TOKYO 2020 LIFE APPEAL

Ikeda Masaaki (イケダ マサアキ)
池田 正昭
出典 ikedam
2020年7月21日
許可を得て複製

ワシントンD.C.のMarch for Lifeに触発されて、2014年から毎年7月に東京でマーチフォーライフをおこなってきました。全米でabortionが合法とされた日に連邦裁判所を目指して歩くD.C.のマーチを真似て、日本で中絶が合法とされた日に国会議事堂を目指して歩くことにしました。日本で中絶が合法化されたのは1948年7月13日です。7月13日とはどういう日でしょうか。カトリック信者ならお分かりかもしれませんが、ファティマで聖母が子どもたちに地獄を見せたのが1917年の7月13日でした。その30年後の1948年7月13日は、日本の地獄の始まりです。優生保護法という法律の成立ととともに、産まれる前の赤ちゃんの大量殺戮が始まりました。第二次世界大戦が終わった後の「団塊の世代」と呼ばれる日本のBaby Boomerはわずか3年しか続きませんでした。すぐさまKilling Baby Boomerに取って代われたからです。その法律は、優生思想のもとに人口削減計画をすすめる目的で導入されました。日本に優生思想をもたらしたのはマーガレット・サンガー(Margaret Sanger)です。サンガーは日本の中絶法の生みの親です。当時の日本で「サンガー女史の産児制限」というと小学生の子どもでも知っているほどでした。それくらいマスコミはサンガーを吹聴しました。マスコミは、人口削減計画のプロパガンダのために大きな役割を果たしました。戦争に負けて領土も資源も失った日本はもはや多くの人口をまかなうことができないのであるから「子どもが多いと地獄をみるぞ」と脅し善良な日本国民を追い詰めました。『人口爆弾』(The Population Bomb)で描かれたポール・エーリック(Paul R. Ehrlich)の悪魔的思考は、それより20年も早く日本で実践されていたのです。サンガーとサンガーを持ち上げる女性議員と中絶手術を医者の金儲けの手段にしようと目論んだ別の国会議員がマスコミと結託して合法的に大量堕胎がもたらされるようになったのですが、しかし、その法律自体が堕胎を認めたわけではありません。きっと驚かれることでしょうが、そもそも日本では当時も今も堕胎(abortion)は禁じられているのです。110年前にできた刑法の堕胎罪が今もそのまま残っており、堕胎をした者および堕胎に関わった者には量刑が科せられます。

日本では堕胎(abortion)は禁じられている。しかし医師による中絶手術(interruption of pregnancy)はその限りではない。つまり日本の合法中絶とは、堕胎を禁止する法を廃止して可能になったというのではなく、堕胎罪の適用を免れる例外としてかろうじて成り立っているものにすぎないのです。しかもこの法律は国の指定を受けた医師がどんな場合に中絶手術をおこなうことができるかを定めた法律です。妊娠した女性のための法律ではありません。ここは重要なポイントです。日本では個人の堕胎する権利(abortion right)というものは法的には存在していないのです。特定の医師が「例外的に」中絶手術を施すことが認められるというだけです。堕胎=abortionと中絶=interruption of pregnancy という用語が日本では注意深く使い分けされないといけない理由はこのためです。

とにもかくにも、こんな場当たり的な法律でありながら、これが合図となって、日本は雪崩を打って「堕胎天国(abortion paradise)」への道をつきすすみます。法律よりもムードに流されるのが日本人です。ムードをつくりだすのはマスコミです。日本人は今も多くがマスコミは真実を伝えていると信じています。本来は堕胎することが罪なのに、堕胎しないことが罪だと思い込まされました。未婚の母はもちろんですが、子だくさんや年子の母に向かって、洗脳された世間は容赦なく冷たい視線を浴びせました。堕胎を望む患者に対して、本来は医師としてそれが中絶を認められる例外規定にあたるかどうか慎重に判断しなければならないはずなのに、実際には患者の話を聞くこともなく、「経済的理由」の名目でいとも簡単に中絶手術がおこなわれるようになりました。中絶手術は産婦人科の病院にとって貴重な財源となりました。法と国家による強制力によってではなく、マスコミが作り出すムードにのせられた出産の「自粛」によって、日本の人口削減計画はものの見事に達成されました。堕胎の合法化など想像もできなかった当時の西欧諸国は日本をそれこそ堕胎天国と非難しました。1964年の東京オリンピック開催を前にして、「わが国の選手団を堕胎天国に派遣するのはいかがなものか」とボイコットを促す声が涌き上がり、日本の国会でその対応が議論されるまでになりました。諸外国ではまだカトリックのモラルが守られていた時代に、日本だけが堕落した国だったのです。ベトナム反戦運動が起こる以前の話です。当時の悪い印象が強烈だったために、いまだに日本を堕胎天国のイメージで捉えている方も多いと思います。しかし時代は大きく変わっています。今や堕胎天国はむしろアメリカであり、カナダであり、イギリスであり、フランスであり、オランダです。アメリカのロー対ウェイド判決を始めとする先進諸国の堕胎の合法化には、日本が経験することのなかった「崇高な個人の自由」というイデオロギーが被せられました。先にも言ったように日本には個人が堕胎する権利も自由もありません。またそれを問題視する向きも社会にほとんどありません。堕胎罪を廃止しろと叫ぶPro-Abortionは存在しないに等しいのです。もちろん人口減の影響によるところもありますが、中絶件数は年々大きく減り続けています。同じく人口減の影響で産婦人科医院の数自体が減り続けていますが、中絶手術をやらなくなった医院は全国的に増えつつあるだろうと感じています。

今や堕胎天国どころか、日本は潜在的にプロライフ大国です。二度目の東京オリンピックが予定されていた2020年の今、世界にアピールできるプロライフの価値感が日本に根づいていると確信しています。これからその話をします。

昨年、埼玉県にあるクリニックで違法中絶がおこなわれていると内部告発があり、全国的に注目を集めるニュースになりました。日本では妊娠22週を過ぎた中絶手術は禁じられています。事実上の堕胎(abortion)ができるのは妊娠21週までです。そのクリニックでは妊娠25週や32週の後期妊娠中絶(late term abortion)がおこなわれていたというのです。そのスクープ記事がネットの大手ニュースサイトにあがったとき、たくさんの読者コメントがつきました。ニュースのコメント欄は世論を映す鏡です。とくに日本はそうです。違法である後期妊娠中絶がおこなわれているという事実に、日本人はどんな反応をしたでしょうか。少し想像してみてください。これがテキサス州での出来事だったらどうでしょうか。プロライフとプロチョイスの両陣営が正反対の意見を書き込んでコメント欄はさぞ荒れたことでしょう。むしろプロチョイスからの「後期妊娠中絶が認められないのはおかしい」という意見が優勢だったかもしれません。ちょうど日本でこのニュースがあがったその少し前に、ニューヨーク州が妊娠全期間の中絶合法化を実現していました。もし日本語がおできになるならクオモ知事もコメント欄に書き込みをしたかもしれません。しかし何百というコメントをざっと読み通したところ、後期妊娠中絶が認められるべきだという意見はひとつも見当たりませんでした。「そんな非道なおこないはゆるせない」というコメントがほとんどだったのです。コメント欄の世論はほぼプロライフ一色でした。そこには「いのちはさずかりものだ」「中絶がなくなってほしい」という世界のプロライフが懐かしく思うようなメッセージが延々と並んでいたのです。驚かれるでしょうか。しかしこれが普通の日本人の反応です。クオモ知事の出る幕はありません。昨年1月22日にクオモ知事が自らを祝福した偉業をともに讃える日本人はおそらく一人もいないでしょう。あのニュースを日本の主なメディアが取り上げることはありませんでした。日本の主要メディアもおおむねリベラルに偏っていますが、彼らの理解能力をはるかに超えていたのです。日本ではどうニュースとして扱っていいのか分からなかったでしょう。個人的に何人かの知り合いにニューヨーク州でこんな法案が成立したと知らせて彼らの反応をみました。みんな一様に「ありえない」と絶句していました。こんなこと日本人にはとても現実の話とは思えないのです。「これは進歩の勝利だ」と宣言し摩天楼をピンクにライトアップして喜んだクオモ知事のことまで情報として伝えるまでもありません。クリスチャンでもないのに「悪魔の仕業か?」と返すひともいました。中絶がゆるされる期間が短くなることはあっても延ばされることを望む日本人はいません。日本の中絶可能時期は「胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期」を基準に決められます。医療技術の進歩にともなってこれまでもその時期は短縮されてきましたし、今後またさらに短縮されることがあるでしょう。でも反対運動の一つも起きることはないでしょう。中絶可能時期が短縮になるなら、みんなそれでいいじゃないかと納得するでしょう。

普通の日本人にとって堕胎とは何でしょうか。こう表現するのが適切だと思います。「できることならないほうがいい仕方がないこと」です。堕胎は「女性の権利だ」と主張するプロチョイスがほとんどいない代わりに、「どんな場合でも絶対にあってはならないこと」と答えるハードなプロライフも少ないでしょうから、その意味で「ゆるやかなプロライフ」が大方の日本人のポジションです。それが日本人の属性です。多くの日本人は、人間なら誰だって、オバマ大統領だって国連だって、中絶なんて「できることならないほうがいい」と思っているだろうと素朴に考えています。中絶がどれだけ辛いものか、それが確実に一人のいのちを奪う非情な行為であることを普通の日本人はよく分かっています。胎児は細胞の塊(clump of cells)だなどという説に騙される日本人はいません。一人の人間である、かわいい赤ちゃんである我が子を泣く泣く中絶する。昔も今も変わらない、日本人女性の悲しいひとつのイメージがあります。信じられるでしょうか。中絶手術を終えた女性が、堕胎した子どもの記念にエコー写真をもらって帰るということを。とくに珍しいことではありません。その写真に毎日手を合わせる女性はどんな心持ちでいるのでしょう。そうした女性の赤裸裸な心情を知る手がかりがあります。中絶を経験したひとのためのネット上の匿名掲示板です。個人の耐え難い苦しみと後悔と赦しを請う嘆きの声が日々続々とつづられます。これほど切実ないのちの叫びはほかにあるでしょうか。Silent no more やRachel Vineyardのような取組みが日本にはないので、苦しみを抱えた彼女たちには行き場がありません。ここに来るしかないのです。正直な気持ちを吐き出せれば少しは癒されることがあるでしょう。互いに励まし合うこともあるでしょう。中絶しようかと考えていた女性がこの掲示板を覗いたことで思いとどまったケースもあるでしょう。ここに残される書き込みが中絶を経験する多くの現代日本人女性の声を代弁していると考えていいでしょう。もしこの掲示板を目にする機会があれば、ともに声をあげて泣かずにいられるでしょうか。そして日本人女性の痛ましいほどの健気さと忍耐強さに感嘆することでしょう。中絶の問題には無関心を装う多くの日本人男性は、そうした女性の苦しみを少なからず知りながら「仕方がないこと」で片付けようとするでしょう。しかし現実には「仕方がないこと」で済まされる中絶など一つもないことを彼女たちが教えてくれるのです。そして、一つ一つのいのちは本当にかけがえのないものであるということを彼女たちが自らの痛みをもって教えてくれるのです。そこにあるのは悲しみだけではありません。ときに思いがけない希望の光が灯ります。実際にあったひとつの短い書き込みを紹介します。

一人中絶で命を消してしまった人はその後の人生で10人子供を救いなさい。と、どこかで見ました。
私は救おうと思ってます。なんの取り柄もないけど。私にできる事なら何でもします。
天国で見ててね。

日本は先進国でありながら遅れていると欧米のリベラルの側から叱咤される事がらの一つにピルの問題があります。中絶ピルだけでなく、低容量ピルもいまだに普及する気配がありません。先におこなわれた東京都知事選挙で、「働く女性のために低容量ピルの無償配布を」と訴えた男性候補者がいましたが、むしろそれに反発する声が大きく女性票を取り込む有効策とはならなかったようです。日本人女性の女心が何もわかっていなかったようですね。日本人女性の多くは、どれだけ言葉巧みに宣伝されても、これは自分には必要がないということが身体感覚で分かるのです。自然法という言葉は知らなくても、昔も今も自然との調和のうちに生きるのが日本人です。ピルが自然ではないということを、ピルが自分の体の自然を狂わせてしてしまうということを日本人女性は分かっているからそれを遠ざけるのです。先の東京都知事選の候補者がもし、低容量ピルの無償配布ではなく「ナチュラル・ファミリー・プランニング(NFP)を学ぶ機会の無償提供」を呼びかけていたら女性層の支持を伸ばしていたかもしれません。日本ではカトリックがマイノリティであるうえに、信者でさえそれを学ぶ機会が今のところほとんどないという状況ですが、ピルではなくNFPこそ日本人女性にフィットする可能性は大いにあるでしょう。もうひとつ、妊娠・出産に関わる事がらで、大きく日本が遅れているとよく非難を受ける問題に無痛分娩があります。ピルと同じかあるいはそれ以上に、世界でもっとも無痛分娩が普及しない国が日本です。昔から日本人にとっては「お腹を痛めて産んだ我が子」ほどかわいいのです。自然か不自然かという話でいえば無痛分娩ほど不自然なものはないでしょう。日本人女性には合わないのです。産みの苦しみというものが自然であると知っているからです。ついでながら、遺伝子組み換え食品を断固として受けつけない日本人の気質もそれに通じるのではないでしょうか。不自然なものが入ってくることを嫌い自然でありたいと願う日本人の精神風土はきっとプロライフの土壌となるものでしょう。

世界中のマーチフォーライフは、その国の中絶合法化をめぐるリーガル・バトル(legal battle)です。中絶を合法とする法制度を変えようという訴えか、あるいは中絶を合法とする法案を阻止しようという訴えか、いずれかです。これまで日本のマーチも何となく前者の立場をとってきたつもりでした。しかし冒頭で述べたように、日本の合法中絶は法的根拠が希薄です。そもそも堕胎=abortionは禁じられています。また堕胎を禁じる法の改正に向かう動きもありません。リーガルバトルのスタンスをとりたくても、戦う相手がいないのです。これまで「中絶やめよう〜Stop Abortion Now」や「いのちはさずかりもの〜Life is a gift」と書いたプラカードを掲げて歩きましたが、それは日本で効果的にアピールするものだったのか今さら疑問です。

マーチを始めた当初、デモ行進の許可をとるために警察のひとと打ち合わせをしました。マーチの主旨を伝えたところ、うんうんと頷いてちょっと間を置いてから、彼はこう返してきました。「私事で申し訳ないんですが、高齢の妻が妊娠したときに、医者から出生前診断というのをすすめられたんです。どうする?と妻と話し合ったところ、わたしたち夫婦にせっかく授かったいのちなんだから、どんな子どもであっても大切に受け入れようねという結論になりまして。というか話し合うまでもなかったんですけどね。それで出生前診断はお断りしたんですよ・・・って、たとえばプロライフってそういうことですか?」そうです、あなたがたご夫婦がプロライフです! 喜ぶと同時に少し複雑な気持ちになりました。たまたま出会った警察官がこんな反応をする国が日本です。わざわざデモ行進をやる意味があまりないような気がしてきました。プロライフという概念は知らなくても潜在的にプロライフの価値はじゅうぶん共有できているのが日本という国なのです。近年わたしたちのマーチには外国のひとたちの参加が目立つようになりました。参加者の半数を占めるまでになりました。するとどうでしょうか。沿道にいる人々の目にわたしたちのマーチはどう映っていたでしょうか。自分たちの知らないことを外国のひとたちが教えてくれようとしているのかと思ったかもしれません。マーチの外国人参加者たちの中にも当然そうした”宣教”の意図があったかもしれません。しかし、その必要はなかったのです。「Life is a gift」とアピールされなくても、その意味を日本人は外国のひとたち以上によくわかっているのですから。むしろ「いのちはさずかりもの」というスローガンは、世界に誇るべき日本の精神です。世界のひとたちと日本に向けてプロライフを訴えるというのではなく、世界のひとたちとともに日本から世界に向けてプロライフを訴える。世界のマーチフォーライフの後を追って始まった日本のマーチフォーライフは、そうした大きな発想の転換を迫られることになりました。日本から世界を変える!

さて、日本から世界に向けてプロライフが立ち上がるとするなら、その中心はやはりカトリックが担わなければならないのでしょうか? 難しいと言わざるをえません。カトリック人口が全体のわずか0.4%であり、世の中以上にもっと激しく少子高齢化の波に襲われている日本の教会にひとりで立ち上がる体力はありません。日本の教会はこれまでもプロライフに取り組んだことはありませんでしたが、だからといって日本の教会を責めることはできません。教会自体が焼け野原と化していた戦後すぐに中絶が合法化され、ようやく教会が復興したかと思いきや、気がつけば告解部屋に堕胎の罪のゆるしを乞う女性を迎えるのが日常になっていました。事実が怒濤の勢いで先行し、教会運営に精一杯だった司教も司祭も、ただその重い事実を受け止める以外に為す術がなかったでしょう。日本のプロライフが立ち上がるなら、カギを握るのは仏教を中心とする諸宗教です。多くの日本人は無自覚な仏教徒です。カトリックの数百倍の勢力になります。諸宗教が陣形をかたちづくって、戦力としては弱小であるもののプロライフという真の財産を管理しているカトリックを担ぎ上げる。そうしたフォーマットが出来ることがプロライフの世界戦略として有効ではないかと考えます。そこで参謀として招聘したいのが聖ヨハネ・パウロ2世です。諸宗教との対話の促進に力を注いだ第264代ローマ教皇です。一口に諸宗教の対話といっても、もともとカトリックだった国と日本のようなカトリックが極端にマイナーな国では、その受容の仕方が大きく異なるのは当然です。われわれ日本人は、諸宗教との交わりなしに日常生活をおくることはできません。仏教や神道に基づく生活習慣がインフラを成している国です。カトリックとして社会に存在するためには、諸宗教の中に居場所を見出さなければなりません。新しい仏教のある宗派が諸宗教のネットワークづくりを呼びかけたとき、カトリックがすすんで協力したのは言うまでもありません。ヨハネ・パウロ2世もパウロ6世もその動きを歓迎しました。単独では無力に等しいが、日本のカトリック教会は諸宗教の中にあってこそ力を発揮できるのではないでしょうか。プロライフの問題は重々承知しているがゆえに今さら身動きがとれないカトリックに対し、諸宗教の皆さんたちは、たしかに耳慣れない言葉だが深い部分で共感できる「いのち」の問題として新鮮な驚きをもってプロライフに反応してくれるでしょう。ヨハネ・パウロ2世はプロライフの教科書『いのちの福音』を著すとき、書き出しに次のように記していました。

人間のいのちの価値と不可侵性について
司教、司祭と助祭、修道者、信徒、そしてすべての善意の皆さんへ

『いのちの福音』は、カトリックだけでなく「すべての善意の皆さん」に向けられた歴史上はじめての回勅だったと言われています。善意の皆さんという表現によって、ヨハネ・パウロ2世は諸宗教を強く意識されていたのではないかと思われます。きっとそうだったに違いないと、いま日本にいて確信します。『いのちの福音』が立ち向かった全地球規模の問題の解決のためには、諸宗教との一致協力が不可欠である、とヨハネ・パウロ2世は考えられたに違いありません。その問題とは「いのちに対する陰謀」です。

現実にわたしたちは「いのちに対する陰謀」に直面しているのです。それには避妊、不妊手術、人工妊娠中絶を大々的に利用できるようにする具体的なキャンペーンを奨励し実行することに携わる、国際的な諸機関までが含まれます。マスメディアもこの陰謀にしばしば関係しているのは、否定できません。プロライフの立場をとる者を自由と進歩の敵として描く一方で、避妊、不妊手術、中絶、さらには安楽死さえも、進歩のしるし、自由の勝利として提示する文化を世論に信用させることによって、マスメディアがしばしばこの陰謀の片棒を担いでいるのは否定できません。(『いのちの福音』17)

この激しい言葉にピンと来ないひとは、もしかすると「善意」が欠けていると言わざるをえないかもしれません。陰謀論ではありません。陰謀がある、と聖人になった偉大な教皇が明言しているのです。それがわからないひとは偽善者か平和ボケです。カトリックであるかどうかに関わりなく、世の中の真実を見抜く力こそ「善意」です。ヨハネ・パウロ2世が諸宗教との対話に精力的だった本当の狙いは、もちろん異教を崇拝することでもシンクレティズムを促進することでもなく、この「いのちに対する陰謀」に打ち勝つための諸宗教の連帯による善意の共同戦線を築くことだったのではないでしょうか。あの回勅発布から25年たった今、日本でそれが実現する予感がします。

昨年11月、教皇フランシスコが来日しました。カトリックだけではなく、多くの諸宗教の人々にも大きなインパクトを残しました。フランシスコの来日のテーマが「すべてのいのちを守る〜Protect All Life」でした。のちに司教団が日本の教会の財産として引き継ぐことになったそのテーマは、フランシスコが大いに尽力した国連の「持続可能な2030マニフェスト」でうたわれている「誰一人取り残さない」と深く響き合うものでしょう。2015年の国連総会で成立したSocial Development Goalsの立役者の一人が紛れもなくフランシスコであり、いま世界の諸宗教はMDGsのときには見られなかった情熱をもって、この国連のアジェンダに積極的にコミットしようとしています。おそらく「誰一人取り残さない」というコンセプトが、宗教者の琴線に触れるものだったのでしょう。それがマニフェストに記されることになった経緯はわかりませんが、この4文字(leave no one behind)には何か預言めいた含みを感じるのです。しかし、SDGsの具体的な目標の中に織り込まれた様々な人間的な動機を思うとき、このままでは純粋な宗教者が期待する方向に世界が導かれることはないのではないかと危惧します。「誰一人取り残さない」とは、普遍的人権の名のもとに安全な堕胎にアクセスできない女性が一人もいなくなることを言うのでしょうか? その思惑が国連にあることは否定できません。それが事実なら、純粋な宗教者も普通の日本人もSDGsに賛同することはできないでしょう。みんなが国連に期待する役割は「すべてのいのちを守ること」です。すなわち「誰一人取り残さない」という預言の真意は、受精の瞬間から自然の死に至るまでの人生のすべての段階におけるすべてのひとのいのちを守ることでなければなりません。たとえばSDGsの16番目のゴール「平和と公正」で示されたターゲットのひとつに「子どもに対する虐待、搾取、取引及びあらゆる形態の暴力及び拷問を撲滅する」があります。もちろんこれはぜひ達成しなければならない目標です。ところが、子どもは産まれる前から子どもであることが忘れられてはいないでしょうか。誰一人取り残さないと言うのなら、産まれる前の子どもに対する虐待を黙認あるいは容認することはできません。望まない妊娠をしたひとを誰一人取り残してはなりませんが、そのための手段として子どものいのちが取り残されるという矛盾に目を瞑ることはできません。人生のどの段階にあるひとも誰一人取り残さないことを明確にするために、SDGsに18番目のゴールを設定するよう国連に訴えましょう。このゴールに向かって、産まれる前のいのちを守ることが困難な個々の状況を乗り越える知恵と配慮と行動を、それぞれの社会が培うことができるよう願い求めましょう。そして、この18番目のゴールに照らしながら、17のSDGsの見直しをはかりましょう。中流域や下流域で環境整備にどれだけ力を注いでも、何より水源が守られなければ川全体の自然を保つことが不可能なように、はじめのいのちが守られなければ、すべてのいのちを守ることはできません。産まれる前からいのちを守ろう。その声を、日本から世界に向かって発信していきたいと思います。

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