なぜ教会が自殺幇助に反対するのか

Gregory, Wilton SLD (グレゴリー・ウィルトン)
NCCB
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貧困、飢え、そして戦争の増加に加え、人間の生命に関わる新しい犯罪が出現しました。このような犯罪は、自由という名のもとで虚偽と誤りをもって正当化され、州の認可を受けようとしているため、ある意味で最も緊迫しています。

しばしば人間の生命の価値が否定される、この文明のまっただ中で、私は医師による自殺幇助の論点について、教会の教えをここに提示したいと思います。今、積極的な医師による自殺幇助の、全国的、或いは地域的な事件に関わる宣伝の著しい増加だけではなく、この悪習を合法化しようという努力さえ見られています。

医師による自殺幇助について今おこなわれている論争は、法律が保護すべき生と死について、社会の全てのメンバーを思案し熟慮するように強制しています。教会はこの公的論争において公正な立場にいます。なぜなら、死を取り巻く論点は医学的と法律的なものだけではなく、同じように、宗教的と道徳的なものでもあるからです。

信仰の光

キリスト教徒として、私たちの信仰は三つの重要な意味で病や死に対する姿勢を形成してます。第一に、私たちは人間の生命は良きものだと信じています。人間の生命は、大事にされ尊重されるべき神からの贈り物です。なぜなら、それは神のイメージと相似性から創造されたものであるためです(創世の書 一:26)。私たちの教会は「殺すな」(脱出の書 二十:13)と、神の戒めに注意を払うように教えます。私たちは生命を私たちの好きなようにすることができないことを認めているのです。

第二に、私たちはイエス・キリスト御自身の犠牲が、「私が愛したようにあなたたちが互いに愛し合うこと」(ヨハネによる福音書 十五:12)という、新しい教えの見本であると信じます。私たちと共に生きることで、イエス・キリストは私たちの間に新しい共有関係、或いは団結を作り(コリント人への第一の手紙 十二:26〜27)、全ての人が私たちの愛と心遣いを得るにふさわしい者としたのです(ルカによる福音書 十:25―37)。

第三に、私たちはキリストによって救われ、彼とともに永遠のいのちを分かち合うようにと呼びかけられたと信じます。キリスト教徒の死に対する見方は葬儀の祈りに表されています。「神よ、あなたを信じる人々にとって、いのちは終わったのではなく、変化したのです。私たちの世俗の住居にある身体が死したとき、私たちは天国に永遠の住居を得るのです」。

このような信念は、安楽死と医師による自殺幇助に関する教会の教えと慣例へと導きます。カトリック教会の最近改正された教義では、教会は「苦痛を排除するために死を導く意図された行動、又は怠惰」(#2277)を完全に非難しています。

この陳述の意味は二つの明確な例によって示すことができます。

  1. 積極的安楽死は、医師や医療に携わる者が患者を殺すことを意図して、致死量の薬を与えるときに起こります。
  2. 自殺幇助は、医師や医療に携わる者が患者が自殺するのを助ける目的で、意図的に致死量の薬を処方するときに起こります。そして患者は薬を服用します。積極的安楽死と自殺幇助の両方においては、自然死がやってくる前に死を引き起こすのです。

自分自身の死に直面する

私たちの社会で行われている医師による自殺幇助に関する議論は、私たち自身の死に対する予感や恐怖を象徴しています。私たちが最も怯えるのは、平穏に死を迎えるのではなく、あまりにも多くの科学技術を与えられ、わずかな時間でも長く生きるための狂乱的な努力の後で死を迎えることです。また、医薬や科学技術のめざましい成果にも関わらず、それらは私たちの健康を快復させるのではなく、私たちが耐えられる以上の時間、単に死を長引かせるということに、私たちは怯えます。

私たちが自分自身や他の人の介護に直面する際にくださなければならない決断や、死への経過を自分自身である程度管理できるようにするため、教会は生命を保つための相応な手段と不相応な手段の間に区別をもうけています。

生命の保護者として、私たちは健康を保つための治療に相応な手段のみを使う義務を負います。それらは、理性にかなった恩恵への希望を与え、過度な負担を強制しない手段です。私たちは生命を保つために不相応な手段を使わない義務を負います。それらは、理性にかなった恩恵への希望を与えず、過度な負担を強いる手段です。治療の不相応な手段をやめることは、決して自殺や安楽死を意味するものではありません。むしろ、それは死の必然性を人生の一部として受け止めることを意味します。

このような区別によって、教会は私たちに分別ある治療の判断を下す手助けをしてくれます。私たちに利用できる治療の負担と恩恵の選択肢を評価するに当たって、その治療が快復への望みにつながるのか、その治療が苦痛を伴ったり危険ではないのか、或いはその治療が自分自身や周りの人に、極端に費用がかかるなど、相当な困難を強いるものではないのか等を私たちは問いただすべきなのです。

死に行く人への手伝い

死に直面する時は、孤独、苦悩、そして絶望の時でもあり得、一方で、特に神聖なものを受け取って、非凡な精神的成長と満足の時でもあり得ます。

生命の最後の神秘を通して、私たち自身も人間の思いやりや愛情の暖かさを切望します。人間は誰も、愛情から見捨てられ、孤立した中で死にたくありません。死に直面したとき、人は家族や友人に別れの挨拶をする機会を与えられるべきです。

私たちは人生の全ての局面において人の尊厳を肯定するために、死を迎えようとする人に付き添うべきです。最後の時に必要なおもいやりのある愛情は、どのような治療にも置き換えることができないものです。

今までの長い歴史では、病気で死のうとしている人に深い愛情を注いだものでした。私たち教会の人間全ては、病人への共感を抱いたキリストを見本としています。多くの信心深い女性、医療に携わる人、そして聖職者に特に感謝します。

苦痛を有効的に扱う

私たちが関わっている現代の議論は、医療の専門性の目的の真髄にまで迫ります。医師は生命を保ち、苦痛を和らげる義務を負います。しかし、これら二つの義務は死に直面した人のことを思いやるときに矛盾することがあるのです。

医師による自殺幇助の支持者は時々、自分たちの考えは死にゆく人を、激しく手に負えない苦痛から救う、唯一の手段だと主張します。また、自殺幇助を支持する人々の多くは、彼ら自身が身体的に苦痛を伴う死を耐えたくないことを理由にしていることが、世論調査でも示されている事実です。これは理解できることですが、人々は自分の人生最後の一歩を苦しまずに進みたいのです。

ここで重要なのは、痛みを和らげるための有効な治療法は、誰も痛みを伴う死に苦しまないことを保証することです。医師は苦痛をなくす、或いは操作できる有効な治療が確実に患者に与えられるようあらゆる努力をしなければなりません。

道徳的観点から、医師はたとえその治療法が死を早める結果になっても、痛みを操作し軽減するための薬を責任もって投与するかもしれません。医師の目的は患者を殺すことではなく、用いうる薬で有効的に苦痛を和らげることなのです。

この事柄に対する議論は痛みと苦しみとの違いをはっきりさせないという問題があります。信仰ある人にとって、この違いは理論的な違い以上に重要なものです。痛みとは主に身体的な苦痛のことを指します。

苦しみは身体的痛みを耐えることよりもっと深いものです。それは痛みがないときでも存在する事があるものです。苦しみはまた人の信仰と愛情の表現であることがあります。愛から生じた苦しみを耐え忍ぶことは罪滅ぼしとなります。

教会と社会

信仰ある人として、私たちは医師による自殺幇助に関する人々の討論に重要な役割を持っています。私たちの立場は対話で明確に、そして確信をもって表明されるだけでなく、自殺幇助への反対姿勢も愛ある行動として裏付けられなければなりません。

医師による自殺幇助への反対姿勢は、自由を妨げるものではなく、人間そしてキリスト教徒として尊厳をもって死ぬ権利を守るためなのです。積極的安楽死或いは自殺幇助と、いのちを長引かせるためのあらゆる可能な手段をとることの二つの極端な行動の間で、教会は人々の議論を導くための三つ目の行動の選択肢を提供します。

教会は不相応な医療治療を拒絶する人の権利を認めます。私たちの社会において私たちが守らなければならないのは、患者自身の治療の選択が尊重されることなのです。

また、教会は痛みの適当な操作の必要性も認めます。この件に関しては、苦痛から逃れるために死ぬ必要がないことを私たちは保証しなければなりません。

病気で死にかかっている人へのおもいやりこそが、自殺幇助に関する私たちの教えが公の議題を導き形成するに十分な有効で信用できるものにするのです。

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