「普遍」なカトリック教会


メアリ−・アン・グレンドン
ハ−バ−ド大学法学部教授

英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

その名前が意味しているように、カトリック教会は普遍です。教会の使命は始めから、地球上のあらゆる所によい知らせを広げることです。2000年来その使命を遂行しているうちに、文化の違いはもちろん文化の変容による挑戦に直面しました。

教会は偉大な変容をいつも理解しています。ロ−マ帝国の滅亡、教化、産業化、民主化、世界化は全盛期よりもむしろ多くの面があります。(パウロはコリント人に言いました。世界は、私達が知っているようにいつも去っていきます。)

しかしながら、他の宗教とは違って、カトリック主義は世界から離れていません。それどころか、カトリック教会共同体の伝統は、正義のため、自由のため、個人の尊厳のため、善と平和のために活動的に働く義務を負った信義に厚い共同体です。

教皇ヨハネ・パウロ世は、大学の教授と生徒を前にして、次のことを強調しました。キリスト教徒は、まるで史実は干渉するだけの彼らの知的能力を超えているかのように、まるで亡者か非人間的な力に導かれているかのように、消極的な態度を維持しながら、歴史の過程を分析することを彼自身限定することはできません。1

変化の恒久性と世界と関わることの義務というこれら2つの提案は、この学園の使命をもたらし、この完全な会議の話題をもたらしました。なぜなら、世界の中で効力があるためには、私達はそれを理解しようと努めなければなりません。そして、今日世界で何が起こっているのかを理解するためには、世界化として知られている集団的な現象を理解するよう努力しなければなりません。

教皇ヨハネ・パウロ世は、慎重な希望に満ちた世界化の見解を勧め、手本にしています。共通の人間性の原則が承認されているという条件で、2000年の世界平和の日メッセ−ジに彼は次のように言いました。魂と意味と方向をこの認識は今日の世界に与えることができます。その危険にもかかわらず世界化は、人間性による家族形成をしたり、正義、公平、連帯の価値観を築いたりする見解と共に、特別な、将来有望な機会をも提供します。2この会議に紹介されているほとんどの研究レポ−トは、同じアプロ−チをとっており、その危険を強調し、経済面での世界化を約束しています。

しかしながら、聖なる父は、経済面の世界化と同様に、文化的な世界化にも特別な重点を置いています。もちろんこの2つは関連しています。今週たくさんの参加者は、経済的な世界化は、もっと互いに助け合えるように、裕福な人々と貧困の人々の溝を深めるという懸念を表明しています。

しかし、この懸念の本質は何でしょうか。たくさんの人間家族が厳しい原料損失を被っているということだけではありません。これら一方にとっての溝が他方にとって急進的なものと考えるようになるかもしれません。換言すれば、彼らの共通の人間性を拒絶することになるかもしれません。経済的自由と個々の自由が前進する一方、経済的世界化は、人間が道具や物として扱われるようになるという新しい危険をもたらすように思えます。

この新しい状況の中、全ての人が共通の責任を担っている人間解放の公約と個々の人間家族の承認という分割された自由主義の魂を再結合するための世界の必要において、教会は主要な制度の主唱者になっていると言っても公正なように思われます。  1995年、国連50周年祭における彼の演説の中で、例えば聖なる父は次のような嘆願を出しました。「自由の危険をおかした人々の例に激励されて、私達は連帯の危険や平和の危険を再び背負うことができますか?」3

しかしながら、カトリック教会思想における連帯は、重要な点において非宗教的な考えから分岐しているということを述べるのは大切なことです。教会が教える連帯とは、方針や計画としてではなく、私達を含む、私達自身(個人の罪)の内なる不一致と社会(構造上の罪)5の内なる不一致の源に打ち勝つために、個の完成4に関連している美徳として教えています。連帯の美徳は個人の改善から分離できないもので、不断の実行が必要になります。

なぜなら、カトリック教会の社会的な教えを信じる私達は、経済的な世界化に、重要な道徳的展望を提供していて、人間性を与える助けをしたり、その過程の利益をできるだけ能率的にしたりするという希望さえも提供しています。世界化の文化的効果は重大な関心事です。世界化は、道徳的な展望に抵抗するだけでなく、人間家族それぞれの尊厳の尊重することに反目している薄い伝統的な文化を広めているように思われます。

市場でとても重んじられている生産性と効率の価値は、市民社会の中間制度に行き渡った時や、家族関係において規範的なものになった時にはそんなに良くありません。国境を越えた人気のある文化は、物質主義や快楽主義や超個人主義を非難するような一般的な倫理を助長するように思われます。これらの新しい価値は、地理学上の移動性の増加に結び付けられ、連帯の美徳と習慣が定着し、伝えられている文化圏に破壊的な作用を及ぼすように思われます。

世界化についての人気のある非常に断定的な本、「レクサスとオリ−ブの木」の中で、ト−マス・フリ−ドマンは次のように書いています。仕事場での世界化のシステムを観察すればするほど、もし制御がされないままなら、人類の歴史上では見たこともない程のペ−スで環境を破壊し、文化を根絶するのは明らかです。6

言うまでもなく、カトリック教の誠実さも、これらの影響からのがれられません。全てのたくさんのカトリック教徒達は、まっとうなキリスト教徒の信頼は、貧困者に対して優先権がある中で生活するという意味だという教えに抵抗します。全ての多くの人たちは、非宗教的な意味での連帯を取り入れていて、それは、罪の問題をつまらなくし、連帯の公約という道徳的な教えを無視し、政府官僚政治の社会正義を見守ります。

文化における世界化の効果はこのように非文化を通してキリスト教を布教している教会に特別な挑戦を持ち出します。産業化や都会化の跡をおってやってくる世界化は、世界化に人間味を与えるための奉仕をする美徳が世代から世代へと徐々に教えられ、補強され、伝えられている市民社会(家族・教区・近所)の構造を成立させなくするように助長する傾向があります。

これらの変化による文化破壊面は、非宗教的な第三者であるフリ−ドマンのような者でさえも不安を感じています。彼は特に発展途上国において、それがもしかすると世界化それ自身の利益をいつのまにか害するかもしれないと考えています。社会を強固にし、それが人に自信を与えており、世界ときちんと相互に作用する結合力を持っている文化の基礎を壊しながら、貧困から脱する社会を築くことはできません。持続できる文化なしでは、持続できる共同社会は成り立ちません。持続できる共同社会なしでは、持続できる世界化は成り立ちません。7フリ−ドマンは、問題については述べているのに、これらの効力にどうやって立ち向かうかについては全く述べていません。

神学者フレ−デリック・ロ−レンスが現代のディアスポラの立場だとみなした大荒れと分裂を通して、いつも昔でいつも新しい教会はどうやって教えを成立させることができますか?8それは、国際的な据付における行為者としての聖なる大司教と全てのカトリック教徒の両方にとって、ずば抜けた挑戦です。両方のケ−スとも、2つの本質的なことがあります。それは、世界を理解することと、行為者の個人的な形成です。そして、2つのうち、形成が優先されなければなりません。

聖なる父は、大学の教授と生徒に最近のあいさつの言葉の中で印象的な言葉を述べました。「偉大な社会の変化は、小さくて、勇気のある毎日の選択の結果だということを理解することは、キリスト教現実主義の一部です。あなたは自問自答するでしょう。私達の世界はいつ福音のメッセ−ジを受けるのでしょう。答えは簡単です。第一にまず、あなたがキリストのように永続的に行い考えた時、少なくとも世界の一部はあなたにおいて彼に与えられるでしょう。世界化と私達の会議を考えることに関しては、クリスチャン自身から始める必要のある、個人の権利である道徳の世界文化を促進することだと彼は言い続けました。9

世界における教会の仕事は、多分、教皇ヨハネ・パウロ世がいのちと愛の文明社会と呼んだことに賛成して、可能性を変えるために進行している十字軍だと考えられています。世界化は疑う余地がないほど恐るべき挑戦で決して終わることのない仕事です。しかし、教会がこれらの挑戦に遭遇したその源は同様に恐るべきものです。特に勇気付けられたと思われるいくつかの最近の発展は以下の通りです。

世界化はカトリック教信頼の多言語で利用できる教理問答を激励した信頼の広がりにとって新しい機会を提供します。たくさんのカトリック教徒は、教会の社会の教えをあまり知らないということは嘆かわしいことと認識して、聖なる父は社会の公教要理の準備を委任しています。

教会が組織化を主張している地理学上の移動性は、構成のために結果として生じる必要を満たす助けをしたり、大人のカトリック教徒内での連帯感を助けています。  多様な社会や政治状態の下で、実践的な連帯を実行する原理から、補足の教会原理は政治的な思想家や行為者からの注目を浴び、魅了しています。

歴史主義が普及している非宗教的な大学サ−クルでは、カトリック教会は理由の臆さない防御として位置しています。10宗教は、奉仕の情熱における打算的な理由でも、限られた科学的な理性論でもありません。それはむしろ動的なもの、周期的なもの、そしてもしかすると人間の中にある自動修正式なものなのです。宗教は現代の歴史を真面目にとることを許します。そして、動的な人間の心と、周期的な作用において正真正銘の国境を越えた文化のために基礎を見つけます。11さらに、最も高いレベルでの現代の自然と人間科学に従事することを必要とします。(クリスチャンである教皇ヨハネ・パウロ世は、私達に、生活の経験の中で、個々や国々の文化において、世界に光を持ち込むだけでなく、全ての真実の断片を発見することを思い出させます。)12

しかしながら、これらの発展のどれもが始めよりも良くはないということを認めなければなりません。教会は、社会面、文化面、政治面において働きかけなければなりません。そしてそれは世界において、宗教が所有している真実を和解させるでしょう。それゆえに必要とされるものは、大規模な再評価と教会の教育上の使徒職に劣らないものです。13

カトリック教会は、充分な知性の行使との調和を作る必要があるだけでなく、知的な使徒職を作る必要も必須の使命であることは明白です。

言うまでもなく、教会のためのこれらたくさんの挑戦や機会もまた必須の使命です。

References

1 “Social Change Hinges on 'Small Daily Options,'” ZENIT, April 9, 2001, No. 1040907. [Back]

2 World Day of Peace Message, 2000, Paragraph 5. [Back]

3 Address to the United Nations, Oct. 5, 1995, Paragraph 15. [Back]

4 See Ernest Fortin, “Church Activism in the 1980s,” in Human Rights, Virtue, and the Common Good, Vol. 3, 273–74. [Back]

5 “Solicitudo Rei Socialis,” No. 37, 38. [Back]

6 Thomas L. Friedman, “The Lexus and the Olive Tree” (Rev. ed., 2000), 23. [Back]

7 Id., 302 [Back]

8 Frederick G. Lawrence, “The Church and American Culture” (Unpublished paper, 1998). [Back]

9 “Social Change Hinges on 'Small Daily Options,'” ZENIT, April 9, 2001, No. 1040907. [Back]

10 See, especially, “Fides et Ratio.” [Back]

11 Matthew L. Lamb, “Divine Transcendence and Eternity: The Early Lonergan's Recovery of Thomas Aquinas,” in Continuity and Plurality in Catholic Theology (1998), 75–76. [Back]

12 “Centesimus Annus,” No. 46. [Back]

13 This is the principal message of Dr. Lawrence's excellent paper, cited above. Dr. Lawrence and Father Matthew Lamb, cited in note 11, pursue the dialogue with the natural and human sciences at the Boston College Lonergan Institute. [Back]

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