いのちの福音
Evangelium Vitae

第一章:おまえの弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる
(今日、人間のいのちに襲いかかる脅威 )

「カインは弟アベルを襲って殺した」(創世記4・8)
いのちに敵対する暴力の根源

7「神が死を造られたわけではなく、いのちあるものの滅びを喜ばれるわけでもない。生かすためにこそ神は万物をお造りになった。……神は人間を不滅な者として創造し、ご自分の本性の似姿として造られた。悪魔のねたみによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属する者が死を歩わうのである」(知恵1・13−14、2・23−24)。

人間が神にかたどって造られ、豊かにして完全ないのちという必然性に向けて造られたときに(創世記2・7、知恵9・2−3参照)初めて宣言されたいのちの福音は、世に入った死、人間存在全体に無意味という影を投げかける死、このような死の痛ましい体験によって否定されました。死は、悪魔のねたみと(創世記3・1、4−5参照)、わたしたちの最初の親が犯した罪の結果として(創世記2・17、3・17ー19参照)、また、カインが弟アベルを殺害するという暴力的なあり方で世に入ったのです。「二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」(創世記4・8)。

この最初の殺人は、普遍的な重要性を持つ創世記の中で独特の力強さをもって書き記され、無情にも人間の品位をおとしめるような形で頻発して、人類史という書物の中に日々書き改められいます。

この物語を読み返してみましょう。物語の構成は古風で、筋立ではいかにも単純ですが、学ぶき点は多々あります。

「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとにささげものとして持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとそのささげものに目を留められたが、カインとそのささげものには目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうて顔を伏せるのか。もしおまえが正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、おまえを求める。おまえはそれを支配せねばならない』。

カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。『おまえの弟アベルは、どこにいるのか』。カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか』。主は言われた。『何ということをしたのか。おまえの弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、おまえはのろわれる者となった。おまえが流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、のろわれる。土を耕しても、土はもはやおまえために作物を産み出すことはない。おまえは地上をさまよい、さすらう者となる』。カイン主に言った。『わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしがみ顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしが出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう』。主はカインに言われた。『いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう』。主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」(創世記4・2ー16)。

8 カインは「激しく怒って顔を伏せ」ました。主が、「アベルとそのささげものに目を留められた」(創世記4・4−5)からです。この箇所では、神がなぜカインのささげものよりもアベルのささげものに目を留めたのかは明らかにされません。しかし、神はアベルのささげものをよしとしますが、カインと語り合うのを途中でやめなかったことをはっきりと示します。神はカインを諭し、悪に面と向かっても、人間は自由であることを思い起こさせます。つまり、人間は悪に運命づけられはしないのです。確かに、アダムと同様、カインは罪の邪悪な勢力にいざなわれます。野獣にも似たその勢力は、彼の心の戸口で待ち伏せており、いつでも獲物に襲いかかる態勢にあります。それでもカインは、罪に面と向かっていながら自由のままです。彼は罪に打ち勝つことができますし、打ち勝たなければならないのです。「罪はおまえを求める。おまえはそれを支配せねばならない」(創世記4・7)。

ねたみと怒りが主の警告を圧倒し、カインは弟を襲って殺害します。最新の『カトリック教会のカテキズム』に次の記述があります。「カインによるアベル殺害の物語の中で、聖書は人類史の初めから、原罪の結果として人間に怒りとねたみが存在することを啓示する。人間は仲間の人間に対して、敵となった」10

兄が弟を殺害するのです。この最初の兄弟殺しに見られるように、どのような殺人も、一つの大家族に人類を結び合わせる「霊的な」親族関係への侵犯です11。この大家族の中で、人は皆、同じ根源的な善を分かち合います。つまり人間は、等しく人格の尊厳を尊ばれるのです。また、血肉による親族関係も頻繁に侵害されます。たとえば、人工妊娠中絶などのように親子関係に生じるいのちへの脅威、あるいは、より広い家族ないし親族のかかわりの中で、安楽死が推奨され実践されることなどがあげられます。

隣人に向けられるあらゆる暴力行為の根底には、悪しき者、「最初から人殺し」(ヨハネ8・44)だった者の「考え方」にくみする心根があります。使徒ヨハネは次のように教えます。「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました」(一ヨハネ3・11−12)。ですから、人類史の夜明けに起きたカインによる弟の殺害は、悪が目をみはるばかりの速度で広がっていくことを、悲しくもあかしします。地上の楽園で人間が犯した神への背反は、人と人との間の恐るべき闘争へと発展します。

犯行後、神は殺人者への復讐に介入します。アベルの安否を尋ねる神の前で、カインは後悔の情を表して謝罪するどころか、尊大にもその質問をかわします。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(創世記4・9)。「知りません」。この言葉で、カインは自分の犯行をうそで固めようとします。これはあらゆるイデオロギーが、人類に対する残忍極まる犯罪を正当化し、取り繕おうとするときにとる常套手段であり、かつてもそうでしたし今でもそうです。「わたしは弟の番人でしょうか」。この言葉で、カインは兄弟の安否を気遣うどころか、人間である以上だれもが他者に対して持っている責任を引き受ける気がないことを表明します。人々が自らの兄弟姉妹への責任を負おうとしない今日の傾向について、考えずにはいられません。こうした兆しは、高齢者、病人、寄留民、子供などのような社会のもっとも弱い立場の人々への連帯感の欠如です。また、いのちの存続、自由、平和など基本的な価値に影響を及ぼすような場合であっても、世果中の民族間の関係にしばしば見られる無関心でもあります。

9 しかし、神は、カインを処罰しないままにしておくことはできませんでした。殺害された者の血を吸った大地から、その者の血が、神による正しい裁きを要求するからです(創世記37・26、イザヤ26・21、エゼキエル24・7−8参照)。この聖書の箇所から、教会は、「正義を求めて、神に向かって叫ぶ罪」という言い方をするようになります。そのような罪の第一に、教会は意図的なな殺人を含めました12。古代では多くの民族がそうであったように、ユダヤの人々にとっても血はいのちの源です。実に、「血はいのち」(申命記12・23)であり、いのち、とくに人間のいのちは神にのみ属します。それゆえ、人間のいのちを攻撃する者はだれであれ、ある意味で神自身を攻撃することになるのです。

カインは、神からも大地からものろわれる者となりました。大地は、カインのために作物を産み出さなくなりました(創世記4・11ー12参照)。カインは罰せられたのです。彼は荒れ地と砂漠で暮らすことになります。殺人に結びつく暴力は、人間の環境をその深みから変えてしまうのです。この地上は、「エデンの園」(創世記2・15)、豊かな地、調和ある人間関係の地、神との友情の地から、「ノド(さすらい)の地」(創世記4・16)、欠乏と孤立の地、神から引き離された地となります。カインは、「地上をさまよい、さすらう者」(創世記4・14)となり、不安定と落ち者きのなさが永久に彼につきまとうのです。

しかし、神は罰するにあたってもつねにいつくしみ深く、「カインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」(創世記4・15)のです。それは、他の人々の憎悪の手に彼を渡すためではなく、むしろアベルの死に報復しようとする殺害の手からカインを守るためでした。殺人者といえどもその人格の尊厳を失わないのであり、神自身がその保障を明確に約束したのです。まさしくここに、神のいつくしみ深い正義という逆説的な神秘が、はっきりと示されます。聖アンブロジオは、その間の事情を次のように説きます。「この近親者殺害」いう罪深い行為が最初の犯罪であると認められると、すぐに神のいつくしみという神法の枠が広げられなければならなかった。懲罰がすぐに罪びとに与えられるなら、正義を実践する者は少しのためらいも手心を加えることもなく、罪びとは即座に懲罰に付されたであろう……。神は目の前からカインを追放し、住み慣れた地からはるか遠方へと流刑に処した。こうして、カインは人間的な情や思いやりのある生活から、野獣の粗暴なありようにいっそう近い暮らし方へと転がり落ちた。罪びとの死よりも、彼が新たに歩み出すことをこそ望む神は、殺人を犯した者が、もう一つの殺人行為によって処罰されることを望まなかった13」。

「何ということをしたのか」(創世記4・10)
いのちの価値を滅ぼす行為

10 主はカインに言われた。「何ということをしたのか。おまえの弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(創世記4・10)。人間の手によってこれまでに流された血の声が、どの時代にあってもいつも生々しく、さまざまに叫び続けています。

「何ということをしたのか」という、カインが逃れることのできない主からの問いかけは、現代を生きる人々にも向けられています。それは、人類の歴史を特徴づけつつある、いのちへのさまざまな攻撃が持つその範囲と重大さを悟らせ、このような攻撃がどのような原因から引き起こされ、助長されるのかを明らかにし、各個人と民族に加えられるこうした攻撃から派生するさまざまな結果を真剣に熟考させるのです。

自然界自体からくる脅威もあります。しかし、ある場合にはこのような脅威を取り除くことができる人の、非難されてもおかしくないような無関心や怠慢によって、事態はいっそう悪化します。暴力、憎悪、利害の対立などの状況からも、別の脅威が結果的にもたらされます。暴力、憎悪、利害の対立は、殺害、戦争、虐殺、そして大量殺戮へと人々をあおり、他者を攻撃させるのです。

数百万の人間、とくに子供たちのいのちに加えられる暴力を、どうして見過ごしにできるでしょうか。民族間あるいは社会階層間において資源が不正に分配される結果、彼らはただでさえ、貧困、栄養不良、飢餓を強いられているのです。戦争に伴う暴力だけでなく、恥ずべき武器売買に必然的に伴う暴力にも目を向けなければなりません。世界を血で染める数々の武力衝突は、この武器売買が原因で起こります。世界の生態環境のバランスに何の配慮もなく不正に手をつけることに、薬物による犯罪の増加、あるいは道徳的に容認できないばかりでなく、いのちに対する重大な危機を伴う性行動をもてはやすことなどが原因となって、死がどれほど増大の一途をたどっていることでしょうか。人間のいのちに対する脅威は膨大な数に上り、これを完全に列挙するのは不可能です。あからさまにであれ、ひそかにであれ、今日現れている脅威の形態は、それほど多数に上ります。

11 さてここで、いのちの初めの段階と終わりの段階で、人間のいのちを侵す別の攻撃に特別の注意を向けてみましょう。このような攻撃は、過去にあったものに比べて新しい特徴を示しており、きわめて深刻な問題を提示します。これらの攻撃を、もはや「犯罪」と見なすべきではないというのが一般的な見解となっています。それだけでなく、国家はそのような攻撃を法的に容認すベきであり、医療に携わる人々による無料のサービスを受けられるよう国が配慮すべきだと要求するまでに、「権利」を逆説的にとらえています。このような攻撃は、もっとも弱くもろい時期の人間のいのちに、つまり自らを守る手だてを持たない時期にあるいのちに打撃を加えます。さらに深刻なのは、これらの攻撃がきわめて頻繁に、家族のただ中において、家族の共謀のうえで実施されるという事実です。本来「いのちの聖域」であるはずの家族において、このように行われているのです。

どうしてこのような状況が生じるのでしょうか。さまざまな要素を考慮に入れなければならないでしょう。その背景には、文化のはかりしれない危機的状況があります。それは、知識と倫理の基礎そのものに関して疑念を生み出す危機であり、人間とはそもそも何であるか、人間の権利とは何であり、責務とは何であるかを、明確にとらえることが次第に困難になってきているという状況です。実存的な問題、対人関係にまつわるあらゆる種類の問題が噴出しており、それらは社会が複雑になればそれだけいっそう困難を伴うのです。そのような社会の中で、個人、カップル、家族は、それぞれ自分の問題を抱え込んだまま途方に暮れることが多々あります。極度の貧困や不安やフラストレーションを何とかしようとする苦悩、耐えがたい苦痛、あるいは暴力行為、とりわけ女性に向けられる暴力行為などの状況があり、その中では、いのちを守り育てるためには、時には英雄的というほかないほど厳しい選択を強いられるのです。

これらすべては、いのちの価値が今日どのようにしてある種の「消滅」状態にさらされるかを、ある程度まで説明します。このことは、いのちは神聖で不可侵の価値であることを良心が示し続けるとしても、初期段階あるいは最終段階のいのちに対するある種の犯罪を隠そうとする傾向において明らかです。そこでは、内包されるのは現実の人間が持ついのちへの権利であるという事実から注意をそらさせるような医学用語を駆使して、犯罪を隠そうとするのです。

12 道徳上の不安定さが広範囲に及んでいる現状は、今日の社会問題が持つ多様性と重大性からある程度説明されうるでしょうし、これらの問題は時に各個人の主体的責任を軽減しうるのです。けれども、わたしたちが直面しているのは、まぎれもなく罪の構造というほかはない、より大きな現実であることに間違いありません。この現実は、連帯性を否定する文化、多くの場合「死の文化」という形をとるような文化の台頭によって特徴づけられます。この文化は、文化的、経済的、政治的な力強い思潮によって、大いに助長されます。この思潮は、過度に効率を追求する社会を理想として押し立てます。この見方から状況を検討すると、これはある意味では、強い者が弱い者にしかける戦争だということができます。いっそうの配慮をもって受け入れられ、愛され、世話されることを求めるいのちは、無用の長物と見なされ、がまんできない重荷とされ、こうして弱者はいずれにしても排斥されるのです。疾患やハンディキャップのゆえに、いやもっと単純に存在しているそのことによって、より恵まれている人々の幸福と生き方を危うくしかねない人は、阻止すべき敵、あるいは排除されるべき敵と見なされる傾向があります。こうして、一種のいのちに対する共謀」がのろしを上げます。この共謀は個人的な関係、家族や集団の諸関係における各個人だけでなく、さらに進んで国際間のレベルで、民族と国家との間の関係をも損ない、ゆがめるものとなっています。

13 人工妊娠中絶を広く行き渡らせるために、今日まで巨額の資金が投資されました。また、医療上の手助けなしに、母親の子宮内の胎児を殺害することを可能にする薬品の生産に投資が続けられています。この点について科学的研究そのものは、製品開発のことでただただ頭がいっぱいのようです。このような製品は、非常に簡単かつ効果的にいのちを停止させ、同時に人工妊娠中絶を、いかなる種類の制限もしくは社会的な責任にも抵触させずに済ませることのできるものとなっています。

安全でだれでも利用できるのであれば、避妊は人工妊娠中絶を回避するもっとも有効な救済策であるという見解がしばしば主張されます。それで、カトリック教会は実際上、人工妊娠中絶を推進しているのだと非難されます。教会は、避妊は道徳上不法であると頑固に教え続けているから、というわけです。注意深く検討してみるならば、この反論に根拠がないのは明らかです。おそらく多くの人は、次にくる人工妊娠中絶という誘惑を退けようとして避妊するのでしょう。しかし、「避妊を容認するメンタリティー」に本来伴う種々の否定的な価値は、-この態度は責任ある親であることや、夫婦間の行為の真実を十分に尊重したとらえ方からほど遠いのですが-望まない妊娠でいのちを宿したとき、この誘惑を現実のものにしてしまいかねません。避妊に関する教会の教えが排斥される、まさにそうした地域において、人工妊娠中絶を容認する文化はとりわけ強い勢力となっています。道徳的な観点からいって、避妊と人工妊娠中絶は、本質的に異なる悪であるのは確かです。前者は、結婚生活における愛情の固有な表現としての性行為の十全な真実を否定します。また、後者は人間のいのちを破壊します。前者は結婚における貞潔の徳に反するのであり、後者は正義の徳に反し、さらに「殺してはならない」という神のおきてを直接に侵害します。

本質と道徳上の重大性が相違するにもかかわらず、避妊と人工妊娠中絶とは一本の樹木に実る実のように密接に結びついています。多くの場合、避妊、さらに人工妊娠中絶でさえも、現実の生活でのさまざまな困難からの圧迫が原因で実践される、というのが実際のところです。とはいえ、そのような困難があるからといって、神法を完全に遵守する努力から免除されるわけではありません。しかし、それ以外のほとんどの場合、そのような実践は性愛にかかわる責任を引き受けようとしない、いわば享楽志向に根ざします。このような実践に立つ人は、自由を自己中心的にとらえ、子供を産むことは個人が成熟することにとって障害になると見なします。二人の間の性行為の結果として生じたいのちは、こうして何としてでも回避すべき敵となります。人工妊娠中絶は、失敗に終わった避妊への、唯一可能で決定的な解答となるのです。

気持ちの中では、避妊の実践と人工妊娠中絶との間には、密接な結びつきが存在しており、それは次第に明白になってきています。このことは化学製品、避妊リング、ワクチンの発展によって、驚くほどはっきりと示されます。現実には、芽生えたいのちのごく初めの時期に流産を促す作用をもたらすものが、避妊用具を使うのと同様の気軽さで広く用いられているのです。

14 いのちに資すると思われ、またしばしばその目的で用いられる人工受精の技術は、現実には、いのちに対する新たな脅威に門戸を開きます。それらの技法は道徳的に容認できないという事実は別にして、夫婦問の行為を十分に人間的なものととらえる立場から子供を産むことを切り離すので14、このような技法が失敗に終わる確率は高いのです。受精の面での失敗だけでなく、その後の胚芽の発達についても同様で、ふつうはごく短期間のうちに死の危険にさらされます。さらに作り出された胚芽の数は、女性の子宮に移植されるに必要な分量をはるかに超える場合が多々あります。そして、いわゆる「予備の胚芽」は破壊されるか、もしくは研究用に回されます。科学や医学の発展を口実に、実際には人間のいのちを自由に処理される単なる「生物学的材料」のレベルに引きずり下ろしているのです。

子宮内の胎児に必要な医学上の処置を特定する目的であれば、胎児診断を行うことには道徳な問題はありません。それでも、胎児診断もまたしばしば、人工妊娠中絶へと進ませ、それを実施させる機会となっています。これは、心情的には世論が正当としている優生学上の人工妊娠中絶です。「治療上の介入」が必要だとする要求に矛盾しないと、間違ってとらえられているのですが、優生学上の人工妊娠中絶は、ある条件のもとにのみいのちを受け入れ、何らかの障害やハンディキャップ、あるいは疾患を被っている場合には、いのちを排斥します。

この論理に従って、重度のハンディキャップや疾患を持って生まれた子供には、もっとも根本的ケア、養育でさえ拒否される事態に至っています。現状は、それ以上に警戒すべきものになりつつあります。人工妊娠中絶の権利を正当化するために用いられるあの論理に従って、生まればかりの子供を殺すことでさえも正当化する提案が各地で推し進められているからです。こうしてわたしたちは、永久に退けておきたいと望んだはずの野蛮なふるまいに立ち戻るのです。

15 深刻な脅威が、不治の病にある人、死にゆく人にのしかかっています。苦しみに直面し、それを受け入れるのをいっそう困難にする社会的かつ文化的な思潮において、苦しみを根本において取り除くことによって、あるいはもっとも適当と見なされる時に死を早めることによって苦しみの問題を解決してしまいたいという誘惑は、よりいっそう強いものとなります。そのような決断に至るのは、ふつうはさまざまな考えがあってのことですが、このさまざまな意見は、同じ一つの恐るべき結論に落ち着きます。病人が感じる苦悩、深い苦しみ、極度のしかも長引く苦痛から起こる絶望感などが、決定的な要因になることがあります。そのような状況は個人生活の、また家族生活のすでにもろくなっている心の安定に追い打ちをかけるので、一方で病人は、ますます効果を表している医学上の支えや社会からの支援があるにもかかわらず、自らの弱さに押しつぶされる思いに身を任せかねません。他方、病人を取り巻く人々は、はき違えた同情であるにしても、理解できる心情に動かされることがあります。このようないのちをなおざりにするすべては、苦しみに意味もしくは価値を認めない文化、それどころか苦しみは悪の縮図であり、何としてでも除去すべきものと見なす文化的思潮によって増幅されます。苦しみの神秘を前向きに理解させうる宗教観が不在の場合、そのような傾向はとくに顕著になります。

世間一般のレベルでは、現代の文化には一種の非常に独創的な態度があります。それによると、人々は、生死の決定は自分たちの手中にあり、生と死はどのようにも左右できると考えます。このような場合、どのような意義も感じられず、何の見込みもないところへ追い詰める死によって、その個人は打ち負かされ、押しつぶされてしまうのです。安楽死が、何らかの口実のもとにまた内密に行われ、あるいは公然と、そして時には合法的に実行されるという具合に広く受け入れられる現状には、これらのすべての痛ましいありようがうかがえます。患者の苦しみを目の当たりにして、見当違いの同情が理由となることもありますが、それに劣らず、実用上の動機から安楽死が正当化されることも時にはあるのです。つまり、何の益もなく社会に多大の負担をかけるだけなら、そのような無益なことはやめようというのです。こうして安楽死は、奇形のある乳児、重度のハンディキャップのある人、障害のある人、高齢者、とりわけ彼らが自立できない場合、また病人が末期にある場合に、これらの人々を排除する目的で持ち出されます。これとは別のごくひそかな、しかし現実に行われる深刻な安楽死の形態を考えると黙っていることはできません。そのような安楽死は、たとえば移植に必要な臓器を入手できる可能性を十分に確保する目的で、提供者の死を確定する客観的で十分な基準を考えずに臓器が摘出される事例を引き起こすことになります。

16 いのちに対する脅威と攻撃を正当化するために頻繁に利用されるもう一つの現代的な現象が、人口にかかわる問題です。これは、世界各地でさまざまな形で現れています。富める国々、発展した諸国において、出生率の憂慮すべき減少、急激な衰退があります。他方、貧しい国々はふつう人口増加率が高く、経済的かつ社会的な発展が大きくは望めないこともあって、人口を支えきれないものとなっています。極端な低開発にとどまる地域ではとくにそうで、貧しい国々では人口過剰に対して、家族政策と社会政策に真剣に取り組むこと、文化振興プログラムの推進、生産品と資源の公正な分配を実現する計画などといった、国際的なレベルで世界各地と手を結ぶ形をとる代わりに、出生を抑制する政策がとられ続けています。

避妊、不妊手術、人工妊娠中絶は多くの場合、確かに出生率の急激な低下の原因です。「人口爆発」の状況があるところでは、いのちに対して同様の方法や攻撃を使ってみようという気にさせられるのは無理もありません。

かつて、ファラオはイスラエルの子孫が存在することに不安を覚え、またその数が増えることに悩まされ、彼らにあらゆる種類の苦役を課し、ヘブライ人の女性が産む男の子はすべて殺すように命じました(出エジプト1・7−22参照)。今日、世界の強大な権力を握る少なからぬ為政者は、同様の施策を行っています。彼らもまた、現今の人口増加に悩まされており、多産できわて貧しい人々は、自国の幸福と平和にとって脅威になると恐れるのです。したがって、個人と家族の尊厳を尊び、すべての人が持つ人間のいのちについての不可侵の権利を顧慮して、これらの深刻な問題に取り組み、解決しようとするよりは、むしろ産児制限にかかわる大がかりなプログラムを推進し、押しつけることのほうを選びます。彼らが進んで与えようとする経済上の援助でさえ、出生抑制政策の受け入れを盾にした不正な条件のもとで実施されるのです。

17 いのちへの攻撃がどれほど広範囲に広がっているかだけでなく、その攻撃がこれまでにないはどおびただしい数に上っているかを考えてみると、また、いのちへの攻撃が社会での幅広い合意から広範で強力な支持を受け、さらに合法的に承認する態度が行き渡り、健康管理を業務とするある種の施設部門を巻き込んでいることからも同じような支持を受けている事実を考え合わせるなら、今日、人類はまことに憂うべき状態にあります。

デンバーにおける第八回世界青年の日に際して強調したことですが、「時の経過とともにいのちに対する脅威は衰える気配を見せるところか、むしろ莫大な数に上るように思われます。脅威は外部から、つまり本性が及ぼす力、あるいは『アベル』を殺害する『カイン』からくるだけではありません。そうではなく、それらは科学的かつ組織的に仕組まれた脅威なのです。二十世紀は、いのちに大がかりな攻撃が加えられた時代、戦乱の絶えなかった時代、罪のない人間のいのちが間断なく奪い取られた時代として、歴史に名を残すでしょう。偽りの預言者、偽教師たちが限りない成功を博しているのです15」。心づもりはさまざまでありえますし、時にはもっともらしく見えることがあります。けれども、そのような意図はひとまずおいて、とくに連帯の名のもとに提示される場合、わたしたちは実際には客観的な「いのちに対する脅威」に直面します。それには避妊、不妊手術、人工妊娠中絶を大々的に利用できるようにする具体的なキャンペーンを奨励し実行することに携わる、国際的な諸機関までが含まれます。マスメディアもこの謀議にしばしば関係しているのは、否定できません。無条件の妊娠中絶合法化に反対する立場は自由と進歩の敵対者だと盛んに言い触らす一方で、避妊、不妊手術、人工妊娠中絶に頼ること、さらには進歩のしるし、自由の勝利として、安楽死にさえ依拠してはどうかと提示する文化を信用させることに、マスメディアは加担するのです。

「わたしは弟の番人でしょうか」(創世記4・9)
自由についての誤った観念

18 右に述べた概観は、特徴となっている死という現象の観点からだけでなく、この概観を決定づけるさまざまな要因という観点からも理解する必要があります。主は、「何ということをしたのか」(創世記4・10)と問いかけています。この問いはカインによって表に現された、自らの殺人行為自体を乗り越えるよう、カインに呼びかけられた招きだと思われます。その殺人行為を引き起こした種々の動機が持つ重大性と、その行為から生じたさまざまな結果の重大性を、カインに気づかせようとするのです。

いのちに敵対しようという決意は、時に困難な、あるいは悲劇的な状況から生じます。つまり悲痛な苦しみ、孤独、経済的に豊かになる見込みがまったくないこと、将来に望みが持てず不安のみがあることなどです。このような状況では、個人の主体的な責任、および、本質的に悪であるこのような選択を行う人々に必然的に伴う罪責性は、相当程度まで軽減されうるのです。しかし今日、問題は、このような人間の状況が必然的に見分けられないものとなっているところにあります。それは文化的、社会的、政治的レベルに存在する問題です。そのような諸レベルにおいて、問題そのものにいっそう邪悪で憂慮すべき側面があることは明らかです。その側面とは、いのちに対する右に述べた諸犯罪は、個人の自由を合法的に表すものと解し、事実上の権利として承認され擁護されるべきものだとする傾向の中にうかがわれます。このような傾向は、かつてないほどに広く浸透しているのです。

このように、悲劇的な結末を伴いつつ、長い歴史の流れは一つの転機にさしかかっています。この流れの一時期に、すべての人に生来備わり、どのような憲法や国法にも優先する権利、つまり「人権」の理念を発見するまでになりました。しかし今日、この流れは驚くほどの矛盾に満ちています。人格の諸権利が不可侵であると荘厳に宣言され、いのちの価値が不可侵であると公式に確認されている、まさにそうした時代にあって、とくにいのちが重要な意味を持つ誕生の時と死の時において、いのちの権利そのものが否定され、踏みにじられるのです。

一方で、人権をめぐるさまざまな宣言と、そのような宣言に基づく多くの計画が提唱されてます。このようなことは、人種、国籍、宗教、政策上の見解、社会階層のいかんを問わず、人間一個人として有する価値と尊厳をしっかり認めようとする道徳的な感受性が、世界規模で育ちつつあることを示しています。

他方、注目に値する宣言は不幸にも、実際には悲劇的なまでに排斥され、否定されているのす。この拒絶は現在もますます圧迫の度合いを強め、これには怒りさえ感じます。人権の肯定と擁護を第一の目標とし、それを誇りとするはずの社会において、まさにそのことが起きているからです。原理原則を繰り返し表明することと、人間のいのちに対する攻撃を正当化する動きが引き続き増大し拡大していく現実との隔たりは、どのようにすれば調和させることができるのでしょうか。弱者、困窮者、高齢者、胎内に宿ったばかりのいのち、これらの受け入れを拒絶する現実と、これらの宣言とをどのようにすれば調和させることができるのでしょうか。このような攻撃は、いのちを尊重することに直接的に向けられ、人権の文化全体に直接的な脅威を差し向けます。それは結局、民主主義的な共存の意義そのものを危うくしうる脅威です。つまり、「人々がともに暮らす」社会どころか、わたしたちの町が、排斥され、置き去りにされ、流民となり、抑圧される人々の社会となる危険があります。このような点をより広い世界的視野で眺めるとしても、富める国々が貧しい国々から発展する権利を奪う身勝手さ、あるいは発展と人間そのものとの間の対立という構図を作って、貧しい国々の発展する権利を子供を産むことに対する自分勝手な禁令に基づかせる、富める国々の身勝手さを暴くことができないなら、著名な国際会議で採択された各個人および諸民族の権利の主張が、机上の空論にすぎないものであると考えずにいられるでしょうか。諸国家がしばしば採用する経済形態そのものを問わなければならないのではないでしょうか。これらの経済形態は、国際的な種々の圧力とさまざまな条件がもたらす結果でもあるのですが、すべての民族のいのちの価値が損なわれ踏みにじられる不正義と暴力的な状況を引き起こし、増幅させるのです。

19 このはなはだしい矛盾の原因は何でしょうか。

主体性の概念を極端に解釈し、歪曲すらするメンタリティー、そして十全な自立性もしくは少なくとも初期の自立性を享受する人、また他者に全面的に依存する状態から脱した人、このような人だけを権利の主体として認めるメンタリティーから始めて、文化的、道徳的な本性を徹底的に精査すれば、その原因は突き止められます。しかし、このような取り組み方と、「物として用いられるべきでない」存在として人間を称揚する立場とは、どのように調和させることができるのでしょうか。人権の理論は、人格は動物や物体とは異なり、他者の支配に服従させられることがあってはならないとする主張に基づくのです。人格の尊厳を、言葉による明快なコミュニケーション、あるいは少なくとも知覚でとらえることのできるコミュニケーションの能力と同一視しがちなメンタリティーをも指摘しておかなければなりません。このような前提に基づいて、胎児や死に臨む人のように、社会構造の中では弱い要素であり、あるいはまったく他者のなすがままで、他者に本質的に依存するしかないような人、そして、声にはならない深い情愛をもってのみコミュニケーションを行うことのできる人にとって、この世界では立場がないのは明らかです。この場合、対人関係、社会生活における選択、そして行動の基準となるのは力です。しかしこのことは、「理性の力」が「力の根拠」に取って代わる共同体としての法治国家が、歴史上主張しようと志したところに真正面から対立します。

別のレベルにおいて、人権を荘厳に宣言することと、実践においてそれを悲劇的なまでに否定することとの間に矛盾が生じる理由は、自由のとらえ方にあります。徹底して孤立した個人の立場を称賛する自由、そして連帯や他者に心を開くことや他者への奉仕などを振り返ることもない自由こそが問題です。胎児のいのち、あるいは死を間近にしたいのちを取り去ることは、時に利他主義と思いやりのはき違えを示しており、そのような全体として見た死の文化は、自由を完全に個人に属するものとする考えを露見させるということは否定できません。そのような自由は結局のところ、服従する以外に選択の余地のない弱者に対する、「強者」の自由となるのです。

まさにこのような意味において、「おまえの弟アベルは、どこにいるのか」という主の問いかけに対するカインの答えは解釈されうるのです。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(創世記4・9)。まさしくすべての人は、兄弟の「番人」です。神はわたしたちを互いに守り合うようゆだねたからです。神が、本質的にかかわるという次元を持つ自由をすべての人に与えるのは、このゆだねるということが行われるためでもあったのです。自由は、創造主からの大いなるたまものです。人間が自己をささげ、自己を他者に開くことによって、人格とその完成に資するようにと定められたたまものです。とはいえ、自由が個人主義的なありように固定されてしまうとき、自由は本来の内実を失い、その意義そのものと尊厳は否定されます。

ここでさらに強調しておくべき重要な視点があります。すなわち、自由が本質的に真理に結びつくことをもはや認めず尊重もしないなら、自由は自己を否定し自己を破壊するのであり、ひいては他者を破壊へと引きずり込む要因となります。自由が伝統と権威のあらゆる形態から脱しようとして、個人の生活と社会生活の基礎である客観的で普遍的な真理のもっとも明白な根拠さも締め出すとき、人間にとって善悪に関する真実は、もはや、自分が行う選択の唯一、確かな判断材料ではなくなり、主観的で変わりやすい意見、あるいは自分の利得と気まぐれに左右されるだけということになります。

20 このような自由の見方は、社会におけるいのちをひどくゆがめたものとします。自我の成熟が、自律こそが絶対的な価値だとする観点で理解されるなら、人々が互いに排斥し合うようになるのは避けがたいことなのです。人という人は、その手からわが身を守るべき敵だと見なされす。こうして社会は、互いに近くにいても、相互を結ぶいかなるきずなもない個人の集団になます。人間は、他者とは何のかかわりもなく自己の権利を主張しようと欲し、実際、自らの利得を拡大しようとします。それでも人が、すべての人に最大限可能な自由が保障される社会を望むのであれば、他者が自分の利得と類似した利得を持つ場面にあっては、ある種の妥協が必要となります。こうして、もろもろの共通の価値や、すべての人をしっかりと結び合わせる真理に言及することはなくなり、社会生活は、完全な相対主義という絶えず移り変わる砂粒のように、変転の旅へ乗り出すことになります。その時点で、すべては交渉によって決着し、すべては取引でなんとかなるものとされるのです。根本的な諸権利の中で第一のもの、すなわちいのちへの権利であっても取引の対象となるのです。

政策と政治のレベルで行われるのも、これに類することです。つまり、いのちへの本来的にして、譲り渡すことのできない権利が、議会での投票や、過半数を得たものであっても人々の一部の意志に基づいて討議され拒絶されるのです。これが、無敵の勢力を誇る相対主義がもたらすよこしまな結末です。すなわち、「人権」はもはや人間の不可侵の尊厳の上に堅固に築かれるのではなく、より強い者の意思に従わされるので、本来の意義を失うのです。こうして、自らの諸原則を否定する民主主義は、事実上、全体主義の形態をとるようになります。国家はもはや、根本的な平等原理に基づき、すべての人がともに生きることのできる「共同の家」ではなくなります。実際にはある一部の者の利益でしかないところを、公共の利益のためという名目で、胎児から高齢者までを含むもっとも弱く罪のない人のいのちを殺害する権利を、不当にもわがものとする専制国家へと変質します。少なくとも人工妊娠中絶と安楽死を容認する法律が、一般的に民主主義の規則とされるところにのっとった投票結果である場合には、表向きは法律の遵守をきわめて厳格に保持します。実際には、わたしたちの前にあるのは、法律の遵守の悲しいまねごとにすぎません。民主主義の理想は、すべての人の尊厳を認め、擁護して初めて本物となるのですが、その理想はすでにその基礎において裏切られています。「もっとも弱い者、何の罪もない者のいのちを殺害することが容認されるとき、すべての人の尊厳についていったい何を語ることができるのでしょうか。正義の名のもとに、どれほど差別という最たる不正が行われているのでしょうか。この人は擁護されるに値すると見なされ、あの人はその尊厳が拒絶されるということがあってよいのでしょうか16」。このようなことが起きるとき、真に人間的な共存の崩壊と国家そのものの分裂への歩みは、すでに始まっているのです。

人工妊娠中絶、生まれたばかりの子供を殺すこと、安楽死の権利の要求、法制上それらの権利を承認するよう求めることは、人間の自由に誤った邪悪な重要性を持たせることになるのです。すなわち、他者の上に立ち、他者に反する絶対的な力を持つのです。これは聖書に書かれているように、自由の死にほかなりません。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ8・34)。

「わたしがみ顔から隠されて…」(創世記4・14)
神観念の喪失と人間の意義の喪失

21 「いのちの文化」と「死の文化」との間に生じる闘争の根本的な原因を探る際に、わたしちは右に述べた自由についての誤った観念にとらわれてはなりません。現代人が経験している悲劇の中心部へ分け入る必要があるのです。すなわち、世俗主義に特徴づけられた社会的、文化的状況を特徴的に示す神観念の喪失と人間の意義の喪失を省察しなければなりません。世俗主義は至るところに手を伸ばし、時にキリスト者の共同体そのものを試すことに成功しています。世俗主義の風潮に流されるままに身を任せる人は、悲しむべき悪循環へと容易に陥ります。神観念が失われるとき、人間存在の意義、人問の尊厳の意義、人間のいのちの意義もまた失われる傾向が見られます。こうして、道徳法への組織的な侵犯、とくに人間のいのちとその尊厳への敬意に関する侵犯において、神の救いをもたらす生気みなぎる現存を識別する能力が、次第に衰退していくようになるのです。

わたしたちは再び、カインによるアベル殺害の物語から洞察を得ることができます。神によってカインにのろいがかけられてから、カインは主に語ります。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしがみ顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」(創世記4・13ー14)。カインは、自分の罪は主からゆるしを得られないもので、自分の逃れようのない運命は神から「顔を隠さ」なければならないほどのものだと思い込んでいたのです。カインが、自分の過ちは「とても担えないほど大きい」と告白できるとすれば、それはカインが神の前に立っており、神の正しい裁きに直面していることに気づいているからです。人間が自の罪を認め、その重大さを十分に認知できるのは、実に神の前においてだけです。これは、「主のみ前に罪を犯した」後、預言者ナタンに叱責されて祈り叫んだダビデが体験したことでした。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪はつねにわたしの前に置かれていす。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」(詩51・5ー6)。

22 したがって、神観念が失われると、人間の意義もまた脅かされ侵害されます。第二バチカン公会議は簡潔にこう述べます。「創造主なくしては被造物は消えうせる。…しかも神を忘れれば被造物さえ不明瞭になる17」。人間は、もはや地上の他の被造物とは「神秘的に異なった」存在として自分を見ることができなくなります。つまり、人間は自分のことを、より生き生きした一個の存在にすぎないもの、せいぜいきわめて完成度の高い段階に到達した生物と見なすことになります。その肉体そのものという狭い考えに取り込まれると、人間はどういうわけか「単なる物」としての存在に変質します。そして、もはや「人間としての実存」の「超越的」性格を把握しなくなります。さらに人間は、いのちを神からの輝かしいたまものとして、すなわち、自らの責任および思いやりに満ちた世話と「畏敬」にゆだねられた、「神聖な」ものと見ることはありません。いのち自体は単なる「物」となり、人間はいのちを自分だけの所有物、自分で完全に制御し操作してかまわないものだと主張します。

こうなると、誕生あるいは死に際してのいのちに関連して、人間は自分の実存にかかわるもっとも本質的な意味を、もはや問うことはできません。また、人生の歩みにおける決定的な局面を本来の自由に突き合わせて考察することができません。人間は、何かを「行う」こと、あらゆる技術を駆使することにのみ関心があり、誕生と死についてさえ計画を立て、これを制御し支配することに没頭します。誕生と死は、「生きる」ことを求める第一義的な経験であるはずですが、そうではなく、単に「所有される」かあるいは「排斥されるもの」になります。

さらに、ひとたび神を考慮しなくなると、あらゆるものの意義が根こそぎ歪曲されてしまうのは驚くにあたりません。自然そのものは、「母なるもの」から今では「物質」に引き下げられ、あらゆる操作の対象となっています。これは一つの方向性です。そこでは、今日の文化に広く行き渡っているある種の技術的で科学的な思考方法が、先導役を果たすものとして現れます。このような思考方法は、承認されるべき創造の真理、あるいは尊重されるべきいのちに対する神の計画があるとする考えそのものを排斥するとき、現れるのです。「法を度外視した自由」がもたらす結末についての懸念が、「自由を度外視する法」といった対極へ人々を導くとき、同様のことが起こります。たとえば、どのような方法であれ自然に干渉するのは違法であるとして、自然を事実上「神格化」するイデオロギーにおいて起こるのです。このこともまた、自然は創造主の計画に基づいて作られたことを曲解するものです。こうして、神の知恵に満ちた計画との触れ合いの喪失が規制のない自由を招き、人間をその自由に対する「おそれ」のうちに置き去りにするとき、このような喪失が現代人に混乱を生じさせるもっとも深刻な原因であることは明らかです。「あたかも神は存在しないかのように」生きることによって、神の神秘だけでなく、世界と自分自身の神秘までもが見失われるのです。

23 神観念の喪失と人間の意義の喪失は、実践的な唯物主義を不可避的に招きます。これは、個人主義、功利主義、快楽主義を引き起こします。ここでもまた、使徒パウロの言葉がいつの世も当てはまることが分かります。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」(ローマ1・28)。存在する価値は、所有する価値に取って代わられます。唯一の目標と見なされるのは、自分の物質的な幸せの追求です。いわゆる「生活の質」は、第一義的に、あるいはもっぱら経済上の効率、極端な消費主義、身体上の美しさや快楽であると理解され、人間の実存のより深遠な次元、すなわち人間関係の次元や霊的で宗教的な次元はなおざりにされるのです。

このような状況において、人間の実存に不可避の重荷ですが、人間的成長を約束する要因の一つでもある苦しみは「厳しく吟味され」、無用のものとして排除され、実にいつでもどのようにしてでも回避されるべき悪として反対されるのです。苦しみを避けることができず、将来のわずかな幸せの見込みもなくなるとき、いのちはあらゆる意味を喪失したものとして立ち現れ、いのちを抑圧する権利を要求したいという誘惑が成長します。

これと同じ文化的思潮の中では、体が、固有の人格的実体、他者や神や世界にかかわるしるしであり場として受け取られることはありません。体は、純然たる物体に引き下げられます。つまり体は、快楽と効率の基準でのみ判定されて用いられる、もろもろの器官、機能、エネルギーの複合体にすぎないのです。したがって、性もまた非人格化され、不当に扱われます。つまり愛情のしるし、愛情が展開する場、愛情を伝える言葉、換言すれば自己を贈り物としてささげ、他者を人格としてその豊かさを受け入れる、などのありようから逸脱します。性は次第に、自己主張と個人の欲望と本能の身勝手な充足のための機会と方法に変わります。こうして、人間の性が持つ本来の重要さは歪曲され、裏切られます。夫婦行為の本質である性交と出産の二つの意味は、人為的に引き離されるのです。このように、結婚の結びつきは裏切られ、子供を産むかどうかは夫婦の気まぐれに左右されるものとなります。子供を産むことは、性行為において回避すべき「敵」となります。もし歓迎されるのであれば、それは「どうしても」子供が欲しいと望み、あるいはその意向を表すからにすぎず、他者を完全に受け入れるからでも、子供をとおして示されるいのちの豊かさに心を開くからでもありません。

これまでに述べた唯物論的な見方において、人間関係は憂慮すべきほどに衰退しています。まず虐げられるのは、女性、子供、病者、高齢者です。人間の尊厳の基準は-これは尊敬、寛容さ、奉仕を求めますが−能率、実用性、有益性に取って代わられています。すなわち、他の人々は、彼らが「そうあるもの」としては受け取られず、「何を持ち、何を行い、何を生産するか」の視点で見られるのです。これは、弱者に対する強者の支配にほかなりません。

24 神観念の喪失と人間の意義の喪失は、いのちに対する多種多様の致命的な結果をもたらしますが、この喪失は道徳的良心のただ中にあります。それは自己完結するもの、唯一のものとして神の前に立つので、何よりも個人の良心の問題です18。しかし、ある意味では、社会の「道徳的良心」の問題でもあります。つまり、いのちに反する行動を見過ごしたり助長したりするだけでなく、いのちに逆らう実際上の「罪の構造」を作り出し強固なものにする、あの「死の文化」を促進するという理由からも、ある意味で責任があるのです。個人的であり社会的でもある道徳的良心は、メディアによる多大な影響の結果として、今日、きわめて深刻で致命的な危うさ、とりわけ、いのちの根本的な権利に関連して善と悪との間の混乱がもたらす危うさの影響下に置かれています。現代社会の大部分は、残念ながらパウロがローマの信徒への手紙で描く人間の状態に似ています。それは、「不義によって真理の働きを妨げる人間」(ローマ1・18)によって構成されています。すなわち、神を拒絶し、神なしに地上の王国を建設しうると信じて、「むなしい思いにふけり」、その結果、「心が鈍く暗くなった」(ローマ1・21)のです。つまり、「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり」(ローマ1・22)、死に値するわざを行い、「自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています」(ローマ1・32)。魂の輝くともしび(マタイ6・22ー23参照)である良心が、「悪を善と言い、善を悪と言う」(イザヤ5・20)とき、良心はすでに驚くべき腐敗と道徳上の真っ暗なやみへと転がり落ちているのです。

しかしながら、あらゆる条件づけと、沈黙を強いる努力は、すべての人の良心に響く主の声を押さえつけることはできません。人間のいのちを愛し、それに心を開き、これに仕える新しい旅が開始されうるのは、つねに良心のこの奥深い聖域からなのです。

「あなたがたが近づいたのは、注がれた血です」(ヘブライ12・22、24参照)
希望のしるし、神に帰依せよとの招き

25 「おまえの弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」(創世記4・10)。いのちの源であり守り手である神に向かって叫んでいるのは、罪なくして殺害された最初の者、アベルの血だけではありません。アベル以来、殺害されたすべての人の血もまた、神のもとへと立ち昇る声です。ヘブライ人への手紙の著者が思い出させるように、まったく独特な形でキリストの血の声が神に向かって叫んでいます。無実であったアベルは、イエスの預言的なかたどりです。「あなたたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都……新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」(ヘブライ12・22、24)。

まさに注がれた血です。注がれた血の象徴であり、預言的なしるしとなったのは、旧約の犠牲の血でした。それによって、神は人間を清め、聖化して、彼らを自らのいのちにあずからせる意志を表したのです(出エジプト24・8、レビ17・11参照)。今や、これらすべてのことはキリストおいて成就し、実現します。イエスの血は、あがない、清め、救う、注がれた血です。イエス血は、「罪がゆるされるように、多くの人のために流される」(マタイ26・28)新約の仲介者の血です。十字架上で刺し貫かれたキリストのわき腹から流れ出たこの血は(ヨハネ19・34参照)、アベルの血よりも「立派に」語ります。実にこの血は、より根源的な「正義」が何であるかを表し、またその正義を求め、何よりもいつくしみを懇願し19、父である神の前で人々のために執り成します(ヘブライ7・25参照)。この血は完全なあがないの源であり、新しいいのちのたまものなのです。

キリストの血は父である神の愛の偉大さを啓示しますが、他方、人間は神の目にどれほどいとおしく、人間のいのちの価値はどれほどかけがえのないものであるかを示します。使徒ペトロは次ぎのように語ります。「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活からあがなわれたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(一ペトロ1・18ー19)。自分を与える愛(ヨハネ13・1参照)の目に見えるしるしであるキリストの尊い血を黙想するとき、信仰者はすべての人が神から授かっている尊厳を認め、これに感謝し、賛嘆の声を上げるのです。「人間が『このようなまたこれほど偉大なあがない主』(復活徹夜祭の復活賛歌)を持つに値したとすると、また『滅びないで、永遠のいのちを得るよう』、神がそのひとり子をお与えになった』とすると(ヨハネ3・16参照)、人間は創造主の前にどれほど貴いものでなければならないでしょうか20」。

そのうえ、キリストの血は人間にイエスの偉大さを啓示し、また、それがゆえにイエスの召命は、自らを正真正銘の贈り物としてささげるところにあると啓示します。まさに、いのちのささげものとして注ぎ出されるので、キリストの血はもはや死のしるし、同胞から決定的に引き離されるしるしではなく、すべての人にとっていのちの豊かさそのものである交わりにあずからせる手だてなのです。聖体の秘跡においてこの血を飲み、イエスにとどまる人はだれでも(ヨハネ6・56参照)、イエスの愛の力強さといのちのたまものへと引き入れられます。それは、すべての人が持つ、愛に至る本来の召命が欠けるところなく成就するためです(創世記1・27、2・18ー24参照)。

すべての人はキリストの血から、いのちを成熟させることに自らをゆだねる力を得ます。希望のもっとも確かな源泉は、まさにこの血です。この血こそ、神の計画においていのちの勝利を間違いなく確信できる根拠なのです。「もはや死はない」(黙示録21・4)と、天のエルサレムにおける神の玉座から力あふれる声が叫びます。また、聖パウロはわたしたちに、罪に対してすでに勝利していることは、死に対する決定的な勝利を示すしるしであり、先取りであると確信させます。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」(一コリント15・54−55)。

26 実際、この勝利を指し示す種々のしるしは、「死の文化」に強く特徴づけられるわたしたちの社会や文化においても欠けているわけではありません。ですから、いのちに対する脅威を断罪するにあたり、人類が直面する今日的状況において作用する肯定的なしるしを提示しなければ、不毛な失望を招く一方的な見方を示すことになるでしょう。

残念ながら、これらの肯定的なしるしを理解し認めるのは、往々にして容易ではありません。それはまた、マスメディアの十分な関心の対象とはならないからでもあると思われます。しかし、弱く、身を守る手だてを持たない人々を助け支援する、どれほど多くの積極的な取り組みが生じており、また継続してその数を増していることでしょうか。キリスト者の共同体で、市民社会において、そして地域、国、国際的なレベルで、個人、グループ、各種の運動体と機関などがささげる尽力に、それらは見られます。

さらにまた、その責任を十二分にわきまえて、「結婚のもっとも貴重なたまもの21」として子供を喜び迎える夫婦が大勢います。また、日々の生活の務めに加えて、親のない子供たち、困窮する少年少女や青年たち、障害のある人たち、孤独のうちに置き去りにされる高齢者を進んで受け入れようとする家族もあります。いのちを支援する多くのセンターや同様の趣旨で活動する組織は、個人や団体が責任をもって支えています。このような個人や団体は、このうえない献身と犠牲をもって、困難のただ中にあり人工妊娠中絶に最後の解決を求めるしかないと苦悶する母親達に、物心両面での支援を提供します。身寄りがなく、気がつけぱどうにもならない困窮にある人、あるいは何らかの援助を必要とする人、こういう人たちを温かく受け入れる備えのあるボランティア・グループが、少しずつですが各地に増えつつあります。ボランティアたちは、このような人々が自己破壊的な習慣に打ち勝ち、人生の意味を新しく発見できるよう手伝うのです。

研究者や医師たちの献身的な努力のおかげで、医学はいっそう効果的な治療法を見いだすよう努力を続けています。かつては思いもよらなかった治療、将来に大きな期待を抱きうるような治療が、今日発展しています。胎児、苦しむ人、激しい痛みを耐える人、末期段階にある人が、その恩恵を受けています。さまざまな公的機関や組織体は、貧困と風土病にひどく苦しめられてい国々に、最新の医療を届けようと努力しています。同様に、国内の、また国際的な医師団体は、自然災害や流行病や戦乱などで困窮する人々に、早急に救援の手を差し伸べることができるよう組織されています。医薬品等の国際的な配分状況はまだきわめて不十分ですが、これまでの尽力の歩みにおいて、民族間に連帯が伸長しつつあるしるし、また、人間的で道徳的な称賛に値する感受性やいのちに対するより深い敬意のしるしを認めずにいられるでしょうか。

27 人工妊娠中絶を容認する法律や、世界のいくつかの国で成功を収めている安楽死合法化の運動を視野に入れて、いのちの擁護を目的とする社会意識を啓蒙する運動や発意が世界各地で起きいます。そのようなさまざまな運動が、それぞれの原則に従って、断固として、しかも暴力に訴えることなく進むとき、いのちの価値についてより幅広くより深い意識を伸張させるのであり、いのちを擁護することへの、いっそう決然とした献身を喚起し邁進させます。

さらに、家族、病院、孤児院、老人ホーム、そしていのちを擁護する他のセンターや共同体などにおいて、無数の人々が心を込めて、来る日も来る日もささげる奉仕、つまり人々を受け入れる心、犠牲、無私の心で行う世話などを見過ごすことはできません。「よいサマリア人」(ルカ10・29ー37参照)であるイエスの模範に従い、またイエスの力に励まされて、教会はつねにいつしみに満ちた支援を提供する最前線に立ってきました。おびただしい数の教会の子ら、とくに伝統のある修道会や新しいあり方に立つ修道会に属する男女修道者たちは、隣人を、とりわけ弱い人々と助けを必要とする人々を愛するがゆえに、自由に献身の道を歩むことをとおして神に生涯をささげてきており、今なおささげています。彼らの行いは、「愛といのちの文明」の礎を強化します。この文明なくしては、各個人と社会自体のいのちはもっとも優れた人間らしい特質を失うのです。彼らは人から認められなくてもその道を行き、人に知られなくても黙々と働きます。わたしたちは信仰によって、「隠れたことを見ておられる」(マタイ6・6)父である神が彼らの働きに報いるだけでなく、すでに今ここで、すべての人の益となる永続的な実りを生み出していると確信します。

希望のしるしとなるものについていえば、世論の多くのレベルで、一つの新しい感性が広がりつつあることをあげるべきでしょう。これは、諸民族間の軋轢を解消する手段として勃発する戦争に対して、かつてなかった強さで反対する新しい気運の高まりであり、また、武装した侵略者たちに立ち向かうにあたり、効力はあっても「非暴力的な」手段の発見を次第に志向するようになった感性です。同じ視点に立って、死刑は、社会にとっては「合法的な防御」の一種だと見なされるにしても、死刑に反対する世論が明らかに強まってきました。現代社会は実際のところ、犯罪者に対して更正する機会を完全に拒むことなく、彼らが害を及ぼさないようにさせるやり方で、犯罪を効果的に抑止する手だてを持っています。

歓迎すべきもう一つのしるしは、とりわけかなり発展した社会で、生活の質と生態環境に向けられる関心が増大している点です。そのような社会では、人々の期待はもはや生存にかかわる問題ではなく、生活条件の全面的な向上に向けられているのです。とくに意義深いのは、いのちを侵害するさまざまな問題についての倫理的な省察が顧みられるようになったことです。生命倫理学の登場とその目覚ましい発展は、いっそうの省察と対話を促進しています。人間のいのちにかかわる根本的な問題を含む倫理上の問題について、異なる宗教の信奉者の間だけでなく、信仰者と非信仰者との間での対話が行われています。

28 光と影の両面を持つこの状況から、わたしたちは善と悪、死といのち、「死の文化」と「いのちの文化」との間の、巨大で劇的なぶつかり合いに直面していることを、十二分に認識しなければなりません。わたしたちは単に「直面している」だけでなく、この軋轢の「渦中に」いや応なく巻き込まれているのです。だれもが巻き込まれ、それにかかわっています。そこでは、無条件にいのちを守ること(pro-life)を選ぶという、避けることのできない責任が伴います。

そのようなわたしたちにも、モーセの呼びかけが高らかにはっきりと響きます。「見よ、わたしは今日、いのちと幸い、死と災いをあなたの前に置く。……あなたはいのちを選び、あなたもあなたの子孫もいのちを得るようにしなさい」(申命記30・15、19)。「いのちの文化」と「死の文化」の間にあって、いずれかを選択する義務へと日ごとに呼び出されるわたしたちにとって、この招きはまことにふさわしいものです。しかし、申命記の呼びかけは、もっと深遠な内容です。それは、当然のごとく宗教的で道徳的な選択を迫るからです。これは、わたしたち自身の存在に根本的な方向性を与える問題であり、主の律法を忠実かつ確固として生きることにかかわる問題です。「わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めとおきてと法を守るならば、あなたはいのちを得る。……あなたはいのちを選び、あなたもあなたの子孫もいのちを得るようにし、あなたの神、主を愛し、み声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたのいのちであり、あなたは長く生きる」(申命記30・16、19−20)。

いのちを無条件に選択することは、いのちが続く限り、その宗教的で道徳的な意味を十分に取り込むことであり、その選択はキリストヘの信仰によって形づくられ育っていきます。今わたしたちが相対している死といのちとの間の軋轢に積極的に直面することを手助けしてくれるもの一は、一つだけあります。それは、人々が「いのちを受けるため、しかも豊かに受けるため」(ヨハネ10・10)に人となり、人の中に住まわった神の子への信仰です。それは、死に打ち勝って立ち上がった主への信仰にほかなりません。「アベルの血よりも立派に語る」(ヘブライ12・24)キリストの血への信仰です。

それゆえ、この信仰から光と力とを得て、現在の状況が抱える種々の挑戦に直面して、教会は、いのちの福音をのべ伝え、祝い、それに仕えることの主から受け取る恵みと責任に、いっそうっきりと気づくようになるのです。

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