世界青年の日

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2004年2月22日 バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世
訳:カトリック中央協議会事務局
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愛する若人の皆さん!

1.2004年は、来年ケルンで開催される第20回世界青年の日国際大会に備える最後の年です。そこで、第19回青年の日のテーマとしてわたしが選んだことば「イエスにお目にかかりたいのです」(ヨハネ12・21)を深めながら、皆さんが霊的準備にいっそう励んでくださるようお招きします。

これは、ある日、幾人かのギリシア人が使徒たちに表明した願いです。このギリシア人たちは、イエスがだれなのかを知りたかったのです。それは、ただ単に、目にした人間イエスを知るための手掛かりを求めていたからではありません。それは、大きな好奇心と、自分たちの基礎的な質問に対する答えの中に正しい解答を見いだせるのではないかという予感に促されてのことでした。イエスは本当にだれなのか、どこから来られたのかを、彼らは知りたかったのです。

2.愛する皆さん、わたしは、あなたがたも「イエスを見たい」との願望に駆られてフィリポに質問したこのギリシア人たちに倣うよう招きます。あなたがたの願いが、単なる知的好奇心 ―― それはそれで価値があります ―― に動かされるだけでなく、とくに、あなたがたの人生の意味についての疑問に対する答えを見つけたいという、もっとも深い要求に促されますように。福音書に出てくる裕福な青年のように、あなたがたもイエスに、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ10・17)という質問を投げかけるよう努めてください。マルコ福音記者は、イエスは彼を見つめ、彼を愛したと明記しています。イエスがナザレで発言された、もう一つのエピソードについても考えてください。その中でイエスはナタナエルにいわれます。偽りのないイスラエル人の心をとらえて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」(ヨハネ1・47-48参照)と。それには、素晴らしい信仰告白が続きます。「ラビ、あなたは神の子です」(ヨハネ1・49)。

先入観から解放された心でイエスに近づく人は、かなりたやすく信仰に到達することができます。なぜなら、イエスご自身が、すでにその人を見つめ、先に愛しておられるからです。人間の尊厳の崇高な次元は、まさに、人生を変えるほどの深い眼差しを注ぎ合うところに生じる、神との一致への召命にあります。イエスを見るためには、何よりもまずイエスに見つめられるままにゆだねる必要があるのです。

神を見たいとの願望は、すべての人、一人ひとりの心に宿っています。愛する皆さん、イエスから見つめられるままに任せなさい。こうして、光を見たい、真理の輝きを味わいたいとの望みが、あなたがたのうちに成長するでしょう。これについて自覚していますか。神は、わたしたちを愛するがゆえに、わたしたちを造ってくださいました。だからわたしたちもまた神を愛するのです。これこそ、人が心に抱く神への抑えがたい憧れの根源です。「主よ、わたしはみ顔を尋ね求めます。み顔を隠さないでください」(詩27・8-9)。このみ顔が、イエス・キリストのうちに神によって啓示されたことを、わたしたちは知っています。

3.若人の皆さん、あなたがたもこのみ顔の美しさを見つめたいと望んでいますか? これが2004年の世界青年の日に、わたしがあなたがたに投げかける質問です。性急に答えないでください。何よりも、あなたがたの内面を静めてください。そして、神を見たいとの熱望が心の深みから湧き出るに任せてください。この望みは、ときに、世の喧騒や快楽の誘惑によって覆い隠されています。この望みが浮かび上がってくるままにし、イエスとの出会いという素晴らしい体験をしてください。キリスト教は、単なる一つの教理ではありません。神、イエスの受肉によってわたしたちの歴史に現存される神との、信仰における出会いなのです。

情熱的にあなたがたを探しておられるイエスを、あらゆる手段を通して見つめながら、この神との出会いを可能なものとするよう努力してください。生活上の出来事のうちに、また、他者の顔の中に、肉眼をもって神を探しなさい。また、祈りと神のことばの黙想による霊的な目をもって、神を探し求めなさい。「キリストのみ顔の観想は、聖書が彼について語るところから霊感を受けることにほかならない」(『新千年期の初めに』17)からです。

4.イエスを見ること、そのみ顔を観想することは、一つの抑えがたい願望です。しかし残念ながら、人間がそれを変形させてしまうことができる願望でもあります。罪が発生するとき、その本質は、まさしく被造物に目を向けるために創造主から目をそらすことなのです。

真理を求めているギリシア人たちは、もし、自由で意欲的な行動により活性化された自分たちの願望が、「イエスに会いたい」という確かな決心として具体化していなかったなら、イエスに出会うことはできなかったでしょう。本当に自由であるということは、わたしたちを造られたかたを選び取る力があるという意味であり、また、わたしたちのいのちに対する創造主の支配を受け入れるという意味です。あなたがたは、地上のあらゆる富、職業上のあらゆる成功、理想的な人間の愛そのものも、あなたがたの最も内的な深い期待を、決して十分に満足させることはできないと、心の奥深くで感じ取っていると思います。ただイエスとの出会いだけが、あなたがたの人生に十分な意味を与えることができるのです。「主よ、あなたはご自分のためにわたしたちをお造りになりました。わたしたちの心は、あなたのうちに憩うまで満たされることがありません」と、聖アウグスチヌスは書いています(『告白録』I・1参照)。イエスのみ顔を探し求めることを投げ出さないでください。堅忍してください。あなたがたの賭けは、目いっぱいの自己実現と喜びです。

5.愛する友よ、もし聖体(エウカリスティア)のうちにイエスを見いだすことを学ぶならば、あなたがたの兄弟・姉妹、中でも最も貧しい人たちのうちにもイエスを見いだすことができるようになります。わたしたちが愛をもって聖体をいただき、また、熱心に聖体を礼拝するとき、聖体は、わたしたちにとって、愛のおきてを実践するための自由と愛徳の学びやとなります。イエスは、神秘的なびっくりするような言語、つまり自分自身を明け渡すという言語、自分のいのちを犠牲にするほどの愛という言語で、わたしたちにお話になります。それは、やさしいことでしょうか? いいえ、あなたがたは知っています。己を放棄するということはやさしくありません。それは、所有欲に動かされた愛や、自己陶酔に溺れた愛から離れることを必要とします。自分を他者に与える愛の喜びに開かれていくためです。聖体の学びやは、真実で善なるものに堅く根を下ろすために表面的な感情を乗り越えることを教え、他者に自分を開く用意をするために自己閉鎖性から解放し、情緒的な愛から実質的な愛に移行することを教えます。愛することは、単なる感情の動きではありません。それは、自分のことよりも他者の善をつねに優先させる意志の行為です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)。

イエスが、内的自由と燃える愛をもって他者においてご自分と出会うようにと教えておられる第一の場は、貧しい人のやつれた顔です。カルカッタの福者テレサは、次のように書いた自分の「名刺」を好んで配っていました。「沈黙の実は祈り、祈りの実は信仰、信仰の実は愛、愛の実は奉仕、奉仕の実は平和です」。これです、イエスとの出会いの歩みは。イエスとの出会いを求めて、人間の苦しみのあるところにはどこにでも寛大さと、神が聖霊によってあなたがたの心に注がれた愛をもって、勢いよく出掛けてください。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)。世界は、兄弟愛の偉大な預言的しるしを、早急に必要としています! 実際、イエスについて「語る」だけでは足りません。各自の雄弁な生活のあかしをもって、何らかの形でイエスを「見せる」ことも必要です(『新千年期の初めに』16参照)。

キリストを探し求めることや、教会に現存しておられるキリストについて告げ知らせることを忘れないでください。教会とは、異なる時代と場所におけるキリストの救済活動の延長です。教会において、教会を通して、イエスは今日、ご自分を人の目に見えるものとし、人々との出会いを待ち続けておられます。あなたがたの小教区、活動、共同体において、あなたがた同士の交わりの一致を成長させるため、互いに受け入れ合ってください。教会にはしばしば人間の罪によって入り込む不透明な隔ての壁があるにもかかわらず、あなたがたの交わりの一致は、教会におけるキリストの現存の、目に見えるしるしとなるのです。

6.また、もしあなたがたの歩みの途上で十字架に出会うとしても驚いてはなりません。イエスは、ご自分の弟子たちに「一粒の麦が多くの実を結ぶためには、地に落ちて死ななければならない」(ヨハネ12・23-26参照)と言われたではありませんか? イエスは、死に至るまで与え尽くすご自分のいのちが豊かに実ることを、このように表現しておられたのです。あなたがたは知っています。キリスト復活の後、死はもはや終わりの意味を持たなくなったことを。愛が死よりも強いからです。たとえイエスが、死をいのちの源、愛のしるしとして、十字架上で死ぬことを受け入れたとしても、それは、弱さのためでも、苦しみのためでもありません。わたしたちに救いを獲得させるためであり、今からすでに神聖な彼のいのちにわたしたちを参与させるためでした。

これが、1984年のあがないの聖年の終わりに、大きな木の十字架を青年たちに手渡しながら、わたしが世界の青年たちに覚えていて欲しいと望んだことです。それ以来この十字架は、世界青年の日に備えてさまざまな国を駆けめぐりました。幾千万の若人たちが、この十字架の周りで祈ってきました。肩にのしかかる重荷をその足元に降ろしたとき、彼らは神に愛されていることを悟り、その多くが人生の道を変える力までいただきました。

このイベントを始めてから20年目にあたる今年、大きな木の十字架は荘厳にベルリンまで運ばれた後、ドイツ全土を巡礼しながら、来年にはケルンに到着することになっています。あのとき厳粛に述べたことばを、今日ここに再び繰り返したいと思います。

「愛する若人の皆さん、…キリストの十字架をあなたがたにゆだねます! 人類に対する主イエスの愛のしるしとして、これを世界に運んでください。そして、死んで復活されたキリストの他には、救いもあがないもないと、すべての人に告げ知らせてください」。

7.あなたがたと同時代の人々は、あなたがたが出会い、あなたがたを生かしているかたの証人であるあなたがたに期待しています。日常生活の現実の中で、死より強い愛の大胆な証人となってください。今日、この挑戦に応じるのはあなたがたです! よいたよりの告知への奉仕に、あなたがたの才能と若い情熱を注いでください。主にお会いしたいと望む人々、わけても主から遠くにいる人々に主を紹介する、イエスの熱烈な友であってください。フィリポとアンデレは、あの「ギリシア人たち」をイエスのもとにお連れしました。神は、神聖な愛の源へと人の心を導くために人間の愛を活用なさいます。あなたがたの友人や同年代のすべての人の福音化に、責任を感じてください。

生涯を通してキリストのみ顔の観想に熱心に献身された幸いなるおとめマリアが、御子の眼差しのもとで、いつもあなたがたをまもってくださり(『おとめマリアのロザリオ』10参照)、また、ケルンでの世界青年の日に向かう準備を支え助けてくださいますように。そして皆さんには今から、責任と行動のともなう情熱をもってケルン大会へ向けて歩み始めるようお願いします。

心細やかで忍耐強い御母、ナザレのおとめが、あなたがたのうちに観想的な心をつくり、イエスに眼を留めることを教えてくださいますように。こうしてあなたがたが、過ぎゆくこの世にあって、終りない世界の預言者でありますように。

あなたがたの歩みの上に、愛をもって特別の祝福を送ります。

教皇ヨハネ・パウロ二世

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