中絶と詩篇139
神の業を破壊する人間

Editorial (オピニオン)
許可を得て複製

聖書は神の創造と救済の計画を明確に示している。私達人間が神の創造を破壊したり、神の福音を受け入れずに神の考えに逆らえば、自分や自分の生きる社会に神の審判を招くことになる。

詩篇139とそれに関連するくだりには、発育中の子どもは神の偉大なる創造である人間にほかならないことがはっきりと書かれている。中絶は不当にもそれを破壊してしまう。これは私達の国に神の絶対的かつ最終的な審判を招く恐れを伴う。

女性が妊娠するとどうなるのか。

「あなたは私の腎をつくり、母の胎内に織りこまれた。恐るべき驚異のあなたを、私はたたえる。そのみ業は不思議で、あなたは私の魂を知りつくされる。」詩篇139:13〜14

女性が妊娠するということは、神自身がその女性の中に子どもを形作っているのである。そうすることによって神は自分の栄光を啓示できる。だから出産前の発育を神の造りしものの「素晴らしい」証拠だといわれる。神は世界中のどこかで子どもが授かるといつもこのようにしているのである。夫婦には「事故」や「間違い」を起こすことがあっても、神には決してない。これらは我等の君主である主が新しい人間を創造し、真実の愛を知る機会を与え、神に従順であるように努力している結果にほかならない。

同時におなかの中にいる子どもの形成や発育は聖なる創造の「畏ろしい」例えでもある。つまり、人間との関わりを持つ神を表現することで、感謝や崇拝の動機となる。神の創造、つまりまだおなかの中にいる子どもに対する感謝と尊敬の念は私達の妊娠に対する適切な応えである。中絶という破壊や暴力で反応することは、この人類を創造した神への卑しむべき拒絶となる。それは神の意志に背くものである:殺すな。(脱出の書20:13)

母親の中で育つのは誰?

「私の骨はあなたに隠されていない、私がひそかにつくられ、地の深みでぬいとりされたとき。あなたの御目はすでに私の行いを見、それらはあなたの書の中にあって、日々が記され、集められた、一日さえもまだなかったのに。」詩篇139:15〜16

人間は神が創造した時点から存在するのであって、人間が新生児のような形をしだしたり、初めて息を吸い込む時をさすのではない。神は授精をもって人間を造るのである。(詩篇51:7;ヨブの書3:3;マテオによる福音書1:18〜20)人間らしくない形をしているけれど、胎児の最初の段階であるこの小さい生命は人間として神様の愛と気配りを受けている。だからダビドは自分の胎内での成長に敬意を払いながら「私はこっそり造られた。」といっている(ヨブの書31:15)。

私達の個人としてのアイデンティティーは、誕生の時からではなく授精の時から続いている。母親が自分の妊娠に気づく前から、神はそのことを知っており、胎内で発育を続ける子どものことを気遣っていたのである。よって神は、私達人間とは我々の誕生以降ではなく誕生する以前から最大限に個人的に関わってくれた。ひとつ例として挙げるならば、神の喜びの反応を醸し出したみたまさえも与えたのである(ルカによる福音書第1:15、41、44;ローマ人への手紙9:10〜13)。さらに広い見方をしても、神はずっと以前から私達のことを知り、わたしたちを守って下さったのである(ヨシュアの書1:5;エフェゾ人への手紙1:3)。

アダムが神のイメージのなかで創造されたのと同じように、母親の子宮に授精された子どももそうである。これについては詩篇139の詩的なイメージに描かれている。「地のちりをとって人間を形づくり」(創世記2:7)わたしたちも地のちりでアダムのように造られたのである。

神のイメージによって創造された人類は、人類以外の創造物とは異なっている。つまり私達は神を知り、神を真似するために造られたのである。この究極な目的のために、私達は適切な合理的、道徳的かつ精神的権限を与えられた。

イエス・キリストは神の子として人間の救済を行うために世に送り出された。そのために彼は完全な人間となり、人間の発育と成長を完全に体験したのである。イエスの人類への参加は、全人類が生命をスタートさせるところ、つまり授精のときから始まった(マテオによる福音書1:18〜20;ルカによる福音書1:31)。この事実は非常に重要なことである。なぜならこのことは神が人間の生命を発育の段階である授精の時からを神の愛情をそそぐ対象としているからである。詩篇139は全体を通してこの事実を非常にうまく説明している。人間は生命をどの発育段階においても破壊する権利が与えられていないことを語っている。

神の胎児に対する嫉妬愛

「神よ、あなたの思いは私には計りがたく、その総計は数えきれない。それを数えれば砂よりも多く、終わるときもまたあなたに出会う。ああ、主よ、悪人を殺し、血を好む者を私から遠ざけたまえ。彼らは敵意をもって背き、むなしく主に手をのばそうとする。」詩篇139:17〜20

神の私達を思う貴重な気持は豊富であり、私達の人生を通してずっと(子宮に存在するころからこの世の最後の住人になるまで)見守って下さっている。人類が悪へ導かれてしまったのは事実だが、それでも神の私達に対する良い思いは変わっていない。ただしその中で神は私達の罪や私達の和解にはイエス・キリストを信じることによってのみなされるという条件をおつけになった。

胎児を殺すと私達は神に反抗し神の目的を邪魔する行動を取ることになる。それは胎児だけではなく、いかなる人間を殺す場合でも同じだが。この行為を正当化することは、人類においてもっとも弱者とされる何の罪もない人々への悪の行いを増すだけである。このように生後すぐに神を知る権利を奪うことは、重大な拒絶とされる。

何の罪もない子ども達を殺すことは、人類が神のイメージで造られたものだという事実を否定することになる。これは神の言葉の否定でもある。それは個人や世界の国々に神の判断を招くことにつながる:

「人の血を流す者があれば、人の手でその血が流される。神は、自らのかたどりとして、人をおつくりになったからだ。」創世の書9:6

「おまえたちは自分の住む土地を汚すな。血を汚すものは流血である。血を流した者の血をもってでなければ土地に流された血はあがなえないからである。」 荒野の書35:33

神が何の罪もない人間を殺すことに判断を下すのは、神の人間に対する真の愛情から生まれるものである。だから、中絶に関わるすべての人は、自分達の前に下されるであろう神の決断に注意する必要が求められる。

詩篇139の挑戦

教会が中絶問題について沈黙を保っている時、それは教会が今日世界中にはびこる偽りに真実を負かせているのであり、同時に「わたしが真実である。」と語る神よりも悪魔に仕えている。その結果は神が自分の家庭である世界の国々に判断を下すことに始まり(ペトロの第一の手紙4:17)、ついには私達個人にまで及ぶことになる。中絶に少しでも金銭的に関わった男女の苦悩や罪悪感の証言はこのことを悲劇的に証明するひとつの例である。

教会が忠実で自分を守ることのできない信者を守ろうと正義に満ちた時、迫害が期待される。迫害とは、忍耐や個性、希望を生み出す恵である(ローマ人への手紙5:3;フィリッピ人への手紙1:29;ペトロの第1の手紙4:12〜14)。さらに、いのちが救済されたり苦しめられた人々が解放されるという恵、また有効な神の言葉がその使命を果たしたときにも忠実な教会が生まれる(イザヤの書55:11〜12)。他に取りうる唯一のものは、不服従から生じる恥である。

「正義のために迫害される人は幸せである。天の国は彼らのものである。私のために、人々があなたたちをののしり、あるいは責め、あるいは数々の讒言を言うとき、あなた達は幸せである。喜びに喜べ、あなたたちは天において大きな報いを受けるであろう。先人の預言者たちも同じように迫害された。あなたたちは地の塩である。塩がその味を失えば何で塩の味をつけられようか。もう役にたたず、外に捨てられて人に踏まれるばかりである。」 マテオによる福音書5:10〜13

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