避妊と家族の崩壊

DeMarco, Donald (デマルコ・ドナルド)
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

これまでずっと、南アフリカの原住民は食料のために狩ることによって象の数を制限してきました。最近になって、南アフリカのクルーガー国立公園の管理者は厚皮動物の個体数を管理するためにより暴力的でない方法を用いることを決定しました。彼らは象にノルプラントを注射することで意見が一致しました。この避妊方法は象を妊娠させないことには成功しましたが、予期しなかったいくつかの悲惨な問題を生み出しました。ノルプラントのおかげでメスの象は常に発情している状態になってしまったのです。交尾をすることにしか興味がなくなってしまったのです。ニューヨークタイムズ紙(一九七七年五月二十九目)の記事によれば、その結果「家族が崩壊し、母親たちが注意散漫になったため、二頭の赤ちゃん象がいなくなってしまった」のです。このような不幸な結果となったため、当局は分別あることをしました。当局はそれを六ヶ月間実施しただけで、その避妊計画を中止したのです。

一般的に医者が、避妊がメスの象とその家族に与える影響よりも、人間の女性に与える影響に対して関心が低いということはなんと嘆かわしいことでしょう。

選択というイデオロギーが私たちの現在の社会を支配しています。人々は、選択自体が良いものであると間違って考えるように仕向けられています。しかし、実は、善い行為をするには、選択する必要など全くなく、ただ道徳的に善なるものを選択すればよいということを忘れてしまっているのです。教会の教えばかりでなく神の計画も、セックスという行為、つまり「夫婦の行為」は新しい命の可能性に対する自然の摂理から切り離されるべきではないとしています。歴史を見れば、セックスが一度生活から切り離されれば、それはすぐに結婚や愛情や家族やさらには異性の恋人との関係からも切り離されることは明らかです。

シグモンド・フロイドは宗教にほとんど共感を示さなかった人ですが、彼はセックスを生殖目的と切り離すことを性的倒錯行為の一つの形であるとみなしました。現代の心理分析の創始者は、「・・それらの行為において目的としての生殖がわきへ押しやられているということが、全ての性的倒錯行為に共通の特徴である。このことは実際私たちがある性的行為が倒錯しているかどうかを判断する基準である。もしそれが目的において生殖から切り離されたものであり、快楽のみを追求するものであるならば…快楽のみを追求する働きをしているものは全て「性的倒錯行為」と呼ばれ、そのようなものとして軽蔑されなければならない。」と書いてます。フロイドは、セックスが切り離されて全く自分を正当化するだけのものとしてみなされればみなされるほど、配偶者や結婚や子どもや家族にとって本来役に立つはずの姿からそれていくことがあると理解していました。

マザー・テレサは、一九九四年全米祈祷朝食会でクリントン大統領夫妻を前にした彼女の演説の中で、この不滅の真実を繰り返して「家族計画の方法は『自然な家族計画法』であって、避妊ではありません。避妊して命を生み出す力を破壊するとき、夫や妻は自分のためになることしかしていないのです。このことは注意を自分のことだけに向けさせ、相手の中にある愛情という贈り物を破壊するのです。愛し合うとき、夫婦はお互いに対して注意を向けなければなりません。一度避妊によって生きた愛情が破壊されれば、その後に中絶が起きることは非常にたやすいことでしょう。」と言いました。

ジュゼッペ・モンティーニがローマ法王パウロ六世となるずっと前に、マハトマ・ガンジーは、避妊が人間の結びつきに対して与える危険性に気付いていました。彼は、「避妊法を用いてしたい放題にすることは、子どもの誕生を防ぐことはできても、男女の活力、たぶん女性より男性の活力を吸い取ってしまうだろう。」と言いました。「ピルに反対の医者の主張(一九八0年)」という本の中で、バーバラ・シーモンは、妊娠や月経閉止や妊娠を全くしないことを全て病気だと見なしている医学的な考え方にどこか根本的に間違ったところがあると指摘しています。その考え方でいくと、「女性であるということは病気である。」という結論に必然的に達することになると筆者は述べています。

もっと最近では、ワシントンDCのヘリテッジ財団の「家族と文化の問題」の特別会員であるパトリック・F・フェイガンは、「カトリック・ワールド・レポート(一九九八年十一月)」の中で、避妊によってセックスに対する考え方が「他中心のもの」から「自分中心のもの」へ、性行為は外向的なものから内向的なものへ、異性中心のものから同性異性を問わないものへ変わるという深刻な文化的変化が起こっていると述べています。結婚と家族に関して、長い間ローマ法王ヨハネ・パウロ二世への顧問をしているワンダ・ポルトースカ博士は、セックスに取りつかれることは必然的に人間の他の側面を損なうことになると説明しています。彼女は、「間違った価値体系が避妊そのものの本質から生まれ、そのことによって人間の結びつきの価値を認識しないでセックスに関心が引き付けられることは明らかなことだと思われます。」と説明しています。

避妊の容認は、セックスは結婚とか親になるとか家族の責任とかのような責任が全くない場合の方がよいという間違った考えに基づいているのです。しかしセックスに道徳的で素晴らしい意味を与えるのはまさにこのようなことなのです。

セックスを結婚と家族の関係から切り離しそれを偶像ににしてしまった結果、家族は大変傷ついています。しかしセックスはいつまでも偶像であり続けることはできません。人間にとって意味というものは大切なものなので、人間はセックスに何らかの意味を与えなければなりません。セックスの本来の意味を見失ったとき、人間は自分勝手なそしてしばしば歪んだ意味を作り上げるのです。このようにして、セックスに与えられた新しい意味には上手さとか娯楽としての価値とか自己満足とかが含まれるのです。現在のようにポルノがはびこっているのは、避妊がセックスを愛とか家族とかの意味から切り離し、喜びとか楽しみとかの意味と結びつけているという事実と直接関係があるのです。

避妊は家族の崩壊に大いに手を貸してきました。ローマ法王パウロ六世はこのことを彼の回勅「フマネ・ヴィテ」の中で予言しました。その五年後、法王の予言通りになったことが明らかになりました。ボルチモアのシーハン枢機卿は回勅のちょうど五年後に、「避妊は、その主唱者が自信たっぷりに予言した家族の安定とか、離婚率の減少とか、少年非行の減少とか、貧困の問題の減少とかの利点のどれも生み出すことができなかった。避妊が流行した時期に、これらの問題が増加したと言っていいであろう。」と言いました。

セックスは制度へとつながる本能的な行為です。その制度とは結婚とか家族といったものです。ささやかな本能を、それが役立つことを意図された壮大な制度と切り離したことによってもっと幸せな暮らしができると信じている人々がいることは悲劇です。それはまるで鍵を楽しもうとするけれども、それを部屋の中へそして永遠の財宝の世界へと人を導くドアを開けるために使わないことのようなものなのです。

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