液細胞に変化させています。今まで、幹細胞はそれぞれの器官のタイプにのみ発展して、他の器官に発達しないと思われていました。ミラノで、アンジェロ・L・ヴェスコーヴィ博士の指導の元にイタリアとカナダの科学者たちは、神経幹細胞が骨髄の造血細胞に変身できることを発見しました。神経幹細胞の血液細胞への変換は特に驚異に値します。なぜなら脳と血液は発達初期にある受精卵の中で作られる異なる胚種層に由来するからです。脳は外肺葉から、血液は中肺葉から発達します。ヴェスコーヴィ博士の業績は、三系統の細胞が永久的に自分の運命に従うよう決定付けられている、という広く支持されている推定を否定しています。マッケー博士はこの新しい発見は、分化、つまり細胞の特定目的への決定、が不可逆的でないことを示したと言っています。

これら最先端の驚くべき実験は次から次に報告されつつあり、明らかにマッコーミックとグローブシュタインなどが主張する、二つの細胞層が「無関係」であり、故に、それが自然にであっても人工的にであったとしても、永久的に「運命付けられている」という説に疑義を突きつけています。

それだけではありません。シャム双生児とか(14日という指標を過ぎて何週間、時としては何ヶ月も経過してから形成される)封入奇形胎の双生児の場合のように、双生児化は14日経過してからでも可能です。そして一卵性双生児の約3分の1は14日の前に形成されます。彼らは現在がそうであるようにその時も人格ではいでしょうか? 二人とも洗礼を受ける必要がないのでしょうか? 指標である14日が経過してから形成される双生児についてはどうなのでしょうか? 彼らも人格ではないのでしょうか?

なぜ、「双生児化」の現象が、特に、科学者の間でこれほどまでにも大きく取り上げられねばならなかったかは、明らかになぞめいています。生物学的言語での解答は極めて簡単です。一卵性双生児の場合、最初の双子は、胎内であっても、試験管内であっても正常な性的授精によってその存在を始めます。双生児化過程自体は無性生殖ですから、二人目の双子は、最初の授精等版が、自然にもしくは人工的に、分裂するときその存在を開始します。この初期受精卵の細胞は「全能」ですから、受精卵には、このような損傷を被った場合に備えて、その中に組み込まれた修復・生存のメカニズムがあります。このように、普通の条件の下で、最初の「双子」は授精によって人間(人格)として存在を始めます。二人目の双生児は細胞分裂によって人間(人格)として存在し始めます。これほどに簡単なことなのです。

もし、マッコーミックとグローブシュタイン(そしてすべての同調者)が主張する、「前受精卵」の「哲学的」(もしくは神学的)概念が、これほどにまで間違っている「ヒト胎生学」に基づくのであれば、「前受精卵」の概念自体、また生きているヒト受精卵を実験に使用とするためのいかなる正当化も、まったく無意味になります。

マッコーミックとグローブシュタインが主張するこれらの議論、また、「遅れて生じる人格」を支持する議論においては、経験的なヒト胎生学のデータにある種の哲学的・神学的概念が単に押しつけられているだけであり、もし、これらのデータが自分たちの概念に都合が悪ければ経験的データが歪曲され、操作されている、と信じます。これらの証拠を考察すれば、膨大な量の文書、規則、法律、職業倫理、薬剤師免許、薬学的文書、国内国際ガイドライン、標準的治療法、試験管授精過程、患者用の説明文書、司牧指針、生命倫理の教科書、マスコミは大掃除を必要としています。カトリック教会も例外ではありません。

六. 結論

もし、それぞれの生活の場で、わたしたちが個人として、またそれぞれの仕事の場で職業人として、これら基本的ヒト胎生学の事実を正しく知ることを故意に妨げられているのであれば、わたしたちが生きている経験と、よく考え、行動する能力の間には分裂が生じ、間違いなく、わたしたちは精神分裂を起こしてしまいます。基本的な客観的科学の事実は、これら弱く、自分を助けることも守ることもできないヒト受精卵は、本当に生きた人間であり、故に本当に生きている人格であるということです。

この客観的真実を知ることなく、中絶とかヒト受精卵実験を前にして、わたしたちはどうして自分たちの良心を正しく形成し、正しい道徳的判断を下すことができるのでしょうか? 指導する人たちが真実に忠実に、そして客観的にわたしたちに道を示し、わたしたちを導くことができるのでしょうか? わたしたちはどのようにしてこれらの非常に込み入った困難な問題に直面して正しい選択をしたり、隣人に道を示すことができるのでしょうか? どのようにして社会全体もこの単純な客観的現実を理解できるようになるのでしょうか? つまり、法体系も「共通善」を正しく認識し、その市民全員を強力に守ることができるようになるのでしょうか? この小さな人間たちをどのようにすれば、彼もしくは彼女自身のためでなく、神のためにも、わたしたちの隣人として認識できるようになるのでしょうか? 神は自らこの小さな子どもをご自分の似姿として造られ、そこからこの子どもの真の尊厳とその高い位が由来します。神はわたしたちに「生命を選択するよう」に命じておられます。しかし、「人間の生命」さえ正しく定義できないわたしたちに「生命の分化」を導き入れ、この生命に関して正しく考え、行動することができるのでしょうか? わたしたちには弱い「人間」の破壊とか再定義から生じる荒廃の歴史的事例が数多くあります。わたしたちは「客観的真実」であるとして熱心に追求された人類の勝手で偽りの二層構造に騙されてきたのです。

現代技術社会においてもっとも福音化する必要があるのはまさに基礎科学の世界です。それはこれらの科学者の回心のためだけでなく、外からの政治的、経済的圧力に負けずに、彼らが選択した分野で少なくとも知的に正直であるよう呼びかけるためです。マーガレット、彼女の両親、祖父母、姉妹、ボーイフレンド、あらゆる種類のメディア関係者、医師、看護婦、保健衛生関係に従事する人たち、薬剤師、小・中学校、高校、大学、大学院、医学校、看護学校、歯科学大学の教師や教授、福祉関係者、社会学者、弁護士、裁判官、判事、公共政策立案者、議員、諸組織の指導者、司書、生命倫理学者、哲学者、司祭、修道女、神学者、同分野または異分野の研究者でさえも、すべてが彼らの知的正直さに頼っています。赤ちゃんのジョンにしても同じです。始めに冒す小さな間違いは後で多くの間違いの源になります。

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