人のいのちに対する神の計画

マシュー・ハビガー神父
ベネディクト会

序論

現在、新しい千年期の最初の復活祭のシーズンを迎えています。私たちは復活祭の重要性と、神がその子であるイエス・キリストの生と死と復活を通じて私たちのためにしてくださった全てのことを今もなお考え続けているのです。私たちは、素晴らしいことが私たちを待ち構えていることを知っています。60億の人々が生き、教育や科学やテクノロジーが発達した現在、21世紀が、宗教経験が増す時代になるか、大いに危険に満ちた時代になるか、そのどちらかであろうと信じることは当然のことだと思います。

復活祭で再び明確にされた人のいのちに対する神の計画

聖週間と復活祭の行事は、私たちに対する神の本来の計画を再び明確にするものです。イエスは、私たちの罪によって引き起こされた害、つまり神のおきてよりも自分たちの望む生き方を好むことによって、善よりも悪を選んでしまったことによって引き起こされた害を打破するためにこの世にやって来られたのです。私たちは這い上がることのできない穴に落ちてしまっていたのです。このために、神の子イエスが私たちの一員としてこの世に生まれ、この人生をどのように良く生きるかを教えることが必要となったのでした。イエスが我々の罪を背負って最終的に死なれたことを思い出して下さい。キリストの身体は、復活と我々の罪のあがないのためにキリストにとって重要なものだったのです。このことは私たち自身の身体の重要さについて何かを教えてくれています。

我々は身体を持った人間

人間として、私たちは肉体を持っている人としての自分たちの状況を理解しなければなりません。私たちの肉体は非常に重要です。肉体によって、私たちはこの世に存在し、この世は私たちに存在しているのです。肉体から離れるときは一時たりともないのです。私たちの肉体にはだれもが経験する明確なライフサイクルがあるのです。

いのちや健康と同じく、私たちの肉体は神から贈られたものだということもまた私たちは知っています。私たちは自分たちの肉体を、肉体を持った人としての肉体の状態を理解するよう求められています。私たちは肉体を大切にする方法を学び、私たちがこの世でよく生きられるよう身体が手助けしてくれるのに協力しなければなりません。私たちはここで、人のいのち、愛、そして家族に対する神の計画について話しているのです。

味覚と食の贈り物

私たちはふつう健康を当たり前のことだと思って、そのためそれの間違った使い方をし始めます。味覚と食の贈り物を例にとってみましょう。私たちは身体を維持するために食べなければならないことを知っています。食は非常に社会的な出来事でもあります。食事の時間は家族や友人が集まって絆を強める時間です。おいしい食物は食事の魅力を高めます。

しかし、食べることの喜びは、それ自体が目的になれば、つまり食べるためだけに食べることになれば、すぐに私たち自身や身体を本当に害するものになります。肥満は身体を傷つけます。富める国家は肥満の悩みを抱えています。食に対する神の計画は、私たちがバランスのとれた食事をし、節度を保つことです。目的のために食べなさい。人生の目的をただ食べることにしてはいけません。

生殖能力と性的感情という贈り物

同じように、神は私たちの生殖能力と性的感情に対して設計図を持っています。私たちの身体が神からの贈り物であり、私たちの身体が有しているものすべても神からの贈り物であることを覚えておくことが重要です。私たちは自分たちの身体の設計に全く関与していません。それは神だけが行なった設計でした。両親は子どもの身体の設計にはほとんど貢献しないのです。

神が我々の生殖能力と性的感情の設計図を持っていることは確かなことです。それは非常に良い計画です。知的で、責任ある人間として私たちは神の計画を知り、その素晴らしさを正しく認識し、それによって生きることを自由に選択することができます。

神の計画には、私たちが神との共同創造者となること、夫と妻の強い絆の手段を提供することが含まれています。私たちの性的感情は大いなる喜びを与えますが、喜びは「二次的なもの」で、第一の目的ではありません。食べることや、飲むこと、他のあらゆる肉体の活動と同じように、性は誤用されうるのです。さらに、新しい人間、私たち自身と同じ人間としての尊厳が与えられる人間の受精が関わっていれば、恐ろしい害が及ぼされることになるでしょう。他人が満足するための対象として使われることによって、人がひどく傷つけられることがあるとすれば、性行動は取るに足らないものではなくなってしまいます。

私たちの世界は生殖能力と人間の性的感情に対する神の計画に非常に混乱しています。自分勝手なルールを作り、自分の思い通りに性を定義できると考えている人々もいます。それはただ好みや選択の問題です。それはレストランでメニューの中から注文するようなものです。人間とは、神が神自身のために造られた唯一のものであるという事実にもかかわらず、彼らはそのような考え方をしているのです。「人間を神のかたどりとし、男と女につくりだされた。」(創世の書 第1章27節)人だけが永遠に生きるのです。人だけが愛し愛されることができるのです。そのような尊厳を持った人のためだけに神は自らが受難し、死ぬことによって、我々の罪を償うためにイエス・キリストをこの世に遣わされるのでしょう。

愛といのちと家族のための神の計画=貞潔

我が兄弟、姉妹たちよ、新しい世紀に入っていくとき、私たちは希望と期待を持った人であるよう激励されているのです。私たちは自分たちが大いなる善を行なう可能性があることを知っています。神からたくさんの祝福を受けてきたこと、さらに神が我々に多くのこと、困難なことさえも期待していることを知っています。

私たちは、この地上の問題のほとんどが自分たちが作ったことであり、間違いを正すことも、他の人にとって良いことや役に立つことを作り上げることも、私たちができることを知っています。このためには、愛といのちと家族に対する神の計画を知らなければなりません。それは、夫から妻へ、また妻から夫へ、全面的に自分を与えることを意味します。このことは婚前交渉をしないこと、結婚生活において相手に対して完全に忠実であることを意味しています。中絶や不妊手術や避妊は全く意味していないのです。それは貞潔の美徳を身につけることを意味しているのです。

聖ヨハネ・クリソストムスは、若い夫たちにそれぞれの妻に向かって次のように言いなさいと教えています。「私はこの腕にあなたを抱きしめ、あなたを愛している。私のいのちよりもあなたを望む。私はあなたの愛を全てのものの上に置く。あなたと心が通わなくなることほど私にとって辛く苦しいものは他にはないだろう。(カトリック教会のカテキズム:2346)」

教皇ヨハネ・パウロ2世は受精力を「Familiaris Consortio(家庭一一愛といのちのきずな)」の32章で、相互に自已を与え合うことと述べています。さらにそれは人間の尊厳を高める次元でもあります。「夫と妻が全面的に相互に自已を与え合うことを本来意味する人間の性という言語は、相手に自已を全面的に与えないことを意味する避妊とは客観的に矛盾し相入れないものです。避妊は生命に開かれていることへの積極的な否定であり、人格全体において与えるように呼ばれている夫婦愛の神からの真理を偽るものです。」(家庭一一愛といのちのきずな:32章)(カトリック教会のカテキズム:2370)

神は神の子たちに最良のものを求めているのです。決して不可能なことを求めているのではありません。貞潔は今も難しい美徳ですし、また常にそうでした。貞潔はいつも私たちの結婚生活や家族や社会全体や私たちに恩恵を与えるものです。貞潔がなければ、それが影響を与えるすべての人に大いに害となり苦痛をもたらします。

新しい世紀、新しい千年期の一年目を迎えるときに、回勅「フマネ・ヴィテ」を読むよう奨めます。そこにはすべての人が幸福になるための明確な公式が載っています。復活祭が意味することは、私たちが希望と期待を持った人々になるように求められているということです。私たちは未来を楽観的に見るあらゆる権利を持っています。実際、私たちは善と悪との戦いに勝利することができます。私たちは神にとって喜ばしい、そして私たち自身にとって有益な人生を送ることができます。聖なるものへの神の誘いは、あらゆる人、あらゆる文化、あらゆる階層の人々に与えられています。要するに、私たちは全て聖人になる使命が与えられているのです。