生命尊重(プロ・ライフ)活動のための司牧・使徒職活動計画

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英語原文より翻訳: www.usccb.org

「いのちの文化」と「死の文化」との間の劇的な闘争に特徴づけられる現代の社会風潮においては、真の価値と必要を識別できる、深い批判的判断力を研ぎ澄ます必要があります。

まず必要なのは、いのちを擁護する大規模な運動を展開するために、広く良心を結集することであり、倫理的なことがらについて団結して努力することです。これらすべてをもって、わたしたちはいのちの新しい文化を打ち立てなければなりません(ローマ法王ヨハネ・パウロ二世、『いのちの福音』、no.95)。

はじめに

我々は生命尊重(プロライフ)活動における使徒職活動計画を発表している。この生命擁護運動にて「人間のいのちの価値とその不可侵性を明確に、力強く再確認しようとするものであると同時に、すべての人に向けられた神の名による緊急のアピールでもあります。すなわち、いのち、あらゆる人間のいのちを尊重し、守り、愛し、助けよ、というアピールにもなっているのです。」(『いのちの福音』、no.5)。

宗教的指導者および教育者として、我々は人間のいのちが神からの尊い贈り物であることを宣(の)べ伝える。この尊い贈り物を受け取った一人ひとりには、神への、自身への、そして他者への責任を担っている。社会はその法律と慣行のもとに人間のいのちをその存在のあらゆる段階においても守り保護せねばならない。こうした信条は、不変の道理から、そして我々の信条における普遍のあかし――「いのちはその受精の瞬間から最大限の配慮のもとに守らねばならない」(Pastoral Constitution on the Church in the Modern World、no.51)――から生まれている。この教えは十二使徒の時代から変わらぬ神の託宣である。

いのちに対する一貫した倫理観

多種多様な問題が、人間のいのちの保護、人間の尊厳という問題と連なっている。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世はこう述べている。「いのちがあるところでは、愛の奉仕は徹して首尾一貫したものでなければなりません。愛の奉仕は、偏見や差別を許容することはできません。それは、人間のいのちはどのような段階にあり、またいかなる境遇にあろうとも、神聖で不可侵だからです。人間のいのちは分割できない善なのです。」(『いのちの福音』、no.87)。

教会では、人間のいのちの尊厳にかかわる重要な問題のなかでも、人工中絶が必然的にその中心的存在となっている。人工妊娠中絶、すなわち無垢な人間を直接手にかける行為は、永遠に重篤な罪である(『いのちの福音』no.57参照)。その犠牲者は我々のなかでももっとも傷つきやすい、もっとも無防備ないのちである。この法律にまつわる問題に緊急に目を向け、優先権を与えることがなによりも重要である。

この問題と教会が守るいのちに対する一貫した倫理観は相互補完的な関係にある。いのちに対する一貫した倫理感は教会の福音を道義として説明するものであり、中絶や安楽死への懸念をおとしめるものでも、人間のいのちの尊厳にかかわるあらゆる問題を均一化するものでもない。それぞれの問題に内在する特質を認識し、各問題に首尾一貫した倫理感をもってしてしかるべき場所を与えるものである。米国司教として我々は、戦争と平和、経済上の公平、および人間のいのちの尊厳に影響をおよぼすさまざまな社会問題について司教教書を発表してきた。人間のいのちの尊厳については教会の見解を推進すべく、小教区や学校やその他の教会組織(Communities of Salt and Light〔1994年〕やCatholic Social Teaching〔1998年〕など)を通じてさまざまなプログラムを実施してきた。こうしたさまざまな司教教書や実際のプログラム活動は個々に独立したプロジェクトではなく、あらゆる段階のあらゆる状況の人間のいのちを守るための一貫したプロジェクトである。

中絶や安楽死という故殺の罪に焦点を合わせることは、中絶や安楽死以外の人間の尊厳をおとしめ人権を脅かす切迫したさまざまな状況に目をそらすことではない。中絶や安楽死に反対することは、「貧困や暴力や不平等に苦しむ人々から目をそらす言い訳としてはならない。人間のいのちにかかわるあらゆる政策は、戦争という暴力や極刑という行為を阻止するものでなければならない。人の尊厳にかかわるあらゆる政策は、人種差別や貧困や飢餓、雇用や教育や住宅供給や医療等の問題に真剣に取り組まねばならない」(『いのちの福音』)。キリスト教徒があらゆる分野での弱者やマイノリティの擁護者であることを我々は願う。「しかし、こうした問題の『正論者』となることが、無垢な人間のいのちを直接攻撃するといった誤った選択の言い訳にはならない。さらに、もっとも無防備な段階のいのちの保護や擁護を怠ることは、その「正義」という立場を疑わしいものとし、コミュニティにおいてもっとも貧困な状況にある人や弱者と呼ばれる人に悪しき影響をおよぼすことになる」(『いのちの福音の実践』、no.23)。

人間のいのちへの大きな脅威

人間の始まりはいつであろう?「人格の諸権利が不可侵であると荘厳に宣言され、いのちの価値が不可侵であると公式に確認されている、まさにそうした時代にあって、とくにいのちが重要な意味を持つ誕生の時と死の時において、いのちの権利そのものが否定され、踏みにじられるのです」。(『いのちの福音』no.18)非常に困難な状況、ときには悲劇的な状況がいのちに反する選択の引き金となることがある。かかる状況はそうした選択をした咎を小さくはしてくれる。しかしローマ法王ヨハネ・パウロ二世が指摘しているように、こんにち、問題はいっそう複雑になっている。「それは文化的、社会的、政治的レベルに存在する問題です。そのような諸レベルにおいて、問題そのものにいっそう邪悪で憂慮すべき側面があることは明らかです。その側面とは、いのちに対する右に述べた諸犯罪は、個人の自由を合法的に表すものと解し、事実上の権利として承認され擁護されるべきものだとする傾向の中にうかがわれます。このような傾向は、かつてないほどに広く浸透しているのです」(『いのちの福音』no.18)。

「人間の始まりとは?」――この質問への答えは簡単である。「我々は、無垢ないのちを、いかにそれが傷ついたものであれ、未熟なものであれ、障害があるものであれ、死の淵にあるものであれ、故意に手をかけてはならない、つまり殺人に共謀してはならない、というところから始めなければならない」(『いのちの福音の実践』、no.21)。

ある種の行為はつねに誤ったものであり、つねに神の愛、人間の尊厳と相反するものである。妊娠人工中絶、つまり出生前に無垢な人間のいのちを直接手にかける行為は、いつの時代においても倫理に背いたものである。いかなる理由においてもそれは胎児の故殺行為である。自殺幇助や安楽死は慈悲の心による行為ではなく、道義上認められない。戦争にて罪のない市民を殺戮する行為、非戦闘員を標的とするテロ行為はつねに糾弾すべきものである。

毎年中絶による100万以上の死をもたらしている政策や慣例がいのちの尊厳をおとしめている現状は我々の懸念を大きくするばかりである。この司牧・使徒職活動計画において、「中絶とそれ以外の重要な問題との結びつきという大きな課題が指針となる。正確に表現すれば、人間のいのちをとりまくあらゆる問題は複雑に絡み合っており、法律という正義の名のもとに中絶処置にて人間のいのちを死にいたらしめる社会は、別の意味においてもいのちの尊厳をおとしめている。出生前の人間のいのちを守る法律や慣例は、胎児のいのちだけでなく、あらゆるいのちの擁護と結びつくことになる(生命尊重活動における司牧・使徒職活動計画、活動宣言〔1985年〕5)。こうした理由から、中絶という行為に頼る風潮、中絶を承認推奨して助成金まで出している政策、そして安楽死という選択にて故殺を推進しようとする流れのなかでいのちに忍び寄る大きな脅威をここで取り上げている。

「ロウ対ウェイド」裁判が残したもの

1973年1月、米国連邦最高裁は「ロウ対ウェイド裁判」とその関連裁判「ドウ対ボルトン裁判」の判決により、出生前の人間へのあらゆる法的保護を事実上剥奪してしまった。この「ロウ事件」判決が残したものは無数である。そこには死、哀しみ、そして次のような悲しい混乱が残った。

人間のいのちへの攻撃が、家族のなかで、癒しを目的とした専門家を巻き込んで――従来病人や弱者をまもるべき機関にて――行われている。父親――子どもを守るのではなく、その唯一の義務は中絶費用を負担することと信じている――の無理強いによって行われることも少なくない。こんにち、中絶を気軽に支持容認するものは殺人が行われていることを認めており、かつては一般の倫理観から罪とされ、拒絶されていた選択肢が社会的に幅をきかすようになってきた。

1992年、最高裁は「ロウ対ウェイド裁判」判決を大筋にて是認した。間違いを認め、先の判決を覆すことは裁判所の権威をおとしめるため、としている。また、「人々は、避妊に失敗した際に中絶という手段がある社会にて、異性との親密な関係を築き、自己の見解をもっている」ためとしている。(「家族計画対ケーシー裁判」)つまり、米国人は避妊失敗の対応策として合法化された中絶に依存するようになってしまった。

2000年、「ステンバーグ対カーハート裁判」においては、裁判所は中絶の自由の範囲を子宮内の殺害から広げてしまった。現在、合衆国憲法は出産時の殺害までも認めている。中絶は、多くの人にとって出生前に妊娠を中断する「権利」としてだけではなく、中絶した子どもが生存しないという保証となっている。これはパーシャル・バース・アボーションや、中期や後期の中絶時にまだ生存している新生児が放置され、死んでいく状況が数多く報告されていることからも明らかである。こうした子どもはそもそも生きることが想定されていないためである。

現在、人間の疾患を治療する目的で、研究の一環として胎児を意図的に殺処分している研究者がいる。こうした研究は、人間のいのちの質を高めると謳っているものの、実際には「人間のいのちを自由に処理される単なる『生物学的材料』のレベルに引きずり下ろしているのです。」(『いのちの福音』no.14)。実験の対象とされる胎芽は、不妊症に悩むカップルを助けるために体外受精というかたちにて実験室で製造されているものが少なくない。しかしこうした医療行為では、最終的に行き着くところを考えずに人間のいのちを製造しており、科学技術の濫用が生み出したあまたの倫理上のジレンマがそこにある。

暴力について

我々がめざすところは、出生前の子ども、母体、そして死の淵にある人間への暴力をなくすことである。この目的達成に暴力を用いることはいかなるかたちであれ断固反対であり、そうした手段で目的を達成しようとする行為を糾弾している。この十年、中絶医に対する暴力・殺人事件が発生しており、これは生命尊重を履き違えた人物による悲劇である。人間に対するこうした暴力は弁明の余地のない行為である。神の教え(出エジプト 二十:13)――殺してはならない――に背いている。また多くの米国人にとって、生命尊重(プロライフ)運動が暴力的で狭量であるとの烙印を押すことになっている。我々はこうした暴力を無条件に否定している。

中絶と避妊

責任ある親に関する教会の福音や聖職者の教えは別の教書にて詳しく説明しているが、ここでもこの問題を扱っている。その理由は、中絶件数を少なくするための方法として避妊を推奨しているグループや、こうしたアプローチを承認していない我々を非難する団体さえあるためである。

注目すべきことは、避妊を受け入れ、利用する傾向が社会に浸透しているのと同時に、中絶を受け入れ、利用する傾向も広がりをみせていることである。避妊しながらもうっかりと妊娠してしまったカップルは、そうでないカップルよりも中絶という解決策に走る傾向がはるかに大きい。残念なことに我々の社会は、子どもを重荷としてみなし、避妊失敗の「対応策」として中絶を考える精神構造になりつつある。こうしたことがもっとも明白なのが、実際に早期堕胎薬として作用する「緊急避妊」薬(モーニング・アフターピル及びRU486)の開発が押し進められている事実である。

ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の言葉の通り(『いのちの福音』、no.13参照)、我々は避妊および中絶が「本質的に異なる悪」であるとみなしている。その理由は、「後者は人間のいのちを破壊する」ものであるためである。しかしこのふたつは絡み合っている。心にしかと留めておくべきことは、「避妊」と呼ばれる手段が、実情は堕胎であることが少なくないことである。中絶根絶は避妊推進運動によって実現するのではなく、人間のセクシュアリティや人間のいのちが神聖な贈り物であり、慎重な舵取りを要することを深く理解することによってこそ実現されるのである。

極刑について

米国は西欧先進国のなかで唯一死刑を実施している国である。司教の死刑反対の声は高まりをみせており、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世や司教は死刑囚への温情ある措置を求めている。死刑反対には誰もが納得する理由――まったくの残酷な行為であり、最終的措置のなにものでもないこと――があり、その不公平な実例や欠陥のある法制度(無実の人間に死刑判決が下されることがあった)への懸念もある。

カトリック教会の要理は次の通りである――「死をともなわない方法で人々の安全を侵略者から守り、防御できるのであれば、権威を有するものはその方法に限定すべきである。公序良俗を維持し、人間の尊厳に則したものであるためである」(no.2267)。死刑によって殺されたものに敬意が払われることも、残されたものに栄誉を与えることも、ましてやその痛みを和らげることもない。唯一愛と許しだけができることである。米国が裁可している殺人は、あらゆる人間のいのちの価値をおとしめており、国民すべてに悪しき影響を与えている。死刑という処置は、罪人の精神のめざめや悔悛の機会も絶ってしまう。

人命軽視がもたらした結果――いたるところで発生している暴力、中絶の容認、自殺幇助や胎児を殺処分する研究への高まる擁護――は、極刑の無効化、あらゆる人間のいのちの不可侵性保護への動きに拍車をかけている。「我々のいのちへの敬意は、我々があらゆる人間のいのち、たとえ他人のいのちに敬意を払うことができなかった人間のいのちさえも大切に思ってこそ、もっとも輝かしいものになる」(『いのちの福音の実践』、no.22)。したがって、神が創造したすべての人間、たとえ大きな過ちを犯したものにも神の愛を注ぐことが我々に求められている。そうしてこそ、「刷新された社会の基礎である人間のいのちを無条件に尊ぶような配慮」をつくりだすことができる(『いのちの福音』、no.77)。

生命尊重運動への献身

生命尊重(プロライフ)の司牧・使徒職活動において、すべてのカトリック教徒、あまたの教会施設や組織に対し、あらゆる人間のいのちを尊重し法的に守ることをめざしたこれまでにない活動への結束を呼びかけている。霊父が願うような人間、つまりいのちを尊び、いのちのともし火を輝かす人になるのである(『いのちの福音』、no.78参照)。我々が望むことは、無垢な胎児や障害者や病人や瀕死の人間のいのちを尊重保護することに力を注ぎ、すべての人間のいのちへの敬意を深めることである。

プログラム

司牧・使徒職活動計画は教会に属するすべてのもの――人、奉仕、施設――が次の4つの分野にて新たなエネルギーと献身のもとに力を注ぐことを呼びかけている。 (I) 情報と教育の普及――人間のいのちの不可侵性、胎児の人間性、ならびに無垢ないのち――それが始まったばかりのものであっても終焉であっても――を故意に断つことの倫理上の過ち、すべてのいのちを認め献身する教会の使命への理解を深める。 (II) 使徒職活動――妊娠にかかわる問題を抱えている女性、中絶処置にたずさわるすべての人間、障害者や病人や瀕死の状態の人間、およびその家族や介護者、暴力によって愛する人を失った人間、死刑囚を対象とする。 (III) 政策――胎児や自殺幇助にてそのいのちを絶とうとしている人間のいのちを保護する法律の策定。中絶や自殺幇助に取って代わる倫理上容認できる措置の策定。 (IV) 祈りと礼拝――教会の典礼やグループ/個人レベルでの祈りへの参加。現在我々をとりまく「死の文化」を「いのちと愛の文化」へと生まれ変わらせる。

本計画は米国司教会議と、司祭や助祭や修道者、そして一般信徒との個人レベルかつ集団レベルでの意見交換と協力を考えている。この目標においてすべてのカトリック組織が協力することを期待している。

教会と他宗教グループのあいだでの意見交換も不可欠である。これからもこうした重要な問題について異教間の協議と意見交換を続けていくことを、そして倫理専門家同士の意見交換を奨励している。

キリスト教徒がその家族や教会やコミュニティ、そしてその職業人として属する団体組織において生命尊重(プロライフ)の姿勢を押し進めることを願っている。我々は、カトリック系医療施設や医学研究者に対し、あらゆる人間のいのちの守護者であることを願っている。

あらゆるレベル――国家、地元、州、教区、小教区――にて重要なのは、聖職にたずさわる個人や団体組織の支援を求めることであり、また支援してくれるそうした人間や団体組織のため、つまるところ人間のいのちのため、生命尊重活動の支えとなることである。我々はみな人間の尊厳を高めるという神の働きのなかで結ばれている。

この司牧・使徒職活動計画を成功へと導く鍵は、知識と献身の心を備えた全米の一般教徒の活動にある。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世はカトリック米国教会にてこう述べている――「世界の教会の存在と使命は、一般信徒の聖霊の賜物と奉仕という尊いかたちにてかたちづくられている」(no.44、カトリック米国教会会議、提議55より引用)。特に小教区レベルの一般信徒の献身は、司祭や助祭や修道者の励ましと支えが必要である。

(I) 情報と教育の普及

人間のいのちへの敬意を深め、中絶や安楽死に反対する社会の風潮を大きくするには、二層の教育活動――カトリックコミュニティを対象としたものと一般向けのもの――が必要である。

カトリックコミュニティ

カトリックコミュニティにおける現在進行形の長期・集中型の教育が、本問題の理解を深め、自覚と献身を促すことになる。こうした普及活動では最善の医学/社会学/法学の情報を活用せねばならない。ここでは、受精の瞬間から連綿と連なる人間の発達の連続性を明らかにする医療技術の最新情報も活用する。しかし根本的には倫理と神学がこのもっとも知性を要する問題である人間の生命尊重問題の核となる。

教会の教えの奉仕に参与している人々が人間のいのちのために捧げてきた献身、そしてこれからも力を注ごうとする姿勢に深い感謝を捧げる。こうした人々が「いのちの文化」を築く本運動の指導者となることを願っている。特に次の人々の献身が不可欠である。

教育プログラムは次の内容を含むものとする――人間のいのちの神聖さと尊厳を証明する聖書/神学上の根拠、胎児の人間性に関わる学術的情報(特に遺伝子関連の最新の科学や技術)。

独立宣言にて明言されているように米国の礎には次のことが反映されている――人間への変わらぬ忠誠/あらゆるいのちを保護し、可能な限りいかなる場合も非暴力的な方法にていのちを守り、無垢ないのちを故殺することのない社会の責務/末期患者や障害者への有効かつ慈悲深い介護/いのちの最期における選択についてのキリスト教教義の教育/妊娠中/後の女性が背負う非常に現実的かつ難しい問題に対する有効かつあわれみ深く倫理的に容認できる解決策に関する情報/中絶という行為の結果に苦しむ女性への支援。

人間のいのちの神聖と尊厳に関するキリスト教の福音のなかでももっとも包括的な見解は、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の回勅である『いのちの福音』のなかにある。この霊性に満ちた回勅はあらゆる分野にあてはめることができ、『いのちの福音』を宣(の)べ伝えるうえで力に満ちた強い動機となる。『いのちの福音の実践』(Living the Gospel of Life)――1998年に米国カトリック司教が採択した声明書――は福音を米国の特殊な状況にあてはめている。

司教会議が後援する例年のいのちの尊厳プログラム(Respect Life Program)では、現代社会が抱える大きな問題に関連した情報を取りあげ、こうした問題とキリスト教の福音を関連づけて検討している。この全国レベルのプログラムは、人間のいのちや人間性の尊厳への脅威として挙げられている問題――死刑、戦争、貧困、人口制限、児童虐待や放棄、セクシュアリティのゆがんだ見解、ヒトクローン化、ヒト胚を殺処分する研究など――と関連して中絶や安楽死を捉えており、人間のいのちの神聖と尊厳を呼びかけている。

一般社会への情報

一般社会を対象とした教育プログラムの主要目的は、いのちを尊重し、中絶や安楽死を拒否する姿勢を育むことにある。現在でもこうしたいのちへの脅威にかんする正確な情報が必要となっている。

情報普及プログラムでは、中絶やヒト胚を殺処分する研究、安楽死、自殺幇助、嬰児殺し、死刑に内在する人間のいのちや人間性への脅威に対する認識を高めようとしている。プログラムを推進することにより、いのちの権利の法的保護を策定して現状を是正する必要性がはっきりしている。プログラムによって問題の全体像がはっきりとし、これまで関心の薄かった人も確固たる見解をもつことになる。

プログラム活動は大衆の討論にしかるべき情報を提供し、教会が長年生命尊重のために注いできた献身の軌跡を明らかにする。こうしたプログラムは、多くの女性たちに(しばしば長きにわたって)のしかかる中絶の悲しい衝撃に心晴れる情報を提供することにもなる。

公共の場に登場するあらゆるプログラムは、その表現にも内容においても人間のいのちの価値を肯定するものでなくてはならず、異を唱えるいかなる人間も尊重したかたちにて説明し説くものでなければならない。そのかたちはさまざまである。声明文、プレスリリース、報道価値のある事件についての正確な報告やこうした事件が発生した際にメディア代表との会談、生命尊重(プロライフ)問題に関する議会やセミナー、教育資料の作成と配布、広報活動や宣伝キャンペーン、新聞広告、地元の店やコミュニティセンターへのポスター配布などがある。

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