再出発

Hickey, James A (ヒッキー・ジェームス)
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最近、私は、中絶によって産まれる前の子どもを取り上げられた事を悲しんでいる若い女性の怒りのこもった言葉に、とても感動した。以下は彼女が言った言葉である:

「私が16歳の時、自分が妊娠しているのに気づきました。私が身ごもっていたのは清らかで美しく、そして何よりも罪の全くない子どもです。私には誰も頼れる人が居ませんでした。友達や家族を放棄する事になってしまった原因の男に頼る訳にはいきませんでした。両親の事も信用していませんでした。また、友達も助けになりませんでした。でも多分何よりもひどいのは、私が神を信じなかった事でしょう。神の罪のない子ども達の内の一人を育てるという特権を与えてくれたというのに。それなのに私はその子どもに死を宣告したのです。私が自分と赤ちゃんのために正しい事をしていると、カウンセラー達は私に確信させたのです。私は妊娠二ヶ月の時中絶しました。それはそれまでの、そして今までの最悪の経験でした。私はこれを簡単に口にしているのではありません。何故なら肉体的には、私はこれまで色々な経験をしてきているからです。自分の子どもを殺す事程、私に影響を与えた事はありません。私の心の中に自分がした事について説明する優しい言葉など、ありません。」

中絶を経験した女性によるこの心の痛みの言葉は、『いのちの福音』での教皇ヨハネ・パウロ二世の思いやりあるお言葉の具体例である。「あなたが決断した中絶の選択に影響したであろう沢山の理由を教会はわかっているし、それを選択する事がほとんどの場合において辛く狂わんばかりであった事を疑いません。あなたの心の傷は今だに癒えていないでしょう。」(n.99)

女性の心の底から沸き上がってくるこの叫びは、我々に中絶の行為に賛成する様に、と求めているのではない。その行為そのものが心の痛みの原因だと、彼女等は知り過ぎる程知っているのであるから。そうではなく、彼女等の叫びとは、そんな選択をせざるを得なかった痛みや、その事による苦しみから抜け出したいという悲鳴を、わかって欲しいのだ。

この女性は深い喪失感と立ち直りたいという気持ちを、彼女独自のやり方で表わしている。けれども彼女は一人ではない。沢山の中絶を経験した女性達が、同じ様な、心に付きまとう悲しみを経験している。「中絶後シンドローム(症候群)」と呼ばれるものである。

専門家が心理学的に見る中絶後シンドロームとは、「中絶によって起こった感情の中にある、深く複雑な葛藤から発するストレスや悲しみの症状の集まり」(中絶後に関するサミット会議、ワシントンDCにて;1993年秋)である。別の言葉で言えば、中絶によって犠牲となるのは、子どもだけでなく母親も同じなのである。多くの場合に中絶の後遺症として挙げられるのは:子どもの死に関与してしまったという圧倒的な責任感からくる、中絶によって子どもを失った事への苦しみ:子どもの死に続く激しい罪の意識、恥辱感、そして落ち込み:子どもを失った事によるもろい人間関係への心の痛み、である。これ等は神からの分離や自己隔離という症状に通じる疎外感、敵愾心、摩擦や緊張の要素を含んでいる。

何年か経ってからでないと、彼女等は心の傷に気づいてそれが何であるか見極めようとしない。更に一部の人は、傷を見極める必要はなく、「その時必要な決断だった」と主張するのである。しかし、中絶後に起きる精神的ショックについての有名な著者であり講演者であるヴィンセント・ルー博士は、「家庭の秘密を持つ事は、少なくとも家族の一人に深い心の代償を強いる事になる」と言っている。

又、人間性から見ても、喪失感が弔われず癒されなかったら、人の心も休まらない。正に中絶とは人の心の「魂の傷」である。中絶によって親は自分の子どもの死に加担するのであるから。傷の周りの組織は傷を覆うかもしれないが、傷そのものを消す事はないのである。

心が癒される道とは、再出発への旅である。教会を本当の戻るべき我が家としてきた人達にとっては特に、この旅は思う所の多いものであろう。何故なら彼等にとって中絶するという事は、家を離れるという事だからだ。そんな決断を出した男女は、もう教会の一員に戻れる資格はないと思うだろう。けれどイエス様は教会を通して、明確に愛にあふれた生命についての教えを示される。もし家を離れる道があるなら、家に帰る道もあるのである!

家に帰る道とは、再出発の聖約である。この聖約を分かち合う事で、中絶を経験して心を癒してほしい女性は、彼女を愛し、癒し、家に連れ帰って下さる神への信頼を表す。

a)この信頼を表すには、自分の罪を告白する事である。そうする事によって暗黙上、誠意を表した事になる。実際彼女が言う事は:「神よ、あなたが私を癒して下さる愛の力は、私の子どもを滅ぼし私自身を傷つけ疎外した中絶という罪よりも、無限に大きい事を知っています。子どもを中絶した事により、私は自分自身の一部も傷つけたのです。」そういう自分の言葉を聞く事によって、彼女は自分が神の恵みを必要としている事に、更に明確に気付く。そして神は答えられる:「恩寵の力は弱さのうちに完成される。」(コリント人への第二の手紙:12章9節)。彼女は中絶に至った圧力や恐れを認識して、自分の行動への責任を受け入れる。

b)この信頼を表すには、悔い改める気持ちを聖約に入れる事である。悔い改めると、本当の心底にある、神の愛へ反逆した事を悔恨する気持ちをよみがえらす。それにより、罪を悔いる人は神の愛を受け入れられる様になる。この愛に囲まれていれば言い訳も仮面も人のせいにする事も必要ないのである。もう自分や神から隠れる必要もないのである。罪の悔恨によって、人は十字架の下の神聖な場所へ行く事が出来る。そこで初めて、嘆き苦しむ母親達が「神は本当に私を愛して下さる。神の愛とは私が獲得するものでなく、贈り物として与えられるものなのだ。私は贈られたいのちを破壊してしまい、又そうする事によってその贈り主である神を否定した事を、本当に後悔している。今私は神に許してもらう事を願っている。私は絶望してしまうのではなく、今神のもとに居るであろう「私の」子どもに許してもらう様、期待し、又そう頼むのである。」(n.99)悔恨の中で神に抱擁された母親はそこで、彼女が神の家に帰る道を探す手伝いをしてくれたのは、いのちを失った子ども自身なのだと気づくのである!

c)この信頼を表すには、罪のあがないをする事である。過去の後悔や罪悪感を表すだけでなく、新しく変えた人生と未来への真の関わりへの行動と祈りである。罪のあがないによって、彼女は神の癒しの愛と神の中の彼女のいのちを経験する。

d)この信頼を表すには、許しを受け入れる事である。許しとはイエス様の死と復活を通して行われる。罪を悔いる人は天の父によって家に迎え入れられる。中絶の後遺症に悩む母親達に教皇がおっしゃった様に:「慈悲深い父は、再出発の聖約において、あなたを許し、平和を与えようとしていらっしゃる」(n.99)のだ。許しを通じて罪を悔いる人は、神と共に、又自分と共に再出発する。 これらを実行するのは、「心に癒されていない傷を持つ」人にとっては簡単な事ではないだろう。しかし愛と理解を差し伸べる聖母マリアから、力を得る事は出来るだろう。聖母マリアは自分の息子の十字架の下に来た、イエス様をひやかしたりあざ笑ったりするのでなく許しを求めた者達に、手を差し伸べた。一度は拒絶した子どもをもう一度抱擁したいとする者にとって、イエス様の母親は力強い仲裁者であり慰めでもある。心の痛みが、それが中絶による痛みであっても、人の信頼を壊す事はない。それは家に帰らなくてはならないというサインなのである。聖母マリアは悔恨の道の一歩一歩を共に歩いてくれる。

カトリック教会は、中絶するという決断を出した事によって傷ついた人々を受け入れている。経験豊富なカウンセラー達が、神の愛の明かりのもとで、母親が自分の立場をおさらいする手伝いをしている。家である教会に帰るようにと、彼女に愛のこもった招待をするのである。このカウセリングに関わる人達は癒しの実行者で、「人間のいのちへの新しい見方の奨励者」(n.99)なのだ。

教会はすでに沢山の傷ついた心に、キリストの生命における教えで、接してきた。癒されて、家である教会に戻った者達は、神の愛の生きた映像である。彼女等の中にはキリストの生命の教えが生きていて、みんながそれを見ることが出来るであろう。この有意義な援助が、絶えずキリストの生命の教えと救済を唱える教会の中で育ち大きくなっていきますように。

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