高見三明大司教、日本カトリック司教団による「いつくしみの特別聖年」ミサ説教

Documents,Official (ドキュメント,公文書)
出典 いつくしみの特別聖年(2015年12月8日〜2016年11月20日)
2016年2月19日
許可を得て複製

2015年度「臨時司教総会」開催中の2016年2月17日夕、東京カテドラル関口教会聖マリア大聖堂で、日本カトリック司教団による「いつくしみの特別聖年」ミサが行われました。以下は、高見三明大司教(長崎教区)による、当日の説教です。

わたしたち日本の司教団は、一昨日の月曜日から臨時司教総会を開いております。(「臨時」と言いましても、毎年、今の時期に開催しておりますが。)実 は、5年前の東日本大震災の翌年から一昨年まで、地震と津波と原発事故による犠牲者と被災者のため、また復興のために、麹町・聖イグナチオ教会(東京) で、今回のようなミサを行い、祈ってまいりました。東日本大震災5周年の今年は、これまでと同じ意向に加え、「いつくしみの特別聖年」に当たり、神のいつくしみをいただいていることを感謝し、そのしるしとなることができるよう祈ることにいたしました。実際、被災者の方々に寄り添うことといつくしみとは大いに関係があります。

さて、ご周知のとおり、フランシスコ教皇様は、昨年12月8日「無原罪の聖マリアの祭日」から今年の11月20日「王であるキリストの祭日」までを、 「いつくしみの特別聖年」と定められました。そしてその理由として、こう述べておられます。「わたしたちのまなざしを、もっと真剣にいつくしみへと向けるよう招かれるときもあります。わたしたちが、御父の振る舞いを示す効果的なしるしとなるためです」。つまり、わたしたちは“神のいつくしみがわたしたちの内にも外にも満ちあふれていることにもっと気づき、信者同士、また信者でない人々に対して、神のいつくしみを目に見える形でもたらすために”この特別聖年 を過ごすよう招かれているのです。

1. 神の“いつくしみ”と“あわれみ”

さて、「神のいつくしみ」とはどのようなものでしょうか。まずことばの意味を簡単に整理してみたいと思います。「いつくしみ」と訳されている聖書のことば(ヘセド)は、「いとおしむ、大切にする」ことと「忠実さ」を意味しています。つまり、神のいつくしみは、人間の反抗や無関心などに左右されることなく、常に変わらず徹底して、すべての人をいとおしむということです。

また聖書では、「いつくしみ」と一緒に「あわれみ」という言葉がよく使われています。この「あわれみ」と訳されているヘブライ語(ラハミーム)は、子どもを宿す「母胎」や「腸(はらわた)」を指すことばで、母親が自分のおなかを痛めた子どもをいとおしむ情愛を意味し、そこから、苦しむ人や悲しむ人を見て、深く心を動かされる、れんびんの情を意味します。

結局、神の「いつくしみ」は、「すべてのものをどんなことがあってもいとおしみ、大切にすること」を意味し、神の「あわれみは」、特に苦しみや困難な状況にある人々に向けられる神のいつくしみを表していると言えます。そして神は、ご自分のすべてを与え、相手のすべてを受け入れる愛そのものですが、いつくしみとあわれみはこの愛の現れと見ることができるでしょう。

では、神のいつくしみはどこにあるのでしょうか。詩編作者は、天も地も主のいつくしみに満ちている(詩編33・5、36・6、119・64)と言っています。つまり、すべての生きとし生けるもの、わたしたち自身、田畑の作物、山の幸、海の幸も、そして神の民をエジプトから解放する働きに代表される救いのわざも、すべて神のいつくしみの現れだということです(詩編136)。神は、存在するすべてのものをいとおしみ、大切にし、あわれまれます(知恵11・ 23-26。詩編145・9参照)。神のいつくしみは、特に貧しい人や弱い人を助け(詩編86・1-5、13-16)、人々を病気や災いから救い出し(詩 編103・3-5)、追放された人々を祖国に帰らせる(ゼカリヤ10・6)などの「あわれみの」わざとしても示されます。そして、神のいつくしみが最もよく示されるのは、民全体の罪(ネヘミヤ9・17、詩編79・8-9)、あるいは一人ひとりの罪をゆるすことにあります(イザヤ55・7、詩編51・3)。 イスラエルの民は繰り返し神に反抗しましたが、あわれみ深い神はその都度、罪をゆるしてくださいました(詩編78・38)。

結局、わたしたちは、「永遠に御父のいつくしみのまなざしのもとにあり続ける」(教皇フランシスコ大勅書『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』7)のです。

2. キリストのすべてが神のいつくしみ

この父である神のいつくしみは、その独り子イエスとして現れ、聞き、見、触れることのできるものとなりました(一ヨハネ1・1-3参照)。イエスご自身、「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14・9)と断言された通りです。つまり、イエス・キリストはご自分の姿、ことばと行い、その生涯全体を通して、神のいつくしみを示されたのです(大勅書1、9)。

ところで、イエスのいつくしみは「やさしさ」とか「同情」といった感情のレベルにとどまるものではありません。人それぞれに必要な癒し、ゆるし、よみがえりとして現れるのです。重い皮膚病の患者を深くあわれみ、手で触れて癒されます(マルコ1・41)。食べ物を持たない群衆をかわいそうに思うとパンを与え(マタイ15・32)、飼い主のいない羊のような群衆を深くあわれむと、病人を癒したり(マタイ14・14)、いのちのことばを述べたりされます(マルコ6・34)。一人息子を亡くしたやもめをあわれに思うと、棺に手を触れて息子をよみがえらせ、母親に返しました(ルカ7・13-14)。イエスのたとえの中の善いサマリア人も同様にあわれに思うだけではなく、すぐ行動に出ています(ルカ10・30-37)。

また、イエスは、安息日に病気を癒したために、安息日のおきてを破ったと非難されました(ルカ13・10-17)。しかし、神が望まれるのは、おきてを厳格に守ることや祭儀に形式的に参加することではなく、人々を病気や苦しみから実際に解放するあわれみの行為、愛のわざなのです(マタイ9・13)。教皇様がおっしゃるように、キリスト信者の生活の規律は、「あわれみを第一に置くべきものでなければならない」し、神のいつくしみは、正義やおきてを超えて、 救いをもたらすものなのです(大勅書20、21参照)。

イエスのいつくしみは、罪のゆるしに最もよく示されています。放蕩息子のたとえにあるように、神は、自分のことしか考えない、身勝手な放蕩息子であるわたしたちを片時も忘れたことはなく、回心して帰ってくると「あわれに思い」走り寄って首を抱き、以前の息子以上の扱いをして喜びを表わす慈悲深い父親そのものです(ルカ15・11-32)。この罪をゆるす神のいつくしみは、イエスの十字架上の死と復活によって最も強く示されました。「あわれみ豊かな神は、 わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし、…共に復活させ…てくださいました」 (エフェソ2・4-6)。

神のいつくしみはつねにあらゆる罪を超えるということです(大勅書3)。

3. わたしたちは神のいつくしみの効果的なしるしとならなければならない

わたしたち人間は神の似姿です(創世記1・26-27)。ということは、いつくしみ深い神様の似姿であるということです。だから、イエス様は、「あなたたちの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者となりなさい」(ルカ6・36)と言われます。

しかも、キリスト信者は、神のあわれみにより、御独り子イエスの十字架上の死と復活にあずからせる洗礼によって神の子とされました(テトス3・4-5、 一ペトロ1・3-5参照)。だから、わたしたちもいつくしみのわざを行うように努めなければなりません(ルカ10・37、ヨハネ15・12、フィリピ2・ 1-5参照)。

ところが、このようなあわれみ深い神の子の共同体であるはずの教会は、いつの間にか神の「いつくしみの道を示し、それを生きることをわすれる」(大勅書、10)ようになりました。それは、当初からキリストの教えに反する考えや教えが生まれ、それを排除しなければならなかったからかもしれません。教会は、次第に正統な教えと倫理規範を守るために、反対者を排除し、さまざまなおきてによって教会を厳しく統治するようになりました。ところが約半世紀前に聖 ヨハネ二十三世教皇は、第二バチカン公会議を招集し、その開会宣言の中で、これまでの教会のあり方を本来のあり方に転換するよう呼びかけられました。「今日、キリストの花嫁である教会は、厳格さという武器を振りかざすよりも、むしろいつくしみという薬を用いることを望んでいます。(…)カトリック教会は、 この公会議で普遍的真理のともしびを掲げながら、この上なく情け深いすべての人の母を示したいのです」(大勅書、4)。また福者パウロ六世教皇も公会議の閉会のことばの中で次のように述べられました。「公会議の信条は何もまして愛でありました。よいサマリア人のたとえが、公会議の霊性の模範でした」(大勅書、4)。言い換えますと、第二バチカン公会議は、教会をいわば「いつくしみの路線」に切り替えようとしたのです。

フランシスコ教皇様は、公会議後50年たった今、その路線を再確認し、教会としても個人としてもそのいつくしみを生きるよう招いておられるのだと思います(大勅書9)。

いつくしみは、「御父のまことの子を見分けるための基準」、「すべてに打ち勝つ力、心を愛で満たし、ゆるしを与えて慰める力」です(大勅書9)。

いつくしみは、単に悪を容認することでもなく、単に同情することでもありません。かといって、放蕩息子のたとえの中の兄のように、父親のそばにいながら そのいつくしみを理解できない人になってはならないし(ルカ15・25-32)、ほかの人を裁いたり、罪に定めたりしてはなりません(マタイ7・1-2、 ルカ6・37。大勅書14参照)。

むしろ、自分の弱さを認め、いつくしみとあわれみの心(腸[はらわた])をもってかかわり合い、ゆるし合わなければなりません(コロサイ3・12、エ フェソ4・32)。教会の司牧活動も、真理と教えを土台にしながらも、すべてがやさしさに包まれていなければなりません(大勅書10参照)。具体的な行動のための一つの指針として、かつて高山右近をはじめ多くのキリシンたちが実践していた14の「慈悲の所作」が参考になると思います(大勅書15)。これは教皇様も勧めておられるものです。

この「いつくしみの特別聖年」を通して、東日本大震災のことも記憶にとどめつつ、神のいつくしみを日々の生活の中で体験し、心のもち方と行動でそのいつくしみを示し、一人でも多くの人々をそのいつくしみの中に招き入れることができるよう(大勅書25)、ともに祈りましょう。

この記事の上へ