いのちの福音
Evangelium Vitae

第二章:わたしが来たのは羊がいのちを受けるためである
(いのちに関するキリスト教のメッセージ)

「このいのちは現れ、わたしたちは見た」(一ヨハネ1・2)
「いのちのことば」であるキリストを見つめて

29 現代世界には、いのちを脅かす重大な脅威が無数にあります。これらに直面するとき、人間はまったくなすすべがないと圧倒されてしまいます。善は、悪に勝利を収めることができるだけの力を持たないと感じるのです。

そのようなとき、すべての信仰者を含む神の民は、「いのちのことば」(一ヨハネ1・1)であるイエス・キリストヘの信仰を、謙虚に勇気をもって表明するよう招かれるのです。いのちの福音は、人間のいのちについての、まさに新しく、しかも深遠な省察です。意識化を深め、社会の中で有意義な変革を行えという単なる命令でもありません。ましてや、よりよい将来の見かけだけの約束でもありません。いのちの福音は、具体的で人格的な意味合いを帯びています。というのも、それはイエスその人を宣言することにほかならないからです。イエスは使徒トマスに確かに自分がイエスであることを分からせ、こう言いました。それはすべての人に向けられたことばであります。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ14・6)。これはラザロの妹マルタに、イエスが自らについて語ったことばでもあります。「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決し死ぬことはない」(ヨハネ11・25−26)。イエスは永遠の時の中に、御父からいのちを受けた子あり(ヨハネ5・26参照)、そのいのちのたまものを分け与えようと、人の中に来たのです。「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ1O・10)。

イエスのことばと行い、またイエスその人をとおして、人間には人間のいのちの価値についての完全な真理を「知る」可能性が与えられました。この「源泉」から、人間はとりわけこの真理を完全に「成就する」能力を受けます(ヨハネ3・21参照)。つまり、人間のいのちを愛し、これに仕える責任、人間のいのちを擁護し守り育てる責任を受け止め、完全に成し遂げる能力です。キリストにおいて、いのちの福音は決定的に宣言され、余すところなく与えられました。この福音はすでに旧約の中で啓示されており、それだけでなくすべての男女の心に書き記されています。したがって、創造の当初から、すなわち「初めから」、すべての人の良心のうちにこの福音は響いています。罪がもたらす否定的な結果があるにもかかわらず、福音はその本質的な特徴において、人間の理性によって知られるように響いているのです。第二バチカン公会議は、次のように諭します。「キリストは、自分自身の全的現存と顕現とにより、ことばとわざにより、しるしと奇跡により、なかでも、おのが死と死者の中からの栄えある復活とにより、最後に真理の霊の派遣によって、神がわれわれを罪と死のやみから救い、永遠の生命に復活させるため、われわれとともにいるという啓示を完全に成し遂げ、そして神的なあかしをもって確証している22」。

30 そこで、主イエスに注意を向け、イエスの口から出る「神のことば」(ヨハネ3・34)にもう一度耳を傾け、いのちの福音についてあらためて熟考したいのです。人間のいのちについての啓示の教えを熟考することのもっとも深く本源的な意味を、使徒ヨハネがその最初の手紙の冒頭で述べています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、いのちのことばについて。-このいのちは現れました。御父とともにあったが、わたしたちに現れたこの永遠のいのちを、わたしたちは見て、あなたがたにあかしし、伝えるのです。-わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(一ヨハネ1.1−3)。

「いのちのことば」であるイエスにおいて、神の永遠のいのちはこのように宣言され、与えられるのです。この宣言とたまもののおかげで、わたしたちの身体的ないのち、霊的ないのちは、地上においても十全な価値と意義を持つことができるのです。それは、神の永遠のいのちは、この世におけるわたしたちの生が方向づけられ、招かれる目標そのものだからです。こうして、いのちの福音は、人間の経験と理性が人間のいのちの価値について教えるすべてのことを内包します。いのちの福音は、それを受け入れ、清め、称賛し、成就へと至らせるのです。

「主はわたしのカ、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」(出エジプト15・2)
いのちはつねによいものである

31 福音書がいのちについて述べるメッセージは、そのまま旧約聖書に準備されています。とくに旧約の信仰体験の中心であるエジプト脱出の出来事の中に、イスラエルは自らのいのちが神の目に非常に尊いものであることに気づきます。生まれる男の子はすべて殺害される事態となり、絶滅の危機がまさに追ったとき(出エジプト1・15−22参照)、主は希望を失った者に確かな将来を約束する権能を持つ救い主として、イスラエルに自らを啓示しました。こうしてイスラエルは自分たちの存在は、専制的横暴さで搾取できるファラオの意のままにはならないのだということを、はっきり知るようになります。それどころか、イスラエルのいのちは、神の優しい愛、熱列な愛の対象なのです。

奴隷状態からの解放は、イスラエルの真のありようを分からせ、不滅の尊厳を持つことを認識させ、神を発見することと自分自身を発見することがともに進展していく新しい歴史が始まることを教える恵みでした。エジプト脱出は根本的な体験であり、イスラエルの未来を前もって示すものでした。エジプト脱出を経てイスラエルは、その存在が脅かされるときにはいつでも、効果のある助けを神に求めるには、信頼の念を新たにして神に向き直りさえすればよいのだと知るようになります。「わたしはあなたを形づくり、わたしのしもべとした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない」(イザヤ44・21)。

このように、一つの民族として存在する自らの価値を知るにつれ、イスラエルは成熟し、いのちそのものの意義と価値についての理解を深めます。この理解は、いのちの不安定さを日々体験し、またいのちを攻め立てる脅威に気がつくことに基づいて、知恵文学においていっそう明確な形をとって発展します。いのちに敵対する勢力に直面するとき、信仰は答えを要求されるのです。

何にもまして信仰に挑み、信仰を試みるのは、苦しみの問題です。ヨブ記を黙想すると、人間が時代と場所とを問わず、苦悩に包まれる存在であることが分かります。無実の人が苦しみに打ちのめされ、次のように問う心情はよく理解できます。「なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。彼らは死を待っているが、死は来ない。地に埋もれた宝にまさって死を探し求めているのに」(ヨブ3・20ー21)。しかし、限りない暗やみにあっても、信仰は、信頼をもって祈りのうちにその「神秘」を認めるよう教えます。「あなたは全能であり、み旨の成就を妨げることはできないと悟りました」(ヨブ42・2)。

創造主が人間の心に最初に与えた不滅のいのちという概念は、よりいっそうの明瞭さをもってとらえられるよう、人間は少しずつ啓示の光に照らされていきます。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」(コヘレト3・11)のです。原初に示さた全体性と完全性という概念は、神が自由に与えるたまものにより、神の永遠のいのちにあずることによって、愛のうちに明らかにされ、完成へと導かれるのを待っています。

「この人をイエスの名が強くしました」(使徒言行録3・16)
人間のいのちの不確実さの中に、イエスはいのちの意味を明白に説き明かす

32 契約の民が体験したことは、ナザレのイエスに出会ったすべての「貧しい人たち」の体験のうちに新たにされます。「いのちを愛する」神(知恵11・26参照)は、危難のただ中にあるイスラエルを力づけました。同じように、今日でも神の子イエスは、脅かされ妨げを受けていると感じるすべての人に、彼らのいのちは御父の愛が意味と価値を与えるよいものであると宣言します。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(ルカ7・22)。預言者イザヤの言葉(イザヤ35・5ー6、61・1)を引用して、イエスは自分の使命の意味を説き明かします。つまり、そのいのちが何らかの形で「おとしめられている」がゆえに苦しむ人は、自分たちこそ神の配慮が向けられているという「よい知らせ」をイエスの口から聞き、自分たちのいのちも父のみ手に注意深く守られるたまものであると確信するのです(マタイ6・25−34参照)。

イエスが説教とわざをもって語りかけたのは、何よりもこうした「貧しい人たち」でした。イエスに従いイエスを探し求める病人や、社会で見捨てられた大勢の群衆(マタイ4・23ー25参照)は、イエスのことばとわざのうちに啓示を見いだしました。彼らのいのちには格別の価値があり、救いへの希望は間違いなくかなえられるという啓示を受け止めたのでした。

同様のことは、教会が宣教活動を始めた当初から起こっています。教会がキリストについて、「方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神がご一緒だったからです」(使徒言行録10・38)と宣言するとき、教会は自分が救いのメッセージの担い手であると自覚しています。人のいのちが困窮と欠乏のただ中にあっても、まったき新しさをもって響く救いのメッセージです。ペトロは、エルサレムの神殿の「美しい門」のそばで毎日施しを求めていた足の不自由な男をいやしたとき、言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒言行録3・6)。見捨てられ助けを求めて叫ぶいのちは、イエスヘの信仰、「いのちへの導き手」(使徒言行録3・15)への信仰によって、自尊心と本来の尊厳を取り戻します。

イエスのことばとわざ、そしてイエスの教会の言動は、病人や苦しむ人、あるいは何らかの意味で社会から無視されている人だけに向けられるのではありません。このようなことばとわざは、いのちの道徳的で霊的な次元で、すべての人のいのちそのものの意味に深い影響を及ぼします。自分のいのちは罪の悪性を帯びていることを知る者だけが、救い主イエスとの出会いのうちに、自分の存在についての真実とその確実性を見いだしうるのです。イエス自身こう言っています。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5・31−32)。

ところが、福音書のたとえ話に登場するあの金持ちの地主のように、財産を所有するだけでいのちの安全が確保されうると考える人は、思い違いをしているのです。いのちは彼から滑り落ちるのであり、彼は現実の意味をろくに理解しないうちに、ほどなくいのちを奪い去られる自分に気づくのです。「愚かな者よ、今夜、おまえのいのちは取り上げられる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12・20)。

33 イエスの全生涯において、独自の「弁証法」があります。それは、人間のいのちははかないという体験と、そのようないのちの価値があることを肯定することとの間にあります。イエスの生はその誕生の瞬間から、不確かさに特徴づけられます。イエスはマリアがためらわずに口にしたあの喜ばしい「はい」(ルカ1・38参照)という返事を繰り返す正しい人々によって、確実に受け入れられます。しかし、生涯の初めからすでに世から排斥されてもいます。この排斥は敵意へと膨らみ、「この子を殺す」(マタイ2・13)ために探し出そうとします。この世に入ってくるこのいのちの秘義がどのように成就するかについて、この世では関心も興味もないのです。聖書には「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」(ルカ2・7)とあります。一方に脅威と不確かさがあり、もう一方に神のたまものの力があるという対比の中に、神の栄光がいっそう明るく輝きます。ナザレの住まいから、そしてベツレヘムのかいばおけから光を放つ栄光です。産声を上げたこのいのちは、全人類に向けられる救いです(ルカ2・11参照)。

イエスは、生につきものの反対や危険をそのまま受け止めました。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(ニコリント8・9)。ここでパウロが言う貧しさとは、神の身分に等しい特権を手放すことだけでなく、人間のいのちのもっとも惨めな状態にあずかること、傷つきやすい状態を引き受けることをも指しています(フィリピ2・6ー7参照)。イエスはこの貧しさを、ついに十字架につけられるあの時まで生き抜いたのです。イエスは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2・8ー9)。イエスがいのちの輝きと価値を余すところなく啓示したのは、まさに自らの死によってでした。それゆえ、十字架上でのイエスの自己奉献は、すべての人が新しいいのちをくみ取る泉となりました(ヨハネ12・32参照)。反対のただ中を歩むときも、また自らのいのちを失うことになっても、自分の生は父のみ手にあると確信することによって、イエスは導かれたのでした。したがって、イエスは十字架上で、父に向かって次ように叫ぶことができたのです。「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23・46)、これがわたしの生涯です、と。神の子が引き受け、そして全人類の救いのための手だてとした生であれば、人間のいのちの価値はまことに偉大だといわなければなりません。

「召された者たち…を御子の姿に似たものにしようと…」(ローマ8・28−29)
神の栄光は人の顔に輝く

34 いのちは、つねによいものです。これは本能的な直感でもあり、経験からとらえられる事実でもあります。人はなぜいのちがよいものであるのか、その深遠な根拠を理解するよう招かれてます。

いのちはなぜよいものなのでしょうか。この問いは聖書の至るところに見られますが、聖書の冒頭部分に、確実な驚くべき答えがあります。神が人間に与えるいのちは、他のいのちあるすべての被造物とは一線を画します。それゆえ、人間は大地のちりから形づくられたものですが(創記2・7、3・19、ヨブ34・15、詩編103・14、104・29参照)、世界に神の栄光を現すのであり、神の現存を示すしるしであり、神の栄光をうかがわせます(創世記1・26ー27、詩編8・6参照)。これはリヨンの聖イレネオが、「人間、生きている人間こそ、神の栄光である23」と、あのよく知られた言葉で強調しようとしたことです。人間には崇高な尊厳が与えられています。この尊厳は、人間を創造主に結びつける親密なきずなに基づきます。つまり、人間には神自身の姿が映し出されるのです。

創世記は最初の創造物語で、人間は神の創造のわざの頂点に向かうもの、創造のわざの冠として描かれます。人間は不明瞭なカオスから始まり、被造物の中でもっとも完全なものへと至るわざの頂点に立つものとされます。創世記はこのような描写をとおして、人問は神の姿を映し出す存在だと確認しているのです。創造されたすべてのものは人間へと秩序づけられ、万物は人間に服するものとされます。「地に満ちて地を従わせよ。……生き物をすべて支配せよ」(創世記1・28)。これは、男と女に与えられた神の命令でした。同様のメッセージが、もう一つの創造物語も見られます。「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2.15)。ここに、他のすべてのものに対する人間の優位性が、はっきりと主張されています。万物は人間に従うものとされ、その責任ある世話にゆだねられます。それに反して、人間が理由なく他の人々に服従させられたり、物のレベルに引き落とされたりするよ うなことは、あってはならないとされるのです。

創造物語の中で、人間と人間以外の被造物との間の相違は、とりわけ次の事実に明示されます。すなわち、人間の創造だけが、神が特別な決断をした結果なされたわざだとされるのです。つまり、創造主との固有で特殊な結びつきを確立することを熟考しています。「われわれにかたどり、れわれに似せて、人を造ろう」(創世記1・26)。神が人間に与えたいのちは、神が自らを何らの形で被造物である人間に与えようとするたまものです。

イスラエルは、人間と神とのこの特有のきずなが持つ意味を、長い時間をかけて思い巡らしたのです。シラ書も人間の創造にあたり、「主は、ご自分と同じような力を彼らに帯びさせ、ご自分に似せて彼らを造られた」(シラ17・3)と理解しています。ここで聖書記者は、人間が神のかたどりであることを、人間が世界を支配するという視点でとらえ、それだけでなく、理性、善悪の識別、自由意志などを、人間に固有なものとして備わった霊的な能力だと見ています。「主は悟りをもたらす知識で彼らを満たし、善と悪との区別を示された」(シラ17・7)。真理を把握する能力や自由は、人間に固有の特権であり、それゆえ人間は、創造者、真実で正しいかたである神(申命記32・4参照)のかたどりとして創造されたのです。目に見えるあらゆる被造物の中で、人間だけが「創造者を知り、愛することができる24」のです。神が人間に授けたいのちは、単に時間の中に存在するということ以上のものです。それは、いのちの充満へ向かう力ある動きです。換言すれば、時間の制約をも超越する、存在の種とでもいうべきものです。「神は人間を不滅な者として創造し、ご自分の本性の似姿として造られた」(知恵2・23)。

35 創造のわざを描写するヤーウェ伝承の物語には、同じ確信が表明されています。この古代の物語は、神の息が人間に吹き込まれ、人間は生きる者になったと伝えます。「主なる神は、土のちりで人を形づくり、その鼻にいのちの息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(創世記2・7)。

このいのちを生かす霊は神に由来するものであり、それゆえ人間はこの地上に生活する間、絶えず満たされない思いを味わうのです。人間は神によって造られ、消えることのない神の刻印を身に帯びるがゆえに、生まれつき神の方へと引き寄せられます。心の奥深くに潜む神へのあこがれに注意を払うとき、人間は聖アウグスチヌスが残した真実の言葉をなるほどと納得するに違ありません。「主よ、あなたはわたしたちをあなたに向けてお造りになりました。ですから、わたしたちの心はあなたのうちに憩うまで安らぐことはありません25」。

人間がかかわっているのが動植物の世界だけであるうちは、エデンの園において人間のいのちが満たされない思いに彩られるということは、きわめて意義深いことです(創世記2・20参照)。人の肉の肉であり骨の骨である女性(創世記2・23参照)、創造者である神の霊が与えられた女性が現れて初めて、人と人との間の対話、人間存在の活力源ともいうべき対話への欲求が満たされうるのです。男であれ女であれ、この相手にこそ、神自らの映し、最終的目標、すべての人の完成があります。

「あなたがみ心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」(詩編8・5)と詩編作者は驚嘆の声を放ちます。広大無辺な宇宙に比して、人間は非常に小さな存在です。しかし、この対比にこそ、人間の偉大さが啓示されます。「神にわずかに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせました」(詩編8・6)。神の栄光は人間の顔に輝きます。神は人間のうちに安らぐのであって、聖アンブロジオは畏敬の念をもってそれをこう描写します。「六日目が終わり、世界創造のわざは人間という傑作の出現をもって完了した。人間はすべての生きる被造物の上に支配権を振るい、いわば全宇宙の冠であり、造られたすべての中で至高の美とでも呼びうる存在である。まことにわたしたちは、畏敬の念のうちに黙すべきである。主は世界において手がけたすべてのわざをなし終えて、休息したからである。主はそのとき、人間の深みにおいて休息し、人間の心と思いとのうちに休んだのである。結局、主は、理性を備えたものとして人間を造った。主に倣い、主の徳を慕い、天の恵みを渇き求めることのできるものとして人間を造ったのである。このようなたまもののうちに神は休息し、こう語った。『何がわたしの安息の場となりうるか………わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしのことばにおののく人』(イザヤ66・1−2)。わたしは、わたしたちの主である神に感謝する。これほど素晴らしいわざを行い、そのわざのうちに休息する神に感謝する26」。

36 神の感嘆すべき計画は、歴史に罪が登場することによって、残念ながら損なわれました。人間は、罪をとおして創造者に反旗を翻し、最後には被造物を拝むようになったのです。彼らは「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです」(ローマ1・25)。結果的に、人間は自分の人格における神のかたどりをゆがめてしまったばかりでなく、交わりという人間関係を不信、無関心、敵意、そして殺意をさえ含む憎悪などに置き換え、他者の人格における神のかたどりをも侵害するようになります。神が神として認められないとき、人間の持つ深い意味は損なわれ、人と人との間の交わりは傷つけられます。

人間のいのちにおいて、神のかたどりは新たな光を放ち、神の子が人の肉のうちに到来するとき、その満ち満ちた豊かさの中に、そのかたどりは再び啓示されます。キリストは、「見えない神の姿」(コロサイ1・15)、「神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(ヘブライ1・3)です。キリストは、父である神の完全なかたどりなのです。

第一のアダムに与えられたいのちの計画は、キリストにおいて最終的に成就します。アダムの不従順が、人間のいのちについての神の計画を損ない、台なしにし、世に死を招き入れたのに対して、あがないをもたらすキリストの従順は、いのちの王国の門をすべての人に広く開き(ローマ5・12−21参照)、人類に恵みが注がれる源泉となったのです。使徒パウロが述べるとおりです。「『最初の人アダムはいのちのある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムはいちを与える霊となったのです」(一コリント15・45)。

キリストに従う決心をした者にはだれにでも、いのちの充満が与えられます。つまり、神のかたどりは彼らのうちでもとの状態に回復され、刷新され、完成されます。人類のための神の計画とはこのことであり、彼らが、「御子の姿に似たものに」(ローマ8・29)されることです。こうして初めて、このかたどりの輝きにおいて、人間は偶像崇拝の隷属から解放されうるのであり、失われた結びつきを再構築し、人間の真のあり方を再発見できるのです。

「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11・26)
永遠のいのちというたまもの

37 神の子は人類にいのちを与えるために到来したのですが、そのいのちは単に時間の制約を受ける存在に限定されることはありません。つねに「神の子のうちに」あるいのち、「人間を照らす光」(ヨハネ1・4)であるいのちは、神から生まれたということ、神の愛の豊かさにあずかっているということにあるのです。つまり、「ことばは、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」(ヨハネ1.12ー13)。

イエスは、世に到来して与えようとしたこのいのちに言及することがありますが、その際、単に「いのち」と表現します。また、人間が神によって創造された目的に到達しようとするならば、神から生まれることが必要条件だと教えます。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3・3)。このいのちを与えることが、イエスの使命の実際の目標でした。イエスは、「天からくだって来て、世にいのちを与える」(ヨハネ6・33)かたです。こうしてイエスは、真に次のように言うことができたのです。「わたしに従う者は……いのちの光を持つ」(ヨハネ8・12)。

イエスはまた別のところで、「永遠のいのち」について語ります。ここでの形容詞「永遠の」は、単に時間を超越した見方を喚起するにとどまりません。イエスが約束して与えるいのちは、「永遠であるかた」のいのちに完全にあずかるものなので、「永遠の」なのです。イエスを信じるものはだれであれ、またイエスとの交わりに入る人はだれであれ、永遠のいのちを持つのです(ヨハネ3・15、6・40参照)。その人は、いのちの豊かさを啓示し、それを自分の存在に伝えてくれることばだけをイエスから聞くことになるからです。それは、ペトロが信仰告白の中で認めた「永遠のいのちのことば」です。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠のいのちのことばを持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」(ヨハネ6.68ー69)。イエス自身、父に呼びかけたあの素晴らしい祭司としての祈りの中で、永遠のいのちとは何であるか明言したのです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17・3)。神を知り御子を知るということは、父と子と聖霊の親密な交わりの神秘を、自分のいのちのうちに受け入れることにほかなりません。人間のいのちは、神のいのちにあずかるがゆえに、今の時点であっても永遠のいのちに開かれているのです。

38 それゆえ、永遠のいのちは神自身のいのちであり、同時に神の子のいのちです。キリストにおいて、神からわたしたちのもとへ届くこの思いがけない真理、言葉に言い表しがたい真理を思い巡らすとき、信仰者は今さらながら、驚きと限りない感謝の念を覚えずにはいられません。使徒ヨハネの言葉を借りて、こう言うしかありません。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです……。愛する者たち、わたしたちは、今すでに神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(一ヨハネ3・1ー2)。

いのちについてのキリスト教の真理は、ここにおいてもっとも崇高なものとなるのです。このいのちの尊厳は、その始まりだけでなく終局とも結びつけられます。すなわち、それが神に由来するという事実だけでなく、イエスを知り、イエスを愛することにおいて、神と交わるという運命にも結びつけられるのです。この真理の光に照らされて、聖イレネオは人間への賛美を次のように述べ、締めくくりました。「神の栄光は人間、しかも生きている人間である。人間のいのは、神を直観のうちに見るところにある27」。

このようなとらえ方から、この世に生きる人間のいのちのためのいくつかの結論がすぐに生じます。実に、この世にあって、永遠のいのちがすでにほとばしり、発達し始めています。いのちはよいものであるがゆえに、人間は本能的にいのちを愛するのですが、この善は神のみ手によるものなので、人間はいのちを愛するうちに、さらなる刺激と力、そして新しい幅と深さとを見つけ出します。同様に、すべての人がいのちに対して抱く愛は、自己表現と他者との関係を結ぶための十分な場を持ちたいという欲求に限定されることはありません。それどころか、愛は、いのちは神が自らを明示する「場」、わたしたちが神に出会い、神との交わりに入る「場」となりうると気づくことによって、さらに育っていきます。イエスが与えるいのちは、時間の制約の中にあるわたしたちの存在価値を、何ら減じることはありません。イエスが与えるいのちは、わたしたちのそのような存在をしっかりとその究極の運命へと方向づけます。「わたしは復活であり、いのちである。……わたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11・25ー26)。

「人間どうしの血については、人間から人間のいのちを賠償として要求する」 (創世記9・5)
あらゆる人間のいのちに対する敬意と愛

39 人間のいのちは、神に由来します。神のいのちの息吹を受けた、神からのたまもの、神のかたどり、神の刻印です。それゆえ、神は人間のいのちの唯一の主です。人間は、自分の意のままにいのちを扱うことはできないのです。洪水の後、神自らノアにこのことをはっきりと教えています。「あなたたちのいのちである血が流された場合、わたしは賠償を要求する。……人間どうしの血については、人間から人間のいのちを賠償として要求する」(創世記9・5)。この聖書の固所は、いのちが神聖であるのは、神および神の創造のわざにその基礎があるからだと力説するです。「人は神にかたどって造られたからだ」(創世記9・6)。

こうして、人間のいのちと死は、神の手と神の支配のもとにあります。「すべてのいのちあるものは、内なる人の霊もみ手のうちにある」(ヨブ12・10)とヨブは叫びました。「主はいのちを絶ち、またいのちを与え、よみに下し、また引き上げてくださる」(サムエル上2・6)。神だけが次ぎのように言うことができるのです。「わたしは殺し、また生かす」(申命記32・39)。

しかし、神は、勝手な脅迫じみた方法でこの支配権を行使するのではありません。それどころか、自らが造った被造物への配慮と愛情に満ちた関心の大切な要素として、それを用いるのです。人間のいのちが神の手のうちにあることが真実なら、神の手は、わが子を抱き、養い、世話をする母親の手のような、愛情あふれる手であるというのは真実です。「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」(詩編131・2。イザヤ49・15、66・12ー13、ホセア11・4参照)。ですから、イスラエルは諸民族の歴史にも各個人の運命にも、単なる偶然の出来事による結末、あるいは盲目的な運命の結末を認めることはありません。彼らはむしろ、愛情に満ちた計画の結果を認めます。神はこの愛情に満ちた計画をもって、いのちにかかわるあらゆる可能性を一つにまとめ、罪から生じる死の力に対抗するからです。「神が死を造られたわけではなく、いのちあるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった」(知恵1・13−14)。

40 いのちは神聖であり、したがって不可侵なものです。それは人間の心、すなわち良心に初めから記されています。「何ということをしたのか」(創世記4・10)という問いは、カインが弟アベルを殺害した後に、神が彼に投げかけたものですが、これはすべての人の経験を説き明かします。つまり、良心の深みにおいて、人間はつねにいのち(自分自身のであれ他の人々のであれ)が不可侵であることに気づかされるのです。いのちは、人間に属するものではない何ものかとして気づかされます。それは、創造主であり父である神の手に属するものであり、たまものだからです。

人間のいのちが不可侵であることに関する神のおきては、シナイ山での契約(出エジプト34・28参照)における「十戒」の中心部分に響き渡ります。殺害を禁じるおきての第一に、「殺してはならない」(出エジプト20・13)、「罪なき人、正しい人を殺してはならない」(出エジプト23・7)と言われています。しかし、イスラエルの後代の法に明示されるように、律法では人が個人的に他者に危害を加えることも禁じられます(出エジプト21・12−27参照)。むろん旧約において、いのちの価値を尊重するこのようなとらえ方は、すでにはっきりと示されているとはいえ、イエスによる山上の説教に見られる精緻な内容には及ばないことを認めなければなりません。厳しい体罰、また死刑をさえ規定する現在の刑法のいくつかの側面にも、それははっきり現れます。しかし、新約聖書が完成させるメッセージの全体は、身体のいのちと人格の完全な状態を不可侵のものとして尊ぶよう強調しています。さらに、それはわたしたちの隣人に対して、自分自身に対するのと同様に責任をとるように求める、積極的なおきての中で頂点に達します。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19・18)。

41 「殺してはならない」というおきては、自分の隣人を愛するという積極的な命令の中に含まれ、いっそう完全な形で表現されますが、このおきては、主イエスによってこのうえない力強さをもって再確認されます。「先生、永遠のいのちを得るには、どんなよいことをすればよいのでしょうか」と問う金持ちの青年に、主はこう答えます。「もしいのちを得たいのなら、おきてを守りなさい」(マタイ19・16・17)。そして、イエスはそのおきての第一に、「殺すな」(マタイ19・18)を引用します。山上の説教でイエスは弟子たちに対して、いのちを尊ぶことに関しても、律法学者とファリサイ派の人々の義に勝る義を求めます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5・21ー22)。

イエスはことばとわざをとおして、いのちが不可侵であることに関するおきてに、より積極的な要求が含まれることを説き明かします。このような要求は、弱く、脅かされるいのちを擁護し保護することを扱う規定について述べる旧約聖書の箇所ですでに提示されています。このいのちとは、寄留者、未亡人、孤児、病人、広義の貧しい人、胎児を含めたいのちです(出エジプト21・22、22・20−26参照)。これらの積極的な要求は、イエスによって新しい力と緊急性を帯びるに至ったのであり、余すところなく明確に啓示されたのです。これらの新しい要求は、兄弟のいりちへの配慮、つまり(それが肉親であれ同じ民族であれ、あるいはイスラエルの地に居住する外国人であれ)見ず知らずの人に気遣いを示すこと、敵を愛するという態度にまで及びます。

相手のいのちに対する責任を引き受けようとするほどまで困っている人の隣人となろうとする者にとって、見ず知らずの人はもはやよそ者ではなくなります。それは、よいサマリア人のたとえ話に、はっきりと示されています(ルカ10・25ー37参照)。敵を愛そうと決めた人(マタイ5・38ー48、ルカ6・27ー35参照)、敵に対して「善を行い」(ルカ6・27、33、35参照)、ともかく困窮している人に見返りを期待せず、即座に応じようとする人にとって(ルカ6・34ー35参照)、敵はもはや敵ではなくなります。この愛の極みは、敵のために祈るところにあります。このようにしてわたしたちは、神の摂理的な愛との調和を打ち立てるのです。「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5・44ー45。ルカ6・28、35参照)。

こうして、人間のいのちを守るようにという神のおきての深遠な要素は、すべての人に対してまたすべての人のいのちに対して、敬意と愛を示すようにという要求として現れます。これは、使徒パウロがイエスの教えを要約して、ローマのキリスト者たちに書き送ったものです。「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんなおきてがあっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(口ーマ13・9−10)。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1・28)
人間が負ういのちへの責任

42 いのちを擁護し守り育てること、いのちに敬意と愛を示すことは、神がすべての人間にゆだねた義務です。神は自らの生きたかたどりとして人間を呼び出し、世界を治める務めを与えました。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上をはう生き物をすべて支配せよ』」(創世記1・28

聖書は、神が人間に授けた支配権の及ぶ範囲をはっきりと示します。知恵の書が明確に諭すように、それは何よりもまず、地といのちのあるあらゆる被造物に対する支配がその内容です。「先祖たちの神、あわれみ深い主よ、……あなたは、知恵によって人を形づくられました。あなが造られたものを人が治め、信仰深く、義に基づいて世界を支配するためです」(知恵9・1、2ー3)。詩編作者も、人間に与えられた支配権は創造主から授けられた栄光と栄誉のしるしであるとほめたたえます。「み手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも」(詩編8・7ー9)。

世の庭を耕し、その世話をするように言いつかったとき(創世記2・15参照)、人間は特有の責任を任されました。それは、居住している環境に対する責任であり、現在だけでなく幾世代にもわたる将来においても、人間の尊厳、人間のいのちに資するようにとの意図でなされた創造のわざに対する責任です。これは生態環境の問題であり、それはさまざまな動物の種の生息環境地や多種の生き物の保存から、正確にいえば「人間生態学」にまで及びます(28)。この生態環境の問題に対しては、あらゆるいのちを重大なものと尊ぶ解決へと導く、明白で強力な倫理的方向づけが聖書に含まれています。実際、「創造主によって人間に与えられた支配権は、決して絶対的な権限ではありませんし、利用する自由、誤用する自由のすべてを含むわけでもありません。すなわち、人間が勝手放題にすべてのものを処分しうるわけではないのです。創造主自身によって原初から課せられた限界、枠組みは-それは『その木の果実を食べてはならない』(創世記2・16ー17参照)とする禁止事項によって象徴的に示されています-自然界とかかわりを持つときには、生物学的法則に従うのみならず、道徳律にも従順でなければならないことを、そしてそれを破れば決して無事にはすまないことを教えています29」。

43 神の支配に人間がある程度あずかっていることは、人間のいのちやその他のいのちなどのために与えられる特有の責任からして明らかです。それは、結婚において男女が子供を持つことによって、いのちをもたらすという最高の位置に達する責任です。第二バチカン公会議は次のように教えています。神は、「『人が独りでいるのはよくない』(創世記2・18)と言われ、『初めから人を男と女とにお造りになった』(マタイ19・4)神自ら創造のわざに人間を特別に参加させようと望み、『産めよ、増えよ』(創世記1・28)と言って男と女を祝福された30」。

神の「創造のわざに」男女が「ある特別な形で参加する」ことを述べて、公会議は、子供を持つことは「一体となる」(創世記2・24)夫婦と自らを現す神とを含むかぎり、きわめて人間的な出来事であり、深い宗教的な意味を持つ出来事であると指摘します。わたしは『家庭への手紙』」でこう訴えました。「二人の夫婦的な結合から新しい人間が生まれることは、神ご自身の特別な似姿でありかたどりである者が世にやって来たことにほかなりません。子供が生まれるという生物学的出来事の中に人格の系図が書き記されているわけです。新しい人間存在の受胎と出産において、夫婦が親として、創造主の協力者であることを認めているのなら、わたしたちは生物学的な法則だけに気を取られてはなりません。人間が父となり母となることの中には、『地上の生き物』に子供が生まれるのとは異なった仕方で神ご自身が現存することを強調しなければならないのです。事実、天地創造において行われたように、人間存在に独自のものであるこの『似姿』と『かたどり』はただ神から来ます。子供が生まれることは、天地創造の継続なのです」31

これは、聖書が直接かつ雄弁に語っていることです。「すべていのちあるものの母」(創世記3・20)となった最初の女が口にした喜びの叫びを記述する場面に、それは見られます。神が働きかけたことをわきまえて、エバはこう叫びます。「わたしは主によって男子を得た」(創世記4・1)。こういうわけで、親から子へのいのちの交流によって、つまり子を産むことにおいて、不死の魂が創造されたがゆえに、神自身のかたどりと似姿が伝達されます32。「アダムの系図」の初めに次のように記されています。「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。創造の日に、彼らを祝福されて、人と名づけられた。アダムは百三十歳になったとき、自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。アダムはその子をセトと名づけた」(創世記5・1ー3)。夫婦が心を決めて、「創造主と救い主-すなわち、彼らをとおして神の家族を増やし、富ませるかた-の愛に協力する33」場合、そのような夫婦の卓越さが分かるのは、新しい被造物に自分のかたどりを伝達する神に協力する、夫婦の役割においてなのです。アンフィロキオ司教が、「聖なる結婚は、人類を生み増やし、神のかたどりを創造するがゆえに、他の地上のいかなるものにも勝った、えり抜きの崇高なたまものである34」とほめたたえたのは、このような理由からでした。

こうして、結婚において一体となる男女は、神のわざに携わるパートナーとなります。子を産む行為によって、神のたまものは受け止められ、新しいいのちに未来が開かれるのです。

そのうえ、両親の特別な使命、いのちを受け入れこれに仕える務めは、すべての人を巻き込みす。いのちがもっとも弱い状態にあるとき、この務めは、まずそのようないのちに向けて成し遂げられなければなりません。さまざまな苦しみを受ける兄弟姉妹をとおして愛され仕えられることをキリストが求めるとき、キリストがこの務めについて教えるのです。飢える人、渇く人、旅人、裸の人、病人、牢にいる人など、これらの一人ひとりに行ったことはいずれも、キリスト自身にしたことなのです(マタイ25・31ー46参照)。

「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった」 (詩編139・13)
胎児の尊厳

44 人間のいのちはこの世に産声を上げるとき、また時間の制約を後にして永遠の世界へ旅立つとき、身を守る何の手だても持ち合わせません。神は、とくにいのちが病気や高齢によってむしばまれるとき、配慮と敬意を示すようたびたび呼びかけます。最初期の段階にある人間のいのち、とくにまだ生まれていないいのちを擁護するように、また終局に近づきつつある人間のいのちを擁護するように、という直接の明確な呼びかけの言葉はありません。しかし、このことは、このような状況にあるいのちを損ない、踏みにじり、あるいは実際に否定する可能性そのものが、神の民の宗教的、文化的な思考方法にまったく無縁であるという事実から容易に説明がつきます。

旧約聖書では、不妊はのろいとして忌み嫌われ、子孫に恵まれることが祝福だと見なされました。「子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い」(詩編127・3。詩編128・3−4参照)。この信仰はまた、アブラハムになされた約束のとおり、民の数が増えるという招きを受けた契約の民であるというイスラエルの自覚に基づきます。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。……あなたの子孫はこのようになる」(創世記15・5)。しかし、何にもましてここには、両親が伝達するいのちは神に由来するという確信がみなぎっています。このことは、聖書のさまざまな箇所で証言されています。いのちを身ごもること、そのいのちが母親の胎内で形づくられること、いのちを与えること、そしていのちのごく初めの瞬間と創造主である神のわざとの間の緊密な結びつきなどについて、敬意をもって愛情深く述べられる箇所があります。

「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別した」(エレミヤ1・5)。人問のいのちはすべてその初めから、神の計画のうちにあります。ヨブはひどい苦難の中で、母の胎内に自分の体を不思議にも形づくった神のわざを思い巡らすことを中断しました。ヨブは、すべてを神にゆだねる根拠をここに見いだしたのです。そして、自分のいのちは神の計画であると、信仰を表明します。「み手をもってわたしを形づくってくださったのに、あなたはわたしを取り巻くすべてのものをも、わたしをも、のみ込んでしまわれる。心に留めてください、土くれとしてわたしを造り、ちりに戻されるのだということを。あなたはわたしを乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、骨と筋を編み合わせ、それに皮と肉を着せてくださった。わたしにいのちと恵みを約束し、あなたの加護によって、わたしの霊は保たれていました」(ヨブ1O・8ー12)。母の胎内にある子供のいのちが神の働きによることへの畏怖と驚嘆の心情は、詩編に繰り返し現れます35

いのちについて説き明かすこの驚くべきプロセスのどの瞬間でさえも、創造主の知恵と愛情あふれるわざから切り離され、人間を勝手な行動のとりこにするなどとは考えられてはいません。七人の息子の信仰を励ましたあの母親が、そのように考えなかったのは確かです。彼女は、身ごもったその当初から、神はいのちの源であり保証である、死の向こうの新しいいのちの希望の礎であるとの信仰を告白します。「わたしは、おまえたちがどのようにしてわたしの胎に宿ったのか知らない。おまえたちに霊といのちを恵んだのでもなく、わたしがおまえたち一人ひとりの肢体を組み合わせたのでもない。人の出生をつかさどり、あらゆるものに生命を与える世界の造り主は、あわれみをもって、霊といのちを再びおまえたちに与えてくださる、それは今ここで、おまえたちが主の律法のためには、いのちをも惜しまないからだ」(マカバイ下7・22−23)。

45 新約聖書の啓示は、その最初の時から、いのちの価値についてきわめて明確な認識を示します。自らの妊娠を知って喜びの声を上げたエリサベトの言葉のうちに、身ごもったことの歓喜といのちを切に待ち望むことが、はっきりと述べられます。「主はわたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(ルカ1・25)。さらに、妊娠の瞬間から始まる人間のいのちの価値は、マリアとエリサベトの出会い、二人の胎内にいる二人の子供の出会いにおいて、公にされました。メシア時代の到来を啓示するのは、まさにこの子供たちでした。この出会いにおいて、人々の間に神の子が現存するという、そのあがないの力がまず機能し始めます。聖アンブロジオはそれを次のように描写します。「マリアの到着と主の現存の恵みはすぐに現れました。……エリサベトは先に言葉を聞きましたが、ヨハネは先に恵みを感じ取りました。エリサべトは自然の秩序に従って言葉を聞きましたが、ヨハネは神秘の力によって躍りました。エリサべトはマリアの到来を、ヨハネは主の到来を感じ、女は女の到来を、子供は子供の到来を感じました。女たちは恵みについて語り、子供たちは胎内で母たちのためにいつくしみの神秘を実現し始め、母たちは二重の奇跡によって子供たちの霊感のもとに預言します。子は喜び躍り、母は霊に満たされました。子よりも先に母が満たされたのではありません。子は聖霊に満たされた後に母をも満たしたのです36」。

「わたしは信じる、『激しい苦しみに襲われている』と言うときも」 (詩編116・10)
高齢者のいのち、病者のいのち

46 いのちが終わりを迎える時期についても、ここで触れておきます。聖書が、高齢者や病人を尊ぶことに関する現代の問題についてはっきりと語ってくれるのではないか、あるいはこのよう人たちの死を力づくで早める企てを明確に断罪するのではないか、と期待するのは時代錯誤です。聖書の文化的、宗教的な文脈は、そのような関心とはまったく接点がありません。実にその文脈においては、高齢者の知恵と経験は、家族や社会を豊かにするまたとない源泉だと理解されいます。

高齢は高潔さを特徴とし、敬意をもって遇されます(マカバイ下6・23参照)。義人は高齢とそれに伴う重荷からの解放を求めません。それどころか、彼は次のように祈ります。「主よ、あなはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたにより頼んできました。……わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください。み腕のわざを、力強いみわざを、来るべき世代に語り伝えさせてください」(詩編71・5、18)。メシア時代の理想は、「年老いて長寿を満たさない者もなくなる」(イザヤ65・20)時代として示されます。

高齢に達したとき、避けては通れないいのちの衰退に、人はどのように対処すべきでしょうか。死を目前にしてどのようにすべきでしょうか。信仰者は、自らのいのちが神の手のうちにあることを知っています。「主よ、あなたこそわたしの運命を支えるかた」(詩編16・5参照)と祈り、信仰者は死ぬべき運命を神から受け取ります。「死の宣告を恐れるな。この宣告は生あるものすべてに主から下される。なぜおまえは、いと高きかたのみ旨に逆らうのか」(シラ41・3−4)。人間はいのちの主でもなく、死の主でもありません。生きるにしても死ぬにしても、人間は、「いと高きかたのみ旨」に、そのかたのいつくしみの計画に、全面的に身をゆだねなければなりません。

病の床にあるときにも、人間は同様の信頼を主にささげ、また「病をすべていやす」(詩編103・3参照)かたへの根本的な信仰を持ち直すよう促されます。人間の目には健康を取り戻す望みが断たれたと映るときも、信仰者はこう叫び祈ります。「わたしの生涯は移ろう影、草のように枯れていく」(詩編102・12)。そのときこそ、信仰者は、いのちを与える力である神への揺るぎない信仰によって力づけられます。そのような信仰者は、病気だからといって絶望することはなく、死を求めることもありません。むしろ、希望のうちにこう叫び祈ります。「わたしは信じる、『激しい苦しみに襲われている』と言うときも」(詩編116・10)。「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしをあなたはいやしてくださいました。主よ、あなたはわたしの魂をよみから引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、わたしにいのちを得させてくださいました」(詩編30・3−4)。

47 イエスの使命には多くのいやしのわざが含まれますが、これは、神が人間の身体的ないのちについても、強い関心を抱いていることを示します。イエスは、「体と魂のいやし手37」として父から遣わされたのですが、それは、貧しい人によい知らせを告げるためであり、打ちひしがれた人をいやすためでした(ルカ4・18、イザヤ61・1参照)。後にイエスが弟子たちを世に遣わすとき、イエスは弟子たちに使命を与えました。それは、福音をのべ伝えることに加え、病人をいやすことも同時に行うというものでした。「行って、『天の国は近づいた』とのべ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」(マタイ10・7−8。マルコ6・13、16・18参照)。

信仰者にとっては、地上に生きる体のいのちが絶対的な善ではないのは確かです。より大きな善のために自らのいのちを断念しなければならない場合には、とりわけそうです。イエスはこう言います。「自分のいのちを救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のためにいのちを失う者は、それを救うのである」(マルコ8・35)。これについては、新約聖書に多数の事例があります。イエスは自らを犠牲にすることをためらわず、また自分のいのちを自由に父への(ヨハネ1O・17参照)、そして自分の羊のための(ヨハネ1O・15参照)ささげものとしました。救い主の先駆者である洗礼者ヨハネの死も、この世でのいのちは絶対的な善ではないことをあかしします。何より重要なのは、たとえいのちが危機にさらされても、主のことばに忠実に踏みとどまることです(マルコ6・17−29参照)。ステファノは、よみがえりの主をあくまでも忠実にあかししたために地上でのいのちを失ったのですが、彼は師であるイエスの足跡に従い、石を投げつける人々に神のゆるしを願う言葉をもって相対したのです(使徒言行録7・59−60参照)。こうしてステファノは、教会がその最初の時代以来崇敬してやまない殉教者の群れの最初の者となりました。

とはいえ、生きるか死ぬかを自分勝手に選択することは、だれにもできません。そのような決断をつかさどる絶対的な力を持つのは創造主だけです。わたしたちは、そのかたのうちに「生き働き、存在する」(使徒言行録17・28)のです。

「知恵を保つ者は皆生きる」 (バルク4・1)
シナイの律法から霊のたまものへ

48 いのちには、いのちに固有の真理が消しがたく刻まれています。神のたまものを受け取ることにより、人間は、いのちにとって本質的なこの真理のうちにいのちを保つよう義務づけられます。この真理から離れると、自分自身を意味喪失と不幸へと追い込むことになり、他者にとって脅威をもたらす存在になりかねません。あらゆる状況において、いのちへの敬意といのちの擁護を保障するとりでが崩壊しているからです。

いのちについての真理は、神のおきてによって啓示されます。いのちがいのちに固有の真理を尊重するのであれば、また、いのちに固有の尊厳を保持するのであれば、いのちは一つの道筋を進まなければなりません。主はその道筋を具体的に教えています。いのちは、はっきり示された「殺してはならない」(出エジプト20・13、申命記5・17)という神のおきてによってだけ、しっかり擁護されるのではありません。主の律法全体がいのちを守り支えるのです。それは、律法全体がその真理について啓示しており、この真理のうちに、いのちがどれほど意義深いものであるか、余すところなく明らかになるからです。

ですから、神の民と神との契約が、いのちの全体的なとらえ方に、しかも身体的な面を含めたとらえ方に緊密に結びついても、それほ驚くに当たりません。契約において神のおきては、いのちへ至る道として述べられています。「見よ、わたしは今日、いのちと幸い、死と災いをあなたの前に置く。わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めとおきてと法を守るならば、あなたはいのちを得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される」(申命記30・15ー16)。ここで取り上げられていのは、カナンの地とイスラエル民族の生存だけでなく、今日の世界、将来の世界、人類の生存にもかかわることです。実際、ひとたびいのちが善から切り離されると、いのちが真正で完全なものとしてとどまり続けるのは、まったく不可能です。善そのものはといえば、本質的に主のおきて、つまり、「いのちをもたらす律法」(シラ17・11)に結びつきます。なされるべき善は、いのちを圧迫する重荷としていのちに付加される何かではありません。いのちが目指すのは善であり、善を行うことによってのみ、いのちは築き上げられるのです。

こういうわけで、人間のいのちを十全に守るのは、全体としての律法です。「殺してはならないというおきてに結びつく「いのちのことば」(使徒言行録7・38参照)が遵守されない場合、このおきてに忠実にとどまることが困難であるのは、このことからはっきりします。この広い枠組みを離れると、神のおきては外から課される義務にすぎないものになってしまいます。そしてすぐにも、わたしたちはその限度を探し始め、その網の目をくぐろうとし、例外を見つけ出そうとします。人々が神と人間と歴史についての真理に余すところなく応じようとするときこそ、「殺してはならない」という言葉が、自分自身において、また他者とのかかわりにおいて、人間にとって善であるものとして再び光を放つことになるでしょう。このようなとらえ方の中で、わたしたちは、イエスが最初の誘惑に答える際に繰り返した申命記の箇所に含まれる十全な真理を把握できるのです。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8・3。マタイ4・4参照)。

わたしたちが尊厳と正義を重視しつつ生きることができるのは、主のことばに耳を傾けることによってです。いのちの実りをもたらし、幸せをもたらしうるのは、神の律法を遵守することによってです。「これを保つ者は皆生き、これを捨てる者は死ぬ」(バルク4・1)。

49 イスラエルの歴史をひもとくと、神が人間の心に書き記し、神がシナイ山で契約の民に与たいのちの法に忠実であり続けるのは、なかなか容易ではないことが分かります。人々が神の計画を黙殺する生き方を求めるとき、主のみがいのちの真正な源泉であることを民衆にはっきりと思い知らせるのは預言者たちです。エレミヤはこう記します。「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを」(エレミヤ2・13)。預言者たちは、いのちを軽んじ人々の権利を侵害する者たちに対して、「彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ」(アモス2・7)、「このところを無実の人の血で満たした」(エレミヤ19・4)と非難を浴びせます。なかでもエゼキエルは、工ルサレムの都を「流血の都」(エゼキエル22・2、24・6、9)、「自らの真ん中に血を流す都」(エゼキエル22・3)と呼び、たびたびとがめています。

しかし、預言者たちはいのちに対する攻撃を非難する一方で、何よりもいのちの新しい原則に対する希望に気づかせようとします。この新しい原則こそが、神との、また他者との刷新されたかかわりを作り上げることができるのです。そして、いのちの福音に本来備わる、すべての要求を理解して実行するための、新しくまた未曾有の可能性を切り開きます。このことは、浄化する神、新しくする神のたまものがあればこそ可能となります。「わたしが清い水をおまえたちの上に振りかけるとき、おまえたちは清められる。わたしはおまえたちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはおまえたちに新しい心を与え、おまえたちの中に新しい霊を置く」(エゼキエル36・25ー26。エレミヤ31・34参照)。この「新しい心」はいのちについての深遠でもっとも確実な意味を理解させ、理解したことを成就させることができるのです。すなわち、自己をささげることにおいて、完全に実現されるたまものであるいのちの意味を理解させ、成就させるのです。これは、しもべの姿をとった主からわたしたちのもとへ届く、いのちの価値についての輝かしいメッセージです。「彼は自らを償いのささげ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。……彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」(イザヤ53・10、11)。

ナザレのイエスの到来によって、律法が成就し、新しい心がイエスの霊をとおして与えられます。イエスは律法を否定するのではなく、律法を完成します(マタイ5・17参照)。律法と預言者とは、互いに愛し合いなさいという最高のおきてにまとめられます(マタイ7・12参照)。イエスおいて、律法は最終的に「福音」となります。これは、世界に対する神の支配というよい知らせであり、この知らせはすべてのいのちを本質に立ち返らせ、またいのち本来の目的へと立ち戻らせたのです。これが新しい律法、すなわち、「キリスト・イエスによっていのちをもたらす霊の法則」(ローマ8・2)です。そして、友のためにいのちを与えた主の模範に従って(ヨハネ15・13参照)律法を根本的に表現するならば、それは兄弟姉妹を愛するがゆえに自分をささげることです。「わたしたちは、自分が死からいのちへと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです」(一ヨハネ3・14)。これが自由、喜び、幸福の法則です。

「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」(ヨハネ19・37)
いのちの福音は、十字架において成就する

50 この章では、いのちについてのキリスト教のメッセージを考察しました。この章を終わるにあたり、やりで貫かれ、すべての人を自分のもとへ引き寄せるかた(ヨハネ19・37、12・32参照)のことを皆さんとともに黙想したいと思います。十字架の「出来事」(ルカ23・48参照)を目の当りにして、わたしたちはいのちの福音全体が余すところなく、完全に、この栄光ある木に啓示れていることに気づきます。

受難の金曜日の昼下がり、「全地は暗くなり……太陽は光を失い、神殿の垂れ幕が真ん中から裂け」(ルカ23・44、45)ました。これは巨大な天変地異のシンボルであり、善の勢力と悪の勢力との間の、すなわちいのちと死との間の大規模な軋轢を象徴します。今日わたしたちもまた、「死の文化」と「いのちの文化」との間に展開する、劇的な軋轢のただ中にあります。しかし、十字架の栄光は、この暗やみに打ち負かされてはいません。むしろ、かつてなかったほどに、燦然とまばゆいばかりに輝きます。そして十字架は、全歴史とすべての人のいのちの中心、意味、目標として啓示されるのです。

イエスは十字架に釘づけられ、地上から上げられました。イエスは、自分が「無力」そのものである瞬間を体験しました。イエスのいのちは、敵対者たちのあざけりと死刑執行人の手に明け渡されたかに見えます。イエスは嘲笑され、愚弄され、侮辱されました(マルコ15・24−36参照)イエスがこのような苦しみのただ中で息を引き取る有様を見て、ローマ軍の百人隊長は叫びました。「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15・39)。神の子がどのようなかたであるかが啓示されるのは、実に生涯の中でもっとも力をなくしたこのときでした。十字架上にこそ、神の子の栄光が示されるのです。

イエスは死をもって、全人類の生と死の意味を明らかにします。イエスは死ぬ前に、迫害する者のゆるしを父に祈り(ルカ23・34参照)、み国においでになるときわたしを思い出してくださいと願う犯罪人に、こう言いました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)。イエスの死後、「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返りました」(マタイ27・52)。イエスが成し遂げた救いは、いのちをもたらすことであり、復活でした。地上の生涯をとおして、イエスはいやしのわぎを行い、またすべての人によいわざを行うことによって救いをもたらしました(使徒言行録10・38参照)。しかも、イエスが行った奇跡、いやし、死者を生き返らせることは、別の救いのしるしです。つまり、罪のゆるしを与えるところにある救いであり、重病人を立ち上がらせることや、神のいのちへと人間を引き上げることにおいて、結果的に示されました。

モーセが荒れ野で蛇を上げ、それを仰ぐ者が救われた奇跡は(ヨハネ3・14−15、民数記21・8−9参照)、十字架上で新しい形のもとに行われ、決定的な完成へ至りました。今日においてもやりで刺し貫かれたかたを仰ぐとき、いのちを脅かされるすべての人は、自由とあがないを見いだす確かな望みと出合うのです。

51 十字架を思うとき、心を揺さぶられるもう一つの特別な出来事があります。「イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られました」(ヨハえ19・30)。その後、ローマ兵が「やりでイエスのわき腹を刺しました。すると、すぐ血と水と流れ出た」(ヨハネ19・34)のです。

今やすべては完全に成就しました。イエスの死は息を「返した」と表現されており、わたしたちと何ら変わりのない死であるとされます。しかし、「息を返す」とは、暗に霊のたまものに言及しているように思われます。イエスはこの霊の力で、わたしたちを死からあがない、わたしたちの前に新しいいのちを開いたのです。

霊とは、今や人間に分け与えられる神のいのちそのものです。イエスのわき腹から流れ出た血と水が象徴する教会の秘跡をとおして、神の子らに間断なく与えられるいのちです。このいのちが神の子らを新しい契約の民とします。十字架からいのちの源、「いのちの民」が生まれ、数を増すのです。

このように十字架を黙想すると、イエスの生涯に起きたあらゆる出来事の中核に迫ることになります。イエスは世に来るとき、こう語りました。「神よ、み心を行うために、わたしは来ました」(ヘブライ10・9参照)。そして、すべてにおいて父に従順なものとなり、「世にいる弟子たちを愛して、このうえなく愛し抜き」(ヨハネ13・1)、彼らのために自らを完全に与え尽くしたのです。

「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちをささげるために来た」(マルコ1O・45)イエスは、十字架上で愛の極みに到達します。「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)。そしてイエスは、わたしりがまだ罪びとであったときに、わたしたちのためにいのちをささげてくださったのです(ローマ5・8参照)。

いのちはささげられるときに、その中心、意味、そして完成に至るということを、イエスはこのような形で宣言したのです。

このように見てくると、わたしたちほ賛美と感謝をイエスにささげるほかはなく、同時にイエスに倣い、イエスの足跡をたどるよう促されるのを覚えます(一ペトロ2・21参照)。

わたしたちもまた、兄弟姉妹のために自分のいのちをささげるよう招かれており、こうしてわたしたちの生きている意味と運命の真理を、はっきりと理解するよう呼びかけられています。

主よ、あなたはわたしたちに仰ぐべき模範を与え、またあなたの霊の力を恵まれるので、わたしたちはこの招きにこたえることができます。日々、あなたとともに、あなたのように、父に従順であろうと努め、父のみ旨を果たそうとするなら、この招きにこたえることができるでしょう。

神の口から流れ出るすべてのことばに心を開き、寛大な態度で耳を傾けさせてください。こうしてわたしたちは、人間のいのちを殺してはいけないという神のおきてに従うだけではなく、いのちを尊び、愛し、育てることをも学ぶことになるのです。

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