迷う時間の大切さ
「自分を見くびってはいけない」 玄侑宗久が語る仕事-1

Genyu Sokyu (ゲンユウ ソウキュウ )
玄侑 宗久(芥川賞受賞作家、臨済宗僧侶)
朝日新聞  インタヴュー記事
asahi求人Web Asahiコラム 仕事力(1)
2011年6月5日掲載
許可を得て複製

宗教か、文学か私は長く悩み続けた

10代の頃には、ものを書きたい気持ちが生まれていたのですが、 その一方で家を継いで坊さんにならなくてはいけないのかという重い気分も抱えていました。 答えを出しようもなく模索していた高校時代に、哲学者の星清先生に出会います。

星先生はご自身の研究のために、うちの寺を開いた「開山さま」を調べにいらしたのです。 足利尊氏に招きを受けても応じない、権力に近づかない禅僧だったのですが、 私は当時それを知らなかったこともあって強い興味を覚えました。西洋哲学から禅のほうにどんどん傾倒なさった星先生は 、「キルケゴールが言っていることは、とっくの昔にこちらでこの禅僧が言っている」 などと思いもかけなかった話をしてくださった。

今になれば恥ずかしい限りですが、寺というのは日常の生活が付随しているので、 禅とか仏教などの哲学的な部分や思想が単独では見えにくく、 私は坊さんという仕事がそんなに哲学的だとは思いもしなかったのです。でも星先生は、「 ものを書きたいということそのものが、哲学にも禅にも通じていくのではないか」と見ていらしたのだと思います。 高校生の私は、寺を継ぐという敷かれたレールに乗って行くことにためらいがあって、 その苦しさをひたすら話していたのですが、 深い知識を持つ大人がただ黙ってうなずきながら私の話を聞いてくださっている。それがものすごくうれしかったし、 やがて自分が思い込みにとらわれていることに気づく機会になりました。

世の仕事の分類は自分になじむだろうか?

私が苦しんだ一つの要因は、宗教と文学を別の分野として捉えていたからです。図書館の分類を思い出すと分かりますが 、政治、経済、宗教、哲学、文学、科学と、はっきり別の分野にされているため、 若い私はその複数にまたがる仕事など考えられませんでした。あの頃悩んだことは後悔していませんが、 戻りたくはありません。

以前ある中学校から電話があって、「生徒に職業体験をさせたいのですが」と言うのです。 坊さんや寺のことかと思ったら、小説家のほうだと(笑)。小説家の部分だけ分けて見習いたいとは無理な注文ですが、 しかし、そうやって自分がやりたいことさえ見えていない子どもたちに、 形から整えて教育しようとするのが現在の日本です。 初めから八百屋さんを目指している人が八百屋体験をするなら役に立つでしょう。 でも何か一つ既成の分類のなかで体験させても、余計な色がついてしまうだけだと思います。 はたして本人のためになるのでしょうか。

私は予行演習やリハーサルというのが好きではありませんが、若い人の仕事も同じだと思います。 リハーサルをすると何となく知ったような気分になってしまい、実際の場で自分が持っている底力を出せない。 いざここで働くとなった時には、何も分からないけれど、ぶっつけ本番で自分の力を総動員することが大切なのです。 それでこそ自分でも気づかなかった思いや力が生まれてくる。 とにかく与えられた状況でやってみることが大切だと思いますね。

現在の社会は仕事が分類されているだけでなく、考え方やコミュニティーまで整理されていますから、 ここへ進んでいけば将来はこうなっていくというようなリハーサル人生が待っているかも知れない。 後先分からないほど無我夢中になるような状況が訪れず、人生が終わるまで本番がこなかったら残念です。でも、 人間は状況によってどんな力がでてくるか分かりません。自分を見くびらないでほしいと思います。(談)

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