平和を実現する人々は幸いである 

Documents, Official (ドキュメント, 公文書)
 教皇ベネディクト十六世 
                  2013年「世界平和の日」(1月1日)メッセージ 
2012年12月8日、バチカンにて
出典 カトリック中央協議会
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1 新年を迎えるたびに、わたしたちは世界がよりよいものとなることを願います。そのためわたしは、 人類の父である神に、わたしたちに一致と平和を与えてくださるよう祈ります。どうかすべての人が抱く、 幸福で豊かな生活への望みがかなえられますように。 

教会の世界に対する宣教を力づけてくれた、第二バチカン公会議開幕から50年を経て、わたしは慰めを感じます。 神の民であるキリスト信者は、神との交わりのうちに、人類とともに歩みながら、歴史の中で喜びと希望、 悲しみと苦しみを人々と分かち合おうと努めています(1)。そして、キリストの救いを告げ知らせ、 すべての人のために平和を推進しているからです。 

実際、よい面も悪い面も含めたグローバル化と、流血の紛争と戦争の脅威によって特徴づけられる現代において、 共通善とすべての人の発展を追求する一致した取り組みがあらためて必要とされています。 

わたしは、貧富の差の拡大と、利己主義的・個人主義的なものの考え方(それは無軌道な金融資本主義にも示されています )の支配によって生じる、緊張と対 立の温床となるものに憂慮を感じています。さまざまな形のテロと国際犯罪に加えて 、原理主義と狂信主義が平和を危険にさらしています。原理主義と狂信主義 は、 人類の交わりと和解を推進すべき宗教の真の本性をゆがめます。

にもかかわらず、世界中に広く見られる多くの平和活動は、人類が本来もっている平和への使命をあかししています。 すべての人にとって、平和への望みは根 本的な願望であり、ある意味で、 完全かつ幸福で十全な人生への望みと一致します。言い換えると、平和への望みは基本的な道徳原則に対応しています。 すなわ ち、完全な意味での社会的・共同体的発展への権利と義務です。これは人間に対する神の計画に含まれています。 人間は、神のたまものである平和に向けて造られているのです。 

これらすべてのことから、わたしは、イエス・キリストの次のことばから霊感を受けて今年の「世界平和の日」 メッセージを書くことにしました。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5・ 9)。 

福音の幸い 

2 イエスが宣言する真福八端(マタイ5・3−12、ルカ6・20−23参照)は約束です。実際、聖書の伝統の中で、 「幸いのことば」は、つねによい知らせ、つまり福音をもたらし、約束によって頂点に達する、一つの文学類型です。 それゆえ、「幸い」は単なる道徳的勧告ではありません。道徳的勧告は、それを守れば、いつかは(通常は来世において) 報いないし将来の幸福な状態を与えてくれます。しかし「幸い」とは、 真理と正義と愛の要求に導かれるすべての人に対する約束の実現です。神とその約束に身をゆだねる人は、 この世の目から見れば、しばしば無邪気で現実離れしているように思われます。しかし、イエスは彼らに宣言します。 来世においてだけでなく、すでにこの世で、あなたがたは、自分が神の子であり、 神がこれまでもこれからもつねに完全にあなたがたに寄り添ってくださるのを見いだすであろうと。彼らは悟ります。 わたしたちは独りきりではないことを。なぜなら神は、真理と正義と愛のために働く人々の側に立ってくださるからです。 御父の愛を現したイエスは、ご自分を犠牲としてささげることをいといません。神であり人であるイエス・ キリストを受け入れるなら、人ははかりしれないたまものを与えられた喜びを体験します。わたしたちは、 神ご自身のいのちを分かち与えられます。それは、完全に祝福されたいのちの保証である、恵みのいのちです。 とくにイエス・キリストは、わたしたちにまことの平和を与えてくださいます。まことの平和は、 人間と神の信頼に満ちた出会いから 生まれるからです。  

イエスの「幸い」は告げます。平和はメシアが与えるたまものであると同時に、人間のわざの実りでもあります。実際、 平和の前提となるのは、超越へと開かれたヒューマニズムです。平和は、たまものの交換、すなわち、神に由来し、 他者とともに、他者のために生きることを可能にするたまものを互いに豊かに与え 合うことから生まれます。 平和に基づく生き方は、交わりと分かち合いの生き方です。それゆえ、現代の諸文化が、純粋に主観的・ 功利主義的な理論と実践に基づく人間観と倫理を乗り越えることが不可欠です。こうした理論と実践によって、 共存関係は力や利益の基準に導かれ、手段が目的に、目的が手段となり、文化と教育は、道具、 すなわち技術と効率のみを中心とするようになるからです。平和の前提は、 相対主義の独裁と完全に自律的な道徳思想を解体することです。完全に自律的な道徳思想は、 神によってすべての人の良心に記された、無視することのできない道徳的自然法を認識することを拒否するのです。平和は 、理性的また道徳的な意味での共存の構築です。このような共存は、 人間ではなく神の造った基準による基盤の上に据えられます。詩編29がいうとおりです。「 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように」(11節)。 

神のたまものであり、人間のわざの実りである平和 

3 平和は人間の人格全体にかかわり、人間全体の取り組みを求めます。平和は、神のみ心に従って生きることによる、 神との平和です。平和は、自分自身との内的平和であるとともに、隣人と被造物全体との外的平和でもあります。何よりも 、福者ヨハネ二十三世が回勅『パーチェム・イン・テリス』(この回勅は数か月後に発布50周年を迎えます) で述べているとおり、平和は、真理と自由と愛と正義に基づく共存の構築をもたらします(2)。  人間の真の本性をなすもの、すなわち、その本質的な側面である、真理と善、 究極的には神ご自身を知ることのできる本来の力を否定することは、平和の構築を危険にさらします。 創造主によって心に刻まれた、人間に関する真理なしでは、自由と愛は価値をなくし、 正義はそれを実行する基盤を失います。 

真に平和を実現する者となるために根本的に重要なことは、超越的な次元に注意を向けること、 あわれみ深い父である神とつねに対話することです。わたしたちはこの対話を通じて、 独り子によってなし遂げられたあがないを願い求めるのです。こうして人間は、平和を衰えさせ、拒むもの、 すなわちあらゆる罪に打ち 勝つことができます。罪とは、利己主義と暴力、貪欲と権力欲、支配欲、不寛容、 憎しみと不正な構造です。 

平和の実現は、何よりも、わたしたちが神のうちに一つの人類家族であることを認識することにかかっています。回勅『 パーチェム・イン・テリス』が述べるとおり、人類家族は、人間どうしの関係と制度によって構成されます。 この関係と制度は共同体的な「わたしたち」に支えられ、導かれます。この「わたしたち」は外的・ 内的な意味での道徳的秩序を必要とします。そこでは、真理と正義に従い、相互の権利と義務が真摯に認められます。 平和とは、愛によって生かされ、完成される秩序です。それによってわたしたちは、他の人の必要を自分の必要と感じ、 他の人と財産を分け合い、世界の中で霊的価値の交わりをますます広めるまでに至ります。平和は、自由のうちに、 人格の尊厳に即して実現される秩序です。人格は、その理性的な本性により、自らの行為に責任をとるものだからです(3 )。 

平和は夢でもユートピアでもありません。平和は可能です。わたしたちは、表面的な外見や現象を超えて、 深いところまで目を向けなければなりません。それは、心の中にあるよいものを見分けるためです。 すべての人は神の像として造られ、新しい世を築くために成長し、役立つよう招かれています。実際、神ご自身が、 御子の受肉とあがないのわざを通して、歴史の中に入って来られました。そして、新しい創造と、 神と人の間の新しい契約をもたらされます(エレミヤ 31・31−34参照)。こうしてわたしたちは「新しい心」と「 新しい霊」(エゼキエル36・26参照)をもてるようになります。 

だから教会は、イエス・キリストをあらためてのべ伝えなければならないと確信するのです。イエス・キリストは、 諸民族の完全な発展と平和の、第一の主要な働き手だからです。実際、イエスはわたしたちの平和であり、正義であり、 和解です(エフェソ2・14、二コリント5・18参照)。イエスの「幸い」によれば、平和を実現する人は、 今日も明日も、他の人の善を、それも霊魂と肉体の完全な善を求める人です。 

以上の教えから次のようにいうことができます。すべての人と共同体は――宗教的、市民的、教育的、 文化的共同体を含めて――、平和を実現するよう招かれています。 平和とはとくにさまざまな社会の共通善を実現することです。この社会は、基本的、中間的レベルのものから、国家、 国際社会、グローバル社会までを含みます。そのため、共通善を実現する道は、 平和を実現するために歩むべき道でもあるといえます。 

平和を実現する人は、いのちを完全な意味で愛し、守り、推進する人である 

4 共通善と平和を実現するための道は、何よりもまず、人間のいのちを尊重することです。ここで人間のいのちを、 受精から始まり、成長を経て、自然死に至るまでの、さまざまな次元を含めた意味で考えなければなりません。それゆえ、 真の意味で平和を実現する人は、あらゆる次元で――すなわち、個人的、共同体的、超越的な次元を含めた―― 人間のいのちを愛し、守り、推進する人です。完全ないのちは、平和の頂点です。平和を望む人は、 いのちへの危害や犯罪を容認することができません。 

人間のいのちの価値を十分に重んじず、その結果、たとえば人工妊娠中絶の自由化を支持する人は、このことを通して、 偽りの平和を追求することになることに気づかないかもしれません。人間の人格をおとしめることになる責任回避や、 さらには無防備で罪のない存在を殺害することは、決して幸福も平和ももたらしえません。実際、 出生前の生命をはじめとするもっとも弱い者の生存権を守らずに、平和や、諸民族の完全な発展や、 環境保護を実現することをどうして考えられるでしょうか。いのち、それもとくに初期のいのちを侵害することは、 発展と平和と環境に対して修復不能な損害を与えます。欺瞞的なしかたで、 偽りの権利ないし自由を法制化することも不正です。矮小化された、相対主義的な人間観と、 あいまいな表現の巧妙な使用に基づいて、人工妊娠中絶や安楽死を行う権利の主張を推進しようとするこのような法制化は 、根本的な生存権を脅かすからです。 

結婚という自然な制度を、男と女の結合として認め、推進することも必要です。男女の結婚を、 これとはまったく異なる結合と法的に同等なものとしようとする試みがあるからです。こうした試みは、 結婚の特別な性格と社会におけるそのかけがえのない役割をあいまいにし、現実には、結婚を損ない、不安定にするのです 。 

ここで述べた原則は、信仰の真理でもなければ、信教の自由の権利に由来するものでもありません。それは、 人間本性のうちに刻まれ、理性によって認識可能であり、それゆえ、人類全体に共通するものです。ですから、 教会がこれらの原則を推進する活動は、教派的性格のものではなく、宗派を問わずすべての人に向 けられます。 これらの原則が否定され、誤解されればされるほど、教会の活動はますます必要となります。人間の人格の真理が侵害され 、正義と平和に深刻な損 害が与えられるからです。 

そのため、立法府と司法機関が、 人工妊娠中絶や安楽死といった人間の尊厳に反する法律や行政措置に反対する良心的拒否の原則を行使する権利を認めるこ とも、平和を築くために重要です。 

国際平和にもかかわる、基本的人権の一つは、個人および共同体の信教の自由です。歴史の現時点において、 信教の自由の権利を推進することがますます重要 になっています。それは「・・・・からの自由」 という消極的な観点からいえるだけではありません(たとえば、自分の宗教を選択する自由に関する、 義務や強制からの自由です)。それは「・・・への自由」としてさまざまなしかたで表現される、 積極的な観点からもいえます。たとえば、自分の宗教をあかしし、その教えを告げ、伝える自由。 宗教のおきてを適用できる、教育、慈善、支援活動を行う自由。そして、 教理的原則や自分たちの組織の目的に従って組織化された社会的団体として存在し、活動する自由です。残念ながら、 古くからキリスト教的伝統をもつ国々においても、宗教的不寛容が示される事例が増加しています。とくに、キリスト教と 、自分の宗教を示すしるしを身に着けているにすぎない人に対して、こうした不寛容が示されます。 

平和を実現する人が留意すべき、もう一つの点があります。ますます増大する世論の一部で、 極端なリベラリズムと技術万能主義の思想が、次の確信を広めつつあります。すなわち、経済成長は、 国家の社会的責任や市民社会の連帯のネットワーク、さらには社会的権利や義務を侵害するまでに追求すべきだと。しか  し、こうした権利と義務は、市民権や政治的権利をはじめとする、他の権利・ 義務の完全な実現の基盤であることを考慮しなければなりません。 

今日、もっとも脅威にさらされている社会的権利・義務の一つは、労働権です。その原因は、労働と、 労働者の法的地位の正当な認識が、適切に重んじられることがますますなくなっていることにあります。 経済発展が何よりも市場の完全な自由に依存すると考えられているからです。こうして労働は、経済・金融メカ  ニズムにおける変数の一つとみなされるに至りました。このことに関連して、わたしは次のことを再確認したいと思います 。人間の尊厳と、経済・社会・政治的 要因が必要とすることは、「 すべての人が安定した雇用を得られるという目標が継続的に優先されることです」(4)。  この野心的な目標を実現するために前提となるのは、倫理原則と霊的価値観に基づく、労働観の刷新です。労働概念を、 個人、家庭、社会にとっての根本的な善 として強化しなければなりません。この根本的な善に、 すべての人に雇用を与えるための勇気ある新たな政策を求める義務と権利が対応します。

 

発展と経済の新たなモデルによる平和の善の実現 

5 現代、多くの分野で、発展の新しいモデルと新しい経済観の必要性 が認識されるようになりました。 完全かつ連帯的で持続可能な発展と、共通善は、ともに富と価値の適正な規模を要求します。この規模は、 神を究極的な基準とすることにより定めることが可能です。それがどれほどよいものであっても、 多くの手段と選択肢を自由に使えることだけでは不十分です。発展を促す多くの富も、広い選択肢も、 よい生き方と正しい行動に即して用いなければなりません。正しい行動とは、霊的次元の優先的地位と、 共通善の実現への呼びかけを認めることです。そうしなければ、富と選択肢は正しい価値を失い、新たな偶像と化すのです 。 

現在の金融・経済危機(それは格差を拡大させています)を抜け出すには、 人間の創造性を高める個人とグループと制度が必要です。それは、この危機から、  識別の機会と新たな経済モデルを導き出すためです。過去数十年間の支配的なモデルは、 最大限の利益と消費の追求を要請するものでした。このモデルは、個人 主義的・利己主義的なものの見方に基づいて、 個人を競争原理への対応能力のみによって評価しました。しかし、観点を変えるなら、真の持続的な成功は、自ら  とその知的能力と進取の気性をささげることによってもたらされます。生存を可能とする、 すなわち真の意味で人間的な経済発展は、友愛と贈与の原理の表現で ある、無償性の原理を必要とするからです(5)。  具体的にいえば、経済活動において平和を実現する人とは、協力者、同僚、発注者、 消費者とともに公正と互恵性の関係を作り出す人です。このような人は、共 通善のために経済活動を行い、自分の活動を 、自己の利益を超えた、現在と将来の世代のためのものとみなします。それゆえ彼らは、自己のためだけではなく、  他の人々に未来と人間にふさわしい労働を与えるために働くのです。 

経済分野において、とくに国家は、社会の発展と、民主的な法治国家が世界中に広まるための工業・ 農業発展政策を策定することが求められます。通貨、金 融、商業市場の倫理的構造を作ることも、重要不可欠です。 市場は、最貧困者に損害を与えることのないよう、安定化され、調整・規制されなければなりませ ん。さらに、 平和を実現する人々は、これまでにない決意をもって、食糧危機に注意を向けなければなりません。 これは金融危機よりも深刻な問題だからです。食糧の安定供給という問題は、再び国際政治の中心課題となりました。 その原因は、基礎食糧価格の急激な変動、一部の経済人の無責任な行動、政府・国際社会の不十分な規制といった、 相互に連関する危機です。この危機に立ち向かうために、平和を実現する人々は、とくに小規模農村の農業者が社会的・ 環境的・経済的観点から見て人間にふさわしい持続的な活動を行えるように、 地域的また国際的次元で連帯精神をもってともに努力しなければなりません。

 

平和の文化のための教育――家庭と諸機関の役割 

6 次のこともあらためて強調したいと思います。平和を実現する人々は、家庭の共通善と社会正義に対する熱意と、 効果的な社会教育への取り組みを深めなければなりません。 

だれも、家庭がもつ決定的に重要な役割を否定したり過小評価することはできません。家庭は、人口学的、倫理的、 教育学的、経済的、政治的観点から見ても、社会の原細胞だからです。家庭は、いのちを推進するという、 本性的な使命をもっています。家庭は、個人の成長に同伴し、相互の配慮を通じて力づけ合います。 とくにキリスト信者の家庭は、それ自体として、神の愛を基準とする人格教育の苗床となります。家庭は、 平和の文化を実現するために不可欠な社会的主 体の一つです。 道徳と宗教の分野での子どもの教育に関して両親が有する権利と本来の役割を守らなければなりません。 未来のいのちと愛の文化の推進者である、平和を実現する人々は、家庭の中で生まれ、育つのです(6)。 

平和教育というこの重大な務めに特別なしかたでかかわるのが、宗教的共同体です。教会は、 新しい福音宣教を通じて自らがこの大きな責務を果たすと考えます。新しい福音宣教の中心は、 キリストの真理と愛への回心であり、それゆえ、個人と社会の霊的・道徳的刷新だからです。イエス・ キリストとの出会いは、平和を実現する人々を形成し、彼らを交わりと不正の克服へと駆り立てます。 

文化的機関、学校、大学も、平和のための特別な使命を果たします。これらの機関は、これからの指導者の養成だけでなく 、公的・国家的・国際的機関の刷新にも大きく寄与するよう求められています。これらの機関は、経済・ 金融活動を堅固な人間論的・倫理的基盤の上に据えるための学問的考察にも役立ちます。現代世界、とくに政治は、 新たな思想と新たな文化的統合の支援を必要としています。それは、技術主義を乗り越え、 共通善の観点からさまざまな政治的傾向を調 和させるためです。共通善は、個人と集団の完全な成長のための、 積極的な人間関係と社会関係の総体であり、あらゆる真の平和教育の基盤です。 

平和を実現する人の教育 

7 結論として、平和の教育を提示し、推進しなければならないことが分かります。平和の教育に必要なのは、 豊かな内的生活、明確で有効な道徳的基準、分別のある行動と 生活様式です。実際のところ、平和のわざは、 共通善の実現に集約されます。それは平和への関心を作り出し、人々を平和へと教育するのです。平和に関する思想、 ことば、行為は、平和の精神と文化を作り出します。平和の精神と文化とは、尊敬と誠実と思いやりに満ちた雰囲気です。 それゆえ、人々が互いに愛し合 い、平和に向けて教育し合い、 単なる寛容を超えた善意を生きるように教育することが必要です。このことに関して何よりも次のことを勧めます。「 復讐を否定してください。自分の過ちを認めてください。とがめだてせずに謝罪を受け入れ、ついにはゆるしてください」 (7)。 それは、過ちと侮辱を真理のうちに認め、ともに和解に向けて前進するためです。このことは、 ゆるしの教育を広めることを求めます。実際、善をもって悪に打ち勝ち、 すべての子らを愛してくださる父である神に似たものとなることによって正義を追求しなければなりません(マタイ5・ 21−48参照)。これは時間のかかる作業です。霊的な進歩と、最高の価値の教育と、 人間の歴史についての新しい見方が必要だからです。この世の偶像を約束する偽りの平和と、 それに伴う危険を拒否しなければなりません。良心を無感覚にし、人を自分自身のうちに閉じこもらせ、 無関心のうちに委縮した人生を送らせる、偽りの平和を拒否しなければなりません。これに対して、平和の教育とは、活動 、共感、連帯、勇気、そして堅忍をもたらします。 

イエスはご自分の生涯の中で、このような態度をすべて体現されます。そして、「いのちを失う」(マタイ10・39、 ルカ17・33、ヨハネ12・25参 照)に至るまで、自らを完全にささげます。イエスは弟子たちに約束します。 あなたがたは間もなくわたしが初めに述べたとおり、特別なことを見いだすことになると。それは、 世のうちに神がおられること、完全に人間に寄り添う、イエスの神がおられることです。このことに関連して、 わたしは一つの祈りを思い起こしたいと思います。この祈りは神に願います。 わたしたちをあなたの平和の道具としてください。憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、 疑いのあるところにまことの信仰をもたらすことができますように。わたしたちも、福者ヨハネ二十三世とともに、 神に願おうではありませんか。どうか諸民族の指導者を照らしてください。彼らが、その市民の正当な福祉を配慮しながら 、平和という貴いたまものを守ることができますように。すべての人の心を燃え立たせてください。 彼らが分裂をもたらす隔ての壁を打ち倒し、相互の愛のきずなを強め、他者を理解し、 侮辱した人をゆるすことができますように。こうして、主のわざにより、地上のすべての民は友愛のきずなで結ばれ、 切望してやまない平和が永遠に咲き誇り、彼らを支配するのです(8)。 

この祈りをもって、わたしは、すべての人が真に平和を実現する人となり、 人間の国が友愛の一致と繁栄と平和のうちに成長することを願います。

1. 第二バチカン公会議『現代世界憲章』1(Gaudium et spes)参照。 
2. ヨハネ二十三世回勅『パーチェム・イン・テリス(1963年4月11日)』(Pacem in  terris: AAS 55 [1963], 265-266)参照。 
3. 同(AAS 55 [1963], 266)参照。
4. ベネディクト十六世回勅『真理に根ざした愛(2009年6月29日)』32(Caritas in  veritate: AAS 101 [2009], 666-667)。 
5. 同34、36(AAS 101 [2009], 668-670, 671-672)参照。
6. ヨハネ・パウロ二世「1994年『世界平和の日』メッセージ(1993年12月8日)」(AAS 86  [1994], 156-162)参照。
7. ベネディクト十六世「政府、共和国諸機関関係者、外交使節団、宗教指導者、 文化界の代表者との会見における講話(レバノン、バーブダ大統領府、2012年9月15日)」(L’ Osservatore Romano, 16 settembre 2012, p. 7)。 
8. ヨハネ二十三世回勅『パーチェム・イン・テリス(1963年4月11日)』(Pacem in  terris: AAS 55 [1963], 304)参照。

略号 

AAS Acta Apostolicae Sedis 

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