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避妊と人としての存在

ドナルド・デマルコ博士
セント・ジェローム大学哲学部
カナダ、オンタリオ州、ウオータルー
英語原文より翻訳: www.lifeissues.net

避妊は道徳的な問題です。それはまた宗教的な問題でもあります。しかし宗教を脇へ置いて、避妊の問題を純粋に自然のレベルで分析し論じることは可能です。道徳哲学者は、全ての人間が普通に自然のままに経験することに関心を持っています。彼らは、なぜある行為が人間のためになり、なぜ他の行為がそうでないかを説明するために、人間が普遍的に持っている理性を用いて、かれらの学問を展開します。そうすれば、避妊の道徳的分析は、カトリック教徒ばかりでなく、プロテスタントにもユダヤ教徒にもイスラム教徒にもヒンズー教徒にも、そして無神論者にも同様に関係があるものとなります。どのような行為が人間のためになり、どのような行為が人間のためにならないかを区別し始めるためには、「人間であるということは何を意味するのか。」という問いに答えることがまず必要です。本質的に人類学的な性質を持ったこの問いは、避妊という行為が、人間や結婚や社会に対して持つ道徳的な意味を持ったより具体的な問題を扱う立場になる前に、考えてみなければなりません。

人としての人間

避妊のような道徳的問題をもっぱら扱っている「良心:中絶権賛成の立場のカトリックの見解のニュースジャーナル」という名前で出版されている機関誌があります。この機関誌は、人間自身の良心以外のいかなる権威も個人的な道徳的選択を他人に押しつける権利はないという一般大衆の意見を反映したものです。避妊は、個人の良心に委ねられるべき問題なのです。

しかし、良心についての一般大衆の考え方は、「良心」という言葉の意味までも取り違えています。語源的には、「良心」(ラテン語、イタリア語のcon+scientia)という言葉は、文字通り、「知識を持って」という意味です。人の良心は、知性が欠如した状態では形作られないのです。良心がちゃんと形作られるためには知識が必要なのです。同様に選択も、知識がなくては本当の選択にはならないのです。もっと正確に言えば、知識のない選択は「当てずっぽう」なのです。自らを「当てずっぽう賛成派」だと宣言しているグルーブは全然ないという事実は、かなりの重要さを持っています。選択は、もし個人にとって有益なものとなるように機能する可能性を持たせようとするならば、良心と同じように正しい知識に立脚するものでなければなりません。言い換えれば、良心と選択は、知識に基づくものでなければうまく機能しないのです。このことが、まさしく道徳哲学者が教えたいと思っていることなのです。

良心は、真理(何が真実であるかの知識)から切り離されると弱いものになります。同時に、良心が真理を有するとき、自由がその過程で脅かされることはありません。良心、真理、そして自由は、いわばそれぞれの存在があってこそ繁栄するのです。正しい知識に基づいた良心によって正しい行動の仕方がわかるから、人は自由に行動の仕方を選択することができるのです。もし、自分の妻に与えようとしていた薬が、妻の状態を考慮した場合、実際害を及ぼすことがわかれば、私はそれを妻に与えないことを自由意志で選択するでしょう。私は、自分の知識を権威主義の根源だとはみなさないでしょう。また、ある方法で行動し他の方法では行動しないことを、盲信して決めることによって、自分の自由を失ったと結論を下すこともないでしょう。真理、自由、そして良心は、互いに味方同志なのです。このいのちの三者協同体から良心を切り離すことは、その本質的な働きに逆らうことになるのです。良心だけでは、非常に弱いのです。

真理、自由、そして良心のこの三者協同体は、人間の本質に対する非常に重要な洞察を私たちに与えてくれます。それは、人間とは自分の思い通りに自由にできる単なる個人ではなく、その存在全てが、自分が知ることができるまわりの世界と、そして自分が愛することのできる他の人間と関わっている、共同生活を営んでる存在であるということを示しているのです。良心とは、善をなし悪を避けようとする人間の傾向なのです。知識とは、良心を照らすものなのです。愛とは、人間がすすんで他人のためになろうとする自由な選択なのです。

場合によっては、カトリック教徒の夫婦にとっての避妊の使用を認めるようにローマ教皇パウロ6世に勧告した、教皇の「マジョリティコミッション(研究機関)」が、「自已中心」と「快楽主義」という悪徳に強い反対の立場を取り続けたということを思い起すことは有益なことです。ここにおいても、私たちは、人間は単なる個人、孤立した独自の存在ではなく、本質と定めによって、他の人間と共に構成している集団の中に自分の位置を占めることになっている人であるという意味がわかるのです。

さまざまなカトリックの司教が、フマネ・ヴィテに対して、良心を異常に重視する反応をしたことによって、知識、特に人間の本質と性的合体の本質についての知識の役割が事実上軽視されてしまったことを思い起すこともまた有益なことです。このことが忠実な教徒の多くに、良心はなんとなく知識と独立した働きをするかもしれないという印象を残したことに疑いはありません。いくつかの例を挙げてみましょう。ドイツ人の司教:「神父は、忠実な教徒によってなされた良心に基づいた責任ある決定を尊重しなければなりません。」、スカンジナビア人の司教:「いかなる人も、そのような異なった意見を持っているからといって、悪いカトリック教徒であると考えられるべきではありません。」、オランダ人の司教:「たとえば、お互いに対する愛情や、家族内の関係や、社会的状況のような結婚の決まりに関する人それぞれの良心を決定する要因がたくさんあります。」、カナダ人の司教:「自分にとって正しいと思われる道を正直に選択する人は誰でも、良心をもってそうしているのです。」

20世紀の一流の人格主義哲学者の一人であるジャックス・マリタンは、人間は知識と愛を通して「その存在を超越することができる」と述べています。1 従って人は、知性を通して受け取るものによって知識において自分を越えた存在となり、意志を通して与えるものによって愛において自分を越えた存在となるのです。16世紀の合理主義哲学者であるルネ・デカルトは、人間を非常に異なった言葉で表現しました。現代の認識に与えたその影響を過小評価することのできない「現代哲学の父」は、人間を孤立した肉体から離脱した生きものと表現しました。彼の「我思うゆえに我あり」という不滅の言葉は、人間は集団的存在としての人ではなく、本質的には考える存在、奇妙にも肉体から切り離された存在ということを意味していました。

「マジョリティコミッション」は、自己中心的な個人主義を拒絶しましたが、それは魂から肉体を切り離すデカルトの二元論を完全に拒絶したわけではありませんでした。それは、セックスが「人と人との正当なふれあい」の表現となることができるように、避妊が受精における肉体の役割を否定することを容認したのです。しかし、その「人」に対する概念は、肉体の生殖能力から解放された魂に対する概念以上のものでした。

教皇ヨハネ・パウロ2世が、「肉体と精神は不可分である。」と述べているのはこの人間の枠のなかのことなのです。つまり肉体と精神は、人において、意志決定の主体において、意図的な行為において、そのままとどまったり落ちたりするのです。2 人は侵すことのできない肉体と精神の統一体なのです。そのどちらか一方を軽んじることは、人の人としての地位を肯定することと矛盾することです。夫婦がセックスにおいてお互いに表現する精神的な愛情は、夫婦の肉体的合体よりも優れているということに基づいて避妊の使用を認めることは、この人としての統一性を侵していることのよい例なのです。私たちは肉体を持った魂ではありません。私たちは、肉体を通して自已表現をする存在つまり人なのです。肉体は道具でなく、人間としての私たちの存在に欠かすことのできないものなのです。私たちの尊厳は、その無欠さにあるのです。私たちの無欠さに攻撃を加えることは、(それを避妊が行なっているのですが)私たちの尊厳に攻撃を加えることなのです。

人についての間違ったイメージ

今日の社会で一般的に使われている「人」という言葉が、実際の人間の中に存在する豊かさや人格主義の文献の中でその言葉が意味している豊かさを伝え始めることはありません。それは個人という言葉に対する同意語として一般に用いられています。場合によっては、それが自己中心的な個人主義を表すこともあれば、個人がそれからの救いをもとめる恐ろしい重荷のように思われることもあります。

ある内科医師が、「個人結婚契約書」というものを提案し、それは本当に夫と妻の人格を尊重する一種の突破口のように考えられています。しかし、この契約書をあまり深く読むまでもなく、それが自已中心的な個人主義を心に描いて考えられたものであるということがすぐにわかります。それに規定されていることの見本は次のようなものです。

「私は自分が究極的には孤独な存在であるということと自分自身に対する責任を認めます。私は自分を最優先します。自分自身を満たされ空腹でない状態にし続けることによって、私は、あなたに与えるべきたくさんの喜びと愛情とそして思いやりを持つことになるでしょう。あなたが肉体的な魅力を維持できないとき、そしてあなたの身体の面倒をみることができないときは、私にあるがままにあなたを受け入れることを期待しないで下さい。私はあなたを『妻』あるいは『夫』とみなすことによって、あなたをおとしめることはいたしません。3

一方、小説家のゴア・ビダールは、人格を持つことはかなり重苦しいことだと考えています。彼は、たとえ一時的であるにしても、セックスはそれから逃れられる便利な方法だと思っています。ビダールにとっては、セックスは、夫婦が自分たちの人格を「物の状態」にレベルアップさせるものなのです。彼は、「相手を物にさせるセックスは喜びです。私たちの人格ほど私たち全員にとって気を滅入らせるものはありません。・・『人がなりうる最高のものは物なのです。』というのが私の意見です。そして二つの物が快楽を求めて出会うのがセックスというものなのです。」と書いています。4

心理学者のポール・ヴィッツは、「人」という言葉が心理学の中でどのように使われているかに関して幅広い研究をしました。心理学者が「人」という言葉でしばしば意味するものは、実際には、個人という概念を和らげたものだと彼は主張しています。「このことは、カール・ロジャースは彼の有名な本に『人間論(ロジャース全集12巻)』という題をつけているが、それは全く間違っているということを意味しています。そうではなくて、ロジャースが書いたものは、個人、つまり世俗的な自己の成長に専念する自主的で、自己実現を図っている個人になることについての本なのです。人については語っていないのです。」と彼は書いています。5

現代社会における「人」の意味はまた、資本主義、消費主義と非常に関連があります。人間は「経済の人」または「消費する人」なのです。人に対するこのような間違った概念は、避妊の使用に賛成の強い主張に自ずからつながっていきます。経済的に苦しくて、もう一人子どもを養うことのできない夫婦が避妊をすることをやめさせようとすることは冷たいことのように思われます。しかし、人間の本当の人としての面は、経済活動の点からは理解することができません。結婚した夫婦は家族の規模について慎重な選択をすべきで、夫婦の経済状態はこのような種類の決定に最も関連があります。しかし、夫婦は人としての自分たちの現実の姿を無視してはいけません。彼らは、避妊が自分たちの身体的無欠さや、惜しみない愛情を与える能力や、夫婦の関係の親密度に与える影響を無視してはいけません。自然な家族計画は、避妊と同じくらい、家族の規模を調節し、子どもと次の子どもの間に間をおくための有効的な方法なのです。そしてそれは人としての夫婦の無欠さを侵したり、危うくしたりするものではありません。

マスコミやいまはやりの心理学や市場によって広められている、人であるということはどういうことかについての多くの間違った概念によって、人々が避妊がいかに道徳的に反対すべきものであるかを理解することが特に難しくなっています。それでも避妊は、結婚が要求する高いレベルの本物の人としてのあり方とは一致しません。結婚とは、何よりもまず、人と人とが考えと気持ちを共有することです、結婚はそれ以下の状態を容認することはできません。

人であることと結婚

リヒャルト・シュトラウスによる「影のない女」は、その中で避妊の問題が重要な役割を果たしているおそらく唯一の一流のオペラでしょう。避妊に加えて、オペラの筋は、空想的であると同時に哲学的に健全な方法で、結婚における肉体の重要さと人にとっての結婚の意味を説明しています。物語は、皇帝がガゼルのような動物を捕らえるところから始まります。彼のねらった獲物は、実際には霊界の王の娘で、自分が望むどのような姿にも自分を変身させる力を持った魔女の妖精です。皇帝がまさに槍を彼女に突き刺そうとするその時、彼女はとても魅力的な美しい女性に変身するので、彼は即座に彼女に恋をし、自分の妻になるように命じます。話が展開していくにつれて、皇后は自分が悲劇的なジレンマに陥っていることがわかります。もし彼女が満月が12回めぐってくるまでに皇帝の子どもを身籠もることができなければ、皇帝は石に変えられてしまうのです。彼女は体を持たない霊的な存在なので子どもを作ることができないために、身籠もることはできません。実際彼女は、「水晶のように透明な霊」なのです。身籠もるためには、彼女はまたもうひとつのジレンマを作り出す策略に関わらなければなりません。

彼女は、自分の影と共に自分の未来の子どもに対する権利も喜んで引き渡してくれる女性から影を手に入れなければなりません。その影は身籠もる能力を象徴しています、というのは子どもは、それから生まれ出てきた肉体と同じ形で演じられているので、ある意味では影なのです。

皇后は、自分が与えることのできる快適な暮らしと安全、當とこの世での栄光と引き替えに、喜んで自分の未来の子孫を譲り渡す貧しい女性を見つけます。同時に、彼女(貧しい女性)は間近に迫った交換に良心がとがめています。彼女は、彼女に歌いかける胎児の悲しげな声に、心配して注意して耳を傾けます。

「おかあさん、おかあさん、私たちを家に帰らせてください。ドアにはかんぬきがかかっていて、私たちは中に入ることができないのです。」6

彼女の子どもたちは、実際母親の強欲によって避妊されているのです。しかし皇后もまたたいへん困っています。自分がこの女性とその夫から二人の最大の宝物となるであろうもの、つまり二人の子どもを奪うであろうということに気付いたことが彼女に大きな影響を与え、彼女が思いやりと良心を手に入れるのに役立つのです。彼女は自分自身の影を手に入れるために、この夫婦から子どもを奪うことを決心したことを後悔し始めます。自分のことを忘れて他人のことを心配すること、つまり愛情の本質である気持ちの結果、彼女は変わります。彼女は今や本当の人間になるに値するものとなり、実際に肉体を得て、身籠もります。

この悲劇のジレンマは、より大きな力の介入によって解決されます。皇后は彼女の父である霊界の王に訴え、王は娘に影を与え、彼女の夫を脅かしていた石化の呪縛を取り去ります。このオペラは、胎児が合唱して歌い、自分たちの誕生を心待ちにしながら両親の恐怖心を和らげつつ、幸せに意気揚揚と終わります。子どもとは、自已否定のレベルにいたるまで子どもたちに誠実であった両親にとっての報酬なのです。

ディー・フラウは、幸福が築かれ悲劇が避けられるのは、愛情といのちが一つになったときだけだと言っています。一方で、いのちのない愛情は、与えないことから生じる無常さの適切な象徴である石化を生み出します。もう一方で、愛情のないいのちは、他人の幸福を無視するある種の冷酷さを表しています。ドイツのロマン主義の多くに見られるように、愛情といのちの一体化は神の介入によって達成されます。このことは、いのちと愛情の一体化は、神の御心を映しているということと同じことです。

精神医学の研究者のなかには、避妊が結婚に与える影響を研究して、避妊中心の考え方は「愛情を破壊し、不貞につながり、結婚の崩壊を引き起こす」という結論に達した人もいます。7 彼らはまた、それは「夫婦の精神生活を破壊する」とも報告しています。8 このような研究結果は、避妊が配偶者間の分裂した、したがって気まぐれな忠実さを表している限りにおいては、当然驚くべきことではありません。

もし相手が、避妊をすることによって、二人の性的関係の完全さをときどき危うくすることができるなら、どうして未婚の状態で同じような妥協をすることができないでしょうか。どうして結婚生活の中でのごまかしが、結婚生活以外でのごまかしにつながらないでしょうか。性行為をしている大人が配偶者に対していつも忠実ではないと考えることは非現実的ではないのでしょうか。避妊の論理は、配偶者に自分たちの結婚の安定性について心配し不安に思うもっともな理由を与えることになります。避妊の使用と現代文化における高い離婚率との間に直接的な関係があるという強い主張をすることができます。9

私たちはしばしば、私たちの人間性の明るい面(そう呼ぶことができるなら)よりも、暗い面に敏感です。私たちは、結局「私たちは人間にすぎないんだ。」ということに基づいて道徳的な罪を容易に許してしまいます。私たちは冷ややかな諦めの気持ちで、「あなたは何を期待しているのですか?それは人間の本性ですよ。」と言います。私たちは一般的に私たち自身の本性を、最悪の敵としてばかりでなく、矯正できないものとしてみなしています。従って、避妊の危険性を目にするよりも避妊の使用を合理化するほうがしばしばたやすいのです。その「明るい」側面、つまり私たちの人間性の汚れていない側面は、私たちの人間性の暗い部分ほどはうるさくはないけれども、私たちは人としてどういう存在なのかを私たちに語ってくれます。そして私たちが自分の存在の核心部分に触れるにつれて、私たちはそれが寛大さの核であることを発見するのです。

人であることと寛大さ

結婚は本来、私たちが前に述べたように、人と人との親しい交わりです。人として、配偶者はお互いの肉体と精神全てを尊重し、またお互いを愛し合います。それは愛が自分以外の人と接する最も適切な方法だからです。これが結婚の「夫婦間」の次元と言われてきたものです。この水平方向の次元に優先するのが、「夫婦超越」の次元で、それは子どもの妊娠、出産、養育、教育に及びます。これが夫婦の関係の垂直方向の次元です。結婚における二人の人間のお互いに対する然るべき関係、それから結婚した夫婦としての子どもに対する関係、(そしておそらくはその子どもの子どもに対する関係)は、二人の存在の核心部分に源を発し、二人の生活全体を特徴づける広がり続ける寛大さの証明です。逆説的に、お互いに与えあうことにおいて、夫婦の生活は常に広がり続ける人の輪へと広がっていくのです。

個人のレベルに執着するようになると、人としての寛大さの核心部分は現われてきません。G・K・チェスタートンが「セックスとは制度を作り出す本能である。」と発言したとき、彼は人間としての人の社会的進化を簡略に描写していたのでした。10 彼の言っている制度とは、結婚と家族のことでした。発生する進化は、孤立した個人主義から成熟した人間の社会に至るものです。セックスは玄関のところでぶらぶらしているだけのことであって、わざわざ家の中に入ってくることではないのです。人間は卓越した存在です。人は寛大に生き、より高いレベルヘと上がっていく使命があるのです。セックスに夢中になりすぎることは、自分の人生を門のところで過ごし、人生を歩んでいかないことのようなものです。人間には超越する使命があるのですが、人間の反応はしばしば無気力なものです。

上下の概念は、今日の世界ではあまり流行りません。平等が流行って上下関係は流行っていません。寛大さ、成長、人としての在り方、そして進化は、縦の軸にそって進歩できるように、全て上下の関係があることを意味しています。絶対的な平等とは、平面化された極めて水平な世界のことで、その中では個性が育たない世界のことです。

アリストテレスは、「労働者の目的」と「労働の目的」の間に存在する自然な上下関係のことについて話しています。アリストテレスによれば、兵土は兵士としての自分の仕事に対してたくさんの報酬をもらっています。報酬の中には、給料や尊敬や名誉があるでしょう。兵士の労働の目的は勝利に貢献することでしょう。兵士としての目的は、現在もそうですが、自分の仕事の目的よりも下位に置かれています。アリストテレスにとって優れた兵士とは、労働者としての自分自身の利益よりも、自分が労働している目的を喜んで優先させる兵士です。後者の利益が前者の利益よりも高いのです。もう一つ例を挙げると、医者は自分自身の目的と医者として果たす目的の二つの異なった目的と関わっています。医者が労働者としての自分の目的を、自分が労働している目的の上に置けば、それは非倫理的なことになるでしょう。

たとえばもし、医者が自分の財政を拡大するために不必要な手術を行なえば、彼は悪い医者ということになります。自分自身の個人的な利益を、患者の健康という利益よりも優先させるかぎり、彼は良い医者として自分がすべきことをやっていることになります。医者が優先順位を逆にして、患者を助けるためにではなく、なんらかの個人的な満足を得るために、医者としての技術を用いるならば、彼は倫理に反する行動をしていることになります。兵士あるいは医者としてのまさにその意味が、自分が訓練を受けた仕事の目的を果たすことであるのと全く同じように、人としての意味は、同じように控えめに寛大に行動することです。セックスの意味が、単にセックスだけということはありえません。その意味はセックスを超越した(あるいは夫婦を超越した)意味を持ち、新しいいのちへの道を含んでいるのです。避妊は、この上下の関係を逆にし、結婚した二人がセックスよりもより高次の願望を優先させるのでなく7労働の目的(新しいいのちへの道または新しいいのちの尊重)よりも労働者の目的(二人自身)を優先させるものです。従って、避妊をしている二人は、人としての自らの存在の寛大さが二人を向かわせる自然な方向に逆らっているのです。言わば、二人は自分自身と争っているのです。

マザー・テレサは1994年の全国祈祷朝食会でクリントン大統領夫妻の前で行なったスピーチの中で、避妊が象徴している価値観の逆転をかいつまんで次のような言葉で話しました。「家族を計画する方法は、自然な家族計画であって避妊ではありません。避妊によっていのちを生み出す能力を破壊するとき、夫婦は自分自身に対して何かを行なっているのです。このことは注意を自分に向け、そのようにして人の中にある愛情という贈り物を破壊するのです。愛するとき、夫婦はその注意をお互いに向けなければなりません。ひとたび生きた愛情が避妊によって破壊されると、その後に中絶が簡単に訪れるのです。」

敬虔派ユダヤ教徒の人格主義者のマルチン・ブーバーは、彼の古典的な作品である「我と汝」の中で道徳的上下関係の重要さを強調しています。デカルトの唱える単数性に反対して、ブーバーは「我一それ」と「我一汝」という二つの言葉の組合せが最も重要だと提唱しました。そして、前者は後者の下位に置かれなければなりません、なぜならブーバーが説明しているように、「それ」がなければ人間は生きることができない。しかし、「それ」とだけ生きる人は人ではない。」からです。11

人の中核には、過剰の法則があります。ビクトル・ユーゴーが、レ・ミゼラブルの中で私たちに想起させているいるように「人生は与えることです」。ヨハネ・パウロ2世は、「あらゆる男女は、自分自身という誠実な贈り物を通して自分のことが完全にわかるのです。」と付け加えています。したがって、人生の最も本物の意味は、自分自身を与えるということにおいて完全に理解される贈り物になることです。自分を他人への贈り物にするとき、人は自分の最高の目的と使命がわかるのです。結婚は、夫と妻という二人の人間が自分自身を無条件でお互いに与えあう素晴らしい機会を提供しているのです。

人生は短く、要するに与えることは受け取ることよりもはるかに現実的だということを考えると真剣な気持ちになります。私たちは人生から受け取ったものを持っていくことはできませんが、与えたものをあとに残すことはできます。私たちは金持ちを羨ましく思うかも知れませんが、私たちが尊敬するのは寛大な人なのです。私たちは自分自身の人生において、強欲であったというよりは寛大であったと考えたいと思います。私たちはしばしば物質的な点から考えるので、与えると減る、気前よく与えると貧しくなると考えがちです。「受け取るよりは与えるほうが良い。」という格言は、公認会計士の心には真実の響きがしないのです。

貧欲は、寛大さにとっては当然敵になります。しかし私たちが獲得することを通しては何も私たちの存在に加えることができないということを理解することは重要なことです。実際、蓄財は、私たちの本当の存在を私たちから隠すことがあります。多くの哲学者が指摘しているように、私たちは、もし真の人生を生きたいならば、持つということの順序は存在するということの次に来なければならないということを学ばなければなりません。そしてもし、私たちの存在の法則が与えることであるならば、私たちがこの真実を心に留めることができないとき、私たちは自分のためにならないことをしているのです。

プラトンは、神は純粋に寛大な気持ちから天地を創造したので、羨むことはできないと言いました。私たちは他人を羨んでたくさんの時間を浪費していますが、一方寛大であるとき、私たちは神の真似をしているのです。このことの別の方法で表現すれば、寛大であることによって私たちは、物質的なものよりもはるかに私たちを豊かにしてくれる寛大な神の贈り物を受け入れたくなるのです。私たちは神の有り余る程の寛大さから流れでるいのちを受け入れたくないと思うべきではないのです。



References:

1  Jacques Maritain, Existence and the Existent (Garden City, NY: Doubleday, 1948), p.89. [ Back]

2  Pope John Paul II, Veritatis Splendor, sec. 49.[ Back]

3  John F. Whitaker, M. D., "Personal Marriage Contract," Woman's Day, Aug. 7, 1978. [ Back]

4  Gore Vidal, "Gore Vidal: Beyond Politics and Gender," Viva, Nov. 1973, p.135. [ Back]

5  Paul Vilz, "Empirical Science and Personhood," A. Moraczewski et al. (Eds.), Technological Powers and the Person (St. Louis, MO: The Pope John Center, 1983), p.207.[ Back]

6  "Mutter, Mutter, lass uns nach Huase!/Die Tur ist verriegelt, wir finden nicht ein." Sherrill Hahn Pantle, Die Frau ohne Schatten by Hugo von Hofmannsthal and Richard Strauss (Bern, Switzerland: Peter Lang, 1978), p.48. [ Back]

7  Wanda Poltawska, "The Effect of a Contraceptive Attitude on Marriage," International Review of Natural Family Planning, Vol. IV, No.3, Fall 1980, p. 205. [ Back]

8  Dr. Anne Terruwe, ibid., p.204. [ Back]

9  Ralph Mclnerny, "Children: The Crown of Spousal Love," Social Justice Review, Nov.-Dec. 1986, p.202. [ Back]

10  Gilbert Keith Chesterton, C. K's Weekly, Jan. 29, 1927.[Back]

11  Martin Buber, I-Thou (New York, NY: Scribner's Sons, 1958), p.34.[Back]


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