「貧しさ」の同伴者について

Editorial (オピニオン)
国連記者室
出典:ウィーン発『コンフィデンシャル』
2013年10月14日掲載
許可を得て複製

世界に約12億人の信者を有するローマ・ カトリック教会最高指導者ローマ法王に南米出身のフランシスコ法王が就任して以来、教会では「貧しい者」 へ関心が高まり、「質素」な生活が評価され、逆に豊かさ、華美さは守勢を余儀なくされている。

ところで、「質素」と「貧しさ」に価値はあるのだろうか。 欧州の財政危機を克服するために欧州各国は節約政策を国民に呼びかけているが、教会の「質素」 の再評価は教会側の節約政策の別表現に過ぎないといった穿った見方も聞かれる。

2000年余りの歴史を有するキリスト教歴史の中でも貧者の聖人アッシジほど愛される人物はいないだろう。 その名前を法王の呼称に付けたフランシスコ法 王はその名に恥じないように、全世界の教会関係者に奢侈を戒め、質素な生活を求めている。自身も法王宮殿に居住せず、 ゲストハウスに住み続け、貧しい者へ の関心を呼びかけている。その一方、法王は就任直後、高額な報酬を受けている枢機卿への報酬カットを決めている。

貧しき者への共感は何もフランシスコ法王の専売特許ではない。新約聖書の有名な箇所、山上の垂訓の中で、イエスは「 心の貧しい人たちは幸いである」と 「貧しさ」を称えている。それだけではない。「豊かな者が天国に入るのはラクダが針の穴を通るように難しい」と述べ、 富者に警告を発しているほどだ。

もちろん、イエスの「貧しさ」は物質的な不足状況を意味せず、謙虚で素直な心の持ち主を指しているが、新約聖書の中で 、富者がイエスから称賛されたという箇所は見いだせない。イエスの教えは一般的に貧しき者を称賛し、 富者への戒めが多いことは事実だろう。

それでは、人間を含む万物世界を創造された神は、自身の似姿である人間が貧しく、質素に生活することを願われているか 。旧約聖書の創世記をみれば、神 は、自身の分身ともいうべき人間が豊かな生活をし、恵まれた家庭を築くことを願っている。貧しい人々も「 貧しさを克服して、豊かな生活」を目指して努力しているのが偽りのない姿だろう。

そこで問題となるのは、なぜ、法王は「豊かさ」を警戒するのかだ。「豊かさ」に何か危険な毒が含まれているか。 物資的な豊かさを求めた場合、「これで十 分だ」といった自制心は消滅し、「もっと、もっとほしい」といった貪欲の虜になっていく危険性は確かに排除できない。 法王はその人間の貪欲さを恐れ、質素 な生活を求めているのかもしれない。

明確なことは、「豊かさ」、「華美」はそれ自体、決して批判されることではないということだ。実際、 神はわれわれに内外ともに豊かな生活を願って祝福し ている。「豊かさ」が批判的に受け取られるのは、人間の貪欲さもあるが、それ以上に、貧しい人々が実際、 豊かさを享受する人々の周囲に存在するからだろ う。簡単にいえば、パンを食べれない人々を無視して、パンを食べるな、という内容だ。そして、 パンを食べれない人々がいる以上、豊かな人は質素な生活をすべきだという主張となるわけだ。

欧米社会では、貧富の格差や銀行を含む金融機関の横暴に批判が高まってきている。反ウォール街デモにみられるように、 持つもの、富む者への批判が高まってきた。富む者は昔のようにその富みを一方的に享受できなくなってきた。

スイスの世界的神学者ハンス・キュンク教授は2009年10月7日、ニューヨーク国連本部で新しい「経済基本倫理綱目 」を提案し、大きな反響を呼んだことがある。キュンク教授は「世界金融危機が発生して以来、国際金融・ 経済市場への倫理枠組みを求める声が高まってきた」と述べ、「各自は自身の経済的利益 を追求できるが、その際、一定の倫理条件を遵守しなければならない」と説明した。

国連は2000年9月開催されたミレニアム・サミットで「21世紀における国連の役割」について検討し、 世界中の全ての人がグロバール化の恩恵を受ける ことができるための行動計画を提示した「国連ミレニアム宣言」を採択した。具体的には貧困、教育、環境などの8項目( ミレニアム開発目標)を掲げ、数値目 標と2015年という達成期限を掲げてきた。

オスカー・ワイルドの「幸福な王子」を読まれた読者も多いだろう。城で生活していた時、 王子は世界に貧しい人々がいると想像だにしていなかったが、亡くなり、街の広場の像となって人々の生活ぶりを知り、 多くの人々が貧しさや生活苦のため涙を流していることを知る。そこで王子はツバメの助けを受けて貧しい人々を救う、 というストーリだ。

われわれも久しく「幸福な王子」だったのかもしれない。 自分の幸福を享受することに腐心してきて他者の不幸が見えなかったのだ。しかし、通信技術の発展もあって、 どこに貧しい人々が生活しているか、どのような苦境下で暮らしているかを知ることができるようになったのだ。

フランシスコ法王の「貧しい人々」への関心は、一種の同伴者意識の表現といえるかもしれない。 誰もが豊かな生活を享受できるまで、われわれは貧しい人々に対し、同伴者意識を持ち続けるべきだろう。

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