バース・コントロールと妊娠中絶
仏教とキリスト教はどう考えるか

Editorial (オピニオン)
プロ・ライフ
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A。バース・コントロール

バース・コントロールとは、子どもを持つ時期を当事者自らが決定することです。そのためには、性交の回数そのものをコントロールするのが一番であることは明らかです。しかし、愛し合っている二人の間では、お互いに強い性的魅力を感じているのが普通であり、性交の回数をコントロールすることは、二人の関係にストレスが生じ、結果として精神的な苦痛をもたらすことになります。

今日では、避妊が広く行われるようになり、それにつれてセックス自体もより「気軽なもの」になっています。つまり、人々は結婚している相手とでなくてもセックスをしているのです。このことは、避妊の問題同様、倫理上のさまざまな論議を呼んでいます。キリスト教も仏教も、これらの「気軽な」セックスをきっぱりと否定しながらも、その見解は互いに異なっています。

受胎について考える時、最も重要な問題は、セツクスの役割とは何であるか、そして生殖のプロセスにおいて神の意志はどこに存在するのかということです。

1。キリスト教の考え方

キリスト教全体としては、人工的な避妊は、すべての性的関係に存在する「生殖の可能性」を否定するため、「互いにすべてを与え合う」というセックスの価値をおとしめると考えています。これは、避妊をした場合、そのセツクスには「本当の」意味はないのだということになります。キリスト教徒にとって、セックスとは、互いにすべてを与え合うオープンな関係を表現する場なのです。その結果、子どもが生まれるか否かは、神が決定するという考え方です。

2。ローマ・カトリック教会の考え方

ローマ・カトリック教会は、前述のキリスト教全体の考えに同意すると共に、避妊について次のような見解を加えています。「人工的な避妊に対しては反対する。しかし、自然な避妊法は、家族計画の手段として奨励する。」

カトリック教会は、人工的な避妊は、結婚の目的に反するため、望ましくないと考えています。それは、セックスの持つ、結合と生殖という二つの側面を分離させるからです。人はみな、神の恩恵を受けており、神は私たち一人一人に対してすべてを愛し、すべてを与えて下さいます。だから私たちも、結婚生活で互いにすべてを愛し、すべてを与え合わなければならないのです。夫婦間のセツクスは、オープンで、愛情に満ちた、新しい生命を生み出すものでなければなりません。

このような愛情の表現と、人工的な避妊法は、共存できるものではありません。しかし、自然な避妊法による家族計画は、奨励すべきものとしています。

3。仏教の考え方

一方、仏教には、避妊に関する明確な教えはあまり見当たりません。その理由はおそらく、仏教が、避妊を長い間認めなかった発展途上国に起源を持つ宗教だからでしょう。今日でも、避妊が行われていない途上国はたくさんあります。

それでも、仏教の教えの中の、生に関する膨大かつ論理的な考えを取り出して、避妊の問題に当てはめてみることができます。

仏教において最も大切な教えとは、すべての苦しみは渇愛(サムダヤ)から生まれるということです。その中でも最も強い欲望が性的欲望で、カーマとも呼ばれます。悟りを開き、涅槃の世界に入るには、この性的欲望を完全に取り除くことが必要で、つまりセックスをやめなければなりません。そのため、厳格な仏教僧は結婚しません。一般信徒(僧でない仏教徒)は結婚を許されますが、不適切な性的関係は避けるよう教えられます。これが、セックスに関する仏教のおおよその教えですが、避妊に関してはどうでしょうか。

一般信徒については、もし避妊が苦しみを救うことになるのならそれは良いことだと考えられています。避妊は、分別をもって用いることが望ましく、情事や婚姻外の性的関係などには用いるべきではないとしています。なぜなら、このような不安定な状態は苦しみをもたらすからです。けれども、例えば家族計画のように、避妊が家庭を助けるのに役立つのであれば、それは良いことだと考えるのです。

B。妊娠中絶

中絶は胎児を殺す行為、つまり殺人であると考えられているだけに、特に微妙な問題です。また、中絶は悪だが、子どもが生まれればさらに状況が悪化すると反論する人もいます。これは何千年もの間議論されてきた問題ですが、先進国で中絶が日常茶飯事となったのはつい最近のことです。

宗教としても、議論を呼ぶこの問題について、さまざまな主張があります。中絶について考える時、重要になる問題点とは、「生命はいつ始まるのか、受胎の瞬間からか、それよりも後か」「子宮の外で胎児が生きられるようになるのはいつからか」「母と子、どちらの権利がより尊重されるべきか」などです。

1。キリスト教の考え方

キリスト教では、中絶について長年にわたり考察や研究を重ね、その結果数多くの研究論文が生まれました。言うまでもなく、キリスト教において最も基本的な教えのひとつに、「汝、殺すなかれ」の戒めがあります。しかし、キリスト教徒にとって中絶の問題は、それが殺人であるかどうかというよりも、望まない子どもが生まれて生じる深刻な事態を避けるための「最良の」解決法であるかどうか、が焦点となっています。概してキリスト教徒は、中絶はどのような犠牲を払っても避けるべき悪であり、どんなことがあってもバース・コントロールの手段としてはならない、と考えています。

2。ローマ・カトリック教会の考え方

カトリック教会の中絶に対する態度は、非常に明確です。科学の進歩に対して、自らの考えをはっきりと表明しています。

それは、すべて物事は自然法則に基づくものでなければならないという考え方です。自然法則は、「人工的なもの」と「自然なもの」を区別するのではなく、人間にとって自然な行為と不自然な行為を区別するのです。養子縁組をして、生まれた子どものために環境を整えるのは、神が私たちに与えて下さった理性を用いた聡明で自然な行為なのです。しかし、文明が進歩するに従って、その進歩が真に人間的なものかどうか問う必要があります。科学者の仕事には、往々にしてモラルの問題を含むものがあります。

カトリックでは、胎児は受胎の瞬間からすでに尊重されるべき一人の人間であり、神からの贈りものであるという考えを貫いてきました。どのような段階であれ、胎児を殺すことは悪であるとしています。胎児がいかに未熟な状態であっても、生命の始まりであることに変りはないのです。

カトリック教会は、長年中絶に反対の立場を取っています。そのことは、二世紀に書かれた教義書「ディダケー」に、「胎児を中絶によって殺してはならない」という記述があることからもわかります。

胎児は神からの贈りものであり、神の姿に似せて造られたのだから、いかなる場合でも守らなければならないのです。これらの理由から、カトリック教会は中絶反対なのです。

3。仏教の考え方

キリスト教同様、仏教にも殺人についての戒律があります。「殺生をするな」です。仏教においての中絶問題は、胎児の生命がどうやって生まれ、中絶を決定した人にどのような結果が待っているか、ということになります。

仏教では、カルマと呼ばれる因果応報の法則に従って、一つの行為が善あるいは悪の業を生じ、それが現世あるいは来世の人生に幸不幸をもたらすとされています。この考えによると、中絶された胎児のカルマはとても悪いものだったということになります。なぜなら、カルマは私たちの行動の背景に必ず存在するものだからです。また、殺人はすべて悪いカルマをもたらすとされることから、中絶を決定した者にも悪のカルマが生じます。

もうひとつ留意すべき点は、仏教ではすべての物事を相互依存的にとらえるということです。ですから受胎についても、単に精子と卵子の合体ととらえるのではなく、受胎が起こった環境も関係すると考えるわけです。同じように、中絶を決めた場合、それを選択した家族や親しい友人だけでなく、決定し実行した周囲の人々すべての問題ということになります。この点は、中絶を考える際によく考慮すべきところです。

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