いのちの福音
Evangelium Vitae

第三章:殺してはならない
(神の定めた聖なる律法 )

「もしいのちを得たいのなら、おきてを守りなさい」(マタイ19・17)
福音と神のおきて

52「さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。『先生、永遠のいのちを得るには、どんなよいことをすればよいのでしょうか』」(マタイ19・16)。イエスは答えました。「もしいのちを得たいのなら、おきてを守りなさい」(マタイ19・17)。師イエスは永遠のいのちについて、つまり神自身のいのちにあずかることについて語ります。このいのちは「殺してはならない」というおきてを含む、主のおきてを遵守することによって得られるものです。どのおきてを守らなければならないかと尋ねた若者に、イエスは神の十戒から引用して答えますが、イエスが第一にあげるのは、「殺してはならない」というおきてです。「殺すな、姦淫するな、盗むな……」(マタイ19・18)。

神のおきてと神の愛とは引き離されることはありません。神のおきてはつねに、人間が成長し、喜びのうちに生きるようにということを意図して差し出されたたまものです。それで、おきては、福音にとって本質的なものであり、不可欠なものです。実際には、おきては「福音」そのもの、つまり喜ばしいよい知らせとなるのです。いのちの福音は神からの尊い贈り物であり、人類に厳格な履行を求める務めでもあります。おきては自由を享受する人に、驚きと感謝の念を呼び起こします。わたしたちとしては、強い責任感をもっておきてを受け入れ、保ち、高く評価すべきです。神は人間にいのちを与えるとき、いのちを愛し、尊び、成長させるよう命じました。こうして、たまものはおきてとなり、おきてはまた、たまものそのものなのです。

神の生きたかたどりとして、人間は、支配者、あるじとなるよう創造主によって計画されました。ニッサの聖グレゴリオは次のように書いています。「神は、人間が地上の王としての役割を果たす能力のあるものとした。……人間は宇宙を統治するかたに似せて創造された。万物は原初から、人間の本性が王の尊厳を帯びていることを証明している。人間は王である。世界に支配権を行使するものとして創造されているので、人間は宇宙の王のかたどりである。人間はその尊厳によって、原型である神にあずかる生きたかたどりである38」。産み、数を増し、地を従え、他の下位の被造物を支配するよう招かれているがゆえに(創世記1・28参照)、人間は物についてばかりでなく、とりわけ人間に対しても39、またある意味ではいのちに対しても支配者であり、あるじです。人間は、そのいのちを生殖をとおして受けたのであり、生殖をとおして伝達することができるのです。この生殖は、神の計画に対する愛と敬意をもって行われるものですが、それでも人間の支配は絶対的なものではなく、役務的なものです。つまり、神の独特な、無限の支配の真の写しです。それゆえ、神の限りない知恵と愛にあずかりながら、人間は知恵と愛をもってその権利を行使すべきです。このことは、神の聖なる律法への従順をとおして実現します。それは、自発的に喜んで引き受ける従順です(詩編119参照)。この従順は一つの自覚から生まれ、さらに強められます。すなわち、主のおきては人間の善のために、人間の人格的尊厳を保つために、そして人間の幸せを追求するために、つねにこれらを目的にして人間にゆだねられた恵みのたまものであるという自覚です。

人間は、物に関して、ましていのちに関して、絶対君主ではなく、最終審判者でもありません。むしろー人間の唯一無比の偉大さがここにあるのですがー人間は、「神の計画の管理者40」なのです。

いのちは、浪費してはならない宝として、活用すべき天与のものとして人間にゆだねられています。人間は、主人に決算を提出しなければならないのです。(マタイ25・14ー30、ルカ9・12ー27参照)。

「人間どうしの血については、人間から人間のいのちを賠償として要求する」(創世記9・5)
人間のいのちは神聖であり、不可侵である

53「人間の生命が神聖であるのは、それが初めから『神の創造のわざ』の結果であり、またその唯一の目標である創造主と永久に特別な関係を保ち続けるからである。神のみが、生命の初めから終わりまでの主である。たとえどんな状況にあったとしても、無害な人間を意図的に破壊する権利を主張することは、だれにもできない41」。このように『生命のはじまりに関する教書』は、人間のいのちの神聖さと不可侵性についての、神の啓示の中心的な内容を説明します。

実際、聖書は「殺してはならない」というおきてを、神のおきてとして提示します(出エジプト20・13、申命記5・17)。すでに強調したように、このおきては、十戒の中で神が自ら選んだ民との間に結んだ契約の中核をなします。罪と暴虐が地を覆ったがために、神は洪水をもって人間を罰し、地を清めました(創世記9・5ー6参照)。その後、神と人類との間に締結された最初の契約に、このおきてはすでに含まれます。

神は、神こそが、そのかたどりと似姿をもって形づくった人間のいのちの絶対的な主であるとを宣言します(創世記1・26−28参照)。このように、人間のいのちは創造主自身の不可侵性を反映する、神聖にして不可侵な性格を帯びています。まさにこのことによって、神は、「殺しはならない」というおきてを侵犯するもの、社会に集うあらゆるいのちの基底をなすおきてを犯するものは何であれ、厳しく裁くのです。神は罪のない者のゴエル(身請け人)、守り手で(創世記4・9−15、イザヤ41・14、エレミヤ50・34、詩編19・15参照)。こうして神は、いのちあるものの死を喜ばないことを示します(知恵1・13参照)。それを喜ぶことができるのはサタンだけです。悪魔のねたみによって、死がこの世に入ったからです(知恵2・24参照)。「最初から人殺しであった」サタンは、「偽り者であり、その父」(ヨハネ8・44)です。サタンは人間を欺き陥れ、死と罪のたくらみをいのちの目標と実りに見せかけて、人間をそこに引き込みます。

54 その表現からはっきりしているように、「殺してはならない」というおきては断固とした一定の形式を取ります。これは決して越えることのできない極限を示します。しかし、このおきは暗黙のうちに、いのちに対して絶対的な敬意を払うべき積極的な態度を助長します。いのちを守り育てる方向へ、また、与え、受け、奉仕する愛の道に沿って前進する方向へと導くのです。契約の民はゆっくりと、しかも時にはぶつかりながらも、次第にこのような考え方において成熟していきました。そして、隣人を愛せというおきては、神を愛せというおきてに等しいというイエスの偉大な宣言に向けて自らを整えていったのです。「律法全体と預言者は、この二つのおきてに基づいて」います(マタイ22・36ー40参照)。聖パウロはこう力説します。「『殺すな……』、そのほかどんなおきてがあっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」(ローマ13・9。ガラテヤ5・14参照)。新しい律法のうちに取り上げられ、成就しているがゆえに、「殺してはならない」というおきては「いのちを得るために」(マタイ19・16−19参照)必須の条件です。これと同じとらえ方に立つ使徒ヨハネの言葉には、容赦のない響きがあります。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠のいのちがとどまっていません」(一ヨハネ3・15)。

当初から教会の生きた伝承は、-聖書を除いては最古のキリスト教著作である『ディダケ』に見られるように-「殺してはならない」というおきてを絶対的な口調で繰り返します。「いのちへの道と死への道の二つの道がある。その二つの間には雲泥の差がある。殺してはならい……堕胎で子供を殺してはならない、生まれてすぐの子供を殺してもならない。……死の道以下のようなものである。……貧しい人に同情を示さない、苦しむ人と苦しみをともにしない、創造主を認めない、子供たちを殺害し、堕胎によって神の被造物を滅ぼす。困窮にあるものを追い払い、苦しむ者を圧迫する。彼らは富める者の擁護者であり、貧しい者を不正に裁く。彼らはらゆる罪に満ちている。子供たちよ、あなたがたがこれらすべての罪から遠ざかることができるように42」。

時の経過の中で、教会の伝承はつねに一貫して、「殺してはならない」というおきてが有する絶対的で不変の価値を教え続けてきました。一、二世紀ごろ、殺人は棄教、姦通とともに、三つのもっとも重大な罪に数えられていたことが知られています。そして、殺人実行者が罪のゆるしを与えられ、教会共同体に再度の加入を認められるには、相当に重く、また長期にわたる公の償いが求められた事実も、よく知られています。

55 罪びとがこのような扱いを受けたのは、驚くに値しません。神のかたどりを帯びる人間を殺害するのは、特別に重大な罪だからです。神だけがいのちの主人なのです。しかし、当初から個人生活や社会生活の中に起こる多数の事件、多くの悲劇的なものに直面するとき、教会ではそのつど、神のおきてが禁じまた命じていることについての、より十全でより深い理解を探ろうとしてきました43。神の律法が提示するさまざまな価値が、まさしく逆説を含むように思われる場合があります。たとえば正当防衛の場合がそうです。正当防衛においては、自分自身のいのちを守る権利と、他の人のいのちを損なってはならないという義務との両立が実際上難しいのです。生来いのちに備わる価値と、他人と同じように自分を愛する義務が、自己防衛の真の権利の基礎であるのは疑いありません。隣人を愛せという厳しい要求を迫るおきては、旧約聖書でも説かれ、イエスが確認したことですが、このおきて自体、「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12・31)いう言い回しにあるように、比較の基礎として自分を愛することを前提としています。したがて、いのちへの、あるいは自己への愛に欠けるがゆえに自己防衛の権利を放棄することはだれにもできないのです。自己防衛の権利を放棄することは、福音の幸いの教えの精神に従って(マタイ5・38−40参照)、自己への愛を徹底した自己奉献へと深め、変貌させる英雄的な愛によって可能となるのです。この自己奉献の最高の模範は、主イエス自身です。

さらに、「正当防衛は権利であるばかりではなく、他者のいのちに対して責任を有する人の場合には、重大な義務でもあります。家族あるいは国家の共通善を担う人の場合がそうです44」。危害が生じないように対処する必要から、正当な理由なく攻撃してくる者のいのちが不幸にして失われるような場合があります。このような場合、死を招くような結果は、ことを引き起こした当事者である正当な理由を持たない攻撃者が、理性を行使する能力に欠けるところがあって、道義上の責任は問えないとしても、その人の責任に帰せられるべきです45

56 死刑の問題は、このような文脈で考察すべきです。この問題については、教会においても社会においても、非常に制限されたやり方で適用されるべきであるとか、あるいは完全に撤廃されるべきだと要求する傾向が勢いを増しています。人間の尊厳に合致し、最終的には人間と社会に対する神の計画に一致した、正義に基づいた刑罰体系という文脈で、この問題は検討されなければなりません。社会が課す刑罰の主要な目的は、「犯罪が引き起こした無秩序を正す46」ところにあります。公権は、犯罪に見合った刑罰を犯罪者に課すことによって、個人的権利と社会的権利の侵害を正さなければなりません。その際、犯罪者が自らの自由の行使を回復することが条件となります。こうして、公権は公的秩序を守り、人々の安全を確保する目的をも満たします。同時にその一方で、犯罪者に生き方を改め更正するよう動機を与え、支援を提供します47

このような諸問題を達成するために、刑罰の特質とその及ぶ範囲は慎重に評価され、決定されなければならないのは明らかです。また、絶対的に必要な場合、換言すれば他の方法では社会を守ることができない場合を除いては、犯罪者を死刑に処する極端な手段に訴えるべきではありません。しかし今日、刑罰体系の組織立てが着実に改善された結果、そのような事例は皆無ではないにしても、非常にまれなことになりました。

いずれにしても、新しい『カトリック教会のカテキズム』で説かれている原則は、この点についての教会の立場を的確に表します。すなわちこう説いています。「正当な理由なく攻撃する者に対して、血を流さずにすむ手段で人命を十分に守ることができ、また公共の秩序と人々の安全を守ることができるのであれば、公権の発動はそのような手段に制限されるべきである。そのような手段は、共通善の具体的な状況にいっそうよく合致するからであり、人間の尊厳にいっそうかなうからである48」。

57 あらゆるいのち、しかも犯罪者やよこしまな攻撃者のいのちであっても、人間のいのちに敬意を払うためにこのような多大な配慮をなすべきであれば、「殺してはならない」というおきては、罪のない人に当てはめる場合には絶対的な価値を持っています。弱い人、身を守るすべのない人の場合には、なおさらのことです。彼らは、他者から向けられる尊大さや移り気に対しては、神のおきての絶対的な拘束力にのみ自分たちの最終的なよりどころを持つ人たちです。

罪のない人のいのちの絶対的な不可侵性は、聖書がはっきりと教え、教会の伝承の中につねに保持され、教会の教導職が一貫して提示してきた道徳上の真理です。この一貫した教えは、聖霊が霊を吹き込み、支える「信仰の超自然的な意味」が、「信仰と道徳のことがらについてあまねく賛同を示す49」場合に、神の民を誤謬から守るとする立場からの明白な帰結です。

あらゆる罪のない人のいのちを、とくにいのちの最初期においても最後の段階においても直接に殺害することは、絶対的で重大な道徳上の違法行為であるととらえる感覚が、一人ひとりの良心においても社会においても次第に衰退しつつある現状に直面して、教会の教導職は、人間のいちが神聖で不可侵であることを擁護するために、次第に発言の機会を増しています。教皇の教導職は、とりわけこの問題について際立っているのですが、司教協議会や個々の司教たちの、多数のまた広範囲にわたって論じた教義に関する文書や司牧上の文書によって、つねに司教たちの教導職に支持されてきています。この問題については、第二バチカン公会議も手短にですが厳しい口調ではっきりと述べています50

それゆえ、キリストがペトロとその後継者たちに与えた権威をもって、またカトリック教会の司教との一致のうちに、わたしは、罪のない人を直接にあるいは意図的に殺害することは、つねに変わらずきわめて不道徳な行為であると確認します。この教えは、理性の光に照らされて人間が自分自身の心に見いだす(ローマ2・14−15参照)、あの文字で記されない法に基づいており、聖書が繰り返し確認し、教会の伝承が伝え、また通常の教導職と普遍的な教導職が教えてきたことです51

罪のない人からいのちを奪い取るために慎重に下される決断は、それ自体が目的であれよい結果を意図するものであれ、つねに道徳的に悪であり、決して是認されることはありません。要するに、これは道徳法への、また道徳法の創始者であり保証人である神自身への、重大な不従順の行為です。このような行為は、正義と愛という根本的な徳を否定します。「何ものであれだれであれ、罪のない者を殺害することは決して容認されるものではありません。胎児であれ胚芽であれ、幼児であれ成人であれ、老人であれ、不治の病を患う人であれ、死を目前にする人であれ、いっさいの区別はありません。さらに、殺害というこの行為を要求することは、当人のためであれ、自分にゆだねられた他の人のためであれ、だれにも許されません。また、明示的にであれ暗黙裡にであれ、だれもそのような行為に同意することはできません。いかなる権威もこのような殺人行為を、合法的に推奨したり許したりすることはできません52」。

いのちの権利に関するかぎり、すべての罪のない人は、だれもが絶対的に平等の立場にあります。この平等性は、すべての真正な社会的かかわりの基礎です。間違いなくそうであるために、社会的かかわりは、男性であれ女性であれその人を、取り扱われる物としてではなく、一人の人間として認めて保護する立場に立つ真実と正義にのみ基づかなければなりません。罪のない人のいのちを直接的に奪い取ることを禁じる道徳法の前には、「どのような人にとっても特権や例外はありません。人間が世界のあるじであったとしても、またこの地上で『貧しい者のうちのもっも貧しい者』であったとしても、まったく違いはありません。道徳性の要求以前に、わたしたちは皆、絶対的に平等なのです53」。

「胎児であったわたしをあなたの目ほ見ておられた」(詩編139・16)
人工妊娠中絶の恐るべき犯罪

58 いのちに対してなされるあらゆる犯罪の中でも、人工妊娠中絶行為はとりわけ深刻で嘆かわいものであるという特徴があります。第二バチカン公会議は、生まれたばかりの子供を殺すこととともに人工妊娠中絶を「恐るべき犯罪54」であると明言しました。

しかし今日、多くの人の良心において、人工妊娠中絶が有する重大性は、次第に不明瞭にしか認識されなくなってきています。一般的な受け取り方として、実践において、また法自体においさえ人工妊娠中絶が容認されているのは、道徳感覚が極端なまでに危機的状況にあることを物語っています。いのちの基本的権利が危機に瀕しているときでさえも、善と悪との間の区別をつけることがますます困難となっています。このような重大な状況にあって、わたしたちは今、真理をしっかりと見据え、物事をまさにそのもの固有の名称で呼ぶ勇気をいよいよ持つ必要があります。安易な妥協、もしくは自己欺瞞の誘惑に屈してはなりません。この点に関して、預言者はきわめて正直に叱責の言葉を述べています。「災いだ、悪を善と言い、善を悪と言う者は。彼らはやみを光とし、光をやみとする」(イザヤ5・20)。とくに人工妊娠中絶の場合には、あいまいな術語が広く使われます。たとえば「妊娠の中断」などはその一例で、これは人工妊娠中絶の本質を覆い隠し、世論におけるその重大性を弱めようとたくらむものです。このような言葉遣いに見られる現象は、おそらく良心に不安があることの兆候に違いありません。しかしながら、言葉には、物事の真実性を変える力はありません。行われてしまった人工妊娠中絶はどのような手段でなされたものであれ、受胎から出産へ至る人間としての生存の初期段階にある胎児を、意図的に直接に殺害することです。

実行された人工妊娠中絶の道徳的な重大さは、行われるのが殺人行為であると理解するなら、また、とりわけその行為に含まれる特別な諸要素を考察すれば、まったく明らかです。そこで抹殺されるのは、いのちのごく初期にある人間です。このようないのちほど、罪のないものはないと考えなければなりません。このような人間が、正当な理由なく攻撃する者と見なされるわけはありません。ましてや、不正な攻撃者であるはずがありません。このような彼あるいは彼女は弱者にあり、身を守る手だてを持ちません。新生児が泣き涙する、あの心に強く訴える力に存在する身を守る最低限の表現さえ持たないのです。母親の胎内にいる子供は、その子を胎内に宿す女性の保護と配慮とに全面的にゆだねられます。しかも、時として決断し、その子を亡き者にするこを願い、その実行に踏み切るのは、まさに母親自身なのです。

人工妊娠中絶に踏み切る決断が、母親にとってしばしば悲劇的で痛ましいものであるのは言うまでもありません。ただ自分勝手な理由や、不都合だからという口実からだけでなく、母親の健康や家族に対してしかるべき生活水準を考えてなどのように、大切な価値を守ろうとして、その母親が妊娠によって宿した子供を自分から捨て去ろうと決断することもあるからです。また、生まれてくる子供が、生まれなければよかったのにと思われるような環境で育つことを恐れる場合もあるでしょう。しかしながら、このような理由、またはこれに類する理由は、いかに深刻で悲劇的であっても、罪のない人を意図的に殺害するのを決して正当化することはできません。

59 母親のみならず、他の人が胎内の子供を殺そうと決める場合もしぱしぱあります。まず第一に子供の父親が責められるべきでしょう。女性に人工妊娠中絶をするよう直接に迫る場合だけでなく、女性にだけ妊娠にまつわる諸問題を押しつけて、女性の側に人工妊娠中絶の決断を間接的に促すような場合です55。こうして家族は、愛の共同体としてのその本性において、また「いのちの聖域」であるべきその召命において、このような致命的な傷を負い、汚されるのです。さらに、時として広範囲にわたる身内や友人などからの圧迫も見逃せません。女性が心理的に人工妊中絶を強いられていると感じるような強い圧力に屈する場合もあります。このような場合、確かに直接的あるいは間接的に女性に人工妊娠中絶を強いる人々の側に道徳上の責任があります。いのちをはぐくむ目的で習得した技術を、死をもたらすために用いるとき、医師や看護婦にも責任があります。

さらにいえば、人工妊娠中絶法を推進し容認した立法府の議員たちに、またこの件について発言権のある範囲内ではありますが、人工妊娠中絶が実施される医療機関の監督者たちにも責任があります。欲しいままに性的享楽を追い求める態度や、母親になることを尊重しない見方を助長してきた人々、家族、とりわけ大家族や著しく経済的に窮乏し、教育の機会を持たない人々を支援するような、実効ある家族政策や社会政策を確立すべきであったのにそうしなかった人々、彼 にも一般的ではありますが、同程度の重大な責任があります。最後に、世界中で人工妊娠中絶を合法化し広めることを組織的に盛んに言い立てる、国際的な機関、財団、団体を含むほどに広がってきた共犯のネットワークを見逃すことはできません。この意味において、人工妊娠中絶は一人ひとりの責任の域を越え、一人ひとりに向けてなされた危害の枠を越え、明らかに社会的な次元に挑戦する問題となっています。それは、まさに社会の促進者、守護者となるべき人たちの手によって社会と文化に加えられるもっとも深刻な傷なのです。『家庭への手紙』で、わたしは次のように書きました。「わたしたちは、個人としてばかりでなく、文明全体のいのちに反する驚くべき脅威の前に立っています56」。わたしたちは、まだ胎内にとどまっている人間のいのちに敵対する、「罪の構造」とでも呼びうるものに直面しているのです。

60 妊娠が判明してもある一定の日数がたつまでは、一人の人間のいのちとはまだ見なすことはできないと主張することによって、人工妊娠中絶を正当化しようとする人がいます。しかし実は、「卵子が受精した瞬間から、父親や母親のそれとは異なる一つの新しいいのちが始まるのです。それは、自分自身の成長を遂げるもう一人の人間のいのちです。受精のときにすでに人間となるでなければ、その後において人間となる機会はありえないでしょう。この不変かつ明白な事実は、現代遺伝学の成果によって裏づけられています。すなわち、現代遺伝学によれば受胎の瞬間ら、受精卵の中にはその生命体が将来何になるのかというプログラムが組み込まれていることが証明されたのです。それはつまり、受精卵は一人の人間、しかも特定の特徴をすでに備えた一人の個人となるということを意味するのです。受胎のときから人間のいのちは冒険を始めますが、それが持つさまざまの偉大な能力は、発揮されるまでに時間がかかるのです57」。いつ霊魂が宿るかということは、経験的データでは示すことはできませんが、受精卵についての科学的な研究の結論は、重要な示唆を与えているといえます。「それを踏まえたうえで理性に基づいて考えるならば、われわれは、人間のいのちが初めに現れた瞬間から、そこに一つの人格の存在を見いだすことができる58」のです。

さらに、問題となっていることは非常に重要なので、道徳上の義務の立場からいって、人間の胚芽の殺害を目的とするいかなる介入をも絶対的に明確に禁じることが正当であるためには、一人の人間にかかわることであるという蓋然性さえあれば十分です。まさにこのような理由から、あらゆる科学的討議や哲学的論証-教導職はその立場に立つと明言してはいませんが-とは別に、教会はいつもこう教えてきましたし、教え続けています。すなわち、人間の生殖活動によって生存を始めたものは、その最初の瞬間から、男性あるいは女性の全体性、および体と霊としての一体性において、倫理的に人間になるはずのものであることへの無条件の畏敬が保障されなければならないということです。「人間は、受胎の瞬間から人間として尊重され、扱われるべきです。そして、その同じ瞬間から人間としての権利、とりわけ罪のない人間だれにでも備わっている不可侵の権利が認められなければならない59」のです。

61 聖書本文は、意図的な人工妊娠中絶にはまったく触れませんから、それを直接的に、また取り立てて断罪することはありません。しかし、母の胎内にある人間に対してはきわめて深い敬意を表すので、聖書は論理的な帰結として、「殺してはならない」という神のおきてが、胎児にも同様に当てはめられるよう求めているといえます。

人間のいのちは誕生に先立つ最初の段階を含め、生存のあらゆる瞬間において、神聖にして不可侵です。すべての人間は、母の胎内にあるときから神に帰属します。神は、人間を探し求め、人間を知っているかた、自らの手で人間を形づくり組み立てるかた、小さな形のない胚芽であるときに人間を見つめ、そのような人間のうちにすでに将来の成長した姿を認めるかたです。人間はこのような神に属するのであり、すべての人の日々は神によって数えられ、その召命は「いのちの書」にすでに書き記されているのです(詩編139・1、13ー16参照)。さらに、聖書のさまざまな箇所が証言するように60、人間は母の胎内にあるときから、一人の人間として父である神の愛とはからいの対象でもあります。

教理省が発表した教書がいみじくも指摘しているように61、キリスト教の伝承は、人工妊娠中絶をとくに重大な道徳上の逸脱であると説く点において、初めのときから現代に至るまでその見解は明白であり一貫しています。ギリシア・口ーマ世界では、人工妊娠中絶と生まれたばかりの子供の殺害が広範囲にわたって実践されていましたが、それに最初に遭遇して以来、初期キリスト教共同体は教えと実践をもって、当時の社会にはびこっていた悪習に猛然と反対しました。このことは、前述した『ディダケ』にはっきりと述べられているとおりです62。ギリシアの教会著作家の一人アテナゴラスは、子供はまだ母の胎内にあるにしても、「すでに神の摂理の保護のもとに63」あるので、キリスト者たちは、堕胎を促す薬物に頼る女性を殺人者と見なしていると記しています。ラテン教会の著作家では、テルトゥリアヌスがこう断言します。「生まれ出ようとするの妨げるのは、先取りされた殺人というべきである。すでに生まれた魂を殺すのか、誕生の瞬間に殺すのかに大差はない。いずれ人間となるその者は、すでに人間である64」。

キリスト教の二千年の歴史を貫いて、教会の教父、司牧者、博士たちは同じ教えを堅持してきました。魂が吹き込まれるのは正確にいえばどの時点なのかということについて、科学的、哲学的な討議を行うときであっても、人工妊娠中絶を道徳的に断罪すべきものとする点には、いささかのためらいもありません。

62 今世紀に入ってから、教皇の教導職はこの一般的な教えを力強く再確認しています。とくに教皇ピオ十一世は回勅『カスティ・コンヌビイー結婚の倫理−』の中で、人工妊娠中絶をまこしやかに正当化する動きを排斥しました65。ピオ十二世は、あらゆる直接的な人工妊娠中絶は許されないとしました。つまり、胎児のいのちを直接的に破壊することに結びつくすべての行為、「そのような破壊行為が目的とされようと、あるいは目的へ至るための手段にすぎなくても66」このような行為を排除しました。ヨハネ二十三世は、「いのちはその始まった瞬間から、神の創造の業を直接的に含む67」がゆえに、人間のいのちは神聖であると再確認しました。すでに述べたように、第二バチカン公会議は人工妊娠中絶を厳しく断罪しました。「生命は妊娠した時から細心の注意をもって守護しなければならない。堕胎と幼児殺害は恐るべき犯罪である68」。

ごく初期のころから、教会の宗規では、人工妊娠中絶の罪を犯した者に罰則を課すとしてきました。多少なりとも厳しい処罰を伴うこの方針は、歴史上さまざまな時点で確認されました。一九一七年版の『教会法典』は、人工妊娠中絶は破門に処すと規定しました69。改訂された教会法規定でもこの伝統は保持され、「堕胎を企てる者にして、既遂の場合は、伴事的破門制裁を受ける70」との法令が定められました。破門は、刑罰が課されることを承知のうえでこの犯罪を犯す者すべてに及びます。そして、その手助けがなければその犯罪が犯されなかったと思われる場合には、共犯者たちにも及びます71。刑罰を繰り返し提示することで、教会は人工妊娠中絶がもっとも忌まわしく、危険な犯罪であることを明らかにし、それによって、人工妊娠中絶を犯した者がすみやかに回心の道を求めるよう励まします。教会が破門の罰を与えるのは、個人にその罪の持つ重大性を十分にわきまえさせ、真正な回心と悔い改めへと進ませるのが目的です。

教会の教義上の伝承、宗規上の伝承がつねに一致していればこそ、パウロ六世は、この伝承はこれまで変わることがなく、今後も変わることはないと宣言することができたのです72。それゆえ、キリストがペトロとその後継者たちに与えた権威に基づき、司教たちとの交わりのうちに-司教たちはさまざまな機会に人工妊娠中絶を非難し、また前述の諮問の際には、全世界に広がっているにもかかわらずこの教えについては全員一致で賛成を表しました-わたしは次のとおり宣言します。「直接的な人工妊娠中絶は、つまり目的として意図された人工妊娠中絶であろうと、手段としてのそれであろうと、罪のない人を意図的に殺害することなので、つねに重大な道徳上の不秩序をなすのです」。この教えは自然法、ならびに教会の伝承が伝え、通常の教導職と普通の教導職が教える書き記された神のことばに基づきます73。どのような環境であれ、どのような目的であれ、いかなる法律であっても、本質的に不正な行為を正当だとすることはできません。それは、すべての人の心に書き記されている神の法、理性そのものによって知られうる神の法、教会が宣言する神の法に反するからです。

63 人工妊娠中絶の道徳性についてのこのとらえ方は、人間の胚芽に介入する近ごろの方式にも当てはめられなければなりません。それ自体は合法的な目的のために行われるとしても、胚芽の殺害を不可避的に含む方式があるからです。生物医学の研究分野で広がりを見せつつあり、また。くつかの国々で適法であると認められている、胚芽に関する実験がそうした事例です。「患者に対するどんな治療方法についても言えることですが、人間の胎児(受精卵・胚芽を含む)を傷つけることなくそのいのちを尊重し、必要以上の危険を冒さず、直接に胎児の治療と結びつき、その健康状態を改善し、または個人としての生存を助けるようなものであれば胎児に対して行われる治療行為は認められる74」のです。しかしながら、人間の胚芽や胎児を実験対象として用いるのは、人間の尊厳に対する犯罪を引き起こすといわなければなりません。人間は、生まれたばかりの子供であれ、他のすべての人間同様、敬意を払われるという権利を持っているからです。75

この道徳的な見地に立つ非難は、「生物学における物体」として用いられるのであれ、ある種の疾患を治療する際の移植目的で器官や組織を取り出すために用いられるのであれ、体外受精によって、この目的のためにとくに「生産される」ことのある生きた人間の胚芽と胎児を利用する操作方法にも当てはまります。たとえ他人を助けるためになされるのであっても、罪のない人を殺害することは絶対に容認できない行為です。

胎児に異常がありそうな場合、早期発見を可能にする胎児診断技術の道徳的な評価には、格別の注意が払われなければなりません。このような種々の技術が持つ複雑性を考慮して、正確で一貫した道徳的判断が必要です。子供と母親の双方を傷つけるようなふつりあいな危険をもたらすことがなく、また早期治療を可能にし、あるいは心を落ち着けて、しかるべき情報を知らされたうえで出産できるように意図される場合、これらの技術は道徳的に合法となります。しかし、胎内診断の可能性は今日なお制限された範囲内にとどまるので、これらの技術がさまざまな種類の異常を持つ胎児の出生を阻害する目的で、選択的な人工妊娠中絶を容認するといった優生学的な意図をもって用いられる事態がしばしば起きています。これは恥ずべき態度であり、絶対的に避難されるべきです。それは、人間のいのちの価値を、「正常性」と身体的に満足のいく状態という要素においてだけ計ろうとし、こうして生まれたばかりの子供を殺害することやさらには安楽死を合法化することへの道を開くことになるからです。

それにもかかわらず、重度の障害に苦しむ多くの兄弟姉妹は周囲から受け入れられ、また愛情に支えられて、自らの生を勇気と落ち着きのうちに前進させています。彼らのこの勇気と落ち着きは、何がいのちに真の価値を与えるのかを雄弁に物語っており、困難な境遇にあっても、自分とっても他の人々にとってもいのちを尊いものとするのです。教会は、大きな苦悩と苦しみを抱えながら、重い障害を持つ子供たちを進んで受け入れる夫婦の皆さんと連帯するものです。教会はまた、障害や疾患のゆえに両親から見放された子供たちを、養子縁組によって喜んで迎え入るすべての家族に感謝の意を表します。

「わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かす」(申命記32・39)
安楽死の悲劇

64 人生の終局にあって、人間は死の神秘に向き合います。今日、医学上の進歩の結果、また超越的なものに門戸を閉ざす文化的状況が深まりつつある中で、死の経験は新しい様相を帯びています。快楽と幸福をもたらすか否かという尺度で、いのちの価値を判断するのが趨勢となっています。そこでは、苦しみは耐えがたい妨ザであり、何としてでもそこから抜け出るべきものととらえられているようです。新しい経験、興味深い経験を有する未来へと続くはずのいのちが突然さえぎられると、死は「無意味なもの」と見なされます。ひとたびいのちがもはや意味のないものとされると、あるのは苦痛ばかりで、いや応なしにさらに大きな苦しみを味わわなければならないので、死は「正当な解放」となるのです。

さらに、人間が神との根本的なかかわりを否定し軽視するとき、人間は自分自身が規則であり尺度であると考えるに至ります。つまり、十全にして完全な自律性のうちに、自分のいのちをどう扱うかを決めるのは自分なのだから、そのための方法と手段を社会は自分に保証すべきであるとする権利を要求するのです。このように考えるのは、とくに先進諸国の人々です。医学が着実に進歩しており、さらに医療上の技術が日進月歩の発展を遂げていることから、彼らはそうしたほうがよいと促されていると感じるのです。高度に洗練されたシステムと設備を駆使することで、今日、科学と医療活動は、以前には処置不能と見なされた症例を扱ったり、痛みを緩和したり除去できるようになったばかりでなく、さらには極度に衰弱した状態にあるいのちでも保持し延命させたり、基本的な生物学上の機能が突然危機的な状態になってもその患者を人工的に蘇生させたり、さまざまな器官を移植に利用できる特別な操作を活用できるまでになりました。

このような流れの中で、安楽死を頼みにしたいという誘惑が強まっています。つまり、死をコントロールし、自分のいのちあるいは他人のいのちを「徐々に」終わらせて、本来迎えるべき時に先立って死をもたらそうという誘惑が強まりつつあるのです。これは諭理的で人道的であるように見えますが、より厳密に検討すると、現実には無分別で非人道的な所業であることが分かります。ここでわたしたちは、「死の文化」のいっそう驚くべき兆候の一つに直面します。極端なまでの効率至上主義に特徴づけられ繁栄する社会において、とりわけ力を増しつつある「死の文化」、数を増す一方の高齢者と障害のある人をがまんのできない存在であり重荷と見る「死の文化」が、勢力を伸ばしています。こうして高齢者や障害のある人は、自分の家族や社会から見すてられる場合が少なくありません。そのようなときの家族や社会は、ひたすら生産効率という基準のみに基づく組織となっており、その基準によれば回復の見込みのないいのちは、もはや何の価値もないとされるのです。

65 安楽死について正しい道徳的判断を下すためには、まず明確な定義が必要です。厳密な意味での安楽死は、すべての苦痛を取り除くという目的をもって、自ら進んで、あるいは故意に死をもたらす行為もしくは不作為であると理解されます。「ゆえに、何をもって安楽死とするかは、意志が意図するところとその際に用いられる方法の中に見いだされるべきです76」。

安楽死は、いわゆる「攻撃的な医療処置」に訴えるのを控える決断とは区別されなければなりません。この「攻撃的な医療処置」とは、換言すれば、患者の実状にもはや対応しきれない医学上の処置です。その処置が、今となっては期待された結果につりあわないものとなるか、もしくは患者と家族に過剰な重荷を課すので対応できないのです。このような状況では、死が明らかに迫っていてどうにも避けがたい場合、人は良心において、「このような症例の病人に通常与えるべきケアが中断されずにいるかぎり、根拠の不明確な延命、耐えがたい重荷となる延命を確実にするだけの処置については、これを拒むことができます77。」自分のために心を配る道徳的義務、また他人の世話に自らを任せるべき義務が人間にあるのは確かです。しかし、この義務は具体的な状況を考慮に入れなければなりません。処置をするにあたっての手だてが、よくなる見込みに照らして客観的につりあいのあるものかどうかを見極める必要があります。特別的な手だて、ふつりあいな手段に訴えるのを控えるのは、自殺や安楽死とは同じ意味を持つのではありません。それはむしろ、死に直面して地上にある人間の条件を受け入れることを表します78

現代医学において、「一時的に緩和をもたらす方法」と呼ばれる治療に注意が向けられています。この治療法は、疾患の最終段階において苦痛をより耐えやすくしようとするものであり、苦難のうちにある患者を支え、力づけようとするものです。このような状況においてはさまざまな問題が起こりますが、その中に、患者のいのちを縮める危険性を伴うとしても、患者の苦痛を和らげるためのさまざまな種類の鎮痛剤や鎮静剤を使用するのは許されるか否か、という問題があります。覚醒した意識状態にとどまり、信者であれば主の苦難にはっきりした意識をもってあずかるために、鎮痛効果をもたらす治療を差し控え、自ら進んで苦痛を引き受ける人は称賛に値します。けれども、そのような「英雄的な」態度は、すべての人にとって義務であるとは認められません。教皇ピオ十二世は、「もしほかに手段がなく、その状況ではその治療が他の宗教的、道徳的義務の遂行を妨げることがなければ79」、治療の結果、意識の覚醒が低下しいのちを縮めることになっても、麻酔剤を用いて痛みを和らげることは許されると確認しました。このような場合は、正当な動機から死の危険を冒すとしても、死を望んだり、求めたりしていることにはなりません。医療が提供する鎮痛剤を使用することによって、痛みを効果的に和らげようとの願いがあるだけです。それでも、「重大な理由なしに、瀕死の人から意識を奪うのは正しいことではありません80」。死が目前に迫っている人でも、道徳的義務、家族の一員としての務めを果たすことができて当然です。とりわけ、はっきりした意識状態で、神との決定的な出会いに備えることができて当然なのです。

このような区別を考慮に入れ、わたしの先任者である教皇たちの教導職に従い81、カトリック教会の司教との一致のうちに、わたしは、安楽死は神の法への重大な侵犯であると確認します。安楽死は、意図された、道徳的に容認できない殺人だからです。この教えは自然法、および教会の伝承によって伝達され、通常の教導職と普遍の教導職によって教えられる82神の書き記されたことばに基づいています。

状況いかんによっては、安楽死は自殺あるいは殺人行為として固有の悪を持っています。

66 自殺は殺人と同様、つねに道徳的に見て反対すべきものです。教会の伝承は、つねに自殺を重大な悪の選択として排斥してきました83。心理的、文化的、社会的なある条件が、いのちを志向する生来の傾きを根本的に否定する行為を実行させて、それがために当人の主観的な責任を軽減せたり逃れさせることがあっても、自殺は客観的に見れば、重大な反道徳的行為です。実際、自殺は自己への愛の否定を含んでいます。そして、隣人、自分が属する共同体、全体としての社会に対して正義と愛の義務を断念することを含みます84。自殺は現実のもっとも深いところで、神が有する生と死への絶対的主権を拒絶するものです。イスラエルの古代の賢者は、祈りの中でその主権をこう宣言します。あなたは生死をつかさどる権能をもち、人をよみの門まで連れ行き、また連れ戻される」(知恵16・13。トビト13・2参照)。

自殺をしようとする人の意向に同意すること、そして、いわゆる「自殺幇助」に加担してそれを実行させることは、自殺者が要請したとしても、決して許されることのない不正義に協力することであり、時にその自殺の実行犯になることを意味します。驚くほど適切な表現で、聖アウグスチヌスはこう記しています。「人を殺すことは、決して許されません。たとえ当人が望むにても、実際に生死の境をさ迷い、肉体のきずなに対して苦闘し、解き放たれるのを熱望する魂を自由にしてくれと頼んでも許されません。病人がこれ以上は生きられない場合であっても許されません85」。苦しんでいる人のいのちのことで重荷を負いたくないという身勝手な拒絶によって動機づけられなくても、安楽死は偽りの慈悲というべきであり、慈悲の名を借りた憂慮すべき「こじつけ」に違いないのです。真の「深い同情」とは、人と苦しみを分かち合うものであり、苦みを背負いきれないといって人を殺すことではありません。それどころか、忍耐と愛情をもって家族の一員に対処するはずの身内の者によって、あるいは医師たちのように特殊な職業上の立場ゆえに、もっとも痛ましい末期においてさえ病人を看護するはずだと期待される人々によってなされるなら、安楽死はいっそう邪悪なものとなります。

当人が求めてもおらず、まったく同意もしていない人を、他の人たちが殺害するという形をとるとき、安楽死を選択するのはいっそう深刻な問題となります。医師や立法府の議員のような人たちが、この人は生きるべきだ、あの人は死ぬべきだ、と決定する権限を、正当な理由なく要求するとき、自由裁量と不正義は極みに達します。ここで再び、わたしたちはエデンの園におけるあの誘惑の前にいることに気づきます。すなわち、「善悪を知る」(創世記3・5参照)神のようになろうとするのです。神のみが生と死を支配する権力を持っています。「わたしは殺し、また生かす」(申命記32・39。列王記下5・7、サムエル上2・6参照)と言われているとおりです。しかし、神がこの権力を行使するのは、知恵と愛の計画に沿ったときに限られます。思慮のない自分勝手な考えにとらわれて人間がこの権力を不当に用いるとき、人間は必然的にその権力を不正と死のために用いるのです。こうして、弱者のいのちは強者の手に握られます。社会において正義の意味は失われ、すべての真正な人間関係の基礎である相互の信頼は、根底から崩されてしまいます。

67 これとはまったく異なり、愛と真の慈悲の道があります。わたしたちの人間性はこの道を必要としており、死んで後によみがえり、絶えず新しい光を注ぐあがない主キリストヘの信仰は、この道に基づきます。苦しみと死に最終的に遭遇するとき、とりわけまったき絶望の中ですべを投げ出してしまいたい誘惑に直面するときに、人の心にわき上がる願いは、何よりも試練のさ中にあって仲間でいてくれること、共感してくれること、支えてくれることをおいて、ほかにありません。あらゆる人間的な望みが消え去るとき、なお望み続けるのは、助けを求める渇きです。第二バチカン公会議は次のように教えます。「死を前にして、人間の条件についてのなぞは頂点に達する」のですが、「人間は正しい心のひらめきによって、自己の完全な破壊と決定的な消滅を嫌い退けます。人間の中にある永遠なるものの種は、物質だけに還元することはできないので、死に対して立ち上がる86」のです。

死へのこの本性的な嫌悪、そして初めに抱く不滅への志向は、よみがえりのキリストの勝利にあずかることを約束し、それを差し出すキリスト教信仰によって照らされ、完成へと至ります。それは、あがないをもたらすキリストの死によって、「罪が支払う報酬」(ローマ6・23)である死から人を解放したかたの勝利、復活といのちを保証する聖霊を与えてくださったかたの勝利です(ローマ8・11参照)。自分の行く末は不滅であると確信すること、そして約束された復活に希望を置くことは、苦しみと死の神秘に新しい光を投げかけ、神の計画に全幅の信頼を置く驚くべき力によって信仰者を満たします。

使徒パウロは、あらゆる人間的条件を受け止めた主に完全に属するものとなるという観点から、この新しさを次のように表しました。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。したがって、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ローマ14・7−8)。主のために死ぬとは、父が望み選んだ「時」(ヨハネ13.1参照)が来たら、進んで死と向き合おうとし、父への極みまでの従順の行為(フィリピ2・8参照)として、自分の死を体験することを意味します。人がこの世で巡礼の旅をなし終えて初めて、死は意味を持つことができるのです。また、主のために生きるというのは、苦しみはそれ自体いまだに悪であり試練であっても、つねに善の源になりうるということを認めることを意味します。神の恵み豊かなたまものと自分自身による自由な選択によって、十字架につけられたキリストの苦しみにあずかろうとする愛のために、そしてこのような愛をもって死を体験するとき、その変化が生じます。こうして、主において自分の苦しみを生き抜こうとする人は、より完全に主の姿にあやかるものとなり(フィリピ3・10、一ペトロ2・21参照)、教会と人類のためにイエスが成し遂げたあがないのわざに、いっそう緊密に結ばれます87。これは聖パウロが体験したところであり、苦しみのうちにあるすべての人はこの体験へと招かれています。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ1・24)。

「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5・29)
市民法と道徳法

68 今日、人間のいのちに加えられる攻撃の特徴の一つは-これは何度も触れてきたことですが-、少なくとも一定の条件のもとにおいてとはいえ、これらの攻撃は、国家が市民の権利として認めるべきものであるかのように主張し、そのような攻撃を法的に正当化しようとする動向にあります。したがって、医師や医療従事者から安全で自発的な手助けを得て、これらの権利を行使することは可能とされるべきだと要求する傾向があるのです。

胎児と重度の障害を持つ人のいのちは、相対的に善であるにすぎないという主張もたびたび耳にします。つまり相対的なとらえ方、あるいはまったくの打算から、この善は他のもろもろの善と比較され、考量されるべきであるとされます。具体的な状況に居合わせ、それに個人的にかかわる人だけが、問題となるもろもろの善を正確に判断できるとさえ主張する人もいます。その結果、このような人だけが、自分の選択の道徳性について判決を下しうることになるのです。ですから、市民の共存と社会の調和を図る国家は、人工妊娠中絶と安楽死を容認するということにおいても、個人の選択を尊重すべきだと唱えます。

このほかに、市民法は、すべての市民は自分自身承認し共有することよりもより高い道徳的基準に従って生きをべきだと要求することはできない、という主張があります。それゆえ、法はつねに市民の過半数の意見と意思を表すべきであり、少なくとも一定の極端な事例においては、人工妊娠中絶と安楽死を行う権利さえも認めるべきだということになります。さらに、そのよううな事例において人工妊娠中絶と安楽死を禁じ、処罰の対象とすることは、いわば違法行為を不可避的に増大させることになるのです。そして、このような違法行為は、社会が当然のこととして行う管理の外にはみ出すものとなり、医療上危険を伴う方法で行われることになるのです。実際上、強制力を持たないある法律を支持するのは、あらゆる法律の権威を結局は徐々に空洞化することになりはしないか、という問題も提起されています。

最後に、いっそう過激な見解によれば、次のように主張するまでになっています。すなわち、現代の多様な社会では、胎児のいのちと同様に自分のいのちに始末をつける完全な自由が認められるべきであるというのです。そこでは、さまざまな道徳上の意見の中でどれを選択するかは法律の務めではない、ましてや法律には、他者に不利な一つの特定の意見を押しつける権利はないと主張します。

69 とにかく現代の民主主義的文化においては、どのような社会の法体系も過半数の人々の確信を考慮し容認することに限定されるべきだと、一般的にとらえられています。ですから、過半数の人々自身が道徳にかなうと見なし、現実に実践していることにのみ基づくべきだとされるのです。さらに、すべての人が共有する客観的真理は事実上達成されないと信じられるなら、民主主義の体制にあって真の主権者と見なされる市民の自由に対する敬意は、立法上のレベルでは各人の良心の自律性が承認されるべきだと要求します。したがって、社会的共存に絶対的に必要なこれらの基準を定めるときの唯一の決定的な要因は、それがどんなものであろうと、過半数の意思であるべきだとします。それゆえ、活動に携わるすべての政治家は、公の活動領域と個人の良心の領域とをはっきり区別しなければならないというのです。

その結果、真正面から対立する二つの思潮が立ち現れます。一方で、各個人は、道徳的領域において何を選択するかについてもっとも完全な自由を自分のために主張します。そして、国家はどのような倫理的立場をとるべきでもなく、またこれを課すべきでもなく、他の市民の自由と権利を損なわないことを唯一の留保条件として、各人の自由について最大限の幅を保障することにその活動を限定すべきだと要求します。他方、公共の義務と職務上の義務を果たす場合、何を選択するかの他人の自由を尊ぶがゆえに、法律が認め保障する市民のあらゆる要求を満たすために、各個人は自分の確信を控えるべきだと主張します。すなわち、人が義務を遂行する場合、唯一の道徳的基準は法律そのものによって定められることであるべきなのです。各個人の責任は、こうして少なくとも公共の領域にあっては、個人の良心を否認して、市民法へ引き渡されることになります。

70 これら二つの思潮の根底には、今日の文化を大きく特徴づける倫理的相対主義があります。寛容、人々の相互の尊敬、過半数の人々の決定の容認を保障するのは倫理的相対主義だけであると考えられる限り、このような相対主義は民主主義の本質的な条件であると見なす人がいます。それに対して、客観的で拘束力があると見なされる道徳上の規範は、権威主義と不寛容を招くと考えられているのです。

しかし、このような立場には、恐るべき結末を伴うどのような誤解や矛盾が潜んでいるかを示すことは、まさにいのちに対する尊敬にかかわる問題です。

歴史上、「真理」の名のもとに犯罪が行われた事例があるのは事実です。しかし、同じような重大な犯罪や自由の極度の抑圧が「倫理的相対主義」の名のもとに犯されてきたのであり、また現に犯されています。立法機関あるいは社会の過半数が、少なくとも一定の条件のもとに胎児殺害は合法であると宣言するとき、人間としてもっとも弱い者、何ら身を守るすべを持たない者に対して、実際には「専制君主的な」決定をしていることにはならないのでしょうか。すべての人の良心は、わたしたちの世紀が味わってきた人間性に敵対するこのように悲しむべき犯罪を間違いなく退けます。しかし、悪辣な専制君主たちが犯す代わりに、そのような犯罪が国民の合意によって合法とされるなら、これらの犯罪は犯罪ではなくなるのでしょうか。

民主主義は道徳律に置き換えられる、あるいは不道徳をいやす万能薬であるとするまでに偶像化されるはずはありません。民主主義は根本的に一つの「体制」であり、つまりは手段であって目的ではありません。民主主義の「道徳的」価値は、機械的に機能するのではなく、道徳法に合致するかどうかによります。人間の行動の他のあらゆる形態と同様に、民主主義はこの道徳法に従わなければなりません。換言すれば、民主主義の道徳性は、民主主義が追求する目的の道徳性と、採用する手段の道徳性のいかんによります。今日、民主主義の価値に関してほとんど普遍的とでもいえる合意を認めるなら、教会教導職がたびたび言及してきたように88、これは明らかな「時のしるし」と見なされるべきです。しかし、民主主義の価値は、民主主義が具体化し推進するさまざまな価値によって、立ちもすれば倒れもします。もちろん、あらゆる人格の尊厳、不可侵で譲り渡すことのできない人権への敬意といった諸価値、および政治全般を規制する目的であり基準として「共通善」を採るといったことは、きわめて重要であり、なおざりにされることがあってはなりません。

このような諸価値の基礎は、暫定的な移ろう「過半数」の意見ではありえず、人間の心に「自然法」として書き記されている、客観的な道徳法を承認することのみがその基礎となりうるのです。この客観的な道徳法は、市民法そのものを評価判断する際の拘束力ある基準です。集団の良心が不幸にも不明瞭にされる結果、懐疑主義的な意見が道徳法の根本的な諸原則さえも首尾よく疑問視することになるなら、民主主義の体制そのものは根底から揺さぶられ、純粋に経験な基礎に依拠して、さまざまに対立する利害を調整する単なる機構に引き下げられるでしょう89

より望ましいものがほかにないなら、この程度の機能でさえも社会の平和のために資すると評価すべきだと考える人がいるかもしれません。この点である程度の理があると認めるにしても、客観的な道徳の基礎がなければ、民主主義でさえ安定した平和を保障できないのは容易に認められます。それは、とりわけ一人ひとりの尊厳とすべての人の間の連帯という価値の上に築かれない平和は、まぼろしに終わるからです。直接参加方式を採る統治においてさえも、利害の調整は多くの場合、もっとも強い者に有利になるようにことは運ばれます。強者は権力のレバーを巧みに操作できるだけでなく、合意を形づくることのできる者として、第一位に位置するからです。このような状況では、民主主義は容易に空虚な言葉と化してしまいます。

71 ですから、社会の将来と健全な民主主義の発展のためには、これらの本質的にして人間に本来備わる、道徳的な諸価値を再発見することが急務です。これらの諸価値は人間存在の真理そのものから流出し、人間の尊厳を表し擁護します。いかなる個人、過半数の人々、国家といえども、この価値を造り出すことも修正することも破壊することもできず、ただ容認し尊重し伸張させる義務を負うのみです。

したがって、市民法と道徳法との密接な関係に見られる基本的な諸要素を再発見する必要があります。これらの要素は教会が促進しているものですが、人類の偉大な法律上の伝統の遺産でもあるのです。

確かに、市民法の目的は道徳法とは異なっており、その範囲は、道徳法と比べていっそう制限されています。しかし、「生活のどの領域においても、法律は良心に取って代わったり、自らの権限の及ばぬことについて規範を定めたりすることはできない90」のです。権限の及ばないこととは、人々の基本的な権利を認め擁護することをとおして、人々の共通善を保障し、平和と公共の道徳の促進を確かなものにすることを指します91。市民法の実際上の目的は、真の正義における秩序ある社会的共存を保障することであり、こうしてすべての人が、「つねに信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る」(一テモテ2・2)ようになるためです。まさにこの理由から、民法は、社会を構成するすべての人が一定の基本的な諸権利を尊重されるのを確保するものでなくてはなりません。これらの権利は本来、人格に属するものであり、あらゆる実定法はこの権利を承認し保障しなければならないのです。これら諸権利の中で第一に来るべき基本的なものは、あらゆる罪のない人のいのちに対する不可侵の権利です。公権は時に-それが禁じられているにしても-より深刻な害を引き起こすであろうと思われるものを差し止めない方策を選択しうるものです92。けれども、いのちの権利のような基本的権利を無視することによって引き起こされる他者に対する犯罪を、各個人の権利として-たとえ彼らが社会の過半数を占める場合でも-合法化することは断じてできません。人工妊娠中絶や安楽死を法的に容認するのは他人の良心を尊重することに基づく、と主張することは決してできません。それは、まさに良心の名のもとに、また自由を口実にして生じうる悪習に対して、社会は自らを擁護する権利と義務を持っているからです93

教皇ヨハネ二十三世は、回勅『パーチェム・イン・テリス-地上の平和-』の中で次のように指摘します。「現代では共通善は、特に人間の人としての権利と義務を守ることにあると考えられる。公権の役目は、一方では、特に権利を認め、これを尊重し、種々の権利の間を調整し、これを守り、これを発展させること、そして他方では、各市民の義務の実行を容易にすることである。なぜなら、『人間の人としての不可侵の権利を保護し、各自が自己の役割を、もっと容易に果たすことができるようにすること、これこそあらゆる公権のおもな任務だからである』。それゆえ、もし公権が人権を認めず、あるいはこれを侵す場合には、その任務にそむくばかりでなく、その命令は法的価値を持たないのである94」。

72 市民法が道徳法に合致する必要があることについての教えは、教会のこれまでの伝統を受けつぐものです。ヨハネ二十三世の回勅には、明白にこう記されます。「権威は倫理的秩序の要求するところであり、神から発する。それゆえ指導者たちが、この倫理的秩序に反し、したがって神の意志に反して、法律を定め、なにかを命ずることがあるとしたら、そのような法律も、許可も、市民の良心に義務を課することができない。……そのうえ、このような場合、権威は権威でなくなり、圧制に堕してしまうのである95」。このことについて、聖トマス・アクィナスははっきり教えて、次のように記しています。「人定法はそれが正しい理性に合致しており、永遠法に由来する限りにおいて法である。しかし、法が理性に反する場合、その法は不正な法と呼ばれる。だがその場合、不正な法は法ではなくなり、暴力の一行為に変わるのである96」。トマスはまた次のように言っています。「人間の手になるあらゆる法は、自然法に由来するかぎり法と呼ばれうる。しかし、その法が自然法に対立するところがあるならば、そのときその法は実際上法ではなくむしろ法の腐敗である97」。

ここでこの教えが第一に、また即座にかかわるのは、基本的権利と他のあらゆる権利の源泉を無視する人定法です。この基本的権利は、すべての人が持つ権利、いのちに対する権利です。したがって、人工妊娠中絶や安楽死によって罪のない人を直接に殺害することを合法化する種々の法律は、すべての人に固有ないのちに対する不可侵の権利に真正面から対立します。ですから、そのような法律は、法の前におけるすべての人の平等性を否定します。当事者が十分に意識があって要求する安楽死については、それは妥当しないとの反対意見が出されるかもしれません。しかし、そのような要求を適法とし、その実行を是認するどのような国家も、いのちに対する絶対的な尊敬についての、またあらゆる罪のないいのちを擁護することについての根本的な諸原理に背いて、自殺という殺人行為を適法と認めることになるでしょう。このように、国家はいのちにる尊敬の念を次第に抱かなくなり、人々の間の信頼を損なう行為へと扉を開くことの一因となるのです。人工妊娠中絶と安楽死を是認し促進する法律は、それゆえ個人の善だけでなく、共通善にも激しく対立します。そうであるなら、このような法律は、真正な法律上の有効性を完全に欠いているのです。いのちの権利を無視することは、まさに社会が仕えるために存在している当人を殺すことになるので、共通善を成し遂げる可能性に真正面から対立します。したがって、人工妊娠中絶や安楽死を是認する市民法は、是認するその事実によって、真の道徳的に拘束力のある市民法ではなくなります。

73 このように、人工妊娠中絶と安楽死は、いかなる人定法も合法であるとして要求することのできない犯罪です。そのような法律に従う良心の義務はありません。それどころか、良心的拒否に基づいてこのような法律に反対する、重大かつ明白な義務があります。使徒たちは、教会の誕生の当初から、合法的に構成された公権に従う義務のあることをキリスト者たちに説いてきました(ローマ13・1ー7、一ペトロ2・13−14参照)。しかし同時に、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5・29)と警告するのを怠りませんでした。いのちに対する脅威に関して旧約聖書には、権力者たちの不正な命令に抵抗を示す意義深い事例があります。ファラオは生まれた男の子をすべて殺すように命じましたが、ヘブライ人の助産婦たちはこれに従いませんでした。「エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(出エジプト1・17)のです。助産婦たちがファラオに従わなかった最大の理由に注目すべきです。「助産婦はいずれも神をおそれていた』(出エジプト1・17)のです。まさに神への従順の行為から、不正な人定法に抵抗する強さと勇気が生じたのでした。神の絶対的な主権を認める畏敬は、この神に対してのみ帰せられるべきです。このような態度が、「聖なる者たちの忍耐と信仰」(黙示録13・10)を励ますものであると確信して、投獄されることも斬首の刑に処せられることも引き受ける覚悟のある人々の強さであり勇気です。

人工妊娠中絶や安楽死を許容するような法律、また本質的に不正な法律の場合、これに従うこと、あるいは、「このような法律を支持する宣伝活動に参加すること、もしくは支持して票を投じることは決して許されません98」。

すでに可決されたかなり寛容な法律、あるいはほどなく表決に付される寛容な法案に代えて、容認される中絶数を制限する目的を持つ、より厳しく制限する法律を通過させることについて、自分の投じる一票が表決に決定的な力を持つ場合、良心にかかわる特別の問題が生じます。そのような事例は珍しくありません。世界のある地域では、人工妊娠中絶を支持する法律を導入する運動が続けられており、強力な国際機関がそれを支援する場合も多々あります。また、ある国々、とくにこのような人工妊娠中絶に寛容な法律が苦々しい実りを生み出すのをすでに体験した国々では、この問題を再考する兆しが見られるようになったのも事実です。ここに言及したよう事例において、人工妊娠中絶を容認する法律をくつがえしたり完全撤廃したりすることが不可能な場合、人工妊娠中絶に対して個人的には絶対に反対の立場にあることが広く知られている人が立法府の議員に選出されると、その人はこのような法律がもたらす害を制限すること、そして一般世論と公共道徳のレベルで、その否定的な結果を減らすことを目的とする提案を合法的に支持することができます。このことは、実は不正な法に不法に協力することを意味するのではなく、その法の悪い面を制限する、合法的で妥当な試みなのです。

74 不正な法律が可決されることは、協力という点に関して道徳的に公正な人々にとっては、良心についての難しい問題をしばしば引き起こします。彼らには、道徳的に邪悪な行為に加わるのを強いられたくないと求める権利があるからです。何を選ぶべきかという選択は、時に困難を極めます。選択いかんでは、信望を集めている職業上の地位を犠牲にしたり、出世のしかるべき望みを放棄したりすることを迫られることになります。他の場合には、まったく不正な法律によって準備されたある種の行為、しかしそれ自体では可もなく不可もない、あるいはどちらかといえば建設的な、そのような行為を実施することは、脅威にさらされている人間のいのちを擁護するために役立つという事態が起こりうるのです。しかしながら、そのような行為を進んで実施することは、世間の物議をかもしたりいのちを攻撃する者に対して必要な反対を弱めたりするだけでなく、黙認する心を徐々に許容するようになる心配があるのも確かです。

このような難問に光を投じるには、邪悪な行為に協力することに関する一般原則を思い起こす必要があります。あらゆる善意の人々と同様に、キリスト者たちは、たとえ国の法律が許容するにしても、神の法に敵対することを実践することについては公権に協力してはならないと、良心の重大な義務のもとに求められます。確かに、道徳上の観点からいって、公式に悪に協力することは絶対に許されません。その行動の本質そのもの、あるいは具体的な状況においてとる行動によることですが、ある行為が罪のない人のいのちに敵対する行為に直接参画するものとして、あるいはその行為を犯す人の不道徳な意向を分け合うものとして明確に提示されうるとき、そのような不法な協力の問題が生じます。他者の自由の尊重を引き合いに出しても、市民法がその行為を許容したり要求したりするという事実に訴えても、この協力は決して正当化されることはありません。各個人は実際上、当人が個人的にとる行動に道徳上の責任を負うのです。だれもこの責任から免れることはありません。すべての人は、この責任に基づいて神自身の審判を受けるのです(ローマ2・6、14・12参照)。

不正行為に加担するのを拒むのは、道徳上の義務であることにとどまらず、基本的な人権でもあります。そうでなければ、人間は本質的に、人間の尊厳とはかけ離れた行動をとるよう強いられることになります。こうして、人間の自由そのもの、また真なるものと善なるものへの方向づけに見いだされる真正な意味と目的は、極端なまでに危険にさらされるのです。ですから、問題となるのは、まさにそのように市民法によって承認され擁護されるべき本質的な権利なのです。この意味で、いのちに敵対する種々の行動を検討し、準備し、実行する各段階に参画するのを拒否する機会が、医師、保健医療施設、そして病院、診療所、回復期患者療養施設の責任者に保障されるべきです。良心上の拒否に訴える人については、法律による罰則規定から守られるべきであるだけでなく、法律上、規律上、経済上、職業上の各局面においても、不利な結果から保護されるべきです。

「隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ1O・27)
いのちを「守リ育てる」

75 神のおきては、わたしたちにいのちの道を教えてくれます。ある特定の行動を選ぶのは道徳上容認できないと宣言する、否定的な文言による道徳上の戒律は、人間の自由に対して絶対的な価値を持っています。これらの戒律は、いつでもどこでも例外なく有効です。これらは、ある特定の行動のあり方を選ぶことは、神の愛と、神のかたどりのうちに創造された人間の尊厳とに根本的に相いれないことをはっきりと示します。神の愛と人間の尊厳に相いれないような選択は、意向が善良でありあるいは結果がよいからといって、よしとされることはないのです。そのよう選択は、人々の間のきずなに根本から敵対します。自分のいのちを神へと方向づける根本的な決断を、真っ向から否定するものです99

この意味で、否定的な文言で表される道徳上の戒律は、きわめて重要な積極的機能を持っています。これらの戒律が無条件に要求する「してはならない」は、絶対的な制約を明示します。自由な各個人は、その制約のもとでは自らを卑しめることがあってはならないのです。同時にこれらの戒律は、人間が最低限尊ぶべきことを示します。また、いくたびも「はい」を口にするために、しかもやがては次第に善の地平全体を包含するに至る(マタイ5・48参照)「はい」を口にすために、そこから出発しなければならない最小限度を示します。神の十戒、とくに否定的文言で表される道徳上の戒律は、自由を目指して進む旅の始まりであり、また必要不可欠の第一段階です。聖アウグスチヌスは次のように言っています。「自由の始まりは、殺人、姦通、姦淫、窃盗、欺瞞、冒涜などの犯罪から自由であることです。これらの犯罪を犯すのをやめるとき(キリスト者はこれらを犯すべきではありません)、人間は自由に向けてその頭を上げ始めます。しかし、それは自由の始まりにすぎず、完全な自由ではありません100」。

76 したがって、「殺してはならない」というおきては、真の自由が始まるための出発点を定めるのです。わたしたちは、いのちを意欲的に守り育て、いのちに仕える特別な考え方と行動のあり方を発展させることになります。このようにしてわたしたちは、ゆだねられている人々に対する責任を果たし、行いと真実において、いのちという偉大なたまもののゆえに神への感謝を表します。(詩編139・13ー14参照)。

創造主は、人間のいのちを人間の責任ある配慮にゆだねました。それは、勝手に使うためではなく、知恵をもっていのちを保ち、真心を込めていのちを世話するためです。契約の神は、受け与える相互依存の法、自分を与え他者を受け入れる法に従って、一人ひとりのいのちをその仲間である人間に、兄弟姉妹にゆだねました。時が満ちて肉をまとい、自らのいのちをわたしたちのために与えることによって、神の子はこの相互依存の法がどれほどの高さと深さに到達しうるものであるかを示しました。その聖霊のたまものをもって、キリストは相互依存の法に、互いにゆだねられているわたしたちのあり方に、新しい内容と意味を与えます。愛における交わりを築き上げる霊は、わたしたちの中に新しい友愛と連帯、至聖なる三位に固有な、互いに自らを与え相手を受け入れる神秘についての真の省察を生み出します。聖霊は信仰者に力を与え、自らのたまものを分かち合う責任、他者を受け入れる責任を信仰者のうちに覚醒させる新しい法となります。イエス・キリスト自身の限りない愛に、だれもがあずかるようになるのです。

77 この新しい法はまた、「殺してはならない」というおきてに精神と形を与えます。キリスト者にとってこのおきては、イエス・キリストにおける神のいつくしみ深い愛の要求と一致して、すべての兄弟姉妹のいのちを尊び、愛し、守り育てるようにとの絶対的規範を含みます。「イエスは、わたしたちのために、いのちを捨ててくださいました。だから、わたしたちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです」(一ヨハネ3・16)。

「殺してはならない」というおきては、人間のいのちを尊び、愛し、守り育てるといった、いっそう能動的な観点においても一人ひとりに拘束力を持っています。そのおきては、創造主である神が人類との間に結んだ最初の契約を告げる響きとして、すべての人の道徳的良心にもう一度響き渡ります。このおきては理性の光に照らされて、すべての人が認めることができるものであり、望むところに吹き(ヨハネ3・8参照)、訪れ、この世界に生きるすべての人に影響を与える聖霊の神秘的なわざのおかげで、遵守されうるのです。

ですから、ある人のいのちが、とくに弱められたり脅威にさらされたりしているときにつねに擁護され守られるのは、わたしたちが隣人の安全のためにすべてをかけてかかわる愛の奉仕があればこそです。これは個人的な配慮だけでなく、わたしたちが大いに育成しなければならない社会的な配慮でもあります。刷新された社会の基礎である人間のいのちを無条件に尊ぶような配慮なのです。

わたしたちはすべての人のいのちを愛しあがめるよう求められており、堅忍と勇気をもって働くよう求められています。それは、これほど多くの死のしるしに彩られるわたしたちの時代が、ついには真理と愛の文化の実りである新しいいのちの文化を打ち立てることをあかしするためなのです。

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