教会が中絶経験者に語る



1. いのちの福音#99

わたしはここで、人工妊娠中絶を経験した女性の皆さんにとくに申し上げます。教会は、皆さんの決心に影響を及ぼしたと思われる多くの要因があることを知っています。また教会は、多くの場合、それは苦渋に満ちた、身を裂かれるような決断であったであろうことを疑いません。皆さんの心の傷は、いまだにいやされていないかもしれません。確かに、現実に起こったことは大きな過ちでしたし、今なお過ちとして残っています。けれども、落胆のうちに沈み込まないでください。望みを失ってはなりません。むしろ、起こったことをよく理解し、それに誠実に向き合うようにしてください。まだ悔い改めていないなら、謙遜と信頼をもって悔い改めに身をゆだねてください。いつくしみ深い父はゆるしの秘跡によって、そのゆるしと平和をあなたに与えようと待っています。決定的にすべてが失われたのではないことが、やがて分かるでしょう。そして、今は主のもとで生きるあなたの子どもに、ゆるしを求めることもできるでしょう。他の人々からの友情に満ちた、専門的な援助と助言によって、さらに皆さん自身が味わった痛ましい経験の結果、皆さんは、すべての人がいのちの権利を持つことのもっとも雄弁な擁護者となりうるのです。これから子どもたちの誕生を受け入れることによって、あるいは自分の身近にいてくれる人を必要とする多くの人々を迎え入れ、世話をすることによって、いのちとかかわることをとおして、皆さんは人間のいのちに対する新しい見方を推進する人となるでしょう。


2. 希望の扉を開く p.239〜p.240

今や、私たちは、この分野における、真の人間的悲劇の証人であることを認めるべきです。しばしば〔女性は男性のエゴイズムの犠牲者です。〕というのは、新しいいのちの受胎に寄与した男性が、その重荷を担おうとはせず、まるで「相手の女性だけの過ち」であるかのように、彼女に責任を押しつけるからです。こうして、女性が男性の支えを最も必要とするちょうどそのときに、男性は冷笑的なエゴイストになって、彼女の愛情や弱さにつけこむことはしても、いかなる形ででも自分の行為の責任を取ることに冷淡であり続けます。…

それゆえ、人は、〔「プロ・チョイス(出産・中絶選択支持)」という標語を断固として拒否しつつ、勇気を持って「プロ・ウーマン(女性支持)」の標語を掲げるがわに組みすべきです。それによって、女性に真の利益をもたらす選択を推進することになるからです。〕事実、最も高い代償を払うのは、ほかならぬ女性なのです。母性のためだけでなく、母性の破壊、つまり身ごもった子どものいのちの抹殺という代償まで払わなければならなくなるのです。このような状況のもとで執るべき唯一の誠実な態度は、〔女性との根本的な連帯〕です。女性を孤立させることは許されません。さまざまな相談所での経験によると、女性は胎内に身ごもった子どものいのちを絶とうとは望んでいないのです。もしも女性が人々の連帯に支えられるなら、そして同時に女性が周囲の環境の圧迫から解放されるなら、女性は英雄的なことでさえやってのけることになるのです。前に述べましたように、多くの相談所で、そして何よりも未婚の母の施設でこの事実が確かめられます。


3. 現代世界憲章#27

なお、あらゆる種類の殺人、集団殺害、堕胎、安楽死、自殺など、すべて生命そのものに反すること、…これらのすべてと、これに類することはまことに恥ずべきことである。それは文明を毒し、そのような危害を受ける者よりは、そのようなことを行なう者を汚す


4. カトリック教会の教理問答(1443)

「イエスはその公的な生活において、罪をお許しになっただけにとどまらず、そのお許しによる影響を分かりやすいものにされた。罪によって疎外されたり追放されたりした人々を、「神の人々」と一緒にさせたのである。このことから見て取れる驚くべきしるしは、イエスが罪人を自分のテーブルに招くということ、つまり神がお許しになることと「神の人々」へと戻されることが、驚くような方法で表現されているのである。」

妊娠中絶後の癒しには二つの大きな側面がある。一つは精神的なものであり、もう一つは社会全体にかかわりのあるものである。自分の罪をイエスに告白したあと完全に癒されたと信じていたある女性は、中絶経験のある他の女性たちと体験を共有することが、また別の癒しになっていることに気がついた。「私たちが罪から逃れるためにイエスの血が必要だったのと同時に、恥から逃れるためには周囲の人々の受け入れが必要なのである。」


5. カトリック教会の教理問答(1465〜1466)

カトリック信者である男女にとって、「ゆるしの秘跡」は癒しの中心になければならないものである。聖書の指示により(マテオによる福音書 十六:19、ヨハネによる福音書 二十:23、コリント人への第二の手紙 五:18〜20)、司祭は「罪人に対する神の慈悲のしるしであり道具である。司祭は、神の許しの師ではなく、神のしもべである。」和解の過程で、司祭のみが神と社会の両方の代表として行動することができる。聖職を授けられた司祭は、神の慈悲を代表し、罪人を罪から解放する。それと同時に、教区の一員としての司祭は、罪人の平和と喜びのため、そして罪人の恥の屈従からの解放のため祈る地域社会の支えを代表することができる。この秘跡を通じて、その罪人はキリストとテーブルを共にする悔い改めた罪人たちがいる社会全体と再び統合される。

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