いのちの福音
Evangelium Vitae

四章:それは、わたしにしてくれたことである
(人間のいのちの新しい文化のために)

「あなたがたは、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗やみの中から驚くべき光の中へと招き入れてくださったかたの力あるわざを、あなたがたが広く伝えるためなのです」(一ペトロ2・9)
いのちの民、いのちのために働く民

78 教会は喜びと救いの宣言、源泉として、福音を受けました。教会は、「貧しい人に福音を告げ知らせるために」(ルカ4・18)父が派遣したイエスからのたまものとして福音を受けました。教会は、キリストが全世界に派遣した使徒たちをとおして福音を受けました(マルコ16・15、マタイ28・19ー20参照)。この福音をのべ伝える活動から生まれた教会は、日ごとに聖パウロの警告の言葉を耳にします。「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)。教皇パウロ六世はこう述べています。「福音を伝えることは、実に教会自身の本性に深く根ざしたもっとも特有の恵みであり、召命です。教会はまさに福音をのべ伝えるために存在しています101」。

福音宣教は包括的、漸進的な活動であり、これをとおして教会は、主イエスの預言者、祭司、王としての使命にあずかります。ですから、福音宣教は教えを説くこと、祭儀、愛の奉仕に解きたく結びついています。福音宣教は、福音の個々の働き手を、皆それぞれのカリスマと役務に応じて行動へと奮い立たせる、きわめて教会的な行いです。

いのちの福音、その福音の必要不可欠な部分、つまりイエス・キリスト自身をのべ伝えることに関しても、同じことがいえます。わたしたちはこの福音をたまものとして受けており、「地の果てに至るまで」(使徒言行録1・8)全人類にそれをのべ伝えるために遣わされるという自覚に支えられて、この福音に仕えます。ヘりくだりと感謝のうちに、わたしたちは自分がいのちの民であり、いのちのために働く民であることをかみしめます。これこそ、わたしたち自身をすべての人に示す道なのです。

79 わたしたちはいのちの民です。それは、無条件の愛のうちに神がいのちの福音をわたしたちに与えたからであり、この同じ福音をもってわたしたちは変容され救われたからです。わたしたちは「いのちへの導き手」(使徒言行録3・15)によって、このかたの尊い血の代価をもってあがなわれました(一コリント6・20、7・23、一ペトロ1・19参照)。洗礼の水によって、わたしたはキリストに接ぎ木されたのであり(ローマ6・4ー5、コロサイ2・12参照)、キリストという樹木から養分を吸い上げ、豊かな実りをもたらす枝となりました(ヨハネ15・5参照)。「主であり、いのちの与え主である」聖霊の恵みによって内的に新たにされて、わたしたちはいのちのために働く民となったのであり、これにふさわしい者として行動するよう招かれています。

わたしたちは派遣された者です。わたしたちにとって、いのちに仕える者であることは、誇りではありません。むしろ、わたしたちが、「神のものとなった民であり、それは暗やみの中から驚くべき光の中へと招き入れてくださったかたの力あるわざを広く伝えるため」(一ペトロ2・9参照)であるという自覚から生じる義務なのです。旅路の途上にあって、わたしたちは愛の法によって導かれ、支えられます。この愛の源であり原型は、人となった神の子、「死をとおして世にいのちを与えた102」かたです。

わたしたちは一つの民として派遣されています。人は、だれもがいのちに仕える義務を持ってます。それはまさしく「教会的な」責任であり、教会の全成員とキリスト者の共同体のあらゆる部門による、共同の寛大な行動を求めます。しかし、このような共同体のかかわりは、すべての人の「隣人となりなさい」という主の招きを受けている各人の責任を取り除いたり軽減したりすることはありません。すなわち、「行って、あなたも同じようにしなさい」(ルカ1O・37)と言われています。

わたしたちはだれもが皆、いのちの福音をのべ伝える務め、典礼と生活全体においてその福音を祝う務め、そして、いのちを支え育てるさまざまなプログラムや種々の組織をもっていのちに仕える務めを感じ取るのです。

「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝える」(一ヨハネ1・3)
いのちの福音をのべ伝えること

80 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、いのちのことばについて……あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(一ヨハネ1・1、3)。イエスは唯一の福音です。これ以外に、わたしたちには言うべきことも、あかしすることもありません。

イエスをのべ伝えるとは、いのちをのべ伝えることにほかなりません。イエスは「いのちのことば」(一ヨハネ1・1)だからです。イエスにおいて「いのちは現れました」(一ヨハネ1・2)。イエス自身が、「御父とともにあった永遠のいのち」であり、「わたしたちに現れた」のです(一ヨハネ1・2)聖霊のたまものによってこの同じいのちは、わたしたちに与えられています。すべての人の地上のいのちが余すところなく成就するのは、いのちの充満、「永遠のいのち」に定められた状態においてです。

このいのちの福音に照らされて、あらゆる驚くべき新しさのうちに、その福音をのべ伝え、それをあかしする必要をわたしたちは感じます。万物を新たにし103、罪に由来し死へと導く「古いもの104」を討ち滅ぼすのは、イエス自身にほかならないので、この福音はすべての人の期待をはるかに超え、人間の尊厳が恵みによって上げられる至高の極みを啓示します。これはニッサの聖グレゴリオが理解したことです。「一存在者として、人間は取るに足らないものです。ちりであり、草であり虚無です。けれども、ひとたび人間が天地万物の神によって子とされると、人間はその卓越性と偉大さをだれ一人として見たり、聞いたり、理解したりすることのできない、存在そのものであるかたの家族の一員となります。いったいどのような言葉、考え、精神の高揚が、この恵みの有り余る豊かさをほめたたえることができるのでしょうか。人間は、自らの本性を超えるものとなったのです。すなわち、死ぬべき人間は不滅のものとなり、滅びゆく人間は滅びを知らいものとなり、はかない人間は永遠に生きるものとなり、人間的なものが神聖なものとなりました105」。

人間にこれほど比類ない尊厳が恵まれていることを感謝し、喜ぶわたしたちは、このメッセージをすべての人と分かち合いたいという思いに駆られます。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです(一ヨハネ1・3)。わたしたちはいのちの福音をすべての人の心にもたらし、社会のあらゆる部分に浸透させなければなりません。

81 このような務めには、何よりもまずこの福音の核心をのべ伝えることが含まれます。すなわち、わたしたちの近くにいて、自らとの深い交わりに招いてくださり、永遠のいのちについてのある種の希望を呼び起こしてくださる、生きた神をのべ伝えることです。それはまた、人間、人間のいのち、そして人間の体との間の、分けることのできない結びつきを肯定することです。それは、人間のいのちを、関係性の中で生かされるいのち、神のたまもの、神の愛の実り、そのしるしとして提示することです。それは、イエスがすべての人と独自の形でかかわっていることを伝えることです。わたしたちはこのかかわりによって、すべての人の顔のうちにキリストの顔を認めることができるのです。それは、わたしたち一人ひとりの自由を実現するもっとも完全な道として、「自分を真正なささげものとせよ」という呼びかけです。

それはまた、この福音の重大性をすべて明らかにすることを含みます。これらの重大性は、次の点にまとめられます。つまり、神のたまものとしての人間のいのちは、神聖で不可侵なものということです。これがために、人工妊娠中絶と安楽死は絶対に許されないのです。人間のいのちは奪い取られてはならないばかりか、心からの配慮のうちに擁護されなければなりません。いのちの意義は、愛を与え愛を受けるところに見いだされます。そして、この光のもとに、人間の性と生殖は、その真実の完全な意味を獲得するに至ります。愛はまた、苦しみと死にも意味を与えます。苦しみと死は神秘に包まれていますが、それらは救いをもたらす出来事となりうるのです。いのちを尊重することは、科学と技術がつねに人間と人間に絶対に必要な発展とに寄与するものでなければならないことを要求します。社会は全体として、いかなるときでも、またどのような生活状況にあっても、すべての人の尊厳に敬意を払い、それを擁護し、守り育てなければなりません。

82 偽りなくいのちに仕える民であるためには、わたしたちは福音をのべ伝えるその初めから、絶えず勇気をもってこのような真理を提示しなければなりません。それに続くカテケジス、さまざまな形で行われる説教、個人的な対話、あらゆる教育の場での活動においても同様にすべきです。教師、カテキスタ、そして神学者たちは、あらゆる人間のいのちに対する敬意の基礎となる人間学的な論拠を強調する務めを負っています。このようにして、いのちの福音が持つ新しさを輝かせつつ、わたしたちもまた、すべての人が理性と個人的な経験に照らし合わせて、キリスト教のメッセージが人間について、また人間の存在と実存の意味について余すところなく啓示してるのを発見する手助けができるのです。こうして、わたしたちとともにいのちの新しい文化を打ち立てることに携わる信者ではない人々との接触や対話が重要になります。

対立する見解が多数あり、人間のいのちに関する健全な教えが広く拒絶されている状況の中で、パウロがテモテに懇願したことは、わたしたちにも当てはまることが分かります。「みことばをのべ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(二テモテ4・2)。この励ましの言葉は、真理の「教師」として教会の使命にさまざまな形で直接にあずかる教会構成員の心の中に、格別の力強さをもって再び響き渡るべきです。とくに、司教の任にある人々にとってそうなりますように。いのちの福音をたゆまず説き続けるようまず求められたのは、わたしたち司教です。司教には、この回勅であらためて説れている教えを欠けることなく、忠実に伝えていく務めがゆだねられています。司教は、教会の教えに反するあらゆるものから、信者たちを守るためにふさわしい手だてを講じなければなりせん。神学部、神学校、カトリックの教育機関にあっては、健全な教えが教授され、説明され、いっそう研究が進められるよう十分に配慮する必要があります106。すべての神学者・司牧者・教師に、またカテケジスと良心の形成に責任を負うすべての人の心に、パウロのあの励ましが届き、響き渡りますように。自分たちの特別な役目を意識し、教導職が忠実に示し解釈しているいのちの福音に反するような個人的な見解を彼らが示すことによって、真理と自らの使命を裏切るような悲しむべき無責任に陥るようなことが決してありませんように。

この福音をのべ伝えるにあたって、反対や不評を恐れてはなりません。また、世の考え方に従うことになるいかなる妥協やあいまいさをも拒絶しなければなりません(ローマ12・2参照)。わしたちはこの世にいなければなりませんが、この世のものであってはなりません(ヨハネ15・19、17、16参照)。わたしたちは、死と復活によって世に打ち勝ったキリストから力を受けているからです(ヨハネ16・33参照)

「わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている」(詩編139・14)
いのちの福音を祝うこと

83 わたしたちは「いのちのために働く民」として世に派遣されているので、わたしたちがのべ伝えることは、いのちの福音を真に祝うものともなるべきです。この祝いは、その身ぶり、シンボル、儀式をはつらつと表す力を備えて、この福音の美しさと威厳が伝えられる、貴重で意義深い土台となるべきです。

そのようなことが実現するには、第一に、わたしたち自身においても他の人々においても、観想を中心に据える立場を培う必要があります107。そのような立場は、すべての人を「驚くべきもの」(詩編139・14参照)として創造した、いのちの神への信仰から生じます。それはいのちをより深い意味でとらえる人々の立場であり、いのちがまったくの無償のたまものであることを理解し、いのちが自由と責任への招きであることといのちの美しさとをわきまえる人の立場です。現実を自分の力でつかみ取ろうとは考えず、むしろ万物の中に創造主のみ手を見いだし、すべての人の うちに創造主の生きたかたどりを見る(創世記1・27、詩編8・6参照)人の立場です。このような立場にある人は、病人、苦しむ人、社会から見捨てられた人、死の迫っている人に直面するときにも、落胆することはありません。むしろ、そうした状況にあっても、このような人は、意味を見いだすよう促されるのを感じ、このような境遇にあればこそ、すべての人のうちに出会いと対話と連帯への招きがあることを見抜くようになるのです。

今こそ、わたしたちだれもがこの立場に立つべき時であり、深い宗教的なおそれをもって、すべての人を尊びあがめる能力を再発見すべき時なのです。教皇パウロ六世は、その最初のクリスマス・メッセージでこのことを呼びかけました108。観想を中心にするこの立場に鼓舞されて、かけがえのないいのちのたまものに対して、そして一人ひとりがキリストによって恵みのいのちにあずかり、わたしたちの創造主であり父である神との終わりのない交わりそのものにあずかるようにと招く神秘に対して、あがなわれた新しい民は喜びの歌、賛美、感謝をもってこたえずにはいられないのです。

84 いのちの福音を祝うことは、いのちの神、いのちを与える神を祝うことになります。「他のあらゆるいのちが由来する、永遠のいのちを祝わなければなりません。何らかの形でいのちにあずかるあらゆる存在は、その能力に応じて、この永遠のいのちからいのちを受けます。他のあらゆるいのちに勝るこの神のいのちは、いのちを与え、保ちます。あらゆるいのちといのちあるあらゆるものの運動は、すべてのいのちといのちをつかさどる一切の原理を超越する、永遠のいのちから派生します。魂が不滅であるのは、このことに由来します。このことのゆえに、いのちの非常にかすかな輝きを受けているにすぎないあらゆる動植物が生存しているのです。永遠のいのちは、霊と物体とから成る存在である人間に、いのちを与えます。わたしたちが永遠のいのちを投げ捨てるようなことがあるにしても、人間に対するあふれるばかりの愛ゆえに、永遠のいのちはわたしたちを回心させ、自分自身へと呼び戻すのです。そればかりではありません。永遠のいのちは魂と体から成るわたしたちを完全ないのちへ、不滅へと連れて行くことを約束します。この永遠のいのちこそ生き続けると、いくら言っても言い過ぎではないのです。それはいのちの根本原理、究極の原因であり、いのちの唯一の尽きることのない源泉です。いのちあるすべてのものは、このことを観想し、賛美すべきです。いのちの満ちあふれ、それは永遠のいのちです109」。

詩編作者のように、わたしたちも個人として、また共同体として行う日ごとの祈りにおいて、母の胎内でわたしたちを組み立て、胎児であったわたしたちを見て愛した(詩編139・13、15−16参照)父である神をほめたたえます。抑えがたい喜びに促されて叫ぶのです。「わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。みわざがどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている」(詩編139・14)。実に、「その困難、その隠れた神秘、その苦痛、そしてその避けがたく伴うはかなさにもかかわらず、この死ぬべきいのちは、このうえなく美しいもの、絶えず新しく心を揺さぶる不思議、喜びと栄光のうちに称揚されるに値する出来事です110」。さらに、人間とそのいのちは、創造のもっとも偉大な不思議の一つしてわたしたちに現れるだけではありません。それは、神にわずかに劣るものである尊厳を、神は人間に与えたからです(詩編8・6ー7参照)。生まれたすべての子供のうちに、そして生きあるいは死ぬすべての人のうちに、わたしたちは神の栄光のかたどりを認めます。わたしたちはすベての人のうちにあるこの栄光、生きる神のしるし、イエス・キリストのかたどりをたたえるのです。

わたしたちはいのちのたまものへの驚きと感謝を表すよう招かれており、また個人の祈りと共同体の祈りの中だけでなく、典礼暦の祝いにおいても、いのちの福音を喜び迎え、これを楽しく味わい、これにあずかります。とりわけこれに関して大切なのは、キリスト者の生活において、イエス・キリストの現存と救いをもたらすわざの実効的なしるし、つまり秘跡です。秘跡はわたしたちを神のいのちにあずからせ、その完全な意味において、生と苦しみと死を引き受けて生きるのに必要な霊的な力を備えます。それら秘跡の儀式が持つ意味をしっかりと再発見し、いっそう深くその真価を認めるなら、わたしたちの典礼祭儀、とくに秘跡の祭儀は、誕生、生、苦、死に関する十全な真理をさらに明らかに表現するものとなるでしょう。また、誕生、生、苦、死を、十字架につけられてよみがえったキリストの過越秘義にあずかるものとして生きるよう助けるもとなるでしょう。

85 いのちの福音を祝うにあたっては、さまざまな文化と民族が持つ伝承と慣習のうちにある所作とシンボルという富を高く評価し、それを十分に利用する必要があります。誕生したいのちを喜ぶこと、個々の人間のいのちへの尊重とその擁護、苦しむ人や困窮のうちにある人の世話、高齢者と死に直面する人のそばにいること、苦悶する人の悲嘆にあずかること、不滅のいのちへの希望と熱望などの表現は、国や文化によって異なり、それを表す特別な時期や方法があります。

この点を考慮し、また一九九一年の枢機卿会議の提案に従って、わたしはすべての国で毎年、「いのちの日」を祝うよう提案します。この日は、いくつかの司教協議会ではすでに制定されています。この日の祝いは、地方教会に属するすべての部門の積極的な参加をもって計画され、実施されるべきです。この祝いの第一の目的は、各個人の良心において、家族において、教会において、市民社会において、あらゆる段階と境遇にあっても、人間のいのちの意味と価値を認めることを助長することです。人工妊娠中絶と安楽死の重大性には、時に慎重に考察するに値するいのちについての他の側面を軽視することなく、機会や状況に応じて格別の注意を向けなければなりません。

86 神に喜ばれる霊的な礼拝そのものとして(ローマ12・1参照)、いのちの福音は他者に自己を与える愛に満たされるべきで、毎日の生活でとくに祝われなければなりません。このようにして、わたしたちの生活は、いのちのたまものを真っすぐに責任をもって受け取るものとなるでしょう。また、このたまものをわたしたちに与える神に対する心からの賛美と感謝の賛歌となるでしょう。このことは、私心のない寛大なさまざまな行為においてすでに営まれています。このような行為は、男性と女性、子供と大人、若者と高齢者、そして健康な人と病人によって、たいていは謙虚で人目につかずに行われるような行為です。

きわめて人間味豊かで、愛に満たされた英雄的な行為が生まれるのも、このような状況においてです。このような行為は、いのちの福音のもっとも荘厳な祝いであるということができます。それは、その行為は自分を全面的に譲り渡すことをとおして、いのちの福音をのべ伝えるからです。このような行為は、愛する人のために自分のいのちを与える(ヨハネ15・13参照)という、至高の愛のまばゆいほどの現れです。その行為は、イエスがすべての人の価値を啓示し、自己を真心から贈り物とするとき、いのちはどのようにしてその完全さに至るかを啓示した、十字架の秘義にあずかるものです。このような際立った機会のほかに、真正ないのちの文化を造り上げる大小さまざまな分かち合いの意志から成る、日常的に行われる英雄的な行為があります。そのような意志の特別に称賛に値する事例は、時に何の希望もない病人に健康を取り戻し、場合によってはいのちを永らえる機会を与えようとして、倫理的に認められる方法で実施される臓器の提供です。

この日常的に行われる英雄的行為には、勇気あるあらゆる母親たちの、静かな、しかし実りある雄弁なあかしとなる生活があります。「このような母親たちは無条件に、家族のために献身的に尽くすのであり、子供たちを産み、自分自身の一番よいものを子供たちに伝えるために、どのような努力も惜しまず、どのような犠牲をもいとわぬ覚悟を持っています111」。自分の使命を生き抜くにあたり、「このような英雄的な女性たちは、自分を取り巻く世界に必ずしも支えがあるわけではありません。それどころか、メディアがしばしば助長し広める文化的なモデルは、母親であることを推奨することはないのです。進歩と現代的な生き方という美名のもとに、キリスト者である多くの妻や母親たちが、今日まであかしをし、またこれからも卓越したあかしを続ける、忠実、貞節、犠牲といったもろもろの価値は、すでに時代遅れのものとして扱われています。……わたしたちは、英雄的な心を持つ母親の皆さんの不屈の愛に感謝します。わたしたちは皆さんの、神への信頼、神の愛への大胆な信頼に感謝します。生活の中で犠牲をいとわぬ姿に感謝します。……過越秘義の中で、キリストは、皆さんがキリストにささげた贈り物を返し与えてくださいます。実に、皆さんがキリストに供えものとしてささげたいのちを返し与える権能を、キリストは持っているのです112」。

「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2・14)
いのちの福音に仕える

87 キリストの尊い使命にあずかってわたしたちが行う、人間のいのちを支え伸張させる務めは、愛の奉仕をとおして成就されなければなりません。この愛の奉仕は、ボランティア活動、社会的活動、政治的活動といったさまざまな形をとる、個人的なあかしという姿で現れます。「死の文化」がこれほどまでに強力に「いのちの文化」に敵対し、時に優位に立っているように思われる今の時代では、このことはとくに急を要することです。それは、このような事態になる以前でも「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤ5・6)から生じる必要です。ヤコブの手紙は次のように諭します。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わななら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2・14−17)。

愛の奉仕に携わるにあたり、わたしたちは一つの明確な態度に鼓舞され特徴づけられなければりません。すなわち、他の人を世話する場合は、神がわたしたちに責任をゆだねた一個人として世話しなければならないのです。イエスの弟子として、わたしたちはだれに対しても隣人となように(ルカ1O・29−37参照)、またきわめて貧しく、孤独であり、困窮のうちにある人たちに特別な厚意を示すよう求められています。胎児や死を前にして苦しむ高齢者と同様、飢える人、渇く人、外国人、裸の人、病人、捕らわれ人を助けるたびに、わたしたちはイエスに仕える機会を手にするのです。主自らこう語りました。「わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。それゆえ、わたしたちは聖ヨハネ・クリゾストモのこのうえなく適切な言葉に諭され、自分の行いについての決算を求めら裁かれると感じざるをえないのです。「キリストのからだを尊びたいのですか。それなら裸でいるキリストをさげすんではなりません。教会堂の中で絹の布をあげてキリストを尊びながら、戸外にあって寒さと裸で震えているキリストをなおざりにしてはなりません113」。

いのちがあるところでは、愛の奉仕は徹して首尾一貫したものでなければなりません。愛の奉仕は、偏見や差別を許容することはできません。それは、人間のいのちはどのような段階にあり、またいかなる境遇にあろうとも、神聖で不可侵だからです。人間のいのちは分割できない善なのです。ですから、わたしたちはすべてのいのちに対して、まただれのいのちに対しても、「気遣いを示す」必要があります。実に、いっそう深いレベルで、わたしたちはいのちと愛の根源そのものへ分け入る必要があるのです。

幾世紀にもわたって卓越した愛の歴史を築いたのは、すべての人に対するこの深い愛です。この歴史とは、いのちに対するさまざまな形の奉仕を教会と社会の中に生じさせてきた歴史で、公平な評価を下す人々は皆、このような奉仕に対して称賛の声を上げています。あらゆるキリスト者の共同体は、新たな責任感をもって、さまざまな司牧活動と社会活動をとおして、この歴史を書き続けなければなりません。そのためには、新しいいのちを支援するにふさわしい、実効あるプログラムが行われなければなりません。配偶者からの手助けすらなく、それでも恐れずに子供を産み育てようとする母親たちに対する、特別の親愛の情をもって行われなければならないのです。社会から見捨てられ苦しむ人のいのち、とりわけ死に臨むいのちに、同様の世話が向けられなければなりません。

88 以上のことはすべて、一人ひとりが他人の重荷を担うよう励ます(ガラテヤ6・2参照)ことを目的とする、忍耐強く果敢な教育活動を伴います。仕えることへの召命を、とくに若者たちのうちに育て続けることが必要です。そこには、福音によって鼓舞された、長期にわたる実践的な計画と責任ある決断が欠かせません。

この目的を得るためには、多数の手だてがあります。それらは、熟練と真撃な献身によって開発されなければなりません。いのちの最初の段階については、受胎調節の自然的な方法を扱うセンターが設立され、責任ある親となることができるよう価値ある手助けが提供されるべきです。そこでは、すべての人が、また何よりも子供たちがその権利において認められ、尊ばれ、さらにあらゆる決断が、自己を心からの贈り物とするという理想によって導かれるのです。結婚・家庭相談所は、人間、夫婦、そして性に関するキリスト教的な見方に立脚した人間学に基づいて実行される指導と予防という特有の働きによって、愛といのちの意味を再発見することにおいて、また「いのちの聖域」としてその使命を担うあらゆる家族を支援し、家族とともに歩むことにおいて、大いに貢献しています。生まれたばかりのいのちは、援助センター、および新しいいのちを歓迎する家庭やセンターにおいても世話を受けています。このようなセンターの活動のおかげで、多数の未婚の母と困窮のうちにある夫婦は、新しい希望を見いだし、身ごもったばかりのいのち、あるいは生まれたばかりのいのちを受け入れる困難や恐れに打ち勝つための助けや支えを得ています。

いのちが、困難、不均衡、病気、あるいは拒絶などの状況に直面するとき、薬物中毒に対処する共同体、未成年や精神的な疾患のある人のための宿泊設備のある共同体、エイズ患者を世話し救済するセンター、とくに障害のある人々との連帯のために活動する施設などというようなプログラムは、すべての人に希望への新しい根拠といのちへの具体的な手がかりを与えるために、愛がどれほどのことをなしうるかを雄弁に語るのです。

地上に存在するものが終焉に近づくとき、高齢者、とくに自分で自分の面倒をみることのできない人々、そして末期患者たちが純粋に人道的な援助を享受して、とりわけ不安と孤独の中で苦悩する彼らが、自分に必要なことにふさわしい対応を受けることができるよう、最適の手段を講じるのもまた愛なのです。このような事例においては、家族の役割は欠かせません。しかも、家族は社会福祉機関から多大な援助を受けることができます。また必要ならば、公共の組織や家庭で受けられる、相応の医療上のサービスや社会的なサービスを利用して、一時的に看護を肩代わりしてもらうこともできます。

とくに、病院、診療所、回復期患者保養所の役割を再考する必要があります。これらの施設は、病人や死に臨む人々に看護を提供するだけにとどまるべきではありません。何よりもそれらの施設、苦しみ、痛み、そして死が、その人間的な意味ととくにキリスト教的な意味において認知され、理解される場でなければなりません。修道者が職員として勤務する施設、あるいは何らかの形で教会に関係する施設において、このことはとくに明確に示され、実効あるものとならなけばなりません。

89 いのちへの奉仕にあたる機関とセンター、また状況によって必要となる、いのちを支え、いのちに連帯する他のあらゆる発意工夫などは、惜しみない心で取り組む人々によって、そして個人と社会の善にとっていのちの福音が有する重要性を十分に自覚する人々によって、管理される必要があります。

医師、薬剤師、看護婦、病院付の司祭、男女修道者、管理責任者、ボランティアに携わる人、これらの健康管理業務に従事する人々には、固有の責任があります。このような職業に従事するには、人間のいのちを保護しそれに仕える者であることが求められます。現代の文化的、社会的潮流において、科学と医学の実践は、自らに本来備わっている倫理的な面を見失う危険性を帯びており、健康管理の職業は、時にはいのちを操作する立場に立ったり、あるいは死さえももたらすものとなりうるのです。このような誘惑を前にして、彼らの責任は今日、よリ大きくなっています。このような責任ある人々にとって最強の励みとなるもの、また最強の支援となるものは、健康管理の職業に本来的に伴う否定しがたい倫理的な側面のうちに見いだされます。この倫理的な側面は、古代の人々によってすでに承認され、今なお今日的な意義のある「ヒポクラテスの誓い」であり、これは人間のいのちとその神聖さに絶対的な敬意を表すことを、自らのこととして引き受けることをすべての医師に求めます。

あらゆる罪のない人に絶対的に敬意を表すことはまた、人工妊娠中絶と安楽死の実施を良心に基づいて拒絶することを要求します。「死をもたらすこと」は、仮にその意向が単に患者の要求に応じるだけであっても、医療処置の一つとは決して見なされることはありません。むしろ、健康管理という職業に完全に背きます。この職業は、情熱をもって、断固としていのちを肯定するを意図するからです。生物医学の研究もまた、人類に多大な福利を約束する分野であり、人間の不可侵の尊厳を軽視し、それによって人々への奉仕をやめ、代わりに人々を助けるということを口実にして、実際は人々に危害を加える手段と化すような実験や研究あるいは臨床応用は、つねに退けなければなりません。

90 ボランティアに携わる人々は、特有な役割を担っています。彼らは専門の能力と寛大で私心のない愛をもって協力するとき、いのちへの奉仕に貴重な貢献をします。いのちの福音は彼らを鼓舞し、他者に対する彼らの善意を、キリストの愛の極みへと押し上げます。激務と疲れの中にあっても、すべての人格の尊厳についての認識を日ごとに新たにさせるのです。また、人々が何を必要としているかを探し出し、人々の必要とするものが多くて世話と支援が追いつかない場合には、必要なら新しい方針を立てるようにするのです。

愛が現実に即したもの、実効あるものであるためには、かつてなかったほどに複雑で多様なこの社会においては、いのちの価値を擁護し伸張させる方法として、社会的活動と政治的分野での尽力といった手だてをもって、いのちの福音が成就されることが求められます。個人、家族、グル−プ、種々の団体は、理由と方法が異なっていても、すべて一つの責任を持っています。すなわち、社会を形成し、文化的、経済的、政治的、立法上の計画を進展させる責任です。これらの計画は、あらゆる民主的諸原則を尊重し、これと一致して各人の尊厳が認められ、保護され、すべてのいのちが擁護され、その質が高められるような社会を築くうえで貢献するでしょう。

この務めは、社会の指導者たちにとって特別の責任です。人々と共通善に奉仕するよう求められて、彼らはいのちを支援することにおいて、とくに立法上の処置をとおして勇気ある選択をする義務を持っています。法律と決定が多数の人の合意に基づいて成立する民主主義の体制では、権威を賦与された各人の良心における責任の感覚は弱まるといえるでしょう。しかし、だれもこの責任を放棄することはできません。とくにその人が、立法上の権限、あるいは何ごとかを決定する権限を委任されている場合にはなおさらです。その権限は、当のその人が神にこたえること、自らの良心にこたえること、そして共通善に反するかもしれない選択について社会全体にこたえることを求めるものです。法律は、人間のいのちを擁護する唯一の手段に限られるものではありませんが、それにもかかわらず、考え方と行動のパターンに影響を与えて、きわめて重要で時には決定的な役割を果たします。わたしはここで再び繰り返します。いのちに対する罪のない人の本性的権利を侵害する法律は不正であり、そのような法は法として無効なのです。それゆえわたしは、人間の尊厳を無視することによって、社会の枠組みそのものをむしばむ法律を通過させてはならないと、すべての政治指導者たちに再び訴えます。

多種多様な形態をとる民主主義において、いのちを実効ある法的手段で擁護することは容易でははないということを、教会は十分に承知しています。それは、異なる見地の強力な文化的潮流があるからです。同時に、だれの良心においても、道徳上の真理が持つ重要性は十分に認められると確信して、教会は政治指導者たちに、まずキリスト者である人たちから始めて、くじけることなく、現実的に達成可能なところを考慮して、いのちの価値を擁護し守り育てるにあたって、正当な秩序を再構築するようになる選択をするよう励まします。その際、不正な法律を取り去るだけでは不十分なことに注目しなければなりません。とくに家族や母性に対して独自の支援を保障することによって、いのちに攻撃をしかける潜在的な原因を取り除かなければなりません。家族政策はあらゆる社会政策の基礎であり、推進力でなければなりません。このような理由で、親であることに関しては、選択の真の自由に先立つ諸条件を保障することのできる、社会的、政治的決断がなされる必要があります。さらに、労働政策、都市政策、住宅政策、社会福祉政策について再考する必要もあります。それは、一日の労働時間帯を家族のために利用できる時刻に合わせるためであって、その結果、子供たちや高齢者たちを効果的に世話することができるようになります。

91 今日、いのちを大切にするさまざまな政策が抱える重要な点は、人口増加という問題です。確かに公権は、「人口動態統計を方向づける目的で介入する114」責任を持っています。しかしそのような干渉は、夫婦と家族が持つ基本的な責任と譲り渡すことのできない責任をつねに考慮に入れ、尊ばなければなりません。またこのような干渉は、すべての罪のない人のいのちの権利から始まり、人格と基本的人権を尊重しないで済ませる方法をとることはできません。ですから、出生を規制するために、避妊、不妊手術、人工妊娠中絶といった方法を用いることを推奨し、それらが濫用されるに任せるのは、道徳上容認することはできません。人口問題を解決する方法は実にさまざまです。各国政府と種々の国際機関は、何よりもまず夫婦が完全な自由と真の責任をもって、生殖に関して選択するのを可能にする、経済的、社会的な公衆衛生上の文化的条件を造り出すよう努力しなければなりません。それゆえ政府と国際機関は、「より多くの機会が提供され、より公平な富の分配が行われ、だれもが地上の資財に公平にあずかることができるよう努力しなければなりません。国内および国際的秩序の両面で、交わりの真の秩序と物的財の分かち合いを打ち立てることによって、地球規模での解決が探られなければなりません115」。諸民族の真正な文化遺産と同様に、各個人と家族の尊厳をも尊ぶ方法は、これ以外にはありません。

したがって、いのちの福音への奉仕は、広範にわたる複雑な任務となります。この奉仕は、カトリック以外の諸教会に属する兄弟姉妹や、教会としての組織を持つ種々の共同体との積極的な協力にとって、貴重で実り多い領域としてますますその姿を現しています。これは、第二バチカン公会議が権威をもって奨励した116実際的なエキュメニズムに合致するものです。いのちの福音への奉仕は、他宗教の人々との、またあらゆる善意の人たちとの対話と共同の努力のための一つの摂理的な場としても現れます。いのちを擁護し守り育てるにあたっては、いかなる個人も団体も独占的にかかわるのではありません。これらのことは、すべての人の任務であり責任です。紀元二〇〇〇年を間近に控えた今日、わたしたちが直面する挑戦は厳しいものです。いのちの価値も信じるすべての人が協力して行う努力だけが、文明が予測だにしなかった重要性の後退を阻止することができるのです。

「食卓を囲む子らは、オリーブの若木」(詩編128・3)
「いのちの聖域」としての家族

92 「いのちの民、およびいのちのために働く民」という枠組みの中で、家族は決定的に重要な責任を持っています。この責任は、結婚に基づくいのちと愛から成る共同体としての家族の本質そのものに由来するのであり、また、「愛を守り、表し、伝える使命117」に由来します。愛とはすなわち神自身の愛であり、両親は、父である神の計画に沿っていのちを伝達し養育するとき、神の愛の協力者であり、いわばその解釈者となるのです118。これが無私の心、受容する態度、贈り物となる愛です。家族の一人ひとりは家庭において受け入れられ、尊敬され、あがめられますが、それは一人ひとりがまさに一個の人間だからです。家族のだれかがとても困っている場合、その人が受ける世話はいっそう真剣で心のこもったものとなります。

家庭には、家族一人ひとりが誕生から死までの生涯を生きる間に果たすべき特別な務めがあります。家庭はまさに「聖なるものです。家庭こそ、神の贈り物である生命がふさわしく迎えられ、ふりかかる多くの攻撃から守られる場であり、真の人間的成長をもたらしつつ発展することができる場なのです119」。したがって、いのちの文化を築くにあたって家族の役割は決定的に重要であり、かけがえのないものなのです。

家庭は家庭教会として、いのちの福音をのべ伝え、祝い、仕えるよう求められます。それはまず第一に、夫婦にかかわる責任です。夫婦は生殖の意味をより深く自覚したうえで、いのちをもたらす者となるよう求められています。生殖は、人間のいのちとは受け取られるたまものであり、神から与えられたたまものであるということを明らかに示す、かけがえのない出来事です。新しいいのちの芽生えのとき、両親は、子供が「夫婦相互の愛のたまものの実りであり、また同時に夫婦への贈り物、二人から生まれ出るたまものである120」と認めます。

家庭がいのちの福音をのべ伝える使命を具体的に歩むのは、何よりも子供たちを養育することにおいてです。日常生活でのさまざまなかかわりと選択の繰り返しの中で、また具体的なもろもろの行動としるしをとおして、言葉と模範によって、両親は、自分を心からささげる姿のうちに現実のものとなる真の自由へと子供たちを導きます。また両親は、子供たちに、他者への尊敬、正義の感覚、心を開くこと、対話、寛大な奉仕、連帯、さらに、たまものとしてのいのちを生きるよう他の人々を手助けすることなど、他のあらゆる価値について教育します。子供たちの教育についていえば、キリスト者の両親は、子供たちの信仰に関心を持ち続け、子供たちが神から受けた召命をまっとうするよう助けなければなりません。教育者としての両親の使命にはまた、子供たちに苦しみと死の真の意味を具体的に教示することが含まれます。両親が身の回りのあらゆ種類の苦しみに敏感であり、さらに家族の中の病気の高齢者に対する親しさ、支え、分かち合いの態度を育てるなら、子供たちは両親の願う方向に育つでしょう。

93 家族は、個人的な祈りと家族で行う祈りを毎日ささげることによって、いのちの福音を祝います。家族は、いのちのたまもののために神に栄光を帰し、感謝するために祈ります。また、家族は困難や苦しみにあっても、望みを失うことのないように、神に光と力を懇願します。しかし一切の祈りと礼拝に意味を与える祝いとは、愛に満ちた生活、自分を与える生活が営まれるなら、家族がともに生きるその日々の生活の中にこそあるのです。

こうしてこの祝いは、いのちの福音への奉仕となります。この奉仕は、日々のありきたりの出来事の中に示される、心配りの行き届いた思いやりのある愛情深い配慮という形をとって、家族の中で、また家族の周辺で経験される連帯をとおして表されます。家族間を結ぶ連帯を非常に意義深いものとして表すのは、両親に見捨てられた子供たち、あるいは深刻な虐待のうちにある子たちを進んで養子縁組し、受け入れる態度です。親としての真の愛は、他の家族から子供たちを受け入れるために血肉のきずなを喜んで超えようとし、子供たちの幸福と十全な発育のために必要なら何でも与えようとします。養子縁組にはさまざまな形態があります。ある家庭が、ただ経済上の貧しさから子供の養育を断念するといった場合に望ましい、「一定の距離を置いた養子縁組」を考慮すべきです。この種の養子縁組によって必要な援助が与えられ、両親は親子の自然な状態から引き離されることなく、自分たちの子供たちを支え、養育できるのです。

「自らをかけて共通善のために働くべきであるとする堅固な決断121」の具現として、連帯も、社会生活と政治生活に参加することをとおして実践される必要があります。ですから、いのちの福音に奉仕することは、家族がとりわけ家族の団体の一員であることをとおして、国家の法律と機関が、妊娠から自然死へ至るまでのいのちの権利を決して侵害することのないように、むしろいのちを守り育てるようにするために活動することを意味します。

94 高齢者には特別な配慮が払われるべきです。ある文化では、高齢者は重要かつ積極的な役割を担う家族の一員としてとどまりますが、他の文化においては無用の重荷と見なされ、置き去りにされます。ここに、安楽死に訴える誘惑が比較的安易に生じる素地があります。

高齢者をなおざりにすること、あるいは彼らをまったく排斥することは許されません。家族に高齢者がいること、あるいは、生活空間が限られるか、ともに生活することを不可能にする他の理由がある場合には、少なくとも彼らが家族の近くにいることは、家族と高齢者が相互にかかわり合う雰囲気を作り出し、さまざまな世代間の交流を豊かにすることにおいて根本的に重要です。ですから、世代間の一種の「契約」を保持すること、それが失われてしまっているところでは再び結び直すことが大切です。このようにして、両親は自分が年を取ったとき、彼らが子供たちを世に産み出したときに子供たちに与えた受容と連帯を子供たちから受け取るのです。これは、あなたの父母を敬え(出エジプト20・12、レビ19・3参照)という神のおきてへの従順が求めることです。しかし、それ以上のことが含まれています。高齢者は、わたしたちの関心、近しさ、奉仕の対象だと見なされるだけではありません。彼ら自身、いのちの福音のために貴重な貢献となるのです。長年にわたって獲得した経験という豊かな宝のおかげで、高齢者は知恵の源、希望と愛のあかしとなることができるのであり、またそうならなければなりません。

「人類の将来は家庭をとおして過ぎ越していく122」のは真実ですが、現代の社会的、経済的、文化的な諸条件がいのちに奉仕する家族の務めをいっそう困難なものとし、過酷な要求をするものしていることは認めざるをえません。「いのちの聖域」としての召命を成就するために、家族はいのちを愛し、いのちを温かく迎える社会の細胞として、緊急に助けられる必要があります。共同体や国家は、真に人間的な方法で自分たちの問題に相対するために、家族が必要とする経済上の援助をも含めたあらゆる支援を保障すべきです。教会としては、家族を対象とした司牧的な世話を行う計画を忍耐強く推進しなければなりません。あらゆる家族に、いのちの福音を促進する使命を喜びと勇気をもって再発見させ、それを生きることを可能にする計画を進めなければならないのです。

「光の子として歩みなさい」 (エフェソ5・8)
文化の変容をもたらすこと

95 「光の子として歩みなさい。……何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗やみのわざに加わらないように」(エフェソ5・8、10−11)。「いのちの文化」と「死の文化」との間の劇的な闘争に特徴づけられる現代の社会風潮においては、真の価値と必要を識別できる、深い批判的判断力を研ぎ澄ます必要があります。

まず必要なのは、いのちを擁護する大規模な運動を展開するために、広く良心を結集することであり、倫理的なことがらについて団結して努力することです。これらすべてをもって、わたしたちはいのちの新しい文化を打ち立てなければなりません。新しいとは、人間のいのちに影響を及ぼす今日の前例のない諸問題に直面することができ、解決することができるからです。また、すべてのキリスト者によって、より深くより力強い確信をもって取り上げられ、さらにあらゆる当事者の間で、真剣な、腹の据わった文化的対話を行うことが可能となるであろうからです。このような文化的な変容を起こす緊急な必要性は、現今の歴史的状況に関連していますが、同時に教会が持つ福音化の使命に根ざしています。実際、福音の目的は、「人類を内部から変容させ、新しくすること123」です。パンの生地全体を発酵させるパン種のように(マタイ13・33参照)、福音はあらゆる文化に浸透し、内側からいのちを吹き込むはずです124。こうしてあらゆる文化は、人間について、そして人間のいのちについて、十全な真理を説き明かすことになります。

わたしたちはキリスト者の共同体そのものの内部で、いのちの文化を刷新することから始める必要があります。信者たちは、教会生活の中で積極的に活躍する人でさえ、結局はいのちに関する倫理的要求からキリスト教の信仰を切り離してしまい、それゆえ道徳的主観主義とある種のあるまじき行動に陥るということが往々にして起こります。大いなる率直さと勇気をもって、わたしたちは自分たちの教区において、一人ひとりのキリスト者、家族、各グループ、各共同体の間に、今日、いのちの文化がどのくらい根づいているかを自問する必要があります。わたしたちは、同等の明瞭さと確かさをもって、逐一いのちに奉仕するためにとるよう求められる手段を明らかにしければなりません。同時に、知的な会合でもさまざまな専門的分野での討議でも、また、人々の日常生活のレベルにおいても、信者でない人をも含めたすべての人と、人間のいのちという根本的な論点について、真剣で徹底的な意見交換を推進する必要があります。

96 この文化的変容を目指すにあたっての根本的な第一歩は、あらゆる人間のいのちが無比の、不可侵の価値を持つことに関して、良心を育て上げるところにあります。いのちと自由との間に本質的な結びつきを回復するのは、最重要の課題です。いのちと自由は切り離せません。一方が侵害されると、もう一方も侵害されることになります。いのちが歓迎されず愛されないところには、真の自由はありません。自由なくして、いのちの豊かさはありません。いのちと自由の双方に、両者を解くことができないほどに結び合わせる本来的な特別な何かがあります。それこそ愛への召命です。自らを心からの贈り物とする愛は125、人間のいのちと人間の自由に正確な意味を与えるのです。

同様に、良心を育てるにあたって決定的なのは、自由と真理との間に必然的に伴う結びつきを再発見することです。しばしば述べてきたように、自由が客観的真理から引き離されるとき、自由は、堅固な理性的基礎の上に人間の諸権利を打ち立てることはできなくなります。社会が、各個人のしたい放題の意思や公権の圧倒的な全体主義の言いなりになる、その根拠が据えられるのです126

ですから、神がたまものとして、また義務として存在といのちを授けた、その被造物としての人間が、自分たちに生来備わった条件を承認すべきことは本質的なことです。人間の生来的な依存性を認めて初めて、人間はその自由を余すところなく生きることができ、その自由を行使できるのです。同時に、他のすべての人のいのちと自由を尊重することができます。ここでわたしたちは、とりわけ次のことを理解できます。つまり、「あらゆる文化の中心とは、もっとも大いなる神秘、すなわち神の神秘に対して人間がとる態度にほかならない127」ということです。神が否定され、神が存在しないかのように、あるいは神のおきてに無頓着なところでは、人間の尊厳と人間のいのちが不可侵であることもまた、最終的には排斥され危険にさらされることになります。

97 良心の形成に密接にかかわるのは、教育の務めです。この務めは、各個人がよりいっそう人間的になるのを助け、人々をより完全に真理へ導き、いのちを尊ぶ心を徐々に育て、正しい人間関係を身につけさせるのです。

とくに、最初期からのいのちの価値について教育する必要があります。性・愛・いのちの全体が持つ真の意味に従って、そしてこれら相互の関連の中で、若い世代が性と愛といのちの全体を受け入れ経験するのを手助けせずに、人間のいのちの真の文化を築くことができると考えるのは幻想です。人間全体を豊かにする性は「愛のうちに自己を与えるように人格をはぐくむことで、そのもっとも深い意味を表します128。新しく芽生えたいのちを侮るようになった主な原因に、性がありふれたものとなったことがあげられます。真の愛だけが、いのちを守ることができるのです。とくに青少年や成人して間もない人たちに、性と愛にかかわる真正な教育を提供すること、人格の成熟を助長し、肉体についての「結婚生活での」意味を尊重できるようにする徳としての貞潔の面での訓育を含む教育を提供することは、避けることのできない義務なのです。

いのちへの奉仕の面での教育の務めは、夫婦に責任ある生殖について教えることを含みます。真の意味で責任ある生殖は、夫婦が主の招きに従順であり、主の計画の忠実な解釈者として行動るよう求めます。たとえ重大な理由があり、また道徳法を尊重して、夫婦が新しい誕生を当座もしくは無期限に回避する道を選ぶとしても、家族が新しいいのちに寛大に心を開くとき、また夫婦が率直な態度といのちへの奉仕を保持するとき、神の招きに忠実でなければなりません。道徳法はあらゆる場合に、本能と情熱の衝動を制御するように、また、彼らの人格に刻まれている生物的原則を尊重するように義務づけます。責任ある生殖を行うにあたり、受胎の自然調節法を合法とするのは、まさにこの尊重なのです。このような方法は、科学的見地からますます精度を高めており、実際、道徳上の諸価値に合致した選択を可能とします。このような方法の効果の程を偏りなく評価するには、いまだに広く保持されているある種の偏見を取り除かなければなりません。また、ヘルスワーカーやソーシャルワーカーなどと同様に、夫婦にもこの領域での適切なトレーニングの重要性を確信させなければなりません。教会は、個人的な犠牲を払い、時には人知れずささげる献身をもって、このような方法の研究と普及、およびこのような方法が前提とする道徳的諸価値についての教育の推進に身をささげる人々に感謝します。

教育の務めは、苦しみと死についての考察を回避することはできません。苦しみと死は人間存在の欠くことのできない要素であり、これについて隠したり無視したりするということは、誤解を招くだけでなく無益なことなのです。それどころか、人々には、それがいかに厳しい現実であろうと、苦しみや死の深遠な神秘を理解するよう助けが与えられるべきです。痛みや苦しみでさえも、それらが受け与える愛と密接に結ばれて体験されるとき、意味と価値を持つのです。この点に関して、わたしは「世界病者の日」を毎年祝うよう訴えてきました。これは、「キリストとの交わりにおいて体験されるなら、あがないの神髄に属する苦しみをささげることは救いをもたらす129」ということを強調するものです。死それ自体は、希望のない出来事では決してありません。死は永遠に向かって広く開かれる戸口であり、キリストにおいて生きる人々にとっては、キリストの死と復活の秘義にあずかる体験をすることへ続く戸口なのです。

98 要するに、わたしたちが主張する文化の変容は、さまざまな価値についての正確な尺度に基づいて、個人、家族、社会、国際的レベルで行われる具体的な選択に存する新しい生き方を自分のものとする勇気を、すべての人に求めることだということができます。持つことよりも、どのようにあるかが重要130であり、物よりも人間が重要であるという尺度131です。この刷新された生活様式は、無関心から他者に関心を抱くことへの、また排斥することから他者を受け入れることへの過ぎ越しを含みます。他者は、わたしたちが彼らから身を守らなければならないライバルではなく、支援されるべき兄弟姉妹です。他者は、彼ら自身のゆえに愛されるべき存在であり、彼らがいること自体がわたしたちを豊かにしてくれます。

いのちの新しい文化を目指すこの動きの中で、自分だけが除外されると考えてはなりません。だれもが、果たすべき重要な役割を持っているのです。家族とともに教師や教育者には、とくに果たすべき貴重な貢献が期待されています。若い人々が真の自由について教育を受け、人生についての他の新しい理想、真正な理想を自分たちの力で保持し、それらを他者に伝えることができるかどうかは、教師や教育者にかかっています。家族や社会の中で、すべての他者を尊重し、また他者に奉仕することにおいて若者が成長するかどうかも同様です。

人間のいのちの新しい文化を築くために、知識人にも多くのことが可能です。カトリックの知識人は、特別の任務を引き受けることになります。彼らは、文化が形成される指導センターや学校、大学、科学研究の場、技術研究の場、芸術的創造の場、人間研究の場などでの参加と活動を求められています。福音の生きた力によってその才能と活動をはぐぐまれて、彼らは真剣に十分に練られた論文を提供することによって、いのちの新しい文化への奉仕を引き受けなければなりせん。この論文は彼らの優秀さのゆえに、世界に広く尊厳と関心を引き起こすことができるものです。まさにこの目的のために、わたしは教皇庁立生命アカデミーを設立し、次の任務を与えました。すなわち、「いのちを守り育てることに関する法律や生物医学の主要な問題、とくにそれらの問題がキリスト教の道徳と教会の教導職が出した指示とに直接にかかわる場合、このような諸問題について研究し、情報を収集し、また教育にあたる132」という務めです。大学研究機関、とりわけカトリック大学、また生命倫理に取り組むセンターや研究所、委員会には格別の貢献が期待されます。

マスメディアの分野で働く人々には、重要かつ重大な責任があります。彼らが効果的に伝達するメッセージが、いのちの文化を支持するものであるように招かれているからです。彼らは、いのちの優れたモデルを提示する必要があり、また人々の積極的で、時には他者のためにささげる英雄的な愛の実例のために時間を割くべきです。彼らはまた、大いなる敬意をもって性と人間の愛という積極的なさまざまな価値を提示すべきであり、人間の尊厳を傷つけ軽んじるようなことを主張すべきではありません。物事を解釈する際には、いのちに関して無関心な心情や態度、軽侮や排斥といったことを暗示したり助長したりするようなことを強調しないように注意すべきです。事実に基づいた真理への誠意ある関心をもって、情報伝達の自由を、すべての人に対する敬意と人類という深遠な感覚を尊ぶ立場とに結び合わせるよう彼らは求められています。

99 いのちを支えるものとなるよう文化を変容させる営みにおいて、女性は思想と行動の面で、独特の決定的な位置を占めています。社会生活のあらゆる面における女性の真の特質を認め、肯定し、さらに一切の差別と暴力と搾取を打破するために、典型的な「男性支配」に倣う誘惑を退ける「新しいフェミニズム」を推進することは、女性にかかっています。

第二バチカン公会議の閉会メッセージの言葉をもって、わたしは女性の皆さんに切に訴えます。「人々をいのちと和解させてください133」。皆さんはまことの愛の意味、すなわち自らを贈り物としてささげることの意味をあかしするよう招かれています。また、夫と妻の関係にとくに現存するのですが、他のあらゆる人間関係の核にあるべきものとしても他者を受け入れることの意味をあかしするよう招かれています。母性を体験することから、皆さんは他の人格に敏感に気づくようになります。同時に、ある特定の務めを受けています。「胎内に生命が発達するにつれて、母性は生命の秘義と特別な交わりを持つようになります。……自分の中で成長しつつある新しい人間とのこの独特な交わりは、母親に人間に対する態度、自分自身の子供ばかりでなくすべての人間に対する一つの態度を持つようにしむけます。この態度こそ、女性の個性を深く特徴づけるものです134」。母親は、自分の中に別の人間を迎え入れ、身ごもります。その新しいいのちが自分の中で生育できるようにし、場所を与え、新しいいのちが他者であることにおいてそれを尊びます。人間関係が他の人格を受け入れることへ開かれているなら、女性はその人間関係が本物であるこをまず学び、次いで他の人にそのことを教えます。つまり、他の人格とは、有用性、力、知能、美、健やかさなどのような他の考察に由来する尊厳ではなく、人格であるそのことからくる尊厳のゆえに認められた人格、愛された人格としてのものなのです。これは、教会と人類が女性に期待する根本的な貢献です。そしてこのことは、真の意味での文化的な変化が起こるために、絶対に欠かせない必要条件です。

わたしはここで、人工妊娠中絶を経験した女性の皆さんにとくに申し上げます。教会は、皆さんの決心に影響を及ぼしたと思われる多くの要因があることを知っています。また教会は、多くの場合、それは苦渋に満ちた、身を裂かれるような決断であったであろうことを疑いません。皆さんの心の傷は、いまだにいやされていないかもしれません。確かに、現実に起こったことは大きな過ちでしたし、今なお過ちとして残っています。けれども、落胆のうちに沈み込まないでください。望みを失ってはなりません。むしろ、起こったことをよく理解し、それに誠実に向き合うようにしてください。まだ悔い改めていないなら、謙遜と信頼をもって悔い改めに身をゆだねてください。いつくしみ深い父はゆるしの秘跡によって、そのゆるしと平和をあなたに与えようと待っています。決定的にすべてが失われたのではないことが、やがて分かるでしょう。そして、今は主のもとで生きるあなたの子供に、ゆるしを求めることもできるでしょう。他の人々からの友情に満ちた、専門的な援助と助言によって、さらに皆さん自身が味わった痛ましい経験の結果、皆さんは、すべての人がいのちの権利を持つことのもっとも雄弁な擁護者となりうるのです。これから子供たちの誕生を受け入れることによって、あるいは自分の身近にいてくれる人を必要とする多くの人々を迎え入れ、世話をすることによって、いのちとかかわることをとおして、皆さんは人間のいのちに対する新しい見方を推進する人となるでしょう。

100 いのちの新しい文化を創造するために全力を尽くすにあたって、わたしたちは、いのちの福音は神の国と同様に、成長して豊かな実を結ぶ(マルコ4・26−29参照)ということを知っていることからくる確信に励まされ、元気づけられます。「死の文化」を推進するもろもろの勢力が手にすることのできる効果的な方策と、「いのちの文化」のために働く者たちが自由に使える手段との間には、確かに途方もない不均衡があります。しかし、わたしたちは、できないことは何もない神(マタイ19・26参照)の助けに頼ることができることを知っています。

この確信に満たされ、またすべての人の運命への強い関心に動かされて、わたしは多くの困難のただ中で、その難しい使命を果たす家族に語ったことを繰り返します135。いのちのためにいっそ熱烈な祈りをささげることが、今こそ求められています。この祈りは、世界中を貫いて立ち昇るでしょう。さまざまな思いに導かれてささげる祈りによって、また日ごとの祈りにおいて、創造主、いのちを愛する方である神に熱烈な嘆願がささげられますように。あらゆるキリスト者の共同体、あらゆるグループと団体、あらゆる家族、そしてすべての信仰者の心からの祈りがささげられますように。イエスは自ら、悪魔の勢力に対抗する第一のもっとも効果的な武器は祈りと断食であることを身をもって示しました(マタイ4・1ー11参照)。イエスが弟子たちに教えたように、ある種の悪魔はこれ以外の方法では追い出すことはできないのです(マルコ9・29参照)。ですから、新たに謙虚さと、祈り断食する勇気を発見しましょう。天の高いところからの力が、偽りと欺瞞の壁を打ち砕くでしょう。いのちに敵対するさまざまな実践や法律が持つ悪を、多くの兄弟姉妹の目から覆い隠す壁を打ち砕くでしょう。この同じ力が、彼らの心を、いのちと愛の文明によって鼓舞された決意と目標へと向けさせてくださいますように。

「これらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(一ヨハネ1・4)
いのちの福音は、人間社会全体のためのもの

101 「これらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」(一ヨハネ1・4)。いのちの福音の啓示は、あらゆる民族によって分かち合われなければならない善として、わたしたちに与えられています。こうしてすべての人は、わたしたちと、また三位の神と親交を結びます(一ヨハネ1・3参照)。わたしたちがこの福音を他者と分かち合わず、ただ自分たちのうちにとどめるなら、わたしたちの喜びは完全なものにはなりません。

いのちの福音は、信仰者のためだけのものではありません。すべての人のためのものなのです。いのちという課題、そしてそれを擁護し推進することは、キリスト者だけの関心事ではありません。信仰は特別な光と力とをもたらしますが、真理を探し求め人類の未来を案じるすべての人の良心にこの問題は起こります。いのちには確かに神聖で宗教的な価値がありますが、その価値は信仰者たちだけが抱く関心にとどまりません。このような価値は、人間だれもが理性の光でとらえることができる、そのような価値だからです。それゆえ、すべての人に必然的にかかわるものなのです。

したがって、わたしたちが、「いのちの民、そしていのちのために働く民」として行うすべてのことは、正しく解釈されるべきであり、賛同をもって迎えられるべきです。すべての罪のない人の-受胎から自然死に至るまでの-いのちの権利を無条件に尊重することは、あらゆる市民社会がよって立つ支柱の一つであると教会が宣言するとき、「教会は、人間的な国家を推進することを望んでいるにすぎません。それは、国家の第一の義務としてとくにもっとも弱い者の権利、人間の基本的権利の擁護を承認する国家です136」。

いのちの福音は、人間社会全体のためのものです。人工妊娠中絶合法化に積極的に反対するのは、共通善を促進することをとおして、社会の刷新に貢献することになるからです。いのちの権利を認めず、擁護せずに、共通善を促進することはできません。各個人の譲渡することのできない他のすべての権利は、いのちの権利に基づくのであり、いのちの権利から育っていくのです。一方で、人格の尊厳、正義、平和などの価値の重要性を主張しながら、他方で、とりわけ人間のいのちが弱くなり見捨てられるところに見られるように、その価値が奪われ、侵害されるさまざまな手段を許容し黙認することによって根本的には正反対のことを実践するとき、社会は堅固な礎を欠いているのです。いのちを尊重することだけが、民主主義や平和というような、社会のもとも貴重で本質的な善の基礎であり保障となりうるのです。

すべての人格の尊厳を認めることなくして、また人々の諸権利を尊重することなくして、真の民主主義はありえないのです。

いのちが擁護され守り育てられなければ、真の平和もありえません。教皇パウロ六世はこう指摘しています。「いのちに対するあらゆる犯罪は、平和への攻撃です。とりわけ人々の道徳行為を攻撃するとき、平和への攻撃となるのです。……しかし、人権が真に公言され、公に承認され、また擁護されるところでは、平和は社会においていのちの喜びに満ちた、適切な思潮となります137」。

「いのちの民」は、いのちにかかわる責務を他の多くの人と共有できることを喜びとします。それゆえ、「いのちのために働く民」が着実にその数を増し、愛と連帯の新しい文化が人間社会全体の真の善のために発展しますように。

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